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検索対象: 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい
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1. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

ップするといい。未来のことを想像して、未来は明るいぞ、明日はああやって、来月は ああして、来年はこうしてとイメージするのだ。そうすると、自分が未来の霊界に感応 するわけである。過去の追憶の霊界に感応した御魂が、そこからすうーっと移動して現 在に来、未来に至る。 その時、私の霊眼には、こんな景色が見える。真っ暗な洞窟の中から、私の奇魂が 出てきて、ふあ、あっと背伸びして、にこにこしながら洞窟から出ていくのだ。それで、 そうか、今まで私はあの真っ暗な洞窟の中にいたんだな、とわかった。その洞窟という のは想念の魔窟ヶ原だ。魔窟ヶ原というのは魔窟の奥にまた原つばがあるからだ。そう いう霊界に自分がいて、涙ばろばろ流していたというわけだ。 む 発端は他愛もない学生時代への追憶だった。それが、次から次へと思い出と寂しさを し ・ : けども、寂しいなあ、残念だっ ひつばり出し、自分で選んだ道だからしようがない : 懐 を 代 たなあ、もう一回生まれ変わってきたときには別の人生を送ろうかなあ : ・なんてとりと 時 春めもなくのめり込んで行く。そこからその魔窟ヶ原に入っていったのだ。自分の作った ひょうれい 章過去の追憶の魔窟ヶ原に入ってしまい、それに感応する霊がばっと憑霊して、そこか 第 らなかなか抜け出せなかったのである。 くしみたま 137

2. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

で自覚せよということだ。常に神霊界においては自分は若いということを前提にしてい るわけだからだ。 お互い若過ぎるから、少しは人間が成熟して枯れてこなきゃいかんねということを一言 い合うと、不思議なもので若い気になってくる。もう既に自分が年をとっていると認め ることが、最もいけない。 そがみ そう言、つと、五十上セミナ 1 に出るということも、既に五十歳以上だということを社 会的に認めてしまっているのだから本当はいけないような気になってくる。だから、五 すす 十上というのは、これは伊勢神宮の五十鈴川の川上のような清らかな心の流れを持っ方 の集まりというふうに宣り直しをしよう。 とは 「九十六の早死には許せない′ でぐちひでまる 笹川良一さんが、大本教の三代教主補の出口日出麿さんが九十六歳でお亡くなりにな ったときにおっしやった至言がある。 Z さんという方が、

3. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

か理解しなきゃいけないんだと、子供は先祖の霊に反発するのが望ましい 親の子を思う気持ちはわかる。しかし、その気持ちが偉大なるものなのか、高貴なも のなのか、尊いものなのかどうかだ。 子孫のことを思う気持ちはわかる。しかし、実際に無断で子孫に憑いている霊を何人 も救霊した経験から言わせて頂けば、子供のことをあんまり心配する本人は、ろくな霊 しらぬ心配ばかりして、心を曇らせているからだ。だから生きている 界へ行ってない。、 間から、子供のことをあまり悩ます、自らの為すべきことを精一杯することだ。帝国を 作ることを恐れず、崩壊していくことも恐れない。大いに作っていけ、生み出していけ ということを私は言いたいのだ。それから、完成しないで何か子孫に問題を少し残して 死ぬのがおしゃれだ。 哲学とか宗教、あるいは、理論でもそうだが、ちょっと粗つほい、未完成なところを 含んだものが、多くの人を惹き付ける。それと同じである。 子供たちは、お父さんを非難したり、先祖を批判したり何かしながら、それを元気と か活力の素にして生きていくのだ。あんまりピシーツとして死んだら、「立派な方でし か - らレ↑っ た」と言われるだけで、子供たちはすることがない。そうすると「売り家と唐様で書く

4. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

古今、親の溺愛が一生の成果を駄目にした この残したい残したいという気持ちが、考えてみたら、実に怖いのだ。自分が一生懸 命蓄えてきた財産を子供に残したい。一番可愛い子供に残したい。豊臣秀吉の晩年がこ れだ 秀吉は晩年、大事な大事なわが子、秀頼に自分の天下を渡したいと熱望した。直接血 のつながりのない秀次に一度は関白を譲ったけれど、それをまた高野山に幽閉してしま しまし ( ( 、こよ切腹を命じて京都の河原に首をさらした。それでいまわの際まで、「秀 頼をくれぐれも頼む」とばかり言いながら死んでしまった。この執着が、結局は豊臣家 を滅ばしてしまった一つの大きな原因だ。 年をとってきたら、自分の作ってきたこの大事業を、自分の最愛の人間に残したいと 、、、、、、隹にでもあるとい、つ好伊た 大した仕事をしなかった人なら、実の子に継がせるものがないから問題ない。しかし、 こういう大事業をなした人は、残したい欲のために事業そのものを駄目にすることがあ るとい、つことだ。

5. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

白ひげは悟りのしるし、はげは知恵のしるし ここで少々、神霊界の様子についてお話をしておこう。 私は少年の頃から人一倍「霊的能力」と言われるものが強く、今では修業のかいあっ て、様々な神様と交流したり、天眼でお顔を拝したりすることができるようになった。 面白いことに、神霊界の神様のお姿で、ひげが生えて年をとっているというのは、深い 悟りを得ているというしるしなのだ。深い悟りの知恵を持っておられると、大体、お年 寄りのお姿で出ましになる。 し すくなひこのかみ ら また、若々しい顔で出てくる神様もおられる。少名彦神などがそうだが、大体十三 主月 素 歳から十六歳ぐらいの間の、童顔で出てくるのだ。こちらは大体、発想の神様である。 ん発想、閃きの神様というのは全部、若々しい顔をしておられる。逆に深い咀嚼力とか悟 りの叡智の神様というのは、年をとった神様で、ひげが生えて、枯れた感じになる。 代 十 また、はげた神様というのは知恵の神様だ。悟りだけではなく、先の先まで見通して 五 けいりん いるとか、神の経綸 ( 計画 ) や人生の方向性、天命などを司られる。先の北極老人もそ 章 ひとはしら 第 の一柱だ。そういう神様は、はげている。知恵は知恵でも、情感が枯れたりという ひらめ てんがん

6. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

1 プは、「いや、毛首席はこのようにも言っておられます」と反対したりする。お互い が都合のいいところだけとって言い合っている。それは、仏教でも、キリスト教でもそ うだが、そういう読み方をしていくと、知的分析的な見方に流されて、失敗することに なる。 『古事記』を読むときも、『日本書紀』を読むときも、『大本神諭』や『霊界物語』や、 私の『御神示録』も、精神の流れを読まなければいけない。 精神の流れとは何か。たとえば、『バイプル』全体に流れている精神の流れというの は、神は愛なり、愛は神なりということだ。律法のための律法、法律のための法律じゃ なく、神は愛のために律法をおろされたんだよということだ。それが、バイプルを貫く 精神の流れだ。その流れに沿って、バイプルの全ての言葉があるのだ。 『御神示録』も幾つか読んでみて、全体の流れを魂で吸収すると、自分に必要なことが ほっほっと浮かんでくるというのが、これが正しい読み方だ。『大本神諭』も同じ、『古 春事記』も同じ。法華経を見ても、一字一句にとらわれることなく、法華経精神の流れを 読んでいかなきゃいけない。 そのようにして読んでいくと、自分の胸に響くものがほっほっと来る。そのように

7. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

そがみ 私は以前、五十代以上の人だけを集めてセミナーをやっていたが ( 五十上セミナ 1 と いった ) 、何度かこの歌を歌ったことがある。 この章のテ 1 マ・キ 1 ワ 1 ドは、この詞に隠されている。そもそも、五十を過ぎたお じさんが、二十年以上前のこの歌をなぜ歌いたがるのか。また、なぜそれほどまでに人 気があるのだろうか ? それは、この詞そのものが、ひとつの霊的世界 ( 霊界 ) を作っていて、なぜかおじさ ん達が時々そこにはまりたくなるからなのだ。 その現象がどういう意味を持つのか、追って明らかにしていこう。 む 「もっと老けよう」を合言葉に し 懐 を 代 大体、五十過ぎの人が集まる機会というのは、「若返りましよう、若返りましよう」 時 春 という合唱になりがちである。しかしこれは、考えたら恐ろしく失礼な話だ。既に年を 青 とっているということを前提の上に言っているわけで、要するに、若返りましようとか、 章 第若々しく生きましようと言えば一一一口うほど、あんたは老人だということを駄目押ししてい

8. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

かわち 河内に聖徳太子のお墓があり、聖徳太子とお母さんと奥さんが祀られているのだが、 聖徳太子はその墓を作るにあたって、子孫が根絶やしになるという墓相のお墓を作って くれと言ったのである。 わざわざ、子孫が繁栄しないお墓を作ったというのは、どういうわけか。自分の子孫 と家系が残ると、結局、門閥政治になってしまうことが太子には分かっていた。それは 聖徳太子の大目標に反するものだったのだ。 当時は豪族の門閥があるがゆえに、わざわざ「和をもって貴しとなすーと言わねばな らないほど、和が保たれない状態だった。それで、太子は冠位十二階制度を作った。そ けいばっ れは家の閨閥、門閥に関係なく、有能な能力のある人を政治家にし、役人にして、取り 立てようというものであった。 ところが彼には、山背大兄王をはじめ、子供が何人もいた。この人達は人望もあり、 聖徳太子の息子さんだからということで、権力を独占することになるだろう。それでは 門閥政治、閨閥政治を否定して十二階制度を作ったのに、自分の息子が残ることによっ て同じようにまた派閥ができることになる。だから聖徳太子は、みすからの政治家とし ての使命と、真に日本を思う誠を果たさんがために、子孫が根絶やしになる墓相をわざ

9. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

今世で完全にやり切ることはない このように年をとって、体が袞えてきたら、自分が今までやってきたものを世の中に 残したいと思う。それは無理もないことだが、反面その「世の中に残したい、表現した い」というものが強すぎて、我執心、我執着、野心につながることが問題なのだ。 私の場合は神霊家として、特にこれを戒めている。そうでなければ、神様の大御心を 世の中に広めていこう、神様の御心に合う人生を送っていこう、神様のお取り次ぎをさ る せて頂こうという気持ちに、陰りがさす。そのことを私は五十になった弟子の一人に え 考 常々注意していたのだが、実際は、まさにこの通りになってしまったことがある。 を ま 五十を越えると、どんな人間も野心家になる傾向がある。しかしもちろん、越えるこ とはできる。そのためには、野心や執着を越えられるほど深く、自らの内を耕して、真 死 気実なるものを追求し、広く真実なるものを求めていくという人生に生きるということだ。 もちろん、五十歳から野心家にならないためには、四十代のうちに、野心家になると 生 いうことを戒めて、どこまでも真実を深く探求し、どこまでも広く探求していくという 章 第 自分をしつかりと作っておくことが望ましいのである。

10. 五十すぎたら読む本 : 30代、40代の人が読んだらもっといい

いるだけで、娘のだんなは放蕩三味とか、音楽の道に生きてるとか、公務員でなにか消 極的だという場合もあるだろう。男の子をと思って七人産んだけれども、全部女だった という人もいるかもしれない。 その他でも、いくつになっても親のすねかじりしかしない息子だとか、今の時代は後 継者がいなくて悩む人は多いのだが、こんな理由で一生懸命会社をやっていく意欲がな いなんて思っている人にも、今のことが当てはまる。帝国を作ることを恐れてはいけな いし、また帝国が崩壊することを恐れてはいけないということだ。 命ある限り、とにかく精進、努力して、六十代、七十代にはますます大きくしていけ A にか、み、一」 、い。最後はもう財産分与は適当にして、従業員に還元すればいい。 までやったという自分が尊いわけなんで、後のことは心配し過ぎぬことだ。馬鹿息子か と思っていたのが、実際、跡を継がなきゃならなくなった途端、えらく頑張って、なに か人格が変わったように事業をやることもある。逆に、素晴らしい息子に恵まれたと思 っていたのが跡を継いだ途端、お父さんの悪因縁まで継いでしまって、道楽に走ってし まったり、そこから立ち直ってまた事業欲が出てきたりと、先のことはわからないもの