ところが、文科系のいいところもある。その一つに、最終的に理科系の人たちを統率 するのは文科系の人だ、ということがある。日本でもアメリカでも、物理学者だの数学 つの時代も、国 者だのという理科系の人が総理大臣や大統領になったためしがない。い のトップに立つのは文科系人間である。 とは言っても、文科系の人なら誰でも理科系の人を使い回せる、というものでもない。 理科系も文科系も乗り越えたところまで行った文科系の人だけが、やはり人の上に立っ て世の中をリ 1 ドしていくわけだ。 まあ、世の中をリ 1 ドするしないは別として、ムラ気という弱点を転じて、多面的、 かつまた多角的な能力と才能を発揮できる可能性を秘めている点では、理科系人間より 文科系人間のほうが上である。 ものごとにはすべてプラスマイナス両面がある。意志薄弱でムラ気の文科系タイプに る 変も必すプラスの面があるし、まじめにコッコッ努力していく理科系タイプにも必すマイ を 格 ナス面がある。要は、それをいかにコントロ 1 ルし、常にプラスの面を出せるようにな 性 章るか、であって、最初から意志薄弱人間はダメ人間であると全面否定したら、これはも 第う立っ瀬がない。
いくら言われても直らない移り気をどうするか ? ところが、文科系の人はだいたい、そこに至る前に行き詰まる。私もそうだったけれ ど、このタイプの人は、非常にムラ気で、移り気で、何でも嫌気がさす。持続的精神の 集中がないのだ。私も学生時代、学校の先生から、 「君、持続的精神の集中が足りないんだよ」 とよく言われたものだ。 そんなことはわかっているんだけれど、なかなか直せるもんじゃない。それに比べる と、理科系の人はムラ気がないし、移り気ではない。 予備校の理科を担当している先生も、昔、学校の先生が私に言ったようなことを言っ ているので、面白いものだなと思った。この場合、先生自身が理科系でムラ気なし、移 え 変り気なしなものだから、文科系の生徒がなせムラ気なのか、なせ集中力がないのか、わ を 格 からないのである。 性 私はしかし、そういう生徒さんを見ていても、 章 第 「そうだろう。そうだろう。君の気持ちはよくわかる。しかし、君はまだ偉い。私はも四
軟弱な人間になりたいという人は滅多にいない。 私もそうだった。どんな苦難をも乗り越えていく雄々しくたくましい人間になりたい と、いつも願っていたものだ。 ところで、かなり乱暴な分類になるが、人間を文科系と理科系とに分けると、理科系 タイプにはコッコッ努力する人が多く、目標を決めたらピシッと意志を貫き通すのはた いてい理科系タイプだ。何かにつけてまじめに努力するから、もちろん勉強もよくでき るし、仕事をやっても手を抜くことはしない そこへいくと文科系タイプは、強い意志がなかなか持てない。非常に気分にムラがあ って、気分が乗ったときは一生懸命努力するものの、ちょっと何かがあるとすぐに投げ 出したり、飽きてしまって最後までやり遂げることがない。何をやっても中途半端で、 一つの目標を定めたらわき目も振らすに一目散、ということはほとんどない。それが文 る え しいだろう。だからと言って、これがすべてよくない 変科系人間の特色であると言っても、 を ことかと一言うと、必すしもそうとは断定できない。 性 というのも、フラフラしているということは、それだけ情緒があり、芸術性に富んで 章 いる証明でもあるからだ。無論、情緒も芸術性もなく、ただフラフラしているだけの、
できたのである。 移り気の普通の人は中庸の徳を備えている ? 文系には文系の長所が、理系には理系の長所がある。ただし、長所は逆に短所、弱点 にもなる。たとえば、多芸多才ということでは文科系のほうがすぐれているが、受験勉 強という限られた分野では、一つのことに集中して努力できる、コッコッタイプの理科 系人間のほうが有利で、ムラ気の文科系人間は不利になる。 しかし、全世界文科系人間の代表者として言わせてもらうと、持続的精神の集中がで きる人、たとえて言うなら大学の先生とか、どこかの研究所の研究者は、一ワーカーに すぎない 一つのことをすっとしていて、ほかに何もしたいと思わないというのだから、 言わば職人さんなのだ。大学の先生は、みんなその職人だ。 一つのことをずっとやれる人というのは、これ、持続的精神の集中がある。一つのこ とを最後までやり遂げ、成就させるのだから、そうでない人から見たら、まるで神様の ような人である。 ちゅ、つよ、つ
姿があなた本来の性格に見える。ああ、何と集中力のある人だろう。ああ、何と忍耐カ のある人だろう。けれど、一皮むけば、単におトイレに立って眠気を防いでいるだけ。 われわれの目からは持続的集中力があるように見える、コッコッタイプの理科系人間も、 その実像を探れば、案外その程度なのかもしれない。しかし、「その程度」が実は、非 常に重要なのだ。 そうやって工夫に工夫を重ねていけば、やがて多才、多芸、万能、多面的人格、多角 経営という素晴らしいほうに変わっていくはすだ。 無味乾燥な基礎学習は、環境変化で克服できる る 受験勉強をするにしても、語学を習得しようと思っても、文科系の人は一つのことを え 変コッコツはできない。だからいいのだ。ますいのは、文科系のそのマイナスイメージば かりに目を向けて、「どうせおれはダメな男さ。集中力なんかこれつぼっちもないんだ 性 章から」と、ことごとくネガテイプに受け止めてしまう考え方であり、観念である。偉大 第なるムラ気と移り気と嫌気。そこにこそ文科系人間の能力の淵源があるのであって、こ的
集中力のない人はこうして勉強しよう その点、前にも書いているように、私のムラ気は半端ではなかった。その半端ではな かったことが私にとって幸いだったのだろう、私は自分の性格を変えようと思わずに、 自分の性格に合った勉強法を見つけることを考えたのである。 それで、私は何をしたかというと、ムラ気で、移り気で、嫌気がすぐさすので、勉強 の絶対量を増やすために、勉強の場所を変えたのだ。つまり環境を変えたわけである。 次に、意識を変えた。集中力がないことを嘆かないことにしたのである。集中力があ る人とは理科系だ、私は文科系だからこれでいいんだと、意識的に意識を変えたのだ。 環境を変える、というやり方から、ます説明しよう。みなさんもこのやり方なら、性 格を変えなくとも勉強量を増やせるはすだ。 え ムラ気で移り気な人はだいたい、勉強を始めるとすぐにトイレに行き 私もそうだが、 を 格 たくなる。帰って来ると、一度は机に向かっても、すぐ横になりたくなる。みなさん、 性 心当たりがあるだろう。 章 第 そこで私は、トイレには英単語帳を置いておき、トイレに行ったらそのたびごとに、
っと移り気で、ひどかったぞ。君は私よりよほど集中力があるんだから と思ってしまう。でも実際、そうやって中学生や高校生の時に、ひとつのことに集中 できるからと言って、そういう人がみんな、日本や世界を動かすような人になるかとい うと、そうとは限らない。さりとて、集中力がなければ、ただの移り気で浅い人間にし かなれない。だからこそ、多くの人が、「性格を変えたい。集中力を身につけたい。意 と考えるのである。 志の強い人間になりたいー ムラ気・移り気の人は、多芸・多才の人になりうる / 繰り返しになるが、このなかなかやっかいな悩みを克服するには、自分のムラ気、移 り気を、「ああダメだ、ダメだ。何とか理科系タイプにならなくちゃ」と悩むだけでは だめなのだ。 私もよく学校の先生から、 「君ねえ、その飽きつほい性格、もうちょっと直したらどうなの」 と注意されるほど集中力がなかったが、今は立派にと言ったらおかしいが、誰よりも
まず、自分のムラ気な性格を肯定して考えよ′ 「性格を変えたいんですけれどと、私のところに相談に来る人は、だいたい今言って きたようなムラ気、移り気の文科系のタイプだ。しかし、そういう人でも、まったく精 神の集中がないかと言うと、案外そうではない。たとえば、御飯を食べたり、恋人とデ 1 トするにはどこが最適かと、一生懸命、公園の本で調べたりとか、こういうときには 持続的精神の集中がある。人間なんてだいたいそういうようなもので、何か得意なとこ ろ、大好きな分野、楽しいことは誰でも集中できる。集中するなと言っても集中するも のである。 しかし、意義あることをするときは、すぐに飽きて、あちこちに気を散らす。別にデ ートに意義がないとは言わないが、勉強や仕事などやらなければならないことになると、 ムラ気がむくむくと頭をもたげてくるのが、文科系タイプの特色である。 これはやり方を変えたらいい。ムラ気はいいんだ、移り気はいいんだ、嫌気がさすの ( いいことなんだと、思い込んでしまうことだ。私は文科系特有の妙なる美徳を持って いるから、やりようによっては多芸多才で万能になれる、多面的人格を持っているんだ、
れを人工的に乗り越えたら、文科系人間にしか持ち得ない最高に素晴らしい能力、才能 を発揮できるよ、つになる。 それには結局、やりこなす量で勝負するしかない。受験勉強なら、学習の絶対量が多 い人が学校に合格するし、英語を習得しようと思ったら、読んだ英文の絶対量、暗唱し た単語量、熟語量、それからスピ 1 キングした量、ヒアリングした量が決め手になるわ しかし、そういう基礎的訓練というのは非常に無味乾燥なものだ。単語や熟語、ある いは年表の暗記といったものほどっまらないことはない。文科系人間の最も苦手とする ところでもある。だが、これは避けられない。嫌でもやるしかない。自分の性格に適し た方法を工夫すれば、必すやできるはすだ。 そうやって、知識も、ヒアリングも、スピーキングも、ある程度の絶対量をこなすと、 俄然、面白くなる。ヒアリングもスピーキングも上達して、カタコトながら外人とも話 ができるようになると、反応が違ってくるから、非常に興味が出てくる。つまり、文科 系人間の特色は、ムラ気、移り気、嫌気なのではあるが、絶対量をこなしてある程度レ ベルが上がってくると、興味に引き込まれるかたちで、恐ろしいばかりの集中力が出て
くるのだ。 これは、文科系人間に隠された、もう一つの特色と言っていいだろう。文科系人間に はだいたい、そういうタイプの人が多いはずだ。面白いな、楽しいなと思ったり、情感 が満ちてその気になれば、するなと言われたってずっと集中していられるのである。 意志が弱いから集中できないのではないのだ。 文科系タイプの人は、「ねばならないことーができないのである。「ねばならない」と いう種類の努力は基礎的なことで、無味乾燥なルーチンワークである。だから辛いし、 やりたくない。やってもすぐに飽きる。そういう自分を見て、またまた「ああ、持続カ がない、集中力がない と嘆くことになるのだが、 そうではない。持続力がないのでも なければ集中力がないのでもない。工夫が足りないのだ。私がファミリ 1 レストランを る 活用するように、眠くなったらおトイレに立つように、環境に変化をつけて飽きる心を え 変なだめる工夫。それを自分なりに研究していったら、無味乾燥なル 1 チンワークも克服 格できる。 そうやって、勉強の絶対量、努力の絶対量がある程度のレベルになると、非常に面白 章 第くなる。すると、勉強そのものが面白くなり、興味が持てるようになる。そこまで行っ