戦闘 - みる会図書館


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1. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

みつき , 地上をはうようにゴリアテに引きずりまわされ たり悪行の限りをつくした。やはりライナーシュターへ る。そして残る片手のスコップでワイヤーをたたき続け ル空軍大将がおそれていたことが起こったのだ。いまや た。有線誘導の電気を切断してしまおうというのだ。 殺人部隊と化したロシア人部隊は , したいほうだいのこ 「ほら , がんばれ ! 」 とをしたのである。 陣地からは声援が飛ぶ。泥だらけとなった兵士は , ワ 市街戦はひと月以上も続いた。 イヤーの切断に成功し仲間から喝采 ( かっさい ) を浴び 「町をすっかり破壊しつくしてしまってもよろしい ! 」 た。リモコン式のゴリアテはストップしてしまった。だ 破れかぶれになったドイツ第 9 軍は , 124 トン , 直径 がゴリアテはこの日あちこちで活躍し , 各所でポーラン 60 の巨砲カールを投入した。この日砲は 16 輪のキャタ ド陣地の破壊に成功した。 ヒ。ラをつけているが , 長距離の移動の場合には前後から 「この兵器の使用成績は良好であります ! 」 貨車にプラ下げられ , レールの上を走る特殊車だ。第 2 部隊からの評判もよかった。さすが戦闘のプロ , ドイ 次大戦で使用された最大の野戦兵器である。 ツ軍は強かった。 ドイツ軍が西から攻めたため , ポーラ 2 年前 , これがソ連のセバストボリ要塞の攻略に使用 ンド軍はヴィッスラ河を背にした数カ所に「背水の陣」 されたことは戦史シリーズ No. 20 ( 1977 年 4 月号 ) にす を敷いた。だが結局王宮を中心とした旧市街 , 警察 , 郵 でに述べたとおりである。ドイツ軍がクリミア半島から 便局 , 中央駅 , 北のウイルソン広場など 5 カ所に分断さ 退却するとき , ェッチラオッチラとワルシャワまで後退 れてしまう。ドイツ軍は 2 本の装甲列車を町に乗り入れ してきたが , いまやカールが市街のポーランド地区に向 たのみならず , 臼砲を積んだ戦車も投入した。ポーラン けて 60 の巨弾を発射したのだ。建物は音をたててくず ド兵はしだいにあせってきた。 れ落ちる。カールが吠えるたびにポーランド兵は首を縮 めた。 S 巨砲カール , 火を吹く もはや市内はガレキの山と化してしまう。由緒ある教 17 ~ 18 世紀の大寺院の塔がそびえ建つ美しい町ワルシ 会の尖塔も片端から吹き飛んだ。 ャワは , 皮革や綿の軽工業で知られていた。だがいまや 「ああ , あの寺院も倒れた ! 」 町は流血のちまたと化してしまう。悪名高きカミンスキ 市民たちは恐怖を顔に浮かべ胸で十字を切る。 ー少将のロシア人部隊 , S s 第 29 武装擲弾兵師団 ( ロ コモロウスキー少将と司令部要員の建物も , ドイツ兵 ナ ) は市内で暴れまわり , 市民から宝石や食糧を掠奪し に包囲された。 ー「ソ連軍東ドイツから撤退」の報導を採点すれば - やや古い話になるが , 昨年 12 月 って何ら戦力的にはマイナスには 型戦車 1000 輛」の撤退うんぬんと 5 日の夕刊ないし 6 日の朝刊各紙 ならない」と西側外交筋が語った 報じているが , これは全く噴飯も は , いっせいに東ドイツ駐留ソ連 のだ。いくらソ連に第 2 次大戦中 と報じており , 毎日はさらに具体 軍の一部撤退を報道した。 の兵器が残っているとはいえ , 旧 的に , アメリカ国務省当局が「撤 これは , ソ連のプレジネフ書記 ドイツ軍の V 号戦車パンターを 退する戦車は T54 , T55 など最も 長が 10 月 6 日に発言した「来年 1000 輛も使っているはずがなく , 旧式のソ連戦車である」と述べた ( 1980 年 ) 9 月末までに兵員 2 万 , 明らかにドイツ語の「パンツア と報じている。 戦車 1000 を引揚げる」の第 1 段階 ( 戦車 ) 」を「パンサー」と聞 これによって , 東ドイツに駐留 きまちがえたか , 見まちがえたも として , 兵員 1 万と戦車 300 輛の していた 10 コ戦車師団のうち , 旧 のに違いない。もしその記者の頭 撤退を開始したものである。 式戦車を装備していた 1 コ戦車師 のどこかに「ドイツにはパンサー これを報じた各紙を読み比べて 団がソ連へ引揚げたと推定できる という戦車があった」という記憶 みると , 各紙の戦車を報道する場 のだがどうだろうか。 が残っていたとすれば , とんだプ 合の態度や理解のていどがわかっ 各紙にそえられた写真は , 砲を て興味深い。 ラモデル・マニアのなれの果てだ 後方へまわして「ライブツィッヒ とはいえまいか。 北方約 80 , ェルべ河沿いのウィ まず , 「 1 万人の兵員と 300 輛 の戦車」については各新聞とも共 ッテンベルク駅へ集結する」 T55 もっとも「パンツアー」と「パ 戦車が写っており , 読売の特派員 通だが , これが , ソ連の 1 コ戦車 ンター」というドイツ語は間違い は , 貨車に積載された戦車の写真 師団 ( 兵員 1 万 1000 名 , 戦車 350 やすく , モデル雑誌にもときどき を直接撮影しているが , 記者がこ 散見されるから , ドイツの戦車名 輛 ) に匹敵することを指摘した新 を安易に英語で表記しないことが 聞はなかった。しかし , 東京新聞 うしった状態のソ連戦車の写真を 撮ーする = とはまれであろう。 未来の大新聞記者に誤報の罪を犯 は「戦車が , 西側が予想したとお り非常に旧式なもの」で「あの種 しかしながらこの記者は , フ・レ させないためにも必要なことであ ジネフが「兵員 2 万人 , パンサー の戦車の引揚げでは東ドイツにと ろう。 ( I ) 104

2. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

小川を渡る機甲部 隊。やはリバルカン 作戦中の光景て , い ちばん手前のⅣ号戦 車が足をとられたた め , あとの車輛が停 止している。 I 号 1 5 c 自走砲 , Ⅳ号戦車 , I 号 A 型戦車なとが みえる 発した。ソ連軍は完全に奇襲されて無抵抗状態にあり , っき , 0315 , 軍団砲兵の準備射撃に続いてます歩兵が進 を切る第 44 , 298 師団がフルペショフ付近の発進位置に 各部隊は深夜に移動をはじめ , 第 3 機甲軍団では先頭 した。 22 日 0315 を期して作戦を開始することを配下部隊に指示 進攻開始の前日の 6 月 11 日 1645 , 機甲集団司令部は翌 各軍団の国境突破 そして運命の 6 月 22 日を迎えたのである。 兵力ではとうてい達成できないことは明らかであった。 が , それによると南方軍集団に課せられた任務は , その の兵力を過小評価していたことは開戦後次第に判明した ソ連軍の実情を殆んどっかんでいなかった。とくに , そ しかしドイツ軍は , これらの戦車に対する情報以上に 中戦車と , KB Ⅱ A 重戦車が配備されていた。 機動力 , 火力 , 防禦力のすべての点ですぐれた T34 / 76 そしてこの中には , 若干であるがドイツ戦車に比べて 機械化軍団が編成された。 械化師団は解体されて旅団編成となり , それらによって この編成は開戦後の 8 月頃から改編され , 戦車および機 射砲連隊 , 自動車化重迫撃砲連隊などからなっていたが , 団 , 1 コ機械化師団 , 2 コ砲兵連隊 , 駆逐戦車旅団 , 高 国境であるフ・一ク川の橋は無傷で奪取することができ た。この報告にもとずいて , 歩兵師団に続いていた第 14 機甲師団は橋を渡ってソ連領深く突進を開始した。 同師団は , ソ連軍の反撃を排除しつつ , 連接する第 48 機甲軍団の第 9 機甲師団とともに , ソ連第 5 , 6 軍の防 衛線を突破し , 6 月 24 日にはルーック西方のアレクサン 、絵第 . 。 43 物ミ第を、第、 ドロウ力に進出したが , こでソ連第 5 軍の第 41 戦車師 団を中心とする部隊と遭遇して , 最初の戦車戦を展開し た。この戦闘は , 翌 25 、日朝まで師団の主力である第 36 戦 車連隊を中心に激烈に行われ , 156 輛のソ連戦車を撃破 する戦果を上げることができた。 そしてルーックを占領したが , 次期行動に必要なシュ ティール川の渡河点の確保は , 攻撃時間がおくれたため に激しい抵抗を受けて失敗した。 一方 , 機甲集団の中央突破部隊である第 29 軍団は , 第 3 , 48 機甲軍団とともに第一線に第 111 と第 299 両師団 を配置し , シホートリーとスタローグラード間のフ・一ク 川に渡河点を確保するとともに , 第 3 , 48 の両機甲軍団 の突破を成功させるため , 敵の主力部隊を軍団前面に引 きつけておくことが任務であり , 第 299 師団の第 528 連 隊を先頭に攻撃が開始された。 そしてプーク川を渡河後 , ソ連軍防衛拠点を撃破し , 軍団架橋工兵大隊は主攻の機甲部隊のために最初の架橋 49

3. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

ソビエト AFV インアクション SOVIET AFV IN ACTION ソヒ - 工ト陸軍は、先日のアフガニスタン進駐によって、 1 968 年のチェコ事件以来、再び世界の注目を集めている か、その内容は断片的なニュース・フィルム以外また詳しくわかっていない。しかし、そのフィルムからみる限 リは中央アジアおよびトルキスタン軍管区の部隊か主力て、装備内容も新型車輛はほとんど確認されていない。 今回はアフカ・ニスタンに進攻した車輛 ( 撮影時期と場所は別 ) を中心に、最近の主力車輛を含めてビックアップ してみた。 機械化歩兵部隊と合同演習中の T55 戦車。ソビエト陸軍をはしめワルシャワ条約国軍の主力戦車て、 1950 年代末から 史上空前の台数が生産されたものとみられている。写真は多少リタッチされているが、車体や砲塔のディテールがよ くわかる。主砲向って左上の投光器には蓋がつけられ、また基部には主砲の俯仰と同調するアームがつけられている。 高級な射撃統制装置はもっていないが、最近ヨーロッパ・ロシアに配備されている車体にはレーザー測遠器を装備し ている。遠方には BMP ー 1 戦闘兵車がみえるが、・アフガニスタンへ進駐した部隊ては確認されていない。 T55 tanks and BMP-I MlCVs during exercise with mechanised infantry. 35

4. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

雪の残るパルカン半島の山道を行く第 2 機甲師団のⅣ号戦車 B ~ C 型。悪路のため , 補給部隊の随伴が思う にまかせす , 戦車は自ら燃料や水を積んて行動した。フェンダー上の材木も悪路用の応急資材 とずく , 陸軍総司令部のパルバロッサ開進訓令第 505 号 隊の確保した橋頭堡から打って出て戦果の拡張を行う。 によって , 南方軍集団は第 1 機甲集団は , 第 6 , 17 各 一方 , 集団の中央に配置されたフォン・オープストフェ 軍の後方にあって , 両軍の国境突破後ラワルスカおよび ルダー大将の第 29 軍団は , 第 111 と第 299 歩兵師団がシ コーウェル間を突破し , ベルジチェフおよびジトミール ホートリーとスタログラード間でプク川に渡河点を確 保し , ソ連軍の国境守備陣地を突破する。 を経てすみやかにキエフ付近に達し , ドニエフ。ル下流地 域に向って進撃する。そして敵の渡河退却を阻止してそ また , 集団の右翼に配置された第 48 機甲軍団は , 第 57 の軍を撃滅する洋という作戦命令を発した。 と第 75 両師団でソカール地区においてプーク川の渡河点 南方部作戦全般の成否は , 機甲集団が迅速に進撃でき を確保し , 軍団の先鋒である第 11 機甲師団が東方に向っ るかどうかにかかっていたのである。 て突進するための前進路を開くというものであった。 しかし当時 , 第 1 機甲集団の部隊の一部は , スルカン 第 1 機甲集団の予備となっていた第 14 機甲軍団には , 方面での作戦のために戦力が弱体化しており , それらを 第 9 , 13 , 16 機甲師団 , 第 16 , 25 自動車化師団 , s S ヴ 休養させ補充する時間がなかったので , 南方軍集団は消 ィーキング自動車化師団および S S ライプシュタンダル ー以下 L A H と略す一自動車化 耗した第 14 機甲軍団を予備にまわし , 新しく第 13 , 48 機 テ・アドルフ・ヒトラ 旅団が配属され , この軍団は , 当面は第一線の第 3 , 第 甲軍団および第 29 軍団を配属して戦力を強化した。 48 両機甲軍団に対して , 必要に応じて援助するとともに 国境の会戦 集団の戦果拡張部隊として , 後方に続くことになってい 1941 年 6 月 22 日 0200 , 第 1 機甲集団はプーク川のフル 0 一方 , 南方軍集団に対するソ連軍の防衛拠点は , キエ ペショフとソカール間に配下の 3 コ軍団を展開させた。 フ特別軍管区 ( 開戦直後 , 南西方面軍と改称 ) とオデッ 左翼にはェアハルト・フォン・マッケンゼン大将 ( 騎 サ軍管区 ( 南方面軍と改称 ) であり , このうち主力は南 兵 ) の第 3 機甲軍団が , 第 44 および第 298 師団を並列に 西方面軍で , 11 コ軍団 ( 32 コ師団 , 16 コ戦車師団 , 8 コ 配して軍団の火砲 300 門で敵の抵抗線を撃破し , フルべ 機械化師団および 2 コ騎兵師団 ) からなる 4 コ軍が配属 ショフ付近でフ・一ク川の渡河地点を確保する。その後 , され , 機甲部隊である機械化軍団は , 従来は 2 コ戦車師 後続の第 14 機甲師団は 1300 にフ・一ク川を渡って , 歩兵部 48

5. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

※ビッカーズ M B T とは 自分の国の政府や軍隊とは無関係に、ある企業が兵器 を開発、製造し、よその国の政府や紛争地帯に売込む、 こういう、、死の商人、、を地で行く例は古今東西いくらも あるが、戦車となるとあまり多くない。 軍艦なら 1 隻でも商売になるし、小火器類なら開発費 が安くて大量にさばける。それに比べて、主力戦車とな ると開発費もバカにならす、かといって 1 輛や 2 輛買っ たところで意味がない。結局は安い買物になってしまう からだ だから、海外への輸出に成功し . ている戦車は、アメリ 力の M60 シリーズや西ドイツのレオパルトをはしめとし て、どの戦車も製造した国の主力戦車として大量に装備 されているものだ。性能の保証にはなによりも製造国の 陸軍か採用することがいちばんだし、大量生産によって コストが下げられるためである。 ところが、兵器商売の老舗、イキ、リスのビッカーズ・ アームストロングス社か開発したヒ、ツカー 7<M B T は、 誕生の初期段階からインド政府とのタイアップがうまく 進み、同国内で 800 輛以上が生産されるという、、、輸出専 用の戦車、、として近来まれな成功例となった。 インド以外でも、クウェートに 70 輛か輸出され、最近 ではケニアへの引渡しがはしまり、ギリシア政府との商 炎も順調と伝えられているから、商品としてりつばにひ 射撃テストを行う Mk. 1 戦三。主砲は 1960 ~ 70 年代の標準ともいわ れた 105E 砲。戦闘重量は機動力を重視して 38. 5t と軽量にまとめら Armies & Weapons 一三ロ

6. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

「いまだ ! 起て ! 」 ポーランド軍司令官ポル・コモロウスキー少将は , 8 市民たちも起ち上がった。しかしなかには裏切者がい 月 1 日の一日中 , 屋根に上って双眼鏡であたりを見渡し て , ドイツ軍司令部に密告 , 賞品をもらった者もいたの た。なにしろ無電機が故障して通信機能がマヒしている である。国内軍 25 , 08 名のうち , ほんの 1 割だけが実際 のだから , 原始的な方法にたよるよりしかたがなかった のだ。少年を使って , 第一線の部隊へ命令を伝達するこ に武器にめぐまれ , 思うように戦えたにすぎない。なか には婦人たちもいた。それも女性だけで看護婦部隊を編 とも広く行われた。 成したのではなく , 男に混って狙撃兵となったのだ。 「どうやら街のは祖国防衛軍の手に帰したらしい」 コモロウスキー少将はほくそ笑んだ。ドイツ軍の食 ドイツ , ワルシャワ防衛軍 糧 , 衣料庫も占領した。バラバラの服を着ていたポーラ このあたりの管轄は , ポルマン大将のドイツ第 9 軍だ ンド兵は , 大量に入手したドイツ S S の戦闘服を身につ った。当時ワルシャワ市に残っていたのは , 第 9 軍直属 けた。 の通信隊と約 2000 人の直属輸送・補給隊ぐらいのもので 「お前 , サマになっとるそ ! 」 ある。しかし 7 月 27 日一一一蜂起の 3 日前 - ー・一ライナー 兵士たちは大はしゃぎだった。しかし敵味方を区別す シュターヘル空軍大将がワルシャワ地区司令官に任命さ るため , ポーランド兵は赤と白のポーランド国旗の腕章 れた。大将は山国オーストリアの生まれの知性ある将軍 をつけたり , 帽子にノくッジをつけたりしなければならな であり , ドイツの軍人らしくきびしい目つきの人だっ かった。 ドイツ人が集まる町の酒場 , 「ドイッチェ・エック」 0 蜂起と同時にあちこちからドイツ軍がワルシャワの鎮 も包囲され , 銃撃戦の的となった。だがレジスタンスの 圧にやってきた。 同志が閉じ込められている警察署やゲシュタポ本部に接 兵力を箇条書きにすると次のようなものである。 近したポーランド兵は , いっぺんに撃退されてしまっ 第 39 機甲旅団の 1 コ連隊 0 永らく口シア戦線で戦った東フ。ロシャの兵 翌 8 月 2 日の朝 10 時 , ポル・コモロウスキー少将は , s s 第 5 バイキング機甲師団 「目下ドイツ軍と激戦中 ! 弾薬と対戦車兵器をワルシ スエーデン , オランダ人の義勇兵からな ャワのユダヤ人墓地と , ナポレオン広場に投下された ノルウェー , し。またパラシュート旅団をボラ地区に降下させてもら る外人部隊だが , ヒトラーに忠誠を誓ったエリート ヘルマン・ゲーリンク機甲師団の一部 とロンドンに打電してきた。蜂起軍は , 武器が不足し イタリアのシシリー島から引きぬいたドイツ戦車部隊 たために家具やコンクリートのかたまりで対戦車障害物 ののぐテラン s s 第 29 擲弾兵師団 15 , 000 名よりなるこの部隊は意外に もロシア人からなり , ミエセスラフ・ カミンスキー大佐によって指揮された 異色の部隊だった。 技師上りのカミンスキーは , 1 年前 にドイツ第 2 機甲軍団長から「ドイツ に協力するロシア国民解放軍 ( 頭文字 はロナ旅団 ) 」の旅団長に命ぜられて いた。旅団は家族など合計 2 万名を連 れてあちこちでゲリラ活動を行い , 「あまり信頼できない兵力」のレッテ ルを張られていた。だがネコの手も借 りたいときだ。 S S 長官ヒムラーはカ ミンスキー大佐を少将に昇進させ , ロ ナ旅団を S S 第 29 擲弾兵師団に昇格さ せたのである。 ドイツ兵は , ワルシャワに到着そう そう , 蜂起軍なにするものそ ! とば かり機銃を射ちまくった。 ワルシャワでは老人や小供までが武器を手にした ドイツ占領軍に向って , 101

7. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

の Mi ー 12 ホーマーくらいしか 野砲部隊の任務と射撃区域、 陣地変換 なく , それも 40t 級が限界で 射撃区域 陣地変換命令系 ある。輪送機ではアメリカ空 軍の C— 5 A ギャラクシーし 被直協部隊の作 必要に応じ部隊レベルで判断 戦域と防禦区域 野砲部隊長の命令 力、ない。 C ー 141A / B スター リフターでも積むことができ 作戦上必要と 野砲部隊長の命令 される射撃域 るが , とにかくそう簡単に空 輸できるというシロモノでは 増援される野砲部 野砲部隊長の命令 隊の射撃域 増援される野砲部隊の要請 ない。野砲は弾量 ( 鉄量 ) の 集中で威力を発揮するから , 作戦上必要とされる射撃域と 野砲部隊長の命令 増援される部隊の射撃域 1 門や 2 門を運んでもどうな るものでもないのである。 射撃準備 , 撤去作業などを含めると , 射撃地点への進 アメリカのように大量の大型戦略輪送機をそろえて全 出 , 射撃 , 陣地移動に要する時間は , 自走式に比べて牽 世界戦略を展開しようという国ならともかく , 他国の陸 引式は数倍から数十倍もかかる。 軍では空中機動力とはいっても , ヘリコプターや中型戦 第 2 に , 自走砲は自分で一定量の弾薬を積んで行くこ とができる。牽引式でもできないことはないが , 弾薬箱 術輸送機が利用できるていどだから , やはり軽く , 小型 に収納して砲脚にくくりつけたり , 牽引車上に搭載しなみ にできる牽引式野砲の存在は欠かせないものである。だ がこれは輸送 , 機動上の制約からくるもので , 牽引式が ければならず , 使用可能とする準備作業がたいへんであ 自走式より本質的に秀れているから , というものではな る。一方では , 砲の射撃姿勢を整えなければならないか ら , 全体の作業に要する人員も多くなる。自走式なら車 内の弾薬架に搭載でもすぐに射撃が可能となる。車上 しかし , 野砲の自走化には多くの長所がある。 第 1 は牽引式より全体重量が大きいことからくる。 の要員以外に人を必要としない。 同様に , 大きな搭載力によって各種の自動機構を装備 れは前述のように欠点でもあるが , 反面長所ともなる。 それは車体自体を砲架と考えることができるため , 砲が できる。動力操砲装置 , 自動給弾装置 , 自動装填装置な 安定して射撃精度が高くなる点である。牽引式野砲でも どである。これにより射撃速度が向上し , 実質的に門数 砲床を地表に接地させて安定させることができるが , 砲 を増やしたのと同じ効果を得ることができる他 , 単位時 床接地作業とそのための時間を要し , 停止と同時に射撃 間内の効力射力を増大できる。砲の操作要員の労働も軽 を開始できる自走式とは比べられない。陣地への展開 , 減できるから , 長時間にわたる射撃でも射撃速度が落ち ることは少い。第 3 の長所で ある。 射撃統制装置に高級なもの を装備できることも , 第 4 の 長所として上げることができ よう。単に間接照準にとどま らず , 直接照準の射撃統制装 置も高級化でき , 次に述べる ような装甲化による対砲兵戦 下での継続射撃や , 対戦車戦 闘にも用いることができる。 第 5 の長所は , 装甲化が可 能なことである。前述のよう に野砲は陸戦の根幹火力であ るため , 第 1 に攻撃の目標と なり , 戦闘全般をつうして常 に攻撃の脅威にさらされる。 とくに航空攻撃 , 敵野砲の攻 撃は , まずこちらの野砲に向 けられる。その攻撃下でも味 フランスの AMX155aGCT 。戦車と同じ車体に長射程砲を持つ , 新世代の車輛だ 任 務 直 ー全 野砲部隊 増 全般兼増援 0

8. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

ニューデリー市中をとおるビジャヤンタ戦車。我々の国防基金て・ いの行気↓ : い 、と書かれている 1968 年 1 月 26 日 , 独立記念日のパレードて , なり , 戦闘重量 38 t になったことだ。これをイギリス流 一方 , マドラス近郊のアバディに建設中だった戦車工 た。引渡しは 1965 年にはしまり , 翌 66 年中に終了した。 名前をつけ , 予定どおり 100 輛をビッカーズ社に発注し インド陸軍はこの戦車にビジャヤンタ ( 勝利 ) という は外されている。 られていた折たたみ式の浮航用スクリーンは , 生産型で れることになる。また , プロトタイプの車体外周につけ カーズ M B T Mk. 1 は , ビッカーズ 37t 戦車として知ら の t 数 ( 英トン ) に換算すると 37.5 t になるため , ビッ ビジャヤンタの生産に . 入った。 同工場での生産車は , 1967 年から引渡しが開始されてい る。第 1 期生産分の構成品比率は , イギリス 40 % , イン ドが 60 % であった。 その後 , 1968 年中に 66 輛 , 68 ~ 71 年にかけて 300 輛 , 71 ~ 75 年に 200 輛 , 76 ~ 79 年に 200 輛 , 合わせて 800 輛 がインド国内で生産され , イギリスから購入した分を合 わせると 900 輛の実戦配備を完了している。生産予定は 1000 輛と伝えられているが , 次期戦車のこともあるため にはっきりしたことはわからない。なお , 最近のインド の国産化率は 75 % ていどといわれる。 1968 年 , ビッカーズ社にクウェーートから M B T Mk. 1 規模も大きくなっている。後方にみえるのはソ連製の T 54 / 55 場も 1966 年には完成し , 同しく独立記念日のパ [ ード。 ? 2 こちらは 1978 年のときの撮影て ,

9. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

撃破されたソ連軍の T34 / 76A 戦車。この戦車の存在はドイツ軍にとって 驚異てあリ , 事実この後 , ドイツ機甲部隊の頭痛のタネとなった チエプジェシン地区に配置されていたが , 後退するソ連 ・ゲーリンク空軍高射砲連隊の一部 , ロケット砲連隊お 第 4 および第 8 機械化軍団を追撃するために戦線に投入 よび独立第 651 戦闘工兵大隊などがつけられ , さらにジ され , プースクーテルノボリの線まで進出した。その後 ール方面に対する行動を起こしたときに , SSLA トミ 軍団は前進方向を東北に変更して , 第 48 機甲軍団の前進 H 自動車化旅団の増援を受けることになっていた。 を支援するためにル , く一ルに進出し , さらに東方に旋 すなわち , 両翼に機甲師団を配し , 中央に各種の機動 してスターリン防衛線を突破 , ソ連第 4 , 第 8 機械化軍 兵力を集中して , 打撃力を誇る機械化突撃隊ともいえる 団の背後にまわることになった。 隊形を組んだわけである。 国境会戦において , その突破に大きな役割を果たした 7 月 2 日 , 軍団は 3 つの突進軸を並列に配置して , 3 第 48 機甲軍団は , 右翼に第 16 機甲師団 , 左翼に第 11 機甲 つの攻撃路をおのおのが前進することを命じた。しかし , 師団 , 中央に第 16 自動車化師団を配置し , とくに第 11 機 進撃開始後間もなくは順調に進んだが , ほどなく激しい 甲師団の後方には , 独立第 670 駆逐戦車大隊 , ヘルマン 雨となり , このため第 11 機甲師団を除いては予定されて 宀・ゝ一、づ ロシア農民から様子 を聞く Sdkfz. 251 装甲車に乗った偵察 隊員。作戦当初 , 住 民は協力的だった が , ドイツはその処 置を誤った 55

10. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

ヘリて運ばれる 105 軽榴弾砲。自走砲にこんなまねは てきない。 野砲の軽量化が機動性の向上につながるのは明らかで ある。高張カ鋼やアルミニウム合金の発達 , 構造や製 鋼 , 製造技術の進歩から , 野砲 ( というより火砲全般 ) は著しく軽量化されるようになった。また新理論による 軽量化も行われている。その一例が前進砲でもあろう。 砲が軽量化されれば , 牽引車もトラックをはじめ手近な 車輛がなんでも利用できるから , 全体とすれば機動力は 増大する。専用の牽引車も , 技術の進歩により高い不整 地機動力が得られるようになった。 しかし , 軽量化をしても追いっかない問題があり , 実 際には野砲は大型化 , 重量化の傾向にある。 それは戦術上の要求からくるもので , 野砲はより大口 径化するという傾向である。現在 , 戦闘の全般的な支援 を行う野砲 ( 一般に師団火力 ) は 155E 級以上 , むしろ 203E ( 8 インチ ) 級に統一される傾向にある。 これは効率上の問題で , ひと口にいえば大口径は小口 径砲より破壊力がまさり , 長射程の砲は短射程の砲に優 96 越する , という事実である。大口径の方が長射程にしや すいから , 破壊力のことも考えるとどうしても大口径砲 が主流となる傾向にある。つまり 30 の射程の砲は 10 の射程の砲に比べて運用の範囲が広く , 203m 砲弾は 105 砲弾よりも 8 倍近い破壊力があるというあたりまえの 話だ。 105E , 155E , 175E , 203 簡と各口径の野砲をそれそ れの射程と破壊すべき目標に合わせて装備するよりは , 全ての任務をこなせる 203E 砲だけを数多く装備した方 この場合の効率とは , 開発や生 がはるかに効率がよい 産の経費 , 保守 , 整備 , 弾薬補給などの広い範囲の問題 を含む。 現にアメリカ陸軍 / 海兵隊は , 師団砲兵の中心を大口 径 , 長射程の 203E 砲 ( M110A 1 /A 2 ) に集中し , べ トナム戦争で勇名を覇せたロング・ノくレルの 175E 自走 カノン砲 M107 の退役を進めている。 155E 級の野砲はまだどの陸軍でもとうぶん維持され るだろうが , どの口径にしろ 155 簡以上となると軽量化 してもそう軽くも小さくもならない。イギリス , 西ドイ ッ協同開発の 155E 野砲 FH70 は重量 8800 , 長さ 9.45 川 ( 牽引状態 , 射撃姿勢では 12.43 祠あり , ポフォー スの 155EFH77 は 11 , 177 , 11.6 ある。軽量をうた っているアメリカの 155EM198 でも 6804 ん 9 だから , 同じ 新型軽量の 105E 榴弾砲 M102 の 1470 ん 9 はもちろん , 旧式 の 105EM101A 1 の 2200 とも比較にならない。 7 t, 11 t といった砲を牽引するのはたいへんなこと で , 舗装された路上ならともかく , 不整地となると普通 の軍用トラックでは高い機動性は望めない。 FH70 を牽 引する西ドイツ M A N の 6 x 6 トラックは , 常識を越え た高い路外機動性を持つが , やはり装輪式の限界はあ り , 装軌式とは比較できない。 ところが装軌式の牽引車となると , 陸上自衛陸の 73 式 牽引車をみてもわかるように , かなり高価なものとな る。それならばいっそのこと自走化してしまった方が安 くつくし , 多少高くても自走化によるメリットは価格の 超過分を補って余りあると考えられる。 それならば野砲を全部自走化した方がよいのではない かと思うと , 実際はそううまくゆかない。 まず自走砲は牽引式野砲に比べて価格が高い。火力は 少しでも増大したいから , 不整地機動性の悪さを少しが まんしても , 1 門でも多くの砲を装備したいという運用 者側の要求もある。 第 2 に , 自走砲はどうしても重い。どうがんばっても 牽引式より重くなるのは明白なことである。装軌式の自 走砲にすれば , 不整地機動性は高くなるかもしれない が , 山の上に運び上げたり , 輪送機やヘリコプターで空 輸するといった芸当ができにくくなる。 155E 級の自走 砲を吊り上げることができるヘリコプターは , 現在ソ連