。他の女性にもう一人の女児を産 実は首皇子は井上内親王の生まれた渤・、二年 ( ませてし 孝諏天皇 , なる阿倍内親王の誕生である。母は藤原不比等の第三女、藤原光明子、 こうみよ、つ 後の光明皇后である。首皇子と同年齢、やはり「添ひ伏し」として藤原氏一族の期待を担って首皇 子のもとに出仕していたものか。『続日本紀』の崩伝によれば、光明子十六歳の折に入内したとあ れいき るから、それは霊亀二年 ( 七一六 ) のことである。光明子の母は県犬養三千代。やはり県犬養氏の 出身で、また後に触れるが、かなりの女傑である。 周知の通り、藤原氏は自分の家の娘を皇子や天皇に嫁がせ、その娘の腹に男子が誕生して、やが てその子が天皇になると、その天皇との外戚関係の立場を利用して権力を掌握する、という政略結 婚、閨政治で繁栄してきた一族である。首皇子を例に挙げてもそれは歴然とする。皇子は藤原不 比等の娘を母とし、そのうえまた不比等の他の娘を妻として迎えている。つまり母の妹、叔母と結 ばれたとい一つことになる。 不比等はこういう形で早めに首皇子を藤原氏の中にがっちりと取り込んで、皇子の即位に備えよ伊 うとしていたに違いない 。ところが計画が狂った。首皇子の性への目覚めが予想よりも早かったと聖 いうべきか、光明子よりも早く他氏である県犬養氏の女に第一子を産ませてしまったのだ。 それでも不比等にとって幸いだったのは、生まれた子が女の子だったということである。男なら親 ば当然、将来の皇位継承該当者として遇されることになる。ならば光明子が男の子さえ産めば、わ上 が家は安泰ーーそう思っていたところ第汝児 0 阿倍内親・王の誕生だったのである。藤原氏に較べる とさしたる家柄でもない県犬氏の血を引く皇女であるが、第一皇女という順位はゆるがせにでき けいまっ じゅだい
) 0 ′ 上内親王であった。 藤原不比等は首皇子の即位を見届けることなく、養老四年に没するが、将来に禍根を残さぬため 0 、 g にも、早めに芽を摘み取「ておくに越したことはない、宮廷という皇位継承の火花が飛び散る現場 からは、できるだけこんな物騒な火種になりかねない第一皇女を遠ざけておくのが得策だと、不比 等の遺言でもあったものか。誰にも文句の付けようのない方法で藤原一族にとって邪魔になる皇女 を宮廷から遠ざけるー。。ー・それが伊勢斎王として、伊勢神宮に送り込むという合法的な「島流しーで あった、と言っては言い過ぎか。 こうして十一歳になった井上内親王は神亀四年 ( 七二七 ) 九月三日、斎王として伊勢神宮に派遣 されることになる。父は三年前の神亀元年に元正天皇の譲位を受けて即位し、聖武天皇となってい 、つる、つ 翌月の閏九月二十九日、その厄介払ゝを待っていたかのように、光明子に十年ぶりに第二子が誕 もとい 生する。待望の男子誕生である基皇子名づけられ、生後二ヶ月で皇太子に立てられることにな る。宮中あげての献上品や下賜品飛う大盤振る舞いの大騒ぎ。その騒ぎは遠く伊勢の地にいる 井上斎王にまで届いたのだろうか。 県犬養広刀自は井上内親王の次にもう一人の娘、不破内親王をもうけたが、光明子が男子を産ん だことで、第一夫人の座はこれで確定したようなものである。藤原氏や県犬養氏など、皇族の血を 引かない他氏出身の夫人は当時では皇后にはなれないが、皇太子の母というまぎれもない国母の立 、カら
ることはかなわない この制度を突き壊して光日を皇后に昇格させようとして、それで、制 たのではなかったか。 も視の長屋王 その画策は聖武天皇即位の時にすでにあったようだ。聖武天皇即位を記念して長屋王に左大臣を も授けるなどさまざまな昇格人事が行われたのだが、その折、聖武天皇の母、藤原夫人・宮子にも天 。皇の母ということで「大夫の称号を授けいるのである。この身分は律令の規定にはない。夫 人という身分の最高峰りなく妃に近い夫人という意味での「大夫人」。聖武即位の祝賀騒ぎの し力にも藤原氏ならではの画策であろう。 はレ隙に乗じて、既成制度をなし崩しにしようとするのは、、、 長屋王がその人事に異を唱えたかどうかは分からないが、このあたりから長屋王と藤原氏の対立は 始まったと見ていいだろう。 そして夫人・光明子を皇后に、という動きが表面化した時、規定を楯に反対表明したのが長屋王 だった。藤原氏には不比等亡き後でも策略の血を受け継ぐ息子四人がいる。ならばこの際、目障り な長屋王を一気に滅ばしてしまおうと謀議がなされたものか。 てんびよう 天平元年 ( 七二九 ) 二月十日、名もなき下級官僚の「長屋王が国家を傾けようとしている」とい うまかい う密告で、ただちに不比等の三男・宇合らが兵士を派遣して長屋王の邸宅を取り囲み、その一族を 全滅に追い込んだのであった。 っちあげであろう。この事件の十年後の天平十年に、密 長屋王の謀反計画というのはおそら 告に及んだ下級官僚・中臣宮処東人は長屋王に恩顧を受けた大伴子虫に囲碁の最中に切り殺されて ことを長屋王を誣告した人間であると紹介して いる。『続日本紀』はその事件を伝え、
みよ一つと田う。 大宰府からの檄文と蜂起 、つま力し ふひと 藤原広嗣は不比等の四人の息子の第三子、宇合の長男で、母は蘇我石川麻呂の娘、藤原式家の跡 すくなまろ よしつぐ 取り息子である。生年は不明だが、すぐ下の弟、藤原宿奈麻呂 ( 良継 ) が宝亀八年 ( 七七七 ) に六 れいき 十二歳で没しているので、宿奈麻呂の生年は霊亀二年 ( 七一六 ) になる。母が同じなので、宿奈麻 呂より二つ上とすると、広嗣の生年は和銅七年 ( 七一四 ) あたりが妥当だろう。そうなると、父・ 宇合の二十一歳の時の子供である。 天平九年 ( 七三七 ) 、広嗣は父・宇合の死の一ヶ月後の九月に従五位下に叙せられている。二十 四歳になっていた。 前述したように、この天平九年当時は春から天然痘が猛威をふるい、父・宇合を含めて不比等の怨 四人の息子が相次いで死んでいった時期である。宇合も四十四歳という働き盛りの年齢であった。 もしも、この天然痘が流行らなかったら、もしも、父・宇合がもう少し長生きしていたらーーー歴史 に〈もしも〉は許されないが、こうした急変がなかったならば、広嗣の人生は随分違ったものにな嗣 っていたことは間違いなかろう。 それでも藤原式家の長男としてそれなりの待遇は与えられたようで、翌十年四月、広嗣は式部少 やまとのかみ 輔を兼任しながら大養徳守に任命された。ここまでは順調だった。 わどう
いる。「誣告」とは虚偽の申告という意味であるから、『続日本紀』そのものが長屋王事件をでっち あげだと認めているのである。 長屋王事件の六ヶ月後の八月十日、正三位藤原夫人・光明子は一気に皇后の位に上り詰めた。 その折、天皇から出された、かなり苦しい弁解めいた特別の詔勅がその間の事情を逆によく物語 「みっている。 一、即位して六年間も皇后がいないのは不自然である。 二、光明子を皇后にするのは祖母、元明天皇の遺一言である。 三、光明子の父、不比等が皇室に対して忠誠であった。 四、六年間試用してみた結果、合格した。 五、他氏出身の女性が皇后になるのは今回が初めてではない。仁徳天皇の后、磐姫の先例があ る。 呪 これだけ言い訳が多いということは、その昇格人事に無理があるということである。 の だが「無理が通れば道理がひっこむ」のたとえ通り、こうして光明子はついに堂々と、皇后の位聖 を手に入れたのである。おそらく五番目にある仁徳天皇の磐姫皇后もこんなところで担ぎ出される か - すらき とは夢にも思っていなかっただろう。葛城氏出身の磐姫は嫉妬深いことで一世を風靡した皇后であ親 内 っ一」 0 上 井 ところが『万葉集』巻二の巻頭にはその磐姫が夫想いの可憐な皇后として変身し、四首もの歌が 並べられている。その一首を紹介しておこう。 いわのひめ
を経て、今度は娘が皇太子になり、やがて夫の後を受けて女帝となる。これで藤原氏の娘としての 責任が果たせたことになる。娘が天皇になることでどのような運命が展開するのか、光明子ははた してそこまで考えていただろうか。 ひろつぐ だざいのしように 阿倍内親王の立太子から二年後の天平十二年八月、大宰少弐、藤原広嗣が突如、九州大宰府から げんぼうきびのまきび 上表文を送りつけ、僧玄昉と吉備真備の朝廷からの排除を進言してきた。広嗣は藤原式家宇合の長 男である。天平十年十二月に大宰府の次官、少弐として九州赴任中であったが、それを左遷人事と 三野王 葛城王 ( 橘諸兄 ) 佐為王 ( 橘佐為 ) 牟漏女王 光明子 阿部内親王 ( 孝謙天皇 ) 聖武天皇基皇子 合 ( 式家 ) ーーーー広嗣 藤原不比等ー宮子 県犬養三千代 29 井上内親王ーーー聖女の呪い
『平家物語』から 『平家物語』巻七には、木曾義仲の挙兵によって、あれほど栄華を誇った平家一門にも翳りが見 ひろつぐ え始めるくだりが描かれているが、そこに唐突に源平合戦よりはるか昔の事件、藤原広嗣の乱が語 られていく。 みかど 奈良の御門の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛権少将兼太宰少弐藤原 まつら 広嗣といふ人ありけり。天平十五年十月、肥前国松浦郡にして、数万の凶賊をかたらって国家 あずまびと を既にあやぶめんとす。これによって大野東人を大将軍にて、広嗣追討せられし時、はじめて 大神宮へ行幸なりけるとかや。其例とぞ聞えし。彼広嗣は肥前の松浦より都へ一日におりのば る馬をもちたりけり。追討せられし時も、みかたの凶賊おちゅき、皆亡て後、件の馬にうちの って、海中へ馳人けるとぞ聞えし。その亡霊荒れて、おそろしき事共おほかりけるなかに、天 藤原広嗣 , ー憂国の怨霊 2 ラ
信じられてきた橘にちなんで、橘姓を賜った。 ( 『続日本紀』 ) 県犬養橘三千代は、おそらく江戸時代の徳川将軍家の大奥に絶大な権力を誇っていた春日局のよ うな存在で、宮廷生活に隠然たる勢力を持った女傑ではなかったか。 だからこそ、王族といえどもうだつの上がらぬ三野王に見切りをつけ、不比等に近づいたと見る ことができょ一つ。 三千代の死後 ( 天平五年 ) 、遺児である葛城王や佐為王たちが母の貰っていた橘姓を受け継ぎ、 橘諸兄、橘佐為と名を改め、それぞれ臣籍降下していったのである。『万葉集』巻六にはその折の 祝賀の宴に詠まれた元正太上天皇の歌が残されている。 ( 巻六ー一〇〇九 ) 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹 光明皇后にとっては自分の後ろ盾となっていた父方の藤原四兄弟を失ってしまったからには、今 度は母方の異父兄である橘諸兄を頼らざるを得なかったのであろう。 天平九年 ( 七三七 ) に橘諸兄は大納言に任じられ、翌十年正月に光明皇后の娘、阿倍内親王立太 子に沿って、諸兄も右大臣に昇格する。おそらく光明子と諸兄との間に娘の立太子と右大臣昇格と の取引があったものであろう。皇后の位を手に入れた光明子は、ついに娘、阿倍内親王を皇太子と して天下に認めさせたのである。 自分が産んだ子が将来天皇になる。基皇太子は満一歳にならない前に亡くしてしまったが、十年 AJ ア」は
て生まれた。県犬養氏は古代氏族研究の対象として興味深い一族であるが、ここではとりあえず、 天皇家との婚姻関係を結ぶ豪族と考えておく。刀自とは貴婦人の尊称で、「奥さま」という程度の 普通名詞。だから ( ) とかおひろと呼ばれた女性だ「たか。 たしほう もんむ ふひと 一方、聖武天皇は大宝元年 ( 七〇一 ) 強斌天皇を父とし、藤原不比等の娘、宮子を母として生 まれた待望の皇子であ「た。壬申の乱 (*S-411) に勝利し、天皇を中心にした中央集権国家を樹立 じとう てんむ かる 彼の死後 ( 六八六 ) 、男子天皇に恵まれず、天武崩後統女帝が 孫の軽が成長するまで政権を維持し、やっと文武天皇として帝位を引き継がせたが、その文武 げんめい げんしよう 天皇も十年という短い在位でこの世を去り、その兀月 ( 心兀正と女帝でつないできたのがこの時 代であった。首皇子と呼ばれ、元明天皇の和銅七年 ( 七一四 ) に十四歳 ( 年齢は以下すべて数え年 ) よ、つろ、つ けて、四十五代聖武天皇 で太子に立ち、十年を経て、養老八年 ( 七二四 ) 元正天皇の譲、 とし即位した。 聖 七一とあり、『続日本紀』養老五年 ( 七二一 ) 九月十一日条に、 皇太子娘・井上王を斎内親王とす。 王 親 のは妥当な年と思われる。皇太子皇子の十七歳の時の子である。この時、母県犬養広刀自の年 齢は分からない。おそらく首皇子よりも年上だったか。こうした高貴な身分にある皇族の子弟は元
い者が霊となってこの世に舞い戻ってくる、それが怨霊三年目出現の理由であろう。 したがって、この疫災を長屋王に結びつけて考えることは、八年という歳月の長さが説明しきれ ないのである。 藤原広嗣の乱 平九年 ( 七三七の疫病のため政権を牛耳っていた藤原四兄弟が死亡した後を受けて、政権の もろえ 中枢に登用されたのが橘諸兄である。 みの 橘諸兄は三野王 ( 美努王ともいう ) を父とし、県犬養三千代を母とする王族出身である。県犬養 三千代と聞いて気づかれた方も多いと思うが、光明皇后と母を同じくする、光明子異父ある。 県犬養三千代は天武治世下で活躍した三野王との間に葛城 ( 後の橘諸兄 ) 、佐為王、牟漏女王と 、の権力者、藤原不比等のもとに走り、光明子を産んだな伊 三人までもの子をもうけるが、その , 女 聖 かなかの烈女である。 葛城王や佐為王が天平八年十一月に、王族の身分を離れ臣籍降下を願い出て、橘姓を貰うために 王 提出した上表文には、母三千代についてこう記されている。 内 きよみはら 贈従一位県犬養橘三千代は、浄御原朝廷 ( 天武時代 ) から藤原大宮 ( 持統・文武時代 ) まで、君井 わどう に仕え忠を致し、和銅元年 ( 七〇八 ) 、その忠誠を評価されて元明天皇から不老長寿の果実と じとうもんむ