昭和 4 3 年 5 月 1 0 日 技術部長 C Z 運動とは。℃ omplaints*Zero" 運動 C Z 運動のスタートに当りて 技術員各位 9 →より効果的な fraining 方法は ? * サービス上、必要な技術の fraining 不足 →より適切な配置基準は ? * 部品待ちが多く、 EM が長引く どうすれば改善の方同へ向わせることが出来るか。 あろうか。足りない点があるとすれば、どうすれば改善されるか、又、 では、現在ューザーには、どの程度ュニバックに満足して貰っているで がそれに満足しているかどうか、であります。 ンピューターであっても、煎じつめれば評価の基準は只ーっ。ューザー いかに優れた性能を持ち、又、高度の作業システムが用意されているコ NUK の仕事の総仕上げにも当る責任を負っていることになります。 ューザーと接することの最も多い、我々の技術サービス部門は、いわば 追求することに外ならないと思います。その中で、日常の業務を通して 又、ユーザーに、もっと満足して貰うには、どうすれば良いかをたえず 従って、我々の仕事とは、ユニバックをより効果的に使って貰うには、 をもたらすコンピ . ューターであることを、確信しております。 我々、 NUK の全員は、ユニバックこそ、ユーザーに最高の利益と満足 うという運動であります。 即ち、より良いサービスを提供してユーザーの苦情、不平をゼロにしよ
* ューザーに実情を分って貰えない →もっと説得力のある説明方法 ? * 他部からの苦情が多い →もっと円滑に話し合うには ? * スコープの性能が悪く役に立たぬ →課・グループ内での配置は適切か ? * 人員不足 →作業方法、 Schedule に改善の余地は無いか ? 問題が転がっております。 以上はほんの一例ですが、我々の身辺には、このように大小さまざまの →もっと気軽に Contact するには ? * 話のタネが無く、 User と話が出来ない 我々全員の知恵を集めて、これらの問題を解決しよう、 運動の最大の目的であります。 というのが CZ 我々の技術サービスの仕事は、機種の数といい、夫々のユーザーの事情 といい、非常に複雑な情況に置かれております。その中で、真に特定の フィールドの問題点を知り、最も適切な解決策を考え得るのは、日頃か らそのフィールドを担当している第一線の FE 諸君である筈です。 そのような身近な問題の改善策を考え、グループに、或いは全体に提案 し、実行し、解決して行くことにより、我々のサービスの質を次々と高 めて行く。これこそ我々が望むュニバック・サービスの姿であります。 改善は永遠にして無限なり。 " 技術のユニバック " 、。。サービスのユニバック " をモットーに、我々、 技術員全員の創造力、技術力、実行力を一つにし、 CZ 運動を力強く盛 上げて行こうではありませんか。 10
久松敬一郎履歴書 昭和 29 年 2 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 入社 昭和 32 年 4 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 吉沢会計機のユニ . バック関連業務が、三井物産が米国ュニバックと合弁で設立した 日本レミントン・ユニバック ( 株 ) に移管されたことに伴い、昭和 33 年 3 月 31 日付 けで吉沢会言刊株 ) を退社、翌 4 月 1 日に新会社「日本レミントン・ユニバック ( 株 ) 」 に入複日本レミントン・ユニバック ( 株 ) は、昭和 43 年「日本ュニバック ( 株 ) 」 に社名変更。 昭和 33 年 4 月 1 日 昭和 33 年 8 月 1 日 昭和 35 年 3 月 25 日 昭和 36 年 10 月 1 日 昭和 37 年 4 日 1 日 昭和 40 年 4 月 1 日 昭和 41 年 4 月 1 日 昭和 43 年 4 月 1 日 昭和 44 年 4 月 1 日 昭和 45 年 2 月 1 日 昭和 46 年 2 月 1 月 昭和 46 年 4 月 1 日 昭和 50 年 2 月 1 日 昭和 53 年 4 月 1 日 昭和 54 年 6 月 28 日 昭和 56 年 4 月 1 日 昭和 5 9 年 4 月 1 日 昭和 60 年 6 月 27 日 昭和 60 年 8 月 1 日 平成元年 7 月 1 日 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課係長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部技術第四課課長代理 日本ュニバック ( 株 ) 技術部長付兼技術教育課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部企画課長兼関連課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部次長兼関連第一課長 日本ュニバック ( 株 ) 参事営業推進部技術部長心得 ( 部長代理待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 営業推進部技術部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 ( 次長待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 人事本部長 ( 管理職一級 ) 日本ュニバック ( 株 ) カストマーサービス本部副本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・大阪支店長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・カストマーサービス本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役退任 日本ュニバック ( 株 ) 取締役就任 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部次長 ( 株 ) アルゴシステム 21 代表取締役会長 日本テクノシステム ( 株 ) 代表取締役社長 日本テクノシステム ( 株 ) と ( 株 ) アルゴ 21 が対等合併 平成 5 年 6 月 28 日 ( 株 ) アルゴテクノス 21 会長退任
久松大先輩を偲ぶ 本田元亭 私にとっての久松大先輩は「無言の中に威厳ある君子の風貌を備えた 方」という印象が強く残っています。私が久松さんと直接仕事をさせて いただいたのは、日本テクノシステム創業後で、ユニバック時代はまさ に雲の上の人という存在でした。体を崩されてからはお会いする機会も なく随分ご無沙汰しましたが、私の人生の中では実に大きな大先輩でし た。それだけに、先の佐藤さんに続いてこのたび久松さんがご逝去され た今、心の支えを失った虚脱感とーっの時代が終わったというむなしさ を感じます。 ここに改めてお二人の今までのご指導に感謝するとともに お祈りいたします。 ご冥福を 私は、ユニバック時代は大阪勤務が長かったため、久松さんとお会い することはほとんどありませんでしたが、数少ない記憶の中でとくに印 象深く残っていますのは、近鉄で U -1100 を担当していましたとき、有 名な特急オンラインが半日ダウンした事件がありましたが、この事故の 収拾のため本社から久松本部長が來阪され、近鉄に来られたことがあり ました。グループ員全員、緊張してお迎えし大変な叱咤を受けるものと 覚悟していましたが、久松さんは穏やかな表情で「ご苦労さん」と一 われわれに暖かい言葉をかけていただいたことを今も鮮明に覚えてい ます。 余談ですが、このあと、リーダーとしての監督不十分で譴責処分を受 け、大阪支店で当時の佐藤支店長から処分の申し渡しを受けた際、社長 の代読として厳しい文面を読み上げたあと、佐藤さんから「儀式はこ まで。日頃はご苦労さん」と励ましの言葉をかけてもらったときも、本 当に涙がこぼれる思いをしたものです。後日、日本テクノシステムとア ルゴ 21 が合併する際、反対意見が多かった中で、佐藤さんが社長に就 60
久松さんの想い出 廣末カ 手元に一冊のボロボロ住所録がある。「吉沢会計機株式会社社員録 昭和 33 年 1 月 IO 日現在」とある。多分、 YKK の最後の住所録だと思 う。この 3 ヶ月あと、 4 月 1 日に、日本レミントン・ユニバック (NRU ) となったのだから。総計 223 名と最終頁に人数がある。 これを見てみると、久松敬一郎さんは、大阪支店ュニバック課、課員 は 5 名、課長は松田恭次氏兼務。同じ、大阪支店に技術課長 ( IO 名 ) 、 赤須通雄氏がいる。なにせ、 1985 年のことだ。 私は、東京で業務一課の兵隊だった。課長が、吉沢幹夫常務、課長代 理が井上敏治氏。 今でいう営業部隊である。半世紀前の住所録は、色々なことを示唆し てくれる。名前と所属を見るだけで、様々な出来事が浮かび上がってく る。半世紀前のことになる。 この年、始めて、 UFC 、翌年に USSC という、今で言う「大型コン ヒ。ュータ」の導入が始まり、その入力は、全てパンチカードだった。久 松氏は赤須氏と前後して、アメリカ本社にこれらのマシンの勉強に、渡 米している。コンピュータ時代の始まりだった。真空管から、半導体へ 移行していく過渡期だった。久松、赤須、この人々と共に、ユニバック 会社は進展拡大を続けていく。 技術屋は、大体寡黙である。あれこれ、営業の様に多弁ではない。い や、饒舌ではない。 黙って睨んではいるが、頭の中はフルスピードで回転している、とい うのが、システム屋をふくめ、テクニカルな人々に共通する。久松氏は、 私に言わせれば、寡黙な人種の筆頭であった。 余計なことをあれこれと、言わない。営業から見れば、何を考えてい 63
久松敬一郎先輩の思い出 山崎斐雄 今から 1 0 年余り前の 2 0 00 年 4 月 6 日夜、竹橋のアラスカに「東天 会・オーバーフォーティーズ」の面々 21 名が集まった。「東天会」とは 自由学園を卒業して日本ュニバック、あるいは日本ュニシスに働く、あ るいは働いた者の集まりであるが、「オーバーフォーティーズ」は 40 歳 を超えた者のみが集まる分科会の意で、その日はその第 1 回目の集まり であった。久松さんは言うまでもなく「東天会」の元祖的存在である。 参加有資格者 22 名の中 21 名が集まったことを見ても、皆の再会への関 心が大きかったことが伺える。 久松さんはスビーチの中でわれわれが知る普段の久松さんよりも、再 会の喜びを率直に表現された。同時に、われわれは久松さんがタダなら ぬ難病をすでに発症されていることを知った。それにもかかわらず、久 松さんから明るい前向きな姿勢だけを感じたことは感動的であり、心に 残った。 日本ュニバック生え抜きの若手社員の中より 5 名の先輩が役員に選任 されてから 2 期目を迎えた 1980 年代の初め頃であったであろうか、そ の 5 名の中の一人である久松さんがユニバックを離れる決心をされた と聞きおよび、当時の事情について無知であった私は何とか留まって頂 くことは出来ないものか、お願いするために久松さんを野方のご自宅に お尋ねした。今から考えれば自分の無知を恥じるしかないのであるが、 久松さんは真摯に対応して下さった。久松さんに見送られてお宅を後に した頃、タ闇せまる街路に雪が積もり始めていたのを思い出す。 久松さんから教えられたことは数知れない。仕事の帰りにたまには一 杯やろうかと赤坂界隈でご一緒させて頂くことがあったが、そんな席で 久松さんは決して他人 ( ひと ) の話をされなかった。その影響を受けて か、ユニバック草分け時代の技術部に籍を置いた先輩方にそれは共通す るものであったような気がする。赤坂に「白扇」という割烹の店があっ た。 1970 年代の前半の頃だったと思うが、当時の開発部の部長秋元貞 70
・久松さんの「想い出」 自由学園の同級生、日本ュニバックの後輩ー技術職、システム職、営 業職ーの方々から寄せられました「想い出」を収録いたしました。学 生時代、ユニバック時代、その後のご活躍など、久松さんの様々な面を 垣間見ることができます。併せて、久松さんの「人柄」をも読み取って 戴ければ幸いです。 ( 敬称略 ) 日本ユニバックの後輩達 ( 五十音順 ) 永田晨 自由学園の同級生 赤須通雄 志村丈郎 本田元亭 秋元貞元 田中稔 廣末カ 池田元久 長尾宏 矢沢祥弘 大伏茂之 中沢保二 山崎斐雄 大石完一 花田啓一 若鳥陸夫
久松敬一郎さん一折々の「思い」と「想い出」と 小冊子の発行にあたって 夏の盛りに久松敬一郎先輩のご逝去の報に接してから 2 か月が過ぎ、 「久松敬一郎さんを偲ぶ会」を催す運びとなりました。また同時に 久松さんが折々に「思った」ことと、久松さんについての「想い出」 を綴った小冊子を皆様にお届けすることが出来ました。小冊子の前半 は、久松さんが、折にふれ「思ったこと」として、久松家、ユニバッ クなどに残された資料を転載させて頂きました。「想い出」の方は、同 級生あるいはユニバック関係の人々に執筆を依頼致しました。この小 冊子を 謹んで久松敬一郎先輩に捧げます。 発行 : 2 010 年 10 月 2 7 日 代表 : 赤須通雄 編集・出版 : 「久松敬一郎さんを偲ぶ会」
久松さんを偲んで 矢沢 祥弘 久松さんの訃報はショックでした。 かれこれ、 20 年近くお会いしておりませんでした。体調がすぐれな いと伺っておりましたので、もうお会い出来ないだろうと思ってはおり ましたが、訃報に改めて大切な先輩を失ったのだなと感じました。 1 0 年ほど前になりますが、「もとゆに」の「へぼ碁会」にお誘いの電話 を掛けた時にお声を聞いたのが最後でした。懐かしいあの声でした。 昭和 3 5 年 4 月に学校を出て、日本レミントン・ユニバックに入社、 技術部技術 4 課に配属された時の課長が久松さんでした。当時は福吉町 に本社があり、技術部は別館の 2 階が事務所でした。 以降、昭和 60 年に日本ュニバックを退職するまでの 25 年の大半を久 松さんの傘下で仕事をしてきました。その後、日本テクノシステムでも 1 年余りお世話になりました。 日本テクノシステム ( 株 ) の久松さん ( 社長 ) と長尾さん ( 副社 長 ) 。 1985 年 8 月 15 日。 ( 取締役会か部長会 ) 65
久松さんの " 出会いと思い出 " 田中稔 久松敬一郎さんの逝去を痛み深く哀悼の意を表します。思えば嘗ての 優秀な友を失った事は誠に残念でなりません。入社したときは若く希望 に燃え、共に頑張った記憶があります。私と久松さんとは吉澤会計機に 昭和 29 年 4 月頃入社したと記憶しています。 そのころ電子計算機 UIVAC-120/60 が野村証券、東京証券取引所、 日興証券に次々に入り、ユニバックのインストレーション技術者フィニ ンジャーが来て、それぞれ現場で作業をしながら我々を指導してくれた ことを思い出します。久松さんは英会話が堪能でフィニンジャーのお気 に入りで、共に一緒に作業していたのを見て素晴らしいなあと感心し、 彼は優秀な人物だと強く印象づけられました。 それから私は東北電力に納入された UN Ⅳ AC -60 置のため、富田さん の指導のもと稼動運転作業に従事したので、久松さんと一緒になること は有りませんでした。その後、久松さんは大阪支店で大活躍されている ことを耳にし、遠くに離れていながらも心に留め、尊敬していました。 これが久松さんと 50 年前の。出会いと思い出 " として脳裏に残ってい ます。 51