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検索対象: 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-
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1. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんの想い出 池田元久 久松さんには、私が日本レミントンユニバックに入社した年から、 久松さんが日本ュニバックをお辞めになった年まで、本当に長い間お 世話になりました。 病魔と闘っておられるとお聞きして以来、克服してお会い出来る日 が来てほしいと望んでおりました。「お会いしたいですね会」から開催 案内をお送りして、或る時は、出席して頂ける期待を持ったのですが、 叶わずに終わってしまい、残念でなりません。 私など技術の昭和 34 年入社組 ( 大卒 ) は UNIVAC 120 の 2 ヶ月半 の講習を福吉町の本社隣の別館で受け、直ちにフィールド出ました が、先輩たちは UFC や USSC の受講のために I-J ー 120 のサービスか ら次から次と引き上げるという状況でした。新人 6 名は、自身の駐在 サイトに出勤しても、他のお客先のトラブル対応に出向くことも多く なり、秋頃には都心は勿論、近郊も含めた対応にも関わる毎日となり ました。 ある日の夕方、トラブル解決が出来ず技術部 SOS の電話を掛け たところ、久松さんが出られたのです。お顔も知らない当時です。久 松さんはその時点では昼間の時間は USSC のインストラクターか、受 け入れ準備の業務をされていたと思いますが、夕方で席戻られたと ころという様子でした。私のトラブルの現象は何とも複雑で、説明も 要領を得なかったと思うのですが、久松さんからは一言「本体の右サ イドカバーを外して下の電源部の 3 / 8 Q の抵抗を取り替えてみたま え。」という指摘でした。この一言で何時間かを費やした悪戦苦闘は終 わりでした。 「知る」と「知らない」は雲泥の差と、スペシャリティの目標を知 らされた思いで、いまだに忘れられません。 43

2. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

昭和 3 7 年にム 社組織に本部制が とりいれられ、営 業本部と技術本部 に営業・技術のス タッフ機能が取り まとめられた。ラ イン部門は営業 所・支店に営業 / 技 術が配属された。 1962 年技術本部の社内旅行 技術本部に新たに 「関連課」という組織が新設された。この関連課という名称は初代課長 の久松さんが名付け親である。機能としては、米国 UNIVAC の FE(CE) が持っていたエンジニアリング・リエイゾンをイメージしていたが適当 な日本語の名称が思い浮かばず、久松さんが名づけることになったもの である。後のテクオペと類似の組織である。 技術本部の本部長には、親会社「三井物産」から出向された方が就任 していたが、本部長付として、久松さんか私が本部長を補佐して運営し ていた。その後久松さんと私がともに営業所に出た時には、長尾芳治が 技術本部に入り本部長補佐を行った。 久松敬一郎 長尾芳治 赤須通雄 36

3. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

舌は盛り上が ういう 場面になると 久松さんの博 識ぶりは大変 ものをいう。直 ぐに先方から 君たち少しは 飲むかい、と誘 いがかかった 遠慮しいしい 1956 平に月 9 日ジャカルタで鈴卞さんとい ME ・家の皆さん 少しは頂きます、と言うと直ぐにスコッチウイスキーー瓶と冷えたコー ラを部屋に持ってこさせた。当時の日本では、スコッチもコーラも貴重 品であまり飲むチャンスは無かったように思う。スコッチのコーラ割り は想像以上にロ当たりが良く、気がついた時には、二人でスコッチー瓶 を空にしていた。これに懲りずにその後もいろいろと面倒を見ていただ いた。別の思い出は、インドネシア軍の将校見習いとの出会いである。 ある日一人のインドネシア人が我々の部屋を訪ねてきた。戦中日本軍の 世話をしていたとのことで、多少日本語ができ日本の歌も幾つか覚えて いた。日本の兵隊達には結構可愛がられていたようで、親日家だった。 将校見習いの研修で地方からジャカルタに出てきて同じホテルに滞在 しているとのことだった。日本人が泊っていると聞いて訪ねて来たとの ことだった。彼からはインドネシアの歌を教わったりした。 ある日、夜のジャカルタに案内したいと言い出した。それは危険だか ら駄目と言われていると断ったが、私が一緒で護衛するから大丈夫とい う。結局彼の熱意に負け 2 度ほど外出したが、彼は平服でジャンパーに 包んだ拳銃を持って我々を護衛してくれた。 帰国はばらばらで、私が先に帰国し、彼は 1 ヶ月位残り UNlVAC-120 の現地担当者への教育を済ませて帰国した。 大阪支店が開設されたのは昭和 30 年 4 月頃と思うが、開設後の営業 34

4. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんの思い出 志村丈郎 私と久松さんの出会いは、昭和 33 年 2 月当時吉沢会計機勤務小生の大 阪支店転勤により西宮市甲子園寮にお世話になる事からはじまりまし た。当時の寮長は、妹川さんだ。たと思いますが、彼から 2 階一番奥の 久松さんの部屋に入ってください、と言われました。 4 月に日本レミン トンユニバックに社名が変わりましたが、独身寮はそのまま継続して、 久松さんと同室も変わらず、寝食を共にさせて頂きました。久松さんは、 沈着冷静、クールと申しますか物静かで、帰寮された夜の時間や休日も よく本を読んでいられ、よい刺激を受けた記憶が残っております。 久松さんが違。た一面を見せて頂いたのが、次のエピソードです。某月 某日、「志村君、東京に出張しますから後よろしくね」。多分一週間ぐら いだったかな、何ごともなく東京から帰られ「お帰りなさい、あれ、お 顔どうされました ? 」久松さんのロ許に大きなオデキが出来て大変痛た そうでしたが、若気のいたり。そのまま「残念でしたね。それでは彼女 にキスもしてもらえなくて」。一瞬、雰囲気が変わり、心なしか久松さ んの顔色も変化。っかっかと私のそばまで来られ一あれ殴られるかなー あの大きな手で背中を一発。 その時の久松さんの表情は、何とも言い難い複雑な顔でした。今迄のク ールな人から全然違った一面、よい人間味を垣間見ました。翌年の 2 月 にアメリカに出張との事で寮を出られ、東京に移られました。一年弱生 活を共にさせて頂いた青春の一ページ。訃報をお聞きした時に自然に思 い出されました。ご冥福をお祈り申し上げます。 50

5. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんの思い出 若鳥陸夫 小生の社会生活は、東京電力 ( 株 ) に納入された UnivacII の子守から 始まった。その機械は、 Univac-I の改良機で真空管 18 , ooo 本、消費 電力 120kVA という巨大なもので、主体はビーム管だったが、改良さ れた主記憶装置部分は磁気コアメモリで、トランジスタ、 ニチュア管 で、今で言うハイプリッド構成であった。 演算部が二重化されていたが、内部は半語 46 ビット直列計算機で、 1 ビットのパルス幅は、 justl マイクロ秒であった。命令は、アセンプ リ言語のニューモニックに似ていて、加算は A 、減算は s 、乗算は M 、 除算は D で、 12 桁の 10 進演算を行っていた。 その MTBF は 8 時間程度ということであったが、 8 時間故障がない ことは稀で、機嫌が良くて半日動けば上出来だった。 しかし、真空管の電極が接触してヒューズが飛ぶ程度なら、周辺の半 導体整流器 ( ダイオードというが、整流器に近い物 ) を交換すれば、局所 的に修復できるが、分配抵抗で供給している電源が狂うと、本体の方々 が壊れているように見える ( または壊す ) 。主メモリは並列なのに、幹 線が直列であるためメモリ読み書きには直並列変換が行われ、それも、 LC 集中定数による遅延回路であった。インヒ。ーダンスを狂わすと、反 射が発生し方々のビットが落ちたり、拾ったり、厄介なものであった。 直しているというより、開発しているという状態であった。仕事は、毎 晩 23 時頃から深夜 2 時までに切り上げられれば良い方で、深夜か朝、 タクシー帰りもずいぶん続いていた。 朝下宿に帰って、寝始めた頃、電報が届く。内容は、。カイシャニデ ンワサレタシ。ヒサマッ " というものであった。これでは一般住宅では 生活できないので、下落合の独身寮に収容してもらった。 今度は、電話が通じるので、朝 6 時に帰り着いて冷めたタ食を摂り、 寝ようとした頃、スピーカで呼び出し。電話口に出ると、 " 久松だが、 今朝、立ち上がらなくて大騒ぎだ。すぐ来てくれ " との要請。 " さっき 72

6. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

次のようなこともしばしばありました。フィールドサポート部に所 属していた当時、米国クレームの発信と物の要求をする、人の応援 要求を出す、等について書く私のったない英文レター原稿はいつも修 正をされました。私に強くおっしやるのでもなく黙って添削をされ、 渡されました。時には書棚から Oxford の英英辞典を出してチェック をされるなど、厳密に意思を伝える格調のある英文に、いつも教えら れておりました。 久松さんの静かな話しぶりも想い出されます。「 CZ 」を CS 部門の 目標のキーワード、そしてキャッチフレーズとして浸透されましたが、 年度の cz star 表彰式は他部門の表彰式とは異なる独特の雰囲気で した。久松さんが静かに説くように話されるお姿が印象に残ります。 私の大阪支店勤務は昭和 53 年から 5 年間でしたが、後の 2 年間は昭 和 56 年 4 月に大阪へ赴任された久松取締役・大阪支店長のもとで勤め させていただきました。仕事上ではハード・ソフトの信頼性問題や要 員効率化などで課題山積、苦しい時期でしたが、久松支店長にトラブ ル対応でお客様に出向いていただくようなことがなかったのは幸いで した。久松さんも大阪では私と同じ単身赴任ということで、土曜の午 後など私のアパートに電話を掛けていただき「時間はあるか ? 旨いも のを食いに行こう」と梅田で待ち合わせて連れて行っていただいたこ とが何度かありました。今でも。カキづくし ' などはもう一度行って みたい店として思い出します。 久松さんがお辞めになる直前には、何と表現すべきか、カストマー サービス本部長をされていた久松さんと特に濃い時間を共有させてい ただいたように思います。私の東京転勤後の昭和 50 年代末は毎日が大 型機客先サービスの保持に苦闘する日々であり、現場技術員の多くが 混沌とした状況に巻き込まれた時期でした。私自身も焦燥の日が続い たのですが、連日お客先や多くの部下と話し合っている中から、私な 44

7. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

最高学部開学五十年 1949 年 4 月に学部が開学して 50 年がたちました。卒業生は、 1 , 177 人を 数えます。この機会に、学部一回生の二人の方に開学のころのことを中心 に寄稿していただきました。 学部開学の頃 ( 九回生、最高学部一回生 ) 久松敬一郎 昭和 24 年 4 月 25 日が男子部最高学部開学の日である。この学部の発 足については、二つの背景があった。ーっは創立後、二十有余年を経た 自由学園が、戦中戦後の大きなプレーキがあったにせよ、新しい発展の 段階に達しつつあったこと。ーっは、より直接的な動機として、戦後の 学校制度の大改革があったことである。 改革の精神、趣旨は、とりあえず措いて、形の上から見ると、それは 6 ( 小 ) 、 5 ( 中 ) 、 3 ( 高または専 ) から、 6 ( 小 ) 、 3 ( 中 ) 、 3 ( 高 ) 、 4 ( 大 ) の移行であった。いわゆる、 6 ・ 3 制の切替えである。同時に 中学の 3 年間が義務教育となった。 この改革により、自由学園も大きな影響を受けた。それまでの自由学 園は、文部省令によらぬ「各種学校」であったが、形の上では、普通科 4 年 + 高等科 3 年の 7 年制高校に準じていた。新制度の切替えに際し、 無資格の各種学校であった自由学園は、実績を評価されて新制度による 中学、高校に認定され、したがって、「資格」をもっことになった。 このような新制度の切替えは、昭和 22 年頃から行われた。終戦時、 普通科 3 年生であったわれわれの学年 ( 九回生 ) は、自動的に新制度によ る一期生になっていた。はっきりしていることは、昭和 24 年 3 月にな れは新制の高等科 3 年、すなわち、男子部 6 年生が終わり、学校を出な ければならないことであった。 一方、一般の世間においても、新制高校につながるべき新制大学は、 アウトラインは示されていたものの、具体的には、どのような大学が出 来てくるものか、詳細は不明であった。理念的には新制大学は、大学院 23

8. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんを偲んで 矢沢 祥弘 久松さんの訃報はショックでした。 かれこれ、 20 年近くお会いしておりませんでした。体調がすぐれな いと伺っておりましたので、もうお会い出来ないだろうと思ってはおり ましたが、訃報に改めて大切な先輩を失ったのだなと感じました。 1 0 年ほど前になりますが、「もとゆに」の「へぼ碁会」にお誘いの電話 を掛けた時にお声を聞いたのが最後でした。懐かしいあの声でした。 昭和 3 5 年 4 月に学校を出て、日本レミントン・ユニバックに入社、 技術部技術 4 課に配属された時の課長が久松さんでした。当時は福吉町 に本社があり、技術部は別館の 2 階が事務所でした。 以降、昭和 60 年に日本ュニバックを退職するまでの 25 年の大半を久 松さんの傘下で仕事をしてきました。その後、日本テクノシステムでも 1 年余りお世話になりました。 日本テクノシステム ( 株 ) の久松さん ( 社長 ) と長尾さん ( 副社 長 ) 。 1985 年 8 月 15 日。 ( 取締役会か部長会 ) 65

9. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

かれつつも、なし得なかった數々を、次の人たちに引渡さねばならいの です。我々の至らざる故に、後の人たちに餘分の苦勞がかかることはな いかと、殆どおそれに近い気持ちでそのことを思うのです。 男子部から數えて十年乃至十一年、このような年頃を、このようなと ころで過ごしたという刺激は餘りにも大きく、どれがどれといって、私 たち中にあるものを指すことは不可能でありましよう。 ここに私自身の気持ちを述べさせていただくならば、戦争のさなかか ら十年の間に、この良い場所で目を覺ますことの出来た幸福を感謝せず にはいられません。 自由學園のたましい、又花咲く庭から私たちが受けた最も貴いものは、 反って今は見えず、おそらくはずっと後になって一生涯の終わりに近く 我々の上に輝き出すものであるかも知れません。 私たちはム ーに、より確かなこころを持って我等は地の鹽、有力 な證人 ( あかしびと ) 、また、。。涙をもてこれを愛するもの " のごとく、 我等の團体を、社會を、國を、世界を愛するものであることを約束い たします。 羽仁両先生、諸先生方、父母の方々、學園の皆様、ありがとうござい ました。 3

10. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

ては係争事案対応等々、久松さんの後ろ盾がなかったなら切り抜けて来 られたかどうか、存在の大きさに多くを支えられて来ましたこと、常々 感謝している次第です。 そんな時期のことで、ユニバックに居たらあり得ない光景で、当時の若 い社員達が久松さんを囲んで酒席を共に、カラオケに興じ、久松さんも せがまれて仕方なしに少々テレながら唄われていたことが思い浮かび ます。レバートリーは少なく、確か「みちづれ」と「矢切の渡し」で、 どちらの歌詞も「これと決めた相手とはどこまでも一緒」というような 内容で、久松さんらしい選曲でした。 「君、今晩都合はどうかね」、私が力不足故に何かと思いあぐねていたり、 苦境に喘いで居るような時、こう言ってよく声を掛けて頂き酒席をこ 緒させてもらいました。久松さんは愚痴を聞く方ではなかったですから、 折角のお誘いでも私も精一杯自覚して久松さんとのひとときを大切に いたしました。 必然的に全く別の話題になることが多かったのですが、それなりにリラ ックスできたことと、私に対する無言の激励であることが久松さんのや さしさとして充分に伝わり私なりに闘志を新たにしたものでした。 アルゴ 2 1 を引退されて以来久しくお目にかかれませんでした、そして 本当に悲しく淋しいことにもうお会いすることすらできなくなってし まいました。そして「君、今晩都合はどうかね」をお聞きできることも 2 度とあり得ないことを自分自身に言い聞かせている昨今であります。 数多くの久松さんとの想い出は、感謝と懐かしさの想いを込めて終生色 褪せることなく私の記憶に留めて参ります。 56