神という言葉の語源は、上のほうにいるからカミだというのが、現在学会では 一つの定説になっているが、「隠れ身」と書いて神ともいう。神様というのは身 を隠していると考えられているのである。 これに対して、初めてば 1 んと露骨に姿を現したのが仏教の仏像だった。見え ないものに価値を見いだし、拝むということが習慣づいていた日本人にとって、 これは一つの大きな衝撃だったろう。キリスト教では十字架にはりつけられたキ リストの像やマリア像を拝んでいる。土俗的な宗教でも偶像崇拝をしているとこ ろは多い。 しかし、日本では基本的に尊いものは姿をあらわになさらない。だから、仏教 でも日本型の仏教では、尊い仏様は秘仏として公開しない。神社でも御神体は御 社の奥に置かれており、神主でさえ見ることはできないというところが多い あるいは、禅もそうだ。形はないけれども自分自身の中に内的な仏なるものを 見ていく。禅が日本文化に深く根づいたのは、古来からの民族の習慣・体質に合 っていたからだろう。見えないものの奥に神髄、本質、神なるものを感じとるの が日本の文化なのである。だから、我々は山や海を通じて、神の魂や神霊に祈っ 5
は、中国や韓国やインドやシルクロードから来たものであったりして、日本独自 のものはない、 とする説もある。ただし、それらが有機的につながっているつな がり方に特色があるのだ、と一言うのである。 いろいろあっていいのだが、最近、比較的多くの方がロにされている説に対し て、私なりにひとこと言わせていただきたいことがある。それは、色々な分野の 学者やジャーナリストなどが論じている「神道というのは、山に神様があり、海 はんしんろん に神様があり、湖に神様があるようなものだ」という、いわば汎神論に対してで ある。 汎神論には三つの種類がある。一つは、仏教で言うところの、「森羅万象これ ことごとく仏性が宿るなり」と同じで、この世の全てのものに神が宿っていると いう考え方だ。神道学者の中にもこの立場を取り、大自然には全て神様が宿って いると一一口、つ人もいる。 もう一つは、超越的な神なるものが万物をお生みになり、そこに神の見えざる 手が全部行き渡っているという考え方。万物の背後には、それをつくった絶対神 の存在があるというものだ。
神道では、生活に生きないものは尊重しない。だから、出家主義という仏教の 基本的なところが、日本では最初のうち否定されたのだ。コミュニティの中にい る分には許す、外へ出たらダメだ、となる。最初はそういう形で仏教を吼嚼し、 文化に取り入れていったのである。 だから、日本の仏教は独自の発展を遂げている。今、真宗大谷派でも世襲制が あたり前に行われているが、そういう考え方は、本来の仏教には存在しない。お 想釈迦様の時代にも、大乗仏教の中にも、まったく見当たらない。日本だけのシス 神 テムなのだ。 福 る では、世襲制とは何だろうか。一つの伝統が、親から子へと連綿と受け継がれ 収ていくというそれは、皇室を見てもわかるように、まぎれもなく神道の考え方、 を 即ち「命が代々受け継がれていくことが尊い」という思想そのものの影響なので 智 ある。 る ゅ そうやって仏教もまた、働きの中の神なるものは生かされ、そうでないものは あ 章排除されつつ、日本で独自に発展していったのであった。 第 5
している。つまり、自分の内的な世界を見つめて精神的な自由と究極の幸せを得 るための宗教だと言える。だから、仏教においては命の救済という場合、本来は 自分というものの救済が主なるものとなっている。 しかし神道の場合は、個人のことよりも自分の命が先祖から代々受け継がれて きたものであること、そして、子々孫々連綿として受け継がれていくものである ことに価値を見出している。だから、お盆やお正月には先祖を祭り、迎え、その 先祖の大先祖である神様も一緒にお迎えした。これは仏教伝来以前からの日本人 るの習慣だったのである。日本に渡来した仏教は、もともと先祖崇拝の要素はほと んどなく、日本古来のそういう信仰を取り入れながら「日本型」仏教となり、 の人々に受け入れられるようになったのだ。 固 この「命」というものに対する考え方は、企業の中ではどう生かされているだ ろうか。たとえば、日本の企業は、会社が子々孫々受け継がれていくということ のを大切にするから、ゴーイングコンサーン ( 企業が存続していくこと ) に第一の 経価値を置いている。理念としては、どこの国の会計原則を見ても、ゴ 1 イングコ 章 序 ンサーンを重視すべきだとなっているだろう。しかし、日本ではそれが至上のも 7 2
では、古代から連綿と続いてきた日本文化の中心となっているものとは何だろ しん A 」 - っ う。結論から先に言えば、それは神道なのである。 鈴木大拙が、次元の高いすばらしい著作で禅を世界に紹介したことから、一時 は、日本の文化は禅だということが言われた。神は当時のカウンタ 1 ・カルチャ ヒッピ 1 運動とも結びついて、精神の自由という面から、世界的な大ブ 1 ム るを引き起こした。その後シャ 1 マニズムがプ 1 ムとなり、そこから神道が注目さ れるよ、つになる。 文 の 近年はアメリカやイギリスの学者が別な角度から神道に注目している。たとえ 有 固 ば仏教は、インドで起きたものだが、インド仏教と、中国仏教と、日本仏教とは 違うものだ。あるいは儒教にしても、中国型の儒教と、韓国型の儒教と、日本型 景 のの儒教とは明らかに違う。そうした「日本型」なるものとは何なのかということ 経を考えたとき、有史以前からずっと続いている日本古来の神道というものが、そ 序の根幹にあるということに行き着いたのである。神道と結びついている部分があ 「日本型」とは何か ? 2
割の中に神性を見出して尊いと感じる。それが日本人なのだ。 儒教の中にも神なる部分を見出す。しかし、神なるものに合わない部分は、ち ゃんと排除する。 仏教に対しても同じである。奈良時代に「僧尼令」という、お坊さんと尼さん に関する法律があった。これが面白いことに、お寺の中にいて布教するのはよい ばっしよう が、寺を離れ、野山を跋渉 ( 山野を歩き回ること ) して悟りを開こうとするの はダメだと禁じられているのだ。 しかし、仏教とは本来出家主義であり、出家をして悟りを開くのが本来の姿で ある。寺で定住して生活させ、離れるのを禁じるというのでは、出家の本義に反 すると言えよう。つまり出家することを否定しているのも同然で、それは本来の 仏教のあり方ではない。 だが、日本の感覚では、むしろそうでない方がよいのだ。自分の悟りがどうの こうのと言って野山をうろっくよりも、働きの中に神を見出し、きちんとミコト モチとしてコミュニテイやその代表者たるオオミコトモチの発展のために生きる べきだ、という考えなのである。
「自然発生的に生まれてきた古来からの宗教」だろう。第一、うちは仏教だと言 っても、そもそも日本の仏教は、土着の信仰である神道的宗教観の上に吸収され、 成り立っているのである。 したがって、仏教信仰は神道を駆逐する形で定着したのではなく、神道のフィ 1 リングをベ 1 スに置きながら、その上に吸収される形で普及していったのだ。 現在の日本文化は、そういうふうにして構築されてきた。確かに一見すると、 いろんな文化がこの小さな国土の上に混沌として存在しているように見えるが、 実際にはそれらの根底には神道のフィ 1 リングが脈々と波打っていて、ある種の 統一性が保たれている。 経済もまたしかり。日本人は資本主義という外来の経済システムを受け入れつ そしやく つ、私たちの心に内在する神道のフィ 1 リングによって咀嚼し、日本独特の繁栄 へと結び付けることに成功してきたのだ。 したがって、外国の方がいくら目を皿のようにし、頭をひねって日本経済の謎 を探ろうとしても、システムばかりを見ていたのでは充分な理解を得ることは難 しいはずだ。その本質に内在する神道的フィ 1 リングを理解することができれば、
ひと言で言えば、それは神道である。 誤解しないでいただきたいが、私は軍国主義者でも右翼思想家でもない。私か 一一「ロうのは、軍国主義にゆがめられた神道ではなく、それ以前にあったもっとナチ ュラルなものだ。その本質とすぐれた特質は、おいおい述べていくことにしよう。 ともあれ、日本という国の文化は、本質的に神道の考え方がべースとなって成 り立っている。アメリカやヨ 1 ロッパの国々が、キリスト教の思想をベ 1 スに成 想 り立っているように、である。 神 「いや、うちは代々仏教だ。神道なんか知らない」と言う人は多いと思うが、神 福 道は一宗一派の宗教として存在しているのではない。 る す 収 もともと仏教渡来以前は、神道という言葉さえなかったのだ。誰もが普遍的に を抱いているク日本人の感性やク古代の人々の考え方気昔からの「カンー「コ ツ」「胆」の民族的特性そのものでしかなかった。宗教以前の人生観、生命観、 る ら自然観として、日本人の感性の中に連綿と受け継がれてきたものだった。それが、 仏教が入って来たときに、区別する意味で、道教の言葉を借りて神道と名付けら 章 第れたのであって、普通に一言う「宗教」とは意味が違っていた。もし言、つのならば、 9 3
神道と仏教のつながり、神道と儒教のつながり、あるいは、老荘思想もそうだ。 道教というのは、公的に日本に入ってきたものではないが、御札や行法などの形 で神道の中にいろいろ取り入れられている。神道と老荘思想、神道と中国文化、 神道とヨーロッパ文化、神道と科学文化、そうしたいろいろなものとの結びつき を見ていかないと日本文化の特性である神道の精神は見えてこないだろう。 日本人はさまざまな文化を吸収してきたが、その全てを取り入れたわけではな かんがん い。たとえば、これほど大きく中国文化の影響を受けながら、纏足や宦官制度は 入れなかった。儒教を吸収しても、孟子の革命思想は入れなかった。日本古来の あ 考え方、感性に基づいて、何を取り入れて何を取り入れないかを自然に選別して 文 の きたのである。そのようにして、全て「日本型」に直してきたのだ。 有 固 だから、仏教と結びついても本来の文化を失わずに仏教と共存し、儒教を受け 入れながらも儒教と共存することができたのである。その文化の連続性を中心に 背 の 担っていたのが神道の精神である。 済 経 章 資本主義にしても、欧「的な考え方の全てを取り入れたわけではなく、合わな 序 いところは選別しているつまり、日本型の資本主義なのである。だから神道と てんそく 2
テスタンティズムが資本主義を形成したと分析しているが、日本型の資本主義と いうのはキリスト教的ではなく神道的である。 松下幸之助氏に限らす、経営者には深い信仰心を持っている人が多い。西武グ ループをつくった堤康次郎氏は箱根神社の熱心な崇敬者で、出光石油 ( 現・出光 興産 ) をつくった出光佐三氏は熱心な宗像大社の崇敬者だ。京セラの稲盛和夫さ んは、生長の家の『生命の実相』を熟読しているし、土光敏夫さんは、生前、法 華経を熱心に信仰していたことが知られている。また、協和発酵の創立者、加藤 みたらい 辨三郎さんは熱心な在家仏教の推進者として知られ、キヤノンの御手洗冨士夫さ んも熱心な観音崇敬者であった。キヤノンという社名は、カンノンから来ている というのは有名な話だ。その他にも、無数に居るが、エスエス製薬やアキハバラ デパ 1 ト ( 現在は閉店 ) 、泰道繊維 ( 後に倒産 ) を創立した泰道照山 ( 旧名三八 ) は、「財界の怪物」と言われ、彼は普段は丸坊主で、大し。、冫 、こ酉を飲み、僧籍を取 得して照山と名乗った。書もまた品があり、抜群の能筆家でもあった。 こうして優れた経営者が信仰しているのは、仏教でも、神道化された日本型の 仏教である。つまり、神道的なものを意識的にしろ無意識的にしろ精神の奥、ス 3