神道と仏教のつながり、神道と儒教のつながり、あるいは、老荘思想もそうだ。 道教というのは、公的に日本に入ってきたものではないが、御札や行法などの形 で神道の中にいろいろ取り入れられている。神道と老荘思想、神道と中国文化、 神道とヨーロッパ文化、神道と科学文化、そうしたいろいろなものとの結びつき を見ていかないと日本文化の特性である神道の精神は見えてこないだろう。 日本人はさまざまな文化を吸収してきたが、その全てを取り入れたわけではな かんがん い。たとえば、これほど大きく中国文化の影響を受けながら、纏足や宦官制度は 入れなかった。儒教を吸収しても、孟子の革命思想は入れなかった。日本古来の あ 考え方、感性に基づいて、何を取り入れて何を取り入れないかを自然に選別して 文 の きたのである。そのようにして、全て「日本型」に直してきたのだ。 有 固 だから、仏教と結びついても本来の文化を失わずに仏教と共存し、儒教を受け 入れながらも儒教と共存することができたのである。その文化の連続性を中心に 背 の 担っていたのが神道の精神である。 済 経 章 資本主義にしても、欧「的な考え方の全てを取り入れたわけではなく、合わな 序 いところは選別しているつまり、日本型の資本主義なのである。だから神道と てんそく 2
テスタンティズムが資本主義を形成したと分析しているが、日本型の資本主義と いうのはキリスト教的ではなく神道的である。 松下幸之助氏に限らす、経営者には深い信仰心を持っている人が多い。西武グ ループをつくった堤康次郎氏は箱根神社の熱心な崇敬者で、出光石油 ( 現・出光 興産 ) をつくった出光佐三氏は熱心な宗像大社の崇敬者だ。京セラの稲盛和夫さ んは、生長の家の『生命の実相』を熟読しているし、土光敏夫さんは、生前、法 華経を熱心に信仰していたことが知られている。また、協和発酵の創立者、加藤 みたらい 辨三郎さんは熱心な在家仏教の推進者として知られ、キヤノンの御手洗冨士夫さ んも熱心な観音崇敬者であった。キヤノンという社名は、カンノンから来ている というのは有名な話だ。その他にも、無数に居るが、エスエス製薬やアキハバラ デパ 1 ト ( 現在は閉店 ) 、泰道繊維 ( 後に倒産 ) を創立した泰道照山 ( 旧名三八 ) は、「財界の怪物」と言われ、彼は普段は丸坊主で、大し。、冫 、こ酉を飲み、僧籍を取 得して照山と名乗った。書もまた品があり、抜群の能筆家でもあった。 こうして優れた経営者が信仰しているのは、仏教でも、神道化された日本型の 仏教である。つまり、神道的なものを意識的にしろ無意識的にしろ精神の奥、ス 3
えるだろ、つ。 第一章でも述べたように、多神教である神道の特徴は、資本主義、共産主義、 マルキシズム、仏教、儒教、ハイテクノロジ 1 等々、どんなものからも素早く本 質をとらえることができる点にある。イデオロギ 1 が問題なのではない。思想な り概念なりが、只今のこの時に、我々の生活の中で実際に生きていればよい。 多 神教だからこそ、非常にフレキシプルな思考ができるのであり、良いものは積極 的にどんどん吸収していこう、只今の生活に生かしていこうという、エネルギッ シュな取り組みができるのである。 以上のように「中今の思想」「生成化育進歩発展の思想」「天皇の存在感」とい う三つの骨子が、日本において神道精神と企業経営を結びつけている特徴なので ある。 たとえ、壁にプチ当たって企業が倒産したとしても、その後で再生する力の方 が大 tJ け・ればよい。 失敗の数を数えるより、成功の数を数える方が尊いわけだ。 景気の良いときには外に向かって発展していくが、不景気になると何もかもが袞 退するというのでは、神道の精神にふさわしくないのである。 わ 6-
が、資本主義発展のバックボ 1 ンになっていたのだ。 ところが、日本には罪を背負うという意識が薄い。罪を犯してもそれは穢れが 生じたとい、つことであり、穢れたものは洗濯してきれいにしたら終わりだ、と、 う感覚なのである。罪はその言葉のとおり積み重なったものなのだから、きれい に祓ってしまえばそれですむじゃないかと考えるのである。 つまり、穢れがあればきれいにして、いつまでも過去を気にせず中今に生きる。 神 の労働も中今において生成化育発展するためのものであり、労働観がきわめて明る 国 い。つまり、日本人にとって労働とは、ミコトモチたる自分の使命を全うするた 大 る めのものだから、喜びなのだ。 え 越 ここがわからないと、日本文化の本質も、また日本経済発展の秘密も、理解で を きないのである。 チ の 済 負けても負けても立ち上がる大国主となれ 経 章 第穢れという概念について、もう少し話を進めてみよう。 7
「自然発生的に生まれてきた古来からの宗教」だろう。第一、うちは仏教だと言 っても、そもそも日本の仏教は、土着の信仰である神道的宗教観の上に吸収され、 成り立っているのである。 したがって、仏教信仰は神道を駆逐する形で定着したのではなく、神道のフィ 1 リングをベ 1 スに置きながら、その上に吸収される形で普及していったのだ。 現在の日本文化は、そういうふうにして構築されてきた。確かに一見すると、 いろんな文化がこの小さな国土の上に混沌として存在しているように見えるが、 実際にはそれらの根底には神道のフィ 1 リングが脈々と波打っていて、ある種の 統一性が保たれている。 経済もまたしかり。日本人は資本主義という外来の経済システムを受け入れつ そしやく つ、私たちの心に内在する神道のフィ 1 リングによって咀嚼し、日本独特の繁栄 へと結び付けることに成功してきたのだ。 したがって、外国の方がいくら目を皿のようにし、頭をひねって日本経済の謎 を探ろうとしても、システムばかりを見ていたのでは充分な理解を得ることは難 しいはずだ。その本質に内在する神道的フィ 1 リングを理解することができれば、
ではなく、仏教に対する自説まで唱えているのである。まさに抜群の解釈力だと 言っていいだろ、つ。 儒教に関して力を発揮したのは、江戸時代の日本の儒家たちだった。前述した 如く、伊藤仁斎、東涯親子、及び荻生徂徠の儒教に対する解釈は、中国に逆輸入 されたほどで、当時の文献にもちゃんと残っている。 マルキシズムについても同じだ。字野弘蔵先生 ( マルクス経済学者。字野学派 の代表とされる ) の論考によるマルクスの『資本論』の解釈は、世界一だと折り 紙を付けられている。おそらく欧米諸国では、もう誰も顧みないだろう『資本 論』の研究を、日本では細々とでも受け継いで続けている。なぜなら、『資本論』 の中に、資本論大神とでも呼ぶべき神様の働きを見出しているからである。変な 神様ではあるけれども、昔は活躍した神様として、大切に残しているのである。 ヨーロッパ文化もアメリカ文化も全て神様 岡倉天心が『東洋の理想』という著書の中で、日本は世界文化の博物館だ、と 2
中小企業が支える日本経済の屋台骨 これまでの章では、日本経済発展の秘密が、神道の考え方をベ 1 スとした固有 の文化にあることをさまざまな角度から検証してきた。この章では少し角度を変 えて、その進歩発展の法則を実際の経営に積極的に取り入れる方法を、私の経験 に即してご説明しよ、つ。 発展を続けてきた日本の企業も、現在は厳しい状況に置かれている。景気はよ うやく上向きかけたとは言え、企業の体力が完全に回復するまでにはまだしばら くの時間がかかるだろう。この稿を執筆している現在、円高の傾向は多少おさま っているものの、本来あるべき値以上の高値に円が安定してしまった感は否めな い。輸出をメインとした中小企業が大ダメ 1 ジを受けたところへ、外国企業から の攻勢は容赦なく押し寄せ、内外の大規模な資本がさまざまな業種に触手を伸ば している。このような状況の中で、資本の乏しい中小企業はますます厳しい現実 を強いられていると言えよ、つ。 中小企業とは、資本金三億円未満または従業員三百人未満の法人企業をさす。 ノ 58
欧米人でもアラブ人でもそうだが、自分の主体性を持っていると、その主義主 張だけを強く押し出して、他人の知恵に謙虚に耳を貸そうとしないところがある。 だから、自分のそれまでの価値観の中にないものは、徹底的にポイコットするの 逆に、他国の文化が入って来ると、あたかもそれを受け入れることが文化的敗 北であるかのような拒絶反応を示す。その中にある優れた発想や知恵を、積極的 に学び取ろうとはなかなかしない。外国における日本との貿易摩擦や文化摩擦は、 こういうところにも原因の一つが考えられる。 論 ダ では、日本はどうなのかと言えば、他国の知恵をいくら集めたからと言ったっ ろんな色に染まっているように見えても、 て、自国の主体性を失うことはない。い ぶ 学 日本文化のアイデンティティそのものは、絶対に持ち続けている。 神 精 他国の文化を取り入れたからといって、日本人はそれを敗北だ、屈辱だとは受 の け取らない。自分たちの文化に新しい彩りが加わったのだ、というぐらいに考え 和 ているのだ。そしていっしかそれを消化吸収し、平然と日本文化の一部に収めて 章 第しまうのである。 7 イ /
レキシプルにあらゆるものを吸収できるのである。 なかいま 神道には「中今の思想」というのがある。昔のことにこだわらず、今の中に生 きていることが尊いという考え方だ。 そこから、命 ( ミコト ) の解釈も生まれてくる。昔は昔、今は今、今の中にい ることが尊い。したがって、人生の目的であるミコトを持って生まれてきた自分 か、いかに今の時代や社会の生成化育の中に命を役立てていくか、という人生観 が生まれるわけである。 これにともなって出て来る考え方に、穢れというのがある。天津罪や国津罪を 犯すことによって、穢れが生じてしまう。神道ではこれをとても嫌うのだ。 だが、これはキリスト教で一言うところの罪という概念とは、大きく異なる。キ リスト教ではもともと人は罪人だということになっている。その原罪をとにかく 早く清算した方がいいからというので、労働を行う。労働は人間が犯した罪への 罰なのだ。だから、労働することは苦しくて辛いことだと、キリスト教徒は考え ている。そして手にした資本は、もっと発展的に苦しみながら罪を祓うために、 次の労働のために使おう、ということになるのである。このプロテスタンチズム
ひと言で言えば、それは神道である。 誤解しないでいただきたいが、私は軍国主義者でも右翼思想家でもない。私か 一一「ロうのは、軍国主義にゆがめられた神道ではなく、それ以前にあったもっとナチ ュラルなものだ。その本質とすぐれた特質は、おいおい述べていくことにしよう。 ともあれ、日本という国の文化は、本質的に神道の考え方がべースとなって成 り立っている。アメリカやヨ 1 ロッパの国々が、キリスト教の思想をベ 1 スに成 想 り立っているように、である。 神 「いや、うちは代々仏教だ。神道なんか知らない」と言う人は多いと思うが、神 福 道は一宗一派の宗教として存在しているのではない。 る す 収 もともと仏教渡来以前は、神道という言葉さえなかったのだ。誰もが普遍的に を抱いているク日本人の感性やク古代の人々の考え方気昔からの「カンー「コ ツ」「胆」の民族的特性そのものでしかなかった。宗教以前の人生観、生命観、 る ら自然観として、日本人の感性の中に連綿と受け継がれてきたものだった。それが、 仏教が入って来たときに、区別する意味で、道教の言葉を借りて神道と名付けら 章 第れたのであって、普通に一言う「宗教」とは意味が違っていた。もし言、つのならば、 9 3