優秀な経営者というのは、皆役者さんである。盛り上げるときには盛り上げる し、憮然とするときには憮然とし、グワア 1 ッと怒っているかと思ったら と普通に変わる。面の付け替えをしないと、人というのは育成できないのだ。 それから資金調達。銀行にお金を借りに行くときは、どんなに経営が悪化して いても、当然自信満々という面を付けて行かなくてはならない。税金対策は、 「先生、先生 . と言って、税理士や公認会計士の顔を立てながら、決して言うこ とを鵜呑みにしない。まさかの時に責任を取るのは自分であり、税理士が責任を とってくれるわけではないのだ。だから、自分も勉強し、税理士と丁々発止とや りあって、お互いの全知全能を絞り出す。 全ては面の付け替えなのだ。猿田彦様のように演技をして、ドラマを組み立て て、盛り上げるときには盛り上げる。苦しくても笑い飛ばす。ときには泣き落と す。 もうお気づきだと思うが、この発想は第一章で紹介した七福神の思想と表裏の 関係にある。外国の神様だろうが何であろうが、福をもたらしてくれるならば、 全て受け入れてしまおうという七福神思想。これを外に向けて作用させると、
はなく、もっと目に見えない本質を見ていこう、というのが宋代になっての儒教 の反省だった。それで、この頃の儒家思想を宋学、あるいは理学と呼んでいるの である。 宋学を始めたのは周濂渓、そして程明道、程伊川の兄弟、張黄渠といった方々 である。彼らは「静を主として人極を立つる . と言った。何が何でも仁・義・ 礼・智・信を実践しなければいけないのだ、と思っていると、いつも心の中がそ 想の思いに縛られて、ついつい形式張った考え方になってしまう。心にいつも波風 神 が立っている。そういう「ねばならない」という強迫観念にとらわれずに、自然 な心で仁・義・礼・智・信を実践している状態が望ましいのだ、というのである。 す 収 宋の時代と明の時代は、儒教と仏教と老荘思想が、うまくミックスされた時代 吸 である。だから、そういう老荘的、禅的な境涯が提唱されたのだろう。 「静を主として人極を立つる」の静とは、おのずから出て来るところの静かなる らもの。それを主として、人倫の道の極を立てようと周濂渓が提唱して、それを程 章明道、程伊川、張黄渠が受け継ぎ、朱子がまとめたのである。ところが、朱子が ちぎようごういっ 第あまりにも理に行き過ぎていたため、もっと知行合一、道学一体であるべきだ
ひと言で言えば、それは神道である。 誤解しないでいただきたいが、私は軍国主義者でも右翼思想家でもない。私か 一一「ロうのは、軍国主義にゆがめられた神道ではなく、それ以前にあったもっとナチ ュラルなものだ。その本質とすぐれた特質は、おいおい述べていくことにしよう。 ともあれ、日本という国の文化は、本質的に神道の考え方がべースとなって成 り立っている。アメリカやヨ 1 ロッパの国々が、キリスト教の思想をベ 1 スに成 想 り立っているように、である。 神 「いや、うちは代々仏教だ。神道なんか知らない」と言う人は多いと思うが、神 福 道は一宗一派の宗教として存在しているのではない。 る す 収 もともと仏教渡来以前は、神道という言葉さえなかったのだ。誰もが普遍的に を抱いているク日本人の感性やク古代の人々の考え方気昔からの「カンー「コ ツ」「胆」の民族的特性そのものでしかなかった。宗教以前の人生観、生命観、 る ら自然観として、日本人の感性の中に連綿と受け継がれてきたものだった。それが、 仏教が入って来たときに、区別する意味で、道教の言葉を借りて神道と名付けら 章 第れたのであって、普通に一言う「宗教」とは意味が違っていた。もし言、つのならば、 9 3
えるだろ、つ。 第一章でも述べたように、多神教である神道の特徴は、資本主義、共産主義、 マルキシズム、仏教、儒教、ハイテクノロジ 1 等々、どんなものからも素早く本 質をとらえることができる点にある。イデオロギ 1 が問題なのではない。思想な り概念なりが、只今のこの時に、我々の生活の中で実際に生きていればよい。 多 神教だからこそ、非常にフレキシプルな思考ができるのであり、良いものは積極 的にどんどん吸収していこう、只今の生活に生かしていこうという、エネルギッ シュな取り組みができるのである。 以上のように「中今の思想」「生成化育進歩発展の思想」「天皇の存在感」とい う三つの骨子が、日本において神道精神と企業経営を結びつけている特徴なので ある。 たとえ、壁にプチ当たって企業が倒産したとしても、その後で再生する力の方 が大 tJ け・ればよい。 失敗の数を数えるより、成功の数を数える方が尊いわけだ。 景気の良いときには外に向かって発展していくが、不景気になると何もかもが袞 退するというのでは、神道の精神にふさわしくないのである。 わ 6-
うとしているから、これも一即多であると言えるだろう。 びしけん 三つ目は多神教である。私が所長を務めている菱研 ( 経営コンサルティング会 社 ) で、『歴史の終わり』などの名著で知られるフランシス・フクヤマ先生をシ ンポジウムにお招きした折り、 「タオイズム ( 道教 ) と神道はどう違うんだ。よく似ているじゃないかー という質問を受けたことがあった。私がかって副会長を務めていた神道国際学 想会のロンドン大学でシンポジウムを開いた時も同じことを聞かれた。 道教と神道の違いはどこかというと、天という一つの概念で全てを説明してい 七 こうというのが道教である。これはきわめて中国的な発想であり、儒教でも老荘 る 収思想でも天の思想がもとになっている。 を 天を統括しているのは、天の天帝。北極星がそうだと言われている。それがオ 智 1 ルマイティな概念として働いていく。したがって道教は一即多的な思想なので る ゅ らある。 たかあまはら あ 日本の神道の場合はそうではない。「天。という概念に近い「高天原」も、「中 章 ねかたすくに よみ 第津国」や「黄泉の国、や「根の堅州国」などと考えられた所と相対的にとらえら 7 5
このように日本人は、海の彼方から来るものは神なるものなんだと思ってきた。 だから、恵比寿 ( 戎 ) 様が「外国の , という意味だというのも、尊いものは海の 彼方からやって来るというような、日本人の一つの信仰形態を表わすと言われて いる 、ものはいいじゃな とにかく、出身がインドであろうと、中国であろうと、いし いか、というのが日本人の信仰形態なのである。宗教的なアイデンティティの差 だとか、宗教教理の論理性などもあまり関係がない。 想 神 仏教だろうが、儒教だろうが、老荘思想だろうが、いろいろな外国の素晴らし 福 いものをそれぞれ福の神と考え、一つの船に仲良く乗せて拝んでいる。これが七 る 収福神の思想であり、神道の一つの本質なのである。 を 智 神道は汎神論ではない ゅ あ 神道の本質については、いろいろな学説が出ている。たとえば、神道とは統率 第のとれた多神教である、という学者がいる。また、いろいろな神道の祭礼の方式 7 /
一般の日本経済論とはまた違った形で、より深い理解が生まれると思うのである。 日本経済の特徴は七福神の思想 では、どんな形で神道的フィーリングが日本経済に影響を与えているのか、具 体的に述べていこう。難しい話を始めたらきりがないが、最も基本的な部分をわ かりやすく一言うなら、ますは七福神の思想である。これについては、別の機会に 想 襯さらに詳しく説明するつもりだが、日本経済を語るためには欠かせない要素なの 七 で、この本でも触れさせていただく。 る す 収 七福神は家運隆昌、商売繁盛の縁起物として、置物になったり、絵に描かれた 吸 を りして今も庶民に愛され続けているので、知らない人はいないだろう。七人の福 智 の神が一艘の宝の船に乗り込んで、みんな楽しそうに笑っている。そして、私た る らちに七つの恵みを運んでくださるのだ。 それが経済とどう関係あるのかを述べる前に、まず七人の福の神をお一人ずつ 章 第紹介しよう。
日本経済の深奥に流れる神道の精神については、これまでの説明でご理解いた だけたと思う。この章ではそれをさらに発展させて、神道の精神を会社経営にど う具体的な形で反映させていくかという神道経営論を、三つの要因に絞り込んで びしけん 述べていくことにしよう。この章の内容は、かって菱研で行った「英語セミナ ( 英語圏の方を対象に、私が英語で日本経済について語るセミナ 1 ) で話し たのだが、 何人もの外国の方に「なるほど」と納得していただき、ご賛同をいた だいたものである。 まず第一に来るのが「中今の思想」 ( ペ 1 ジ参照 ) である。 我々は、今という瞬間の中にしか生きることができない。今に生きているとい うこと自体が、何ものにも替え難いほどに尊いと神道では考える。今に生きると は、つまり日々の生活の中を生き貫くということである。仏教のように、世俗か ら脱して悟りの境地に上りつめようというのではなく、日々の生活を生きる行為 そのものを尊ぶのである。 「中今の思想」が企業の発展力を生む 7 00
いろんな国の福の神を一つの船に乗せて拝む : : : 菊 神道は汎神論ではない : 日本人は神の宿る場所を選んで祈る : : : 多神教が神道の本質・ : あらゆるものの働きの中に神を見出すのが神道・ : 禅や阿弥陀信仰が日本に定着した理由 : 神道と儒教が日本で結びついた : 日本の儒教は革命思想を拒否した : 一人ひとりが命を持って生まれてきている : : : 間 日本人は腹の底でコミュニティに役立ちたいと思っている : : : 肥 世襲制は日本の伝統 : 天皇は本家、国民は分家・ : みこと
日本文化の中心に流れる思想とは 最近では、経済学者による日本文化論もあれこれと出ているが、そんな中に今 さら私がノコノコと出て行って、同じ内容をただ言葉を替えて主張したところで 意味はない。本書では、他の人があまり顧みなかった視点から、なぜ日本が繁栄 してきたのかという秘密を論じてみようと思う。序章で、特に大事な部分の幾つ かにはかいつまんで触れてきたので、重複する部分も出てくるが、ご了承いただ きたい。 一国の経済活動の背後には、その国特有の文化のあり方が影響を及ばしている。 日本文化の特色については、既に色々な方が語っているわけだが、では、その中 心を成すものといったら何だろうか。文化に中心なんかないと思う方もいるかも しれないが、私はあると考える。日本の神や茶道・華道、「わび」「さび」「もの のあはれ。「をかし」「幽玄」「まこと」などに代表される繊細な感覚はもとより、 さまざまな日本文化の根底に流れ、日本人の行動原理・心理や国民性の原点を育 んでいるものがあると思うのだ。 8 3