うとしているから、これも一即多であると言えるだろう。 びしけん 三つ目は多神教である。私が所長を務めている菱研 ( 経営コンサルティング会 社 ) で、『歴史の終わり』などの名著で知られるフランシス・フクヤマ先生をシ ンポジウムにお招きした折り、 「タオイズム ( 道教 ) と神道はどう違うんだ。よく似ているじゃないかー という質問を受けたことがあった。私がかって副会長を務めていた神道国際学 想会のロンドン大学でシンポジウムを開いた時も同じことを聞かれた。 道教と神道の違いはどこかというと、天という一つの概念で全てを説明してい 七 こうというのが道教である。これはきわめて中国的な発想であり、儒教でも老荘 る 収思想でも天の思想がもとになっている。 を 天を統括しているのは、天の天帝。北極星がそうだと言われている。それがオ 智 1 ルマイティな概念として働いていく。したがって道教は一即多的な思想なので る ゅ らある。 たかあまはら あ 日本の神道の場合はそうではない。「天。という概念に近い「高天原」も、「中 章 ねかたすくに よみ 第津国」や「黄泉の国、や「根の堅州国」などと考えられた所と相対的にとらえら 7 5
をすると、すぐにやられてしまう。 だから、経営というのは精進努力を絶やすことはできないのである。小なりと ハラン それだけの精神力と精進と、 言えど利潤を上げ続けている経営者は偉い。 スの取れた物の考え方と、事業の進め方ができているということだ。どこかが偏 っていると、いびつになって収益性に跳ね返ってこないものだ。 優秀な企業、即ち生成化育進歩発展している会社の経営者に共通して言えるこ とは、まず第一に自分の仕事に誇りを持っているということである。何の業種で も、今自分のしている仕事を「これが俺の天職だ " " ーと確信しているのだ。天職 であるかどうなのか、もっと違う仕事のほうが向いているのではないか、という 迷いが、人間の仕事の能力、集中力、没入力を弱くしている場合が多い。 次に言えることは「世のため人のため」と考えていることだ。これは言い方を 変えれば「お客様第一主義」の精神と一言うことができる。 「お客様は本当に喜んでくれているだろうか」「お客様は何を求めているのだろ 、つか」 常にそう考えていれば、おのすと愛と真心が入ってくる。奉仕の精神というこ 792
『古事記』の中に、天照大御神が弟神の須佐之男命の乱暴に怒り、天の岩戸に たかまがはら 隠れてしまったという、いわゆる「岩戸開き神話」が登場する。そのとき高天原 の神々は、皆で集まって、どうしたらいいだろうと解決策を話し合った。その結 果、良いアイデアが浮かび、神々が一致協力して計画を実行したため、無事に天 照大御神は岩戸の中から姿を現すのである。 つまりこれが、「衆知を集める」ということなのだ。日本では、神代の昔から 神々もこれを良しとしていたのである。 論何か問題が起きたとき、西洋の場合は各自が自分で考えて、「私はこう思う」 ダ ということを主張する。それに対して日本人の場合はどうかと言えば、ちょっと 身の周りを観察したらすぐわかる。何かあれば、すぐに皆で集まって、ああでも ぶ 学 ない、こうでもないと、話し合いを始めるのである。それも、問題が起きてから 神 精時間を置かず、すぐに寄り合いが開かれる。 これはもう、天の岩戸開き以来の、先祖から伝わる伝統的な習慣である。松下 和 さんが「衆知を集める。というのを、日本文化の特色の最初に置いたのは、先祖 章 第伝来の本能的な日本人的メンタリティを、氏がいかに豊富に受け継いでいるかを ノイ 5
割の中に神性を見出して尊いと感じる。それが日本人なのだ。 儒教の中にも神なる部分を見出す。しかし、神なるものに合わない部分は、ち ゃんと排除する。 仏教に対しても同じである。奈良時代に「僧尼令」という、お坊さんと尼さん に関する法律があった。これが面白いことに、お寺の中にいて布教するのはよい ばっしよう が、寺を離れ、野山を跋渉 ( 山野を歩き回ること ) して悟りを開こうとするの はダメだと禁じられているのだ。 しかし、仏教とは本来出家主義であり、出家をして悟りを開くのが本来の姿で ある。寺で定住して生活させ、離れるのを禁じるというのでは、出家の本義に反 すると言えよう。つまり出家することを否定しているのも同然で、それは本来の 仏教のあり方ではない。 だが、日本の感覚では、むしろそうでない方がよいのだ。自分の悟りがどうの こうのと言って野山をうろっくよりも、働きの中に神を見出し、きちんとミコト モチとしてコミュニテイやその代表者たるオオミコトモチの発展のために生きる べきだ、という考えなのである。
機会に詳述することとしよう。 日本人は戦争の痛手をも水に流した 日本はかって戦争に負けた。終戦直後、国民が深い心の痛手と明日をも知れぬ 生活の不安に脅かされていたときに、昭和天皇は全国を回られて「頑張りましょ う」と励まされた。その言葉から、どれほど多くの国民が奮い立ったかわからな 。日本人の誰もが、必ずや近い将来に国を復興させようと、切実に心に誓った。 きようじゅ その結果、我が国は戦後、目覚ましい発展を遂げ、未曾有の繁栄を享受するに 至ったのである。 しかし、戦後から半世紀以上を過ぎた今日でも、韓国、中国、ヨ 1 ロッパなど で、日本人が冷遇非難されることも珍しくない。パ リのとある果物屋で「日本人 には売らないよ。ドイツと同盟を結んでいただろう。私のおじいさんはドイツ人 に殺されたよーと言われた日本人がいたそうである。 先日、ある中国の方とお会いした。この人は「日本人には負けない」「日本は みぞう 〃イ
を下げて、 「すみません、待ってください と頼むしかない。 ただし、同じ待ってもらうのでも相手によって面を付け替える必要がある。そ れをどう演じきれるかが、経営者の度量なのである。 ます、大家さんに対しては低姿勢ながらも卑屈にならず、 「ちょっとお家賃のほう待っていただけないでしようか。この不況ですので。す ぐに回復するメドもたっていますので、今月はちょっと と低姿勢ながらも卑屈にならすに言わなければならない。そのように言えば二 カ月くらいは何とかなる。 あるいは「取り込み詐欺に遭いまして」、「泥棒に入られまして」と、何らかの 言い訳をしてもよい。「私は嘘などっけません」と言う方がいるかもしれないが、 言い訳もせず相手に不安を与えつばなしにしておく方が、よほどひどいと私は思 う。相手に不安を与えないというのは大いなる愛なのである。 従業員に対しては、内情をある程度説明して、 78
ほていさま 次に布袋様。お腹の大きな神様で、布袋腹という言い方はここから来ている。 布袋様は背中に袋を背負 0 ている。中には何が入 0 ているかというと、実は「い ろんな人の言い分」が入っている。 「あんたはこう言いたいのか、ほう、そ 0 ちはこう言いたいんだな、わか 0 たわ か 0 た」と言 0 て袋に詰め込み、軍配を掲げていら 0 しやる。相手の言い分を充 分に聞いた上で、こ 0 ちが正しい、あ 0 ちが間違 0 ていると大きな胆にポーンと 納め、軍配によって正しい裁きを行うのである。 ふくろくじゅかつぶく 次に福祿寿。恰幅よく、帽子をかぶ 0 ている神様である。福祿寿の福とは幸運 みろく のこと、祿はお金、寿は寿命のことである。弥勒菩薩の佖身とも言われている。 つまり、あらゆる恵みを与えてくださる神様なのだ。 最後に紹介するのが、おでこの長いことで知られる寿老人。おでこの長さは知 恵があるということである。この神様は節約の神様であり、眷属 ( 血筋のつなが った一族 ) に鹿がいるが、あれは食欲、性欲、睡眠欲、金欲などの欲を節約する ことにより、鹿の如くに精力と気力を発揮して、長寿を全うするという暗一小であ る。また、知恵があるからこそ、物事を進めていく上において、頭を下げること
じゅそ 中国にひどいことをした」というようなことを、事あるごとに呪詛 ( のろい ) の ように繰り返す。終戦直後の話ではない。今でもそうなのである。 私は戦争が残した爪跡を見たような気がしたが、と同時にその人にこうひと言 言ってみた。 「そういう中国も、蒙古襲来のときにはずいぶんと日本を、ひどい目にあわせた じゃないですかー 意 極 「えつ、蒙古襲来ですか ? 」 の 論 「そうですよ、十四世紀、元の時代に日本に攻めてきたではないですか」 営 経 「いや、元は本来、モンゴルから出た王朝で、中国ではない」 型 本 「しかし、元帝国の人のほとんどは中華民族だったし、今は内モンゴル自治区を る せ つくって中国の一部にしてるじゃないですか」 展 その人は「う 1 んーとうなってしまった。私が何を言いたかったのかというと、 発 業過去にこだわり始めればきりがないということだ。戦争を仕掛けたのはそっちだ、 いやそっちが先だと、歴史年表を片手に言い争っても虚しいだけである。 章 第 日本人は、あまり過去にこだわらないという性質を持っている。それは、只今 〃 5
日本の儒教は革命思想を拒否した そして、儒教をもっとも神道的に咀嚼した結果として、儒教に含まれる革命思 想を捨て去ったことが挙げられる。革命思想は、四書五経の中の『孟子』に登場 する。斉の宣王が孟子に聞いた。 「あなたの奉じる儒教では、自分の君主がどうしようもないやつだからというの たた で、ク 1 デタ 1 を起こして殺害し、政権を奪った湯王・武王を、名君として称え ている。儒教は仁・義・礼・智・信を説いているはすなのに、桀王を討った湯王 や紂王を討った武王を評価するのはどういうわけだ」 孟子は悪びれる風もなく、こう答えた。 「ああ、古の儒教に生きる人たちは、一度も君主をあやめたことはありません。 ところで、仁や義にもとる人物はこれを一夫と言いますが、一夫の紂という者を 討ったとは聞いています。しかし、君主をあやめたことはありません」。 はっきり言って、孟子のこの答えは詭弁である。日本人の感性には合わないの だ。昔から『孟子』を日本に運んで来る船は、必ず沈没したと言われるくらいに、
は非常に忘れつほい民族だと言われているが、そうではない。むしろ、只今を生 きることを第一に考える民族だと一言うべきなのである。 失敗は神の与えてくれた試練だと考える びし 私は株式会社菱法律経済政治研究所 ( 菱研 ) という経営コンサルティングの会 意 極 社の所長を務めているが、そこに相談にいらっしやる企業の経営者が、「昨年は の 論売上が落ちてしまった」と、目先のことに一喜一憂するのを見ていると、ついこ 経 う言ってあげたくなる。 型 本 「社長、昨年の売上が落ちたことは、それはそれでいいじゃありませんか。今年 る せ いかに売上を伸ばし、どう利益を確保するべきかを考える方が大事です。とにか 展 く目の前の仕事を頑張りましようよ」と。 発 を 業 三年前の業績の悪化を云々して、「あれは君が原因だよ」と、しつこく社員に 企 迫ってくる経営者もいると聞くが、そういうのは論外である。 章 赤字で銀行からも融資を止められる。しかし、税務署から税金の支払いだけは