教会に行くと告解室というのがあるらしい。らしいと書いたのは、ばくはクリスチャン じゃないからよくわからないのだ。とにかくあるのだ。クリスチャンの人は、そこで過去 のあやまちを神父さんに告白して、それですっきり ( するのかどうかわからないけれど ) するらしいのだが、そのあたりのことはよくわからない。まあ、ある程度は気持ちの整理 はつくのだろう。 告解室ではないが、時々それに近い人がいる。よく人にいろいろと告白されるタイプの 人だ。実はばくなんかもそれに近い。よくいろんなことを打ち明けられて、いや、凄いな あとおもうことがある。あれこれと辛かったことなどを告白されると、いちおう同情とゝ う仕種 ( これが仕種に入るかどうかわからないけれど ) をとらざるを得ない。 「いやあ、大へんだよね。まあ、そのうちいいことがあるさ」 同情は無料である。 今回は同情するという仕種に迫ってみたい。 もっともらしい表情が必要 その仕種はなかなか難しい。まず笑顔を見せてはいけない。 とされる。もっともらしい表情といっても、これがまた抽象的なものであって、したがっ て仕種というものがそこに加えられることになる。 108
鏡というものは、ある程度の容姿、容貌を映し出してくれる。そのことは確かで、顔に ついているゴミなんかや髪の乱れなどは教えてくれるけれど、顔の表情の真実となると、 ちょっと違ってくる。 みんな ( 男女を問わず ) 鏡を見て、ああ、自分はこんな顔をしているんだ、案外美人よ しつも鏡のとおりの顔はしてい ね、なんておもうかもしれないけれど、人間というのは、 ) ない。その証拠に、友人などと写した写真を見るとよくわかる。自分はもっといい顔をし ているのにとおもう。自分は写真写りが悪いとか、果てには、あの写真を写した友人は下 手くそだなんて言ったりする。 鏡を見る女性を見ていると、きまって、いつも最高の表情で見つめている。一番魅力的 な顔を鏡の前で演じている。ところが、日常でも自分はそういう顔をしているとおもって いるからそこに間違いが生じてくる。いつもはばんやりとした、無防備な表情をしている ものだ。 女性が鏡の前に立つ。まず唇をきゅっとモデルかなんかみたいにむすんでみる。じっと 瞳をうるませるようにして自分の顔を見つめる。前髪を三本くらいちょっと額にたらした りしてみてまた元にもどす。身体を左右、やや斜めにしてみたりする。両手でお尻の少し 上のあたりをさわったりして、唇を突き出したりする。鏡に顔を近づけて、左右の目尻を 両手の薬指ですっと横に引く。こんな時、別れた過去の恋人の名前を思い出したりする ( か どうかはわからないが、一瞬、そんな表情になる ) 。その後、ちょっとバッグのなかからロ
写真を撮られる時、女性たちはどんな気持ちでそれに挑むのだろうか。浅草にあるプロ マイドの老舗マルベル堂のプロマイドや雑誌のグラビアでのアイドルタレントたちの写真 を見ると、よくこんな表情ができるかとおもうほど「はいクッキ 1 焼き上り」といった顔 で写っている。 ばくはばんやり顔で一人旅をしているせいか、よく旅先でシャッター押しを頼まれるこ とがある。 「すいませーん。あのシャッターを」 「亠の、ゝゝ しですよ」 そんな感じで引き受けるのだが、若い女性グループの時など、ファインダーを覗くと結 構みんな表情を決めていて可愛い ( 時々いじわるをして半分しか入れなかったりするが ) 。 おそらくみんな鏡の前で、自分の一番いい表情を研究しているのだろう。 これはこの本のなかでの「鏡を見る」の項でも書いたが、人は鏡を見て、自分の顔の魅 力にうっとりするが ( うっとりできない顔の女性もいるだろうが ) 、普段はみんな鏡に写っ ているような顔はしていないのだ。鏡を見る時はそれなりにきりつとして見ているので、 自分はいつもこんなに美しいとおもってしまいがちだが、日頃、例えばそのあたりを歩い 204
と ) して生じるロ裂の拡大を中心とするロや唇周辺の表情と、眼輪筋がわずかに ( わずか 以上の人もいるが ) 収縮することによってできる眼の周辺の表情とに特徴づけられている とい一つ 研究されている笑いの説明原理 ( 原理というのは意味とでも取ってください ) もいろい ろあって面白い。 ホップスは、軽い優越感のしるし ( 鼻で笑う人はこの類だろう、ふん ) 、 < ・べインは、他人のささいな体面の喪失 ( これなどは目もとが微妙に動く感じかな。冷 ややかな笑みになる ) 、ショ 1 ペンハウアーは、観念と現実のくい違い ( うーん、むずかし いなあ ) 、カントは緊張した期待の突然の消失 ( ちょっとわかる気がする ) などとそれぞれ 指摘している。もう一人、ベルグソンという人は、生きているものが、その柔軟さを失い 機械的な存在と化したのをみる時、そのギャップが笑いを生じさせるなんて言っているけ れど、まあそこまでむずかしく考えて笑うこともないでしよう。 女性が一番笑いに憑かれるのは中学生になった頃で、この頃の、つまり女の子たちは木 の葉が落ちただけでも笑いころげるからふしぎだ。そのあたりを機械的にしたのが、いわ ゆる > などの、「笑っていいかなあ」 と、も一つ」 葉に巧みな催眠要素が含まれている。このあたりのところは長くなるのでまたの機会に。 銀座の楽器店に勤める落合ひろみさん三十五歳 ) の困るのは、他人の失敗がことご とく笑いに結びついていくことだ。先日もいっしょに東横線に乗っていたところ、座ろう として左右からはじき出されてしまった中年男がいた。まずいとおもったのは、彼女がそ
「そう、じゃあ、そういうことで、またね。はー ) 、、 しゃあね。あ、そうそう、そう言え ばね」 女性の電話は切れそうでなかなか切れない。「じゃあね」まできて、あ、これで終わるの かなとおもうとこれが甘い。それからが延々とつづくのだ。 街の公衆電話でばくは何度もこういった仕打ちに遭っている。話し中の電話ボックスの 前で待っていても、女性の表情で、あ、終わるのかなとおもったりするのだが、甘い甘い 話が終わるような表情を見せかけておき、それからが大変だ。まるで電話機を抱きかかえ るようにして、電話機に覆いかぶさるようにして延々と話はつづく。もしかしたら人類が 絶滅してもまだ話は終わらないのではないかと、そんな風におもってしまう。 「ーー・では、只今入ったニュースを申し上げます。港区南青山三丁目の公衆電話で、女性 の長電話に逆上した初老の男性が、そばに植えられていた糸杉を引っこ抜き、電話中の女 性をめった打ちにし、全治二カ月の大怪我をおわせ、近くにいた喫茶店の店主等に取り押 えられ、駆けつけた赤坂署の警官に引きわたされました。男は南青山に住む無職安西溝丸 五十三歳で、調べによると安西は、友人に電話をかけようと公衆電話まで来たところ、す でに若い女性が使用しており、待っこと四十七分、折りからの暑さもあり犯行におよんだ 132
暑い夏の日、喫茶店などにいると、若い女性が砂漠を放浪してきたかのような表情で人 ってくることがある。アイスティなんか注文し、やおらハンドバッグからハンカチを取り 出して顔の汗を拭く。拭くと言いたいところだが、汗の要所要所を確かめるように押えて しいかげんにしてよ、も一つ」 ハンカチを使う仕種とは裏腹に、夏の女性からは、そんな言葉が聞こえてくる。 ンカチを使う 0 129
「欠伸、何、それ」 「ひでえ顔すんだよ。彼女。もうさ、ぐおーんって、顔が縦に伸び切っちゃってさ。目は 吊り上がっちまうわ、とにかくゾンビだ」 そこまで言わなくてもいいのにとおもったけれど、ばくもちょっとだけその村山このみ という女性の欠伸を見てみたいとおもった。 男のなかには、美形の顔の女性の崩れた表情に異常に興奮する性癖を持つものもいるの でくれぐれも気をつけるように。正面きっての欠伸は禁物です。もしも欠伸が出そうにな ったら、そっと掌かハンカチを当てましよう。人前で欠伸をしてしまう、あなたはとても いい人だとおもうけれど、やはり口のなかを見せるのは歯科医かロ腔外科の先生くらいに しておいた方がいい 伸をする い 5
しぐさ それを仕種と呼べるかどうかわからないけれど、眠っている時のことを書く。 女の人はよく眠る。 いつも気にしているわけではないけれど、電車のなかなどで見ていると、男に比べ、や はり女の人の方がよく眠っている。ばくはそんな女の姿を見るのはあんがい好きだ。 眠っている姿は自分で見ることができないから、それに気づいた時、たいていの女性は ちょっと恥しそうな表情をする。 「あら、わたしやだ。眠ってしまったわ」 電車のなかで、そんな気分で目覚めた女性はなんとなく可愛い。慌ててちょっと唇をつ よだれ ばめたりするのは、涎が気になったりするからだろうか。そんなことはありませんよね。 ばくが世界中を旅した経験から言うと、日本の女性が一番車内でよく眠っている。これ はいかに日本の治安がいいのかの現れで、その点で考えると、車内で眠っている女性は国 の平和を象徴していると言っていし ばくも以前は車内で眠ってしまうことがあった。しかし恐ろしいことに ( 何も恐ろしい ことではないのだが ) 、ニューヨーク暮らしのなかで、車内で眠ることはほとんどなくなっ てしまった。
ばくとしてはちょっと譲れないところがあったのでそのことを口にした時だった。 「いや、沢木さん ( 仮名だが限りなく実名に近い ) 、そこに亀甲型の罫を引くのはちょっと うるさいとおも一つんだ」 彼女はばくのイラストレーションの周囲を亀甲型の罫でかこみたいと主張したのだ。同 席したデザイナーもそのことではばくと同じ意見だった。 「そうでしようか」 彼女は納得いかない表情をしていたが、そう言った直後目に泪を溜めて泣き出したのだ。 そんなことされたら、もうこっちは困るばかりで、どのような家庭で育ったのか、あるい は会社の社員教育が悪いのか、ばくとしてはそのあたりで考えをめぐらすしかないのだ。 もしも甘えだとしたら、泣きやゝ しいってもんじゃないよと言いたくなる。 以上はばくの身に起っためずらしい例である。 バーなどでも一人で飲んでいると、カウンターから女性の甘えた声が聞こえてくる。 「ねえ、今日うち寄ってくれる ? 」 ししト玉」 「わたしね、すつごく寝つき悪いの」 男の方は無言でグラスを傾ける。 「ねえ、寝つきいい方 ? わたしなかなか寝つかれないタイプなの」 何がタイプだよ、とばくなどはおもってしまう。 える なみだ 16 ろ
口紅をつける様子というのは、よく噺家たちが真似をするくらいだから、女の仕種とし てはポピュラーなのだろう。ばくも姉が五人もいたので女の人が口紅をつけているところ は嫌というほど見ている。見ているだけでなく、子供の時は口紅をつけてもらったりした こともある。姉たちの留守にいたずらで自分でつけたこともあった。 口紅というのはふしぎなもので、あれをつけると人間が変わったような気分になる ( 危 ない ) 。そうおもいませんか。例えば女の人の顔を描いていても、唇に紅をさすと、その顔 にさあっと表情のようなものがうかんでくる。女の顔だなといった感じになるからふしぎ 口紅と女性とは、たぶん切っても切れない関係にあるのかもしれない。だって外国を旅 した時でも、空港の免税店にあるあの口紅の数々、あれにはいつも驚く。 ということで、口紅をつける仕種に入る前に、ちょっと口紅の歴史にふれてみよう。 口紅は言わずと知れた唇を美しく見せるための化粧品で、これには今まで、つまりリッ プスティックが輸入されるまで、さまざまな研究がなされてきた歴史がある。十六世紀以 前は、ギリシャでは海藻、クワの実、貝などを原料にして赤い色を作り出していたという。 日本では紅花 ( このごろの紅花は油の原料にもなっており、 (-)ä「べニバナ油はアジノ はなしか 102