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検索対象: 日本型マネジメントで大発展!
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1. 日本型マネジメントで大発展!

レキシプルにあらゆるものを吸収できるのである。 なかいま 神道には「中今の思想」というのがある。昔のことにこだわらず、今の中に生 きていることが尊いという考え方だ。 そこから、命 ( ミコト ) の解釈も生まれてくる。昔は昔、今は今、今の中にい ることが尊い。したがって、人生の目的であるミコトを持って生まれてきた自分 か、いかに今の時代や社会の生成化育の中に命を役立てていくか、という人生観 が生まれるわけである。 これにともなって出て来る考え方に、穢れというのがある。天津罪や国津罪を 犯すことによって、穢れが生じてしまう。神道ではこれをとても嫌うのだ。 だが、これはキリスト教で一言うところの罪という概念とは、大きく異なる。キ リスト教ではもともと人は罪人だということになっている。その原罪をとにかく 早く清算した方がいいからというので、労働を行う。労働は人間が犯した罪への 罰なのだ。だから、労働することは苦しくて辛いことだと、キリスト教徒は考え ている。そして手にした資本は、もっと発展的に苦しみながら罪を祓うために、 次の労働のために使おう、ということになるのである。このプロテスタンチズム

2. 日本型マネジメントで大発展!

日本経済の深奥に流れる神道の精神については、これまでの説明でご理解いた だけたと思う。この章ではそれをさらに発展させて、神道の精神を会社経営にど う具体的な形で反映させていくかという神道経営論を、三つの要因に絞り込んで びしけん 述べていくことにしよう。この章の内容は、かって菱研で行った「英語セミナ ( 英語圏の方を対象に、私が英語で日本経済について語るセミナ 1 ) で話し たのだが、 何人もの外国の方に「なるほど」と納得していただき、ご賛同をいた だいたものである。 まず第一に来るのが「中今の思想」 ( ペ 1 ジ参照 ) である。 我々は、今という瞬間の中にしか生きることができない。今に生きているとい うこと自体が、何ものにも替え難いほどに尊いと神道では考える。今に生きると は、つまり日々の生活の中を生き貫くということである。仏教のように、世俗か ら脱して悟りの境地に上りつめようというのではなく、日々の生活を生きる行為 そのものを尊ぶのである。 「中今の思想」が企業の発展力を生む 7 00

3. 日本型マネジメントで大発展!

儒教の教えの中から、この「中今の思想」に近いものを見つけるとすれば、宋 学の周濂渓が説いた「静を主として人極を立つる」ということになるだろうか。 この意味については、第一章 ( ページ参照 ) で述べたとおりだ。 形にとらわれることなく、「生きている」ということをみつめる。これは、荘 子の言、つ「迎えす送らず , という言葉にもオ 1 1 ラップしてくる。昔は昔、今 は今。心に未来を迎えすぎることなく、過ぎ去ってしまったことを送らないよう にする。未来にあることを心で迎えて、あまり取り越し苦労をしないことが大事 論であり、も、つ過ぎ去ったことに対し、いたずらに拘泥するのはやめようというこ 経 型 とだ。それができれば、今というこの大切な時をどう生きるべきかという視点が、 本 生まれてくるのである。 る せ では、今を生きるとは、具体的にどういうことか。それは、実際に働いてみる 展 発 ことなのである。過去や未来にいくら思いを馳せたからといって、誰も実際に行 を 業動することはできない。せいせい頭の中で悶々と「あのときああしていれば」、 「今度はこうしてやろう」と考えるくらいのことだ。そのあげく後悔とか、現実 章 第感のない心配などに、頭を悩ませることになるのである。 こ・つでい ノ 07

4. 日本型マネジメントで大発展!

が、資本主義発展のバックボ 1 ンになっていたのだ。 ところが、日本には罪を背負うという意識が薄い。罪を犯してもそれは穢れが 生じたとい、つことであり、穢れたものは洗濯してきれいにしたら終わりだ、と、 う感覚なのである。罪はその言葉のとおり積み重なったものなのだから、きれい に祓ってしまえばそれですむじゃないかと考えるのである。 つまり、穢れがあればきれいにして、いつまでも過去を気にせず中今に生きる。 神 の労働も中今において生成化育発展するためのものであり、労働観がきわめて明る 国 い。つまり、日本人にとって労働とは、ミコトモチたる自分の使命を全うするた 大 る めのものだから、喜びなのだ。 え 越 ここがわからないと、日本文化の本質も、また日本経済発展の秘密も、理解で を きないのである。 チ の 済 負けても負けても立ち上がる大国主となれ 経 章 第穢れという概念について、もう少し話を進めてみよう。 7

5. 日本型マネジメントで大発展!

日本人が普遍的に好む「中今の思想」 孟子の言葉に次のよ、つなものがある。 しんし 「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必す先ず其の心志 ( こころざし ) を ノ、、つ・ほ・つ たいふ 苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏 ( からつほ ) にし、行うこと其の為さんとする所に払乱 ( さからいみだす。食い違う ) せし 極むー の 論 この言葉を糧としたのが、明治維新の志士たちだった。彼等は困難に遭遇した 営 経 とき、「ああ、この試練があるのは、天が私にまさに大いなる任を与えているか 型 日らなんだ」と考えた。そして、その困難を通じて自らの心を鼓舞し、改革の志を る 完遂したのである。これは非常に明るく前向きな考え方であり、神道の「中今の 発思想」に、見事に合致していると言えるだろう。 を 業 仏教の因縁・因果の思想は、反省や内省には通じているが、そのままではどう 企 しても否定的な面ばかり見てしまいがちになる。そんな中で、神道的な只今を積 章 第極的に生きる教えを説いた仏教者もいる。日蓮上人などは、その最右翼と言える 亠まさ ふつらん ノ 27

6. 日本型マネジメントで大発展!

第一章で述べたように、日本の褝には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つがあり、 基本的には同じ哲学だが、特に臨済宗では、「今に生きる」ということの重要性 を強調している。 何かを考えると、今というタイミングは過ぎてしまう。だから、一瞬たりとも 考えていてはいけない。 こうして、自然な生き生きとした瞬間を認識するのだ。 自然は毎瞬毎瞬、風が動き、水が動き、常に変化している。何もかもが一瞬た りともとどまらず、動き、発展し、向上するというのが自然の哲学だ。だから、 我々も毎瞬変わらなければならない。今、ここにいる、刻々の只今にいるという のが、臨済禅の究極のステ 1 ジなのだ。 これは、日本の神道の「中今の思想」と同じ考え方である。神道では、伝統的 に神は人間と調和し、人間は神と調和していると考える。神は自然と調和し、自 然は神と調和している。人間は自然と調和し、自然は人間と調和している。日本 人は、自然の法則や、その現れである自然現象に従うことを好むのである。その とき、最も重要なことは、今ここにいるということ、常に変化し続けている自然 に対して、「今」というタイミングを掴むことだ。自然のリズムと一体化して、 708

7. 日本型マネジメントで大発展!

今ここにいるという実感を楽しむことなのだ。 今というタイミングを擱めば、全ての営みは生き生きとしたエネルギ 1 に満ち たものになる。我々が旬の野菜や果物や魚を味わうときには、常に移りゆく大自 然の中で、今ここにいることを感じているのである。 日本人は冬にキノコを食べたいとは思わない。しかし、たとえそれがハウスで 作られたキノコであっても、秋であれば、 意 極 「おお、これは天然物だ」 の 論 と喜んで食べているのだ。 営 経 型 本 初物を喜ぶ日本人のメンタリティー せ 展 旬の物よりも、さらに日本人が価値を置くのが「初物」である。初物とはその 発 業季節で初めてできたり採れたりした野菜や魚だ。まだ市場にあまり出回っていな 味も旬の物のように成熟していない。しかし、「女房 いから、当然値段は高い。 章 第を質に入れても食え」と言うくらい、日本人は熱心に初物を食べたがる。つまり、 7 の

8. 日本型マネジメントで大発展!

神道では、生活に生きないものは尊重しない。だから、出家主義という仏教の 基本的なところが、日本では最初のうち否定されたのだ。コミュニティの中にい る分には許す、外へ出たらダメだ、となる。最初はそういう形で仏教を吼嚼し、 文化に取り入れていったのである。 だから、日本の仏教は独自の発展を遂げている。今、真宗大谷派でも世襲制が あたり前に行われているが、そういう考え方は、本来の仏教には存在しない。お 想釈迦様の時代にも、大乗仏教の中にも、まったく見当たらない。日本だけのシス 神 テムなのだ。 福 る では、世襲制とは何だろうか。一つの伝統が、親から子へと連綿と受け継がれ 収ていくというそれは、皇室を見てもわかるように、まぎれもなく神道の考え方、 を 即ち「命が代々受け継がれていくことが尊い」という思想そのものの影響なので 智 ある。 る ゅ そうやって仏教もまた、働きの中の神なるものは生かされ、そうでないものは あ 章排除されつつ、日本で独自に発展していったのであった。 第 5

9. 日本型マネジメントで大発展!

マッカーサーを感動させた昭和天畠 日本の天皇は、築城してその中に籠り、周りに城壁を巡らせて「この中に入る べからずと、下々の者を隔絶するようなことはしなかった。現在、皇居は江戸 城の跡地に置かれているため、周囲には堀がある。しかし明治維新までは、天皇 は京都御所にいらっしやった。感覚としては、我々の家々のすぐ近所にある森の 中に住んでおられたようなものである。その身近な場所で、天皇は神に祭政をつ の 論 かまつる神主のごとくに、日本民族の族長としての役割を務めていらっしやるの である。苦しいときは民と共に耐え忍ぶという性格が現れるのは当然と言えるだ 型 日つ、つ る せ 第二次世界大戦で日本が敗戦を迎えたとき、昭和天皇がマッカーサ 1 のところ さ 展 へ突如、単身でお出ましになった。そのときの写真が今でも残っている。諸外国 発 業は天皇を敗戦国の元首と単純に考えていた。だから、元首がこのような行為に出 るのは、命乞いか財産の保全を頼みに来たのだろうと思っていたのだ。 章 第 ところが昭和天皇は、 いのちご

10. 日本型マネジメントで大発展!

古来から、日本人は、神と人間が共生・融和し、自然と神が共生・融和し、人 間と自然が共生・融和しているという世界観を持ってきた。これは、ギリシャや エジプトやローマの古代の人たちが持っていた信仰と基本的には同じだ。神道的 な自然観、神道の精神は、かっては、世界中の人たちが持っていた人類の共通の 価値観だったのである。 日本人の心の奥には今なお、そうした世界観が残っており、それが問題に直面 したときに、ヾ 1 ンと乗り越えていく脱皮力、活力、エネルギーとなっている。 る力を合わせ団結して、共同体の危機を越えていこうという一つの霊的なセンス、 霊性になっているのだ。本書では、そうした今まであまり誰も言ってこなかった の視点にスポットを当てて、日本経済を真っ正面からとらえて解説していこうと思 有 これまで、日本という国の特異性はいろいろ指摘されてきたが、その文化の中 景 背 の 心もアウトラインも見えていなかった。いくら、神を勉強しても、儒教を勉強し 済 経てみても、日本型の産業構造を分析しても、日本文化の特性というものは、今ひ 序とっクリアに説明しきれなかったように思える。それが、欧米の人から見れば、 3