自動車 - みる会図書館


検索対象: PANZER(パンツァー) 1980年3月号
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1. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

近衛将校 ( サイドカー ) 2 台 , 皇宮警察官 ( サイドカー ) , 侍従と侍従武官 ( 自動車 ) , 住 従武官長 ( 自動車 ) , 宮内大臣 と警察官の自動車が続く。 近衛兵によるサイドカー自 動車鹵簿は , 他にも天皇皇后 同乗 , 皇后 , 皇太后 , 皇太子 の略式自動車鹵簿があり , 19 45 年 ( 昭和 20 年 ) 末期には , 天皇を長野県松本に移設した 大本営に移すための特別戦車 鹵簿中隊が編成されたといわ れている。 ☆オートパイの開発 ガス・マスクをつけ , ロード・テスト中のハーレー・ダビッドソン・サイドカー 1929 年 ( 昭和 4 年 ) , 日本 自動車がニューエラー号 350CC を試作完成させた。この た。前あきサイドカーは , 車ごと犯人にぶつけ , サイド カーに乗った将校が体あたりでとりおさえることができ ころすでに , 陸軍はハーレー・ダビッドソンの 1000CC 1924 年型を近衛兵供奉用や部隊連絡用に採用しており , る。この訓練を秘密裏に行ったところ , 効果的であった トライアンフやインデアンの軍部への売込みも激しかっ のでこれを実用化した。 近衛兵のサイドカー前部があいているのは , この事件 た。 新しくできた国産オートパイは , 内務省の警保局が陸 が発端だったわけである。 軍と併合しないため , 警備用として採用装備している。 近衛兵の天皇供奉用サイドカーの使用は , 皇室の「略 その翌年 , ドイツの BMW を参考に , 水平対向 2 サイ 式自動車鹵簿 ( ろぼ ) 」として定められた。鹵簿とは近 クル 1500CC のニッポン号を製作した日本自動車大森工場 衛騎兵の儀仗警衛を備えた行列をいい , 馬車ではその儀 は , 1932 年 ( 昭和 7 年 ) に日本内燃機 KK として独立し 礼によって公式鹵簿 , 略式鹵簿とわけられ , 馬上警護の ためサイドカーは使用せず , 自動車を 使用するときのみ自動車鹵簿を編成し 0 一例として天皇略式自動車鹵簿編成 をみると , 警察官 ( 自動車 ) , 宮内書 記官 ( 自動車 ) , 近衛将校 ( サイドカ ー ) , 近衛将校、 ( サイドカー これは 天皇車をはさんで左右サイドカーのド が車側 , つまり内側に位置す フィノく一、 るよう側車を組みかえ , 列側に側車将 校が位置するようにした ) , うしろに 前章に陸軍の星マークをつけたインデアン 1928 年モデル た。そして陸軍からの依頼を受けて 計した軍用オートノくイは , 側車っき九 三式自動二輪車とし正式採用になっ 0 軍部は , はじめ輸入車にたよってい たせいもあり , 国産オート / くイをあま り重視していなかったが , 海外の軍編 成をみるとオートイが部隊の足とし て伝令や連絡用に広く使用されてお り , また折から満州 , 中国に派遣した 部隊のため急拠オートノくイが必要とな ノ 前章に近衛兵のマーキングをつけたハ 88

2. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

ロシアに攻めこんたドイツ軍は , ソ連軍が頑強さにおいてい ままての敵と全く違っていたことを思い知らされた。拠点は ひとつひとっ白兵戦てつぶして行かなければならなかった に後続する第 60 自動車化師団では , T34 / 76 を多数装備 する第 202 師団および独立戦車旅団の攻撃を受けて第 11 機甲師団との連絡が切断されるなど , 重大な危機が訪れ いた進出はできなかった。 第 11 機甲師団は , 空中補給を受けながら 5 日間にわた 第 11 機甲師団のみは , 7 月 5 ~ 7 日の間 , 独立第 26 高 って苦戦を続けたが , 第 75 師団の増援を受けた第 16 機甲 射砲連隊などの支援を受けてスターリン防衛線を突破 師団と第 16 自動車化師団によってようやく救出され , 再 し , ジトミ ルに達した。この第 11 機甲師団の突破成功 びキエフに向かって進撃をはじめた。この頃 , 第 60 自動 により , 南方に通ずる交通線を遮断されたソ連軍は動揺 車化師団は第 14 機甲軍団に移り , 代って ss ヴィーキン し , 一時的に進撃がストップしていた第 16 機甲師団およ グ自動車化師団が編入された。 び第 16 自動車化師団は , 攻撃を再開してようやく当初予 ウマン会戦 定していたジトミールーベルディチェフ間に進出するこ とができた。 こうして第 1 機甲集団は , ソ連南西方面軍の反撃を阻 7 月 9 日 , 第 48 機甲軍団に新しく第 60 自動車化師団が 止したが , 強力なソ連軍の抵抗のためにキエフ前面まで 配属され , 軍団は 2 コ機甲師団と 2 三言動車化師団の計 にソ連軍を包囲しようという最初の計画は失敗し , ソ連 4 コ師団に強化された。軍団の次の目標は , ウクライナ , 軍は続々とドニエプル方面へ後退を続けていた。 共和国の首都であり , 南方軍集団の最初の大きな攻略目 南方軍集団司令部では , 今度こそ包囲戦を成功させよ 標であったキエフで , 軍団はいっきょにこれに向かって うと第 1 機甲集団 , 第 6 , 第 17 , 第 11 軍の全力をあげて 突進することになった。 ソ連軍をウマン地区に閉じこめようとした。第 1 機甲集 第 11 機甲師団は , 第 60 自動車化師団の支援を受け , ソ 団は快足をもって東南 , さらに南に方向を変え , ルーマ 連第 19 機械化軍団の防衛線を突破してキエフに , また , ニアから進撃してきた第 11 軍と包囲網を完成させてソ連 第 16 機甲師団は第 16 自動車化師団と協力してカザーチン 3 コ軍 25 コ師団を閉じこめ , これを壊滅させた。この会 方面に進撃することになった。 戦で捕虜 103 , 000 名 , 戦車 317 輛 , 野砲 958 門 , 対戦車砲 新目標に対する第 1 日目 , 第 11 機甲師団はベルディチ および高射砲 242 門 , トラック 5250 輛を捕獲する戦果を ェフ付近で反撃に出たソ連第 4 , 第 8 , 第 16 機械化軍団 上げた。 の 10 コ師団および 2 コ戦車師団の大軍に包囲された。ま 第 14 , 48 両機甲軍団がウマン会戦を戦っていた頃 , も た第 16 機甲および第 16 自動車化各師団も , 敵の反撃によ うひとつの第 3 機甲軍団は 7 月 20 ~ 23 日の間にキエフ前 ってこれを救援することができず , さらに第 11 機甲師団 面のファストフ地区で , 東南に進出してドニエフ。ル川に 56

3. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

達する進撃を準備中であった。同軍団には第 13 , 第 14 機 遣されて第 3 機甲軍団の指揮下に入り , 第 60 自動車化師 甲師団および第 60 自動車化師団が配属されていたが , 軍 団と協力してソ連軍の救出部隊を撃退した。 団にはウマン会戦中 , 機甲集団の背後を掩護する任務も 一方 , ドニエフ。ルへ向った第 14 機甲師団は , 7 月 29 日 与えられていたので , ドニエプル川への進撃は第 13 と第 にチェルカッスイ前面に進出し , 第 13 機甲師団もこれに 14 の両機甲師団が , また集団の掩護は第 60 自動車化師団 続いてスメラ地区に達した。第 14 機甲師団は , さらに 8 が担当した。 月 5 日にはキロウオグラードに , また第 13 機甲師団はカ しかし 7 月 27 日 , ウマン地区の友軍を救出するためソ ーメカに進出するなど , この方面の作戦は予想どおりの 連第 64 軍団が包囲部隊に対して激しい反撃に出たため , 進捗をみせた。 第 60 自動車化師団のみでは集団の掩護は不充分となった ウマン会戦の末期には , 機甲集団の掩護から解放され ので , 包囲部隊から S S ヴィーキング自動車化師団が派 た第 60 と S S ヴィキング自動車化師団もドニエフ。ル川 ウクライナの平原に おいて伝令兵から命 令を受領する I 号指 揮戦車上の指揮官 包囲戦のための行動 は綿密な協同行動が 必要た 57

4. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

は , 第 11 機甲師団の主力とともにこの反撃を撃退するた と対戦した。同旅団の対戦車砲小隊は , 1000 川から 37E めに進撃を中止せざるを得なかった。 対戦車砲で射撃したが , これらを撃破することはできな ドゥプノ地区に投入された第 8 機械化軍団は , 右興に かった。 第 34 戦車師団を , 左翼には第 12 戦車師団を 2 ( ) にわたっ しかし , ドゥプノ地区で包囲された第 11 および第 16 機 て展開させていた。さらに第 7 機械化師団が第 12 戦車師 甲師団は , 第 16 自動車化旅団の奮闘で包囲網から救出さ 団の左興に進出する予定で集結地に急行していた。しか れ , ソ連軍の反撃はかろうじて撃退された。そして新し し , 第 8 機械化軍団の攻撃開始の地点は , その前面に湖 く戦線に投入された第 16 自動車化師団と , 解放された部 沼の多いスノヌフカ川があるなど , 機甲部隊の展開には 隊は再び第 48 機甲軍団の主力として撤退する南西方面軍 不適当な地域で , このために 第 1 機甲集団の主な部隊指揮官ー 1941 年 4 月 ~ 9 月一 26 日 ( ) 900 に行われた戦車部隊 による攻撃は不成功におわっ - 集団司令官ェルト・フォン・クライスト上級大将 ( 騎 ) た。だがさらに攻撃を続けて 第 3 機甲軍団長ェアハルト・フォン・マッケンゼン大将 ( 騎 ) スノヌフカ川の対岸に橋頭堡 第 14 機甲軍団長グスタフ・フォン・ヴィータースハイム大将 ( 歩 ) を確保した。 第 41 機甲軍団長ゲオルク・ハンス・ライン , 、ルト大将 ( 甲 ) その後この部隊はさらに 20 第 48 機甲軍団長ヴェルナー・ケンプフ大将 ( 甲 ) も進出し , 第 48 機甲軍団の 第 11 歩兵車団長ョアヒム・フォン・コルッフライシュ大将 ( 歩 ) 後方に反撃を加え , 続いて 27 第 29 歩兵軍団長・ , 、ンス・フォン・オプストフェルダー大将 ( 歩 ) 日早朝から再攻撃を行って , 第 5 機甲師団長フランツ・フェーン少将 ( 騎 ) 翌 28 日までの間に , 第 16 機甲 第 9 機甲師団長アルフレ - ート・フービキ中将 ( 甲 ) 第 11 機甲師団長ルードヴィヒ・クリューベル少将 ( 甲 ) 師団 , 第 111 師団および第 75 第 13 機甲師団長フォン・ロートキルヒ・ウント・パンテン少将 ( 甲 ) 師団の一部に大打撃を与え 第 14 機甲師団長フリートリヒ・キューン少将 ( 甲 ) 第 16 機甲師団長・ , 、ンス・フーベ中将 ( 甲 ) タラカノフ付近では , 第 48 第 16 自動車化師団長ヴェルデアー・ヘンリーキ少将 ( 歩 ) 機甲軍団の第 448 通信大隊お 第 25 自動車化師団長 ェーーリヒ・クレスナー中将 ( 歩 ) よび第 448 新重大隊の一部が 第 6 ( ) 自動車化師団長 ェーベルハルト中将 ( 歩 ) 撃破され , さらにウェルノ : ・ 第 44 師団長フリートリヒ ・ジーーベルト中将 ( 歩 ) カーミエンナ付近では , 第 16 第 57 師団長オスカーー プリュム中将 ( 歩 ) 機甲師団司令部 , 第 2 戦車連 第 75 師団長ェルンスト・ハンマ中将 ( 歩 ) 隊および第 16 自動車化偵察大 第 111 師団長オット ーータップ中将 ( 歩 ) シュ 第 294 師団長ヨハネス・プロッ少将 ( 歩 ) 隊などが包囲されるという危 第 298 師団長グレスマーー少将 ( 当県 ) 機が訪れた。 第 299 師団長ヴィリーー・モーゼル中将 ( 歩 ) この攻撃にソ連軍は , KB 第 4 山岳兵師団長カール・エルゲルゼーレ少将 ( 山 ) Ⅱ A 重戦車および T34 / 76 中 s s ヴィーーキング自動車化師団長フェリクス・シュタイナー中将 ( S S ) 戦車を投入し , スノヌフカ川 s s L A H 自動車化旅団長ゼップ・ディ - ートリヒ少将 ( S S ) の戦闘では第 16 自動車化旅団 G D 自動車化連隊長フォン・シュトクハウゼン大佐 ( 歩 ) がソ連第 12 戦車師団の先遣部 ヘルマン・ゲーリンク高射砲連隊長ゲルハルト・コンラート大佐 ( 空 ) 隊に接触したとき , この戦車 194 1 年 6 月 22 日 , ド イツ軍は 1700 にわ たる国境を越えてい っせいにソ連国内に なたれこんた

5. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

—Part One— パルカン進攻作戦 1940 年におけるフランス戦において、ドイツ軍の輝や かしい勝利の原動力となったクライスト機甲集団は、 19 41 年 3 月′プガリアとユーゴスラビア国境付近に移動 し、〇月〇日にはその名称を第 1 機甲集団に改称した。 集団司令官はそのままフォン・クライスト上級大将 ( 19 40 年 7 月昇進 ) が就任し、その下に第 14 機甲軍団 ( 第 5 、 11 機甲師団、第 60 自動車化旅団、 H. ゲーア自動車化旅団、 グロス・ドイッチェラントー以下 G D ー自動車化連隊 ) および第 11 軍団 ( 第 4 山岳兵師団、第 294 師団 ) が配属さ れ、他に集団直轄部隊として第 1 機甲通信連隊、第 1 機 甲補給隊、第 422 野戦郵便隊、第 691 宣伝中隊などがあっ バルカンへの進駐が計画されたのは、独ソ戦に対する 予備行動であったが、その発端はフランス戦の直後には しまっている。 ヒトラー総統はフランス戦が勝利をもって終ったあと、 ヨーロッパにおける既成事実の承認をイギリスに求めた が拒絶され、イギリス本土への進攻を決意せざるを得な パルカン作動において、ユーゴスラビアの山岳地帯を行く Sdkfz .222 4 輪装甲車。本来、 ルカン半島の地形は機甲部隊の活動に適したところではないが、独ソ戦のスケジュールを極 カ遅らせないためにやむを得す投入された。しかし、このために参加部隊の車輛の機械的疲 労をきたし、ベスト・コンティションで対ソ戦に入ることができなかった。

6. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

軍団に第 13 , 14 機甲師団 , 第 25 自動車化師団および s S の残余部隊に対する追撃戦を開始した。 LAH 自動車化旅団を , 中央の第 14 機甲軍団に第 9 機甲 だが , 間もなく訪れた激しい雷雨により前進路は泥沼 師団 , s s ヴィーキング自動車化師団 , さらに右翼の第 化し , 車団の前進は困難をきわめたが , 7 月 1 日 1700 頃 48 機甲軍団には第 13 および第 16 機甲師団 , 第 16 自動車化 からソ連第 9 , 第 22 機械化軍団および第 27 軍団を捕捉し 師団を配属した。また第 3 機甲軍団の後方には第 29 軍団 ーこにウェル - バ戦車戦が展開され , ソ連軍に多大の て , ( 第 111 , 299 師団 ) および陸軍総司令部予備の第 51 軍団 損害を与えた。 ( 第 79 , 95 師団 ) が , また第 14 と第 48 機甲軍団の後方に この戦いをもって , ソ連軍が国境付近に配備していた は , 第 6 軍から派遣された第 44 軍団 ( 第 9 , 297 師団 ) お 部隊をどうにか撃破して , 機甲集団はようやく次の目標 よび第 55 軍団 ( 第 168 師団 , 第 213 警察師団 ) という大兵 に進める情勢になった。しかし , ソビエト南西方面軍の 力が編入された。 強力な反撃を受けた機甲集団は , 多大な損害を受けてそ の進撃速度は大幅に低下し , 当初あ作戦目的であった迅 南方軍集団は , 国境会戦が終って次の進撃にそなえる 第 1 機甲集団に対して , スターリン防衛線 ( 旧ソ連・ポ 速な突破と包囲せん滅作戦は失敗し , ソ連南西方面軍の ーランド国境 ) に撤退する南西方面軍の追撃戦を命令し 旧ソ連国境地帯に撤退を許してしまった。 た。これにもとずいて , 機甲集団は配下の 3 コ機甲軍団 開戦以来の 11 日間にわたる国境会戦において , ラジェ に対して , 7 月 2 日に各機甲軍団は現在の位置から東 ホフ , ルーック , ドウフ・ノ , ウェルバなどの各地で , ソ 方に向かい , 次いでホリン川方向へ進撃すべしとの命 連第 5 , 第 6 軍との間に両軍合わせて 4000 輛以上の戦車 が投入されて激戦を展開し , 第 1 機甲集団は 600 輛以上 令を伝えた。 6 月 2 日 2000 , 第 3 機甲軍団は第 29 軍団から敵戦車部 のソ連戦車を撃破または捕獲した。しかし , この間に明 かになった T34 と KB 重戦車の存在は , ドイツ機甲部隊 隊が接近中との緊急情報を受け , 第 13 機甲師団を先頭に して , キエフの西方 165 に位置する交通の分岐点であ にとって以後の戦いが容易でないことを感じさせたので るジトミ - ールに向って進撃を開始した。 ある。 第 13 機甲師団は , 7 月 7 日 , フルスクを経てジトミ * ウクライナへの進攻 に向かうキエフ国道上でスターリン線を突破し , 7 月 9 ールに突入 , 激い市街戦を行って市内を完 ウェルバ戦車戦の後 , 第 1 機甲集団は産翼の第 3 機甲 日にはジトミ ′ン、ンア ドイツ AFV の塗装とマーク 臨時増刊 第 2 次大戦中のドイツ車輛の塗装とマークを、写真と図版で詳細に解説。 。 0 日 C)D 発売中 定価 1200 円〒 50 円 52

7. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

撃破されたソ連軍の T34 / 76A 戦車。この戦車の存在はドイツ軍にとって 驚異てあリ , 事実この後 , ドイツ機甲部隊の頭痛のタネとなった チエプジェシン地区に配置されていたが , 後退するソ連 ・ゲーリンク空軍高射砲連隊の一部 , ロケット砲連隊お 第 4 および第 8 機械化軍団を追撃するために戦線に投入 よび独立第 651 戦闘工兵大隊などがつけられ , さらにジ され , プースクーテルノボリの線まで進出した。その後 ール方面に対する行動を起こしたときに , SSLA トミ 軍団は前進方向を東北に変更して , 第 48 機甲軍団の前進 H 自動車化旅団の増援を受けることになっていた。 を支援するためにル , く一ルに進出し , さらに東方に旋 すなわち , 両翼に機甲師団を配し , 中央に各種の機動 してスターリン防衛線を突破 , ソ連第 4 , 第 8 機械化軍 兵力を集中して , 打撃力を誇る機械化突撃隊ともいえる 団の背後にまわることになった。 隊形を組んだわけである。 国境会戦において , その突破に大きな役割を果たした 7 月 2 日 , 軍団は 3 つの突進軸を並列に配置して , 3 第 48 機甲軍団は , 右翼に第 16 機甲師団 , 左翼に第 11 機甲 つの攻撃路をおのおのが前進することを命じた。しかし , 師団 , 中央に第 16 自動車化師団を配置し , とくに第 11 機 進撃開始後間もなくは順調に進んだが , ほどなく激しい 甲師団の後方には , 独立第 670 駆逐戦車大隊 , ヘルマン 雨となり , このため第 11 機甲師団を除いては予定されて 宀・ゝ一、づ ロシア農民から様子 を聞く Sdkfz. 251 装甲車に乗った偵察 隊員。作戦当初 , 住 民は協力的だった が , ドイツはその処 置を誤った 55

8. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

雪の残るパルカン半島の山道を行く第 2 機甲師団のⅣ号戦車 B ~ C 型。悪路のため , 補給部隊の随伴が思う にまかせす , 戦車は自ら燃料や水を積んて行動した。フェンダー上の材木も悪路用の応急資材 とずく , 陸軍総司令部のパルバロッサ開進訓令第 505 号 隊の確保した橋頭堡から打って出て戦果の拡張を行う。 によって , 南方軍集団は第 1 機甲集団は , 第 6 , 17 各 一方 , 集団の中央に配置されたフォン・オープストフェ 軍の後方にあって , 両軍の国境突破後ラワルスカおよび ルダー大将の第 29 軍団は , 第 111 と第 299 歩兵師団がシ コーウェル間を突破し , ベルジチェフおよびジトミール ホートリーとスタログラード間でプク川に渡河点を確 保し , ソ連軍の国境守備陣地を突破する。 を経てすみやかにキエフ付近に達し , ドニエフ。ル下流地 域に向って進撃する。そして敵の渡河退却を阻止してそ また , 集団の右翼に配置された第 48 機甲軍団は , 第 57 の軍を撃滅する洋という作戦命令を発した。 と第 75 両師団でソカール地区においてプーク川の渡河点 南方部作戦全般の成否は , 機甲集団が迅速に進撃でき を確保し , 軍団の先鋒である第 11 機甲師団が東方に向っ るかどうかにかかっていたのである。 て突進するための前進路を開くというものであった。 しかし当時 , 第 1 機甲集団の部隊の一部は , スルカン 第 1 機甲集団の予備となっていた第 14 機甲軍団には , 方面での作戦のために戦力が弱体化しており , それらを 第 9 , 13 , 16 機甲師団 , 第 16 , 25 自動車化師団 , s S ヴ 休養させ補充する時間がなかったので , 南方軍集団は消 ィーキング自動車化師団および S S ライプシュタンダル ー以下 L A H と略す一自動車化 耗した第 14 機甲軍団を予備にまわし , 新しく第 13 , 48 機 テ・アドルフ・ヒトラ 旅団が配属され , この軍団は , 当面は第一線の第 3 , 第 甲軍団および第 29 軍団を配属して戦力を強化した。 48 両機甲軍団に対して , 必要に応じて援助するとともに 国境の会戦 集団の戦果拡張部隊として , 後方に続くことになってい 1941 年 6 月 22 日 0200 , 第 1 機甲集団はプーク川のフル 0 一方 , 南方軍集団に対するソ連軍の防衛拠点は , キエ ペショフとソカール間に配下の 3 コ軍団を展開させた。 フ特別軍管区 ( 開戦直後 , 南西方面軍と改称 ) とオデッ 左翼にはェアハルト・フォン・マッケンゼン大将 ( 騎 サ軍管区 ( 南方面軍と改称 ) であり , このうち主力は南 兵 ) の第 3 機甲軍団が , 第 44 および第 298 師団を並列に 西方面軍で , 11 コ軍団 ( 32 コ師団 , 16 コ戦車師団 , 8 コ 配して軍団の火砲 300 門で敵の抵抗線を撃破し , フルべ 機械化師団および 2 コ騎兵師団 ) からなる 4 コ軍が配属 ショフ付近でフ・一ク川の渡河地点を確保する。その後 , され , 機甲部隊である機械化軍団は , 従来は 2 コ戦車師 後続の第 14 機甲師団は 1300 にフ・一ク川を渡って , 歩兵部 48

9. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

戦場を′ 川 0 ま orc / cle 0 ′内」 0P0 鵬 Army , 日※あ葷オトバイ ( 上 ) 、 文・写真高橋昇 ☆オートパイの発達 日本のオートノくイの発達の歴史は , 1900 年 ( 明治 33 年 ) ごろにはじまっているといわれている。 1904 年には , ョーロッパではすでにオートパイによる レースが行われている。日本の記録には , 1909 年ごろ , 外国からインデアン ( アメリカ ) やトライアンフ ( イギ リス ) を輸入したことが記され , 1912 年にはドイツやイ ギリスのオートパイが日本へ入ってきたとある。 わが国のオートノくイの製作といえば , 1913 年 ( 大正 2 年 ) , 宮田製作所が旭号というオートパイを開発完成し て警視庁に採用され , 当時の大隈総理大臣の護衛用とし て使用されることになった。 その後 , 日本自動車会社が 、ノ、一レー・タヒッドソン ( アメリカ ) の輪入を開始し , 翌々年の 1918 年には陸軍 がハーレー・ダビッドソンのサイドカーを購入 , ロード ・テストを行っている。 陸軍は , 第 1 次大戦のヨーロッパ戦線におけるオート ノくイの実用性を研究しつつあり , 野戦偵察 , 伝令 , 連絡 などの機能性や信頼性を高く評価していた。 当時アメリカは , 1917 ~ 18 年にかけて軍用として 2 万 台にのぼるオートノくイを生産し , 自国の陸軍や諸外国の 軍隊に送り出していたが , 日本には 1916 年からインデア ン・オートパイが輪入され , 陸軍に試用されていた。 大正初期 , テストに出発するハーレーとトライアンフ アメリカのハーレー・ダビッドソン社は , アメリカ陸 軍の海外使用と輸出によってその名を海外に知られてい たが , さらに国外需要を高めるため , 1923 年に自社のセ ー」としてスタートした。 ダビッドソン・カンパニ 燃機と共同し「三共ハーレー 理店を任じていたが , 三共内 売所として東洋における総代 ドソンをモ - ーターサイクル員反 た。そしてハーレー・ダビッ の代表として日本にやってき ハーレー・ダビッドソン 自ら し , 翌 1924 年 ( 大正 13 年 ) に ぶん高いことを本社に報告 / くイに対する市場性がじゅう チャイルドは日本のオート して市場調査をさせた。 R. チャイルドを外国に派遣 ーノレスマン , アルフレッド 1918 年 , 86 シベリア出兵に参加した装甲車とインデアン・サイドカー そのころハーレーはインデ

10. PANZER(パンツァー) 1980年3月号

アンとの市場争いを展開しつ つあり , 日本陸軍にも両社の 激しい売込みがあったといわ れている。 当時ハーレーは 0 H I V 吸 入方式をとり入れ , 排気を s V サイドノくルプで行ってい た。日本陸軍が研究用として 買入れていたハーレーは , ェ ンジンそのものはレーシング 用と同じだが , 他のオートパ イよりやや優れたものであっ 0 ☆オートパイの実戦 各国の軍隊がオートバイを 実戦に用いたのは第 1 次大戦 1928 年 , 中国の山東省へ送られ , 輸送船から降ろされるハーレー・ダビッドソン からであり , インデアン , ハ ーレー・ダビッドソン , トライアンフなどが有名であ また重機関銃をサイドカーに装備するには , サイドカ る。ドイツ帝国陸軍も , 重機関銃を搭載したサイドカー ーを改造する必要があるのに反し , 軽機関銃の場合には を実戦に投入した。 簡単な銃架をとりつけるだけで足りる。走行中射撃する ことはほとんどないことから , 軽機関銃の搭載が多くな アメリカやドイツが , オート / くイを実戦に利用したと ニュースは日本へも入ってきており , 日本も 1918 年 った。 その後 1928 年 ( 昭和 3 年 ) に , 日本軍が中国の済南で ( 大正 7 年 ) のシベリア出兵に ハーレー・ダビッドソン , 介石の北伐軍と衝突し , 山東郡へ兵を派遣したときは インデアンなどを購入して箱型サイドカーを備え , その インデアン・サイドカーに航空機銃架を応用し , 三年式 上に三年式重機関銃を乗せ , 新設された自動車隊で警 重機関銃を搭載して戦闘用サイドカーとして配備 , 使用 備 , 連絡用に活用した。 している。 ☆天皇警護のオートパイ 1928 年 ( 昭和 3 年 ) 6 月 19 日 , 東京の護国寺付近を天皇 の乗車が通行中 , 根岸順一郎 という者が天皇に直訴し , 直 ちに逮捕されたが , この現場 を写した写真が新聞に掲載中 止になった事件がある。これ は , 写真が発表されると天皇 の警備状態が一般にもわか り , まずいことになりかねな いと政府 , 当局が考えたため 天皇車を中心に , 左右に配置された近衛兵のサイドカー。編成がよくわかる写真 である。 この天皇車の両側を走っていたのが近衛将校で , 犯人 大正末期には九州の久留米に戦車隊ができ , 戦車がま の直訴時にサイドカーから降りることができず , 犯人を とまって配置されたが , このときサイドカーが三年式重 逮捕したのは道路警備の憲兵であった。 機関銃を装備して演習に参加した。実用兵器として重機 憲兵隊は賞されたが , おさまらないのは天皇警護が主 関銃の威力はたいしたものだったが , サイドカーの武装 任務の近衛部隊で , 新聞社の現場写真を掲載中止にさせ なら軽機関銃でじゅうぶんではないかという声もあった てしまった。同じ陸軍ながら憲兵隊に先をこされた近衛 という。重機関銃は重量があり , サイドカー ( 日本では 部隊は , この事件を期に天皇警備のサイドカーを再検討 側車とよんだ ) に乗る機関銃手ひとりで使うにはむずか し , サイドカーの前方をとりはずしたタイプを製作させ しく , 運搬 , 射撃のために人員を要する不利がある。