1 9 6 3 年の 5 3 台、 4 5 ューザーがピークであった。 1 9 6 4 年以降、新 規設置は無く、最後の 1 台が稼動停止したのは 1972 年 ~ 73 年頃であ った。 USSC ハードウェア・サービスのトレーニング・コースには小原君 ( 現 複合システム事業部長 ) と久松の 2 名が参加した。コースは NewYork り、 lil lllion にある UNIVAC のスクールで、 1 9 5 9 年 3 月 2 日から同年 7 月 IO 日迄 19 週間行なわれた。 我々は渡航手続の遅れで 3 月 1 2 日に日本を出発、 3 週目の 3 月 1 6 日から参加した。コースの内容は、 Logic に 6 週間、 program に 3 週間、 I/O 実習に 2 週間、工場でのテスト参加に 8 週間であった。コース終 了後、調査、見学のため UNIVAC の各地工場、ユーザー等を訪問し、 8 月 5 日帰国した。 日本向け USSC の最初の 2 台は前述のように、 1 9 5 9 年 8 月、東芝と 日証金に設置された。搬入は東芝 ( 鶴見工場内計算センター ) の方が早 かったが、ドラム故障により 1 ヶ月以上も動かなかったため、実際の稼 動は日証金の方が早かった ( 8 月 1 8 日搬入、 9 月 1 日火入れ式 ) 。 本格的な中型コンピューター USSC の導入サポートのため、 UNIVAC からハードウェア・エンジニアの HansNeumeister 氏が来日し、 195 9 年 8 月から約 1 年間、ドイツ人らしい几帳面さで NUK の仕事をサポ ートして呉れた。 この年、日証金は USSC の設置、稼動を前提として証券代行業務を 開始していた。我々が帰国した 8 月にはすでに、八幡製鉄、富士製鉄外 IO 数社の株式業務の代行引受が決定していた。 USSC の初仕事はこれ らの会社が 1 1 月に開催する株主総会の招集通知、株式配当金支払通知 等の発行業務であった。もし USSC のハード / ソフトが期待通り動か なければ、日本でも有数の会社の株主総会が予定通り開催出来なくなる ところであった。日証金の USSC は、 2 ヶ月以上連続運転というハー 6
USSC(=Univac Solid-State Computer) について USSC の前身は 1956 年米空軍に納められた UNIVAC AF/CRC (Air Eorce/Cambridge Research Center) Magnetic Computer である。 ーターは論理素子に超小型の磁気増幅器 ( 商品名 のコンピュ "FERRACTER ” ) とゲルマニウム・ダイオードを使用し、脱真空管世 代の先頭を切った機械であった。またメモリに高速磁気ドラムを使用し たのも、新しい技術であった。この Magnetic Computer は、入出力装 置が紙テープとタイプライターだけの簡単な構成であったが、従来の真 空管式コンピューターに較べると、高速性、信頼性、コンパクトなサイ ズという点で画期的な機械であった。 USSC はこの Magnetic Computer に、汎用機としての入出力装置を 付け、かっドラム容量を大きくし、演算速度を上げたコンピューターで ある。基本的にはカード・べースの機械であったが、後に磁気テープ、 紙テープ、大容量ドラム (RANDEX) 等も付くようになった。 発表は 1957 年、初出荷は 1958 年夏で西ドイツのドレスデン銀行に 設置された。 この当時は UCT (=Univac Calculating Tabulator) と呼ばれていた。 日本における USSC の発表は 1958 年であったが、最初は技術的な詳 細が殆ど分らず客先説明にも苦心することばかりであった。同年 10 月に 米国 UNIVAC からエンジニア、 D. W. W ⅱ so Ⅱ氏が来日し、主要客先を 集めて USSC の説明会を行なった。これが USSC の実際上の発表会で あった。日本における初設置は 1 9 5 9 年 8 月、日本証券金融 ( 日証金 ) 及び東芝の 2 台であった。 USSC は当時中型コンビューターとしては抜群の高性能を有してい た。入出力装置とのバランスも良く、またその高速性が大きな特徴であ った。例えば、 1 0 桁の加減算の所要時間は 8 5 ″ s であるが、これを USSC より後に出て来た IBM の代表的機種 1401 ( 中型 ) の 230 ″ s 、 7070 ( 超大型 ) の 60 ″ s と較べて見ても、中型機 USSC の優れている ことが分る。 4
元さんとその部下の我々はよくその店に通ったものである。その店のお やじさんがあるとき真面目顔で言った。「ユニバック社中のみなさんは 変わっている。酒を酌み交わしながら職場のひとの話を一切話題にしな い。仕事の話ばかりしている。しかも楽しそうに。この店に来る他の社 中のお客さんはもつばらひとの話に終始しているというのに」と。久松 さんはルールと公私のけじめに厳しい人だった。ゴルフ初心者の私が数 本のクラブを持ってボールに近づき、一本のクラブを選びいざボールを 打とうとした時に、久松さんから待ったがかかった。使わないクラブが 私の目の前に目標方向を向いて置かれている、というご指摘である。 んなこともあった。約 1 年間の長期米国出張を命じられた同僚の細野 忠さんと私であったが、いよいよミネアポリス・セントボールに向け出 発数日前という段になって出張に及ばすということになった。我々が開 発参加することになっていた新機種“ U Ⅱⅳ aC9500 ”の開発プロジェク トを米国ュニバックがキャンセルしたというのだ。出張のために準備を してきた私たち二人は唯呆然とするのみであった。そこへ久松さんから、 「ところで出張支度金は会社へ直ぐに戻すように」と言われたときには 困惑した。すでにそのお金は手元に残っていないのである。何とか夏の ボーナスから天引きと云うことで暫しの猶予を頂いた。 入社前年の 1960 年夏、就職を希望する当社の夏季講習を申し込むと きに、久松さんから「プログラミング」 ( 当時はシステム、ソフトウェ ア等とは呼ばなかったようだ ) ではなく、「技術」の講習を採るように 強くアドバイスを受けた。久松さん日く、「『技術』は『プログラミング』 に比べより広範な仕事に関わる可能性があるんだから、是非『技術』の 講習を受けなさい」と。「はい」と言わざるを得なかった。私は入社以 来、久松さんの言われた通り、実に多くのチャレンジングな仕事を経験 させて頂いた。久松さんに感謝の念で一杯である。ありがとうございま 71
久松敬一郎履歴書 昭和 29 年 2 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 入社 昭和 32 年 4 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 吉沢会計機のユニ . バック関連業務が、三井物産が米国ュニバックと合弁で設立した 日本レミントン・ユニバック ( 株 ) に移管されたことに伴い、昭和 33 年 3 月 31 日付 けで吉沢会言刊株 ) を退社、翌 4 月 1 日に新会社「日本レミントン・ユニバック ( 株 ) 」 に入複日本レミントン・ユニバック ( 株 ) は、昭和 43 年「日本ュニバック ( 株 ) 」 に社名変更。 昭和 33 年 4 月 1 日 昭和 33 年 8 月 1 日 昭和 35 年 3 月 25 日 昭和 36 年 10 月 1 日 昭和 37 年 4 日 1 日 昭和 40 年 4 月 1 日 昭和 41 年 4 月 1 日 昭和 43 年 4 月 1 日 昭和 44 年 4 月 1 日 昭和 45 年 2 月 1 日 昭和 46 年 2 月 1 月 昭和 46 年 4 月 1 日 昭和 50 年 2 月 1 日 昭和 53 年 4 月 1 日 昭和 54 年 6 月 28 日 昭和 56 年 4 月 1 日 昭和 5 9 年 4 月 1 日 昭和 60 年 6 月 27 日 昭和 60 年 8 月 1 日 平成元年 7 月 1 日 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課係長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部技術第四課課長代理 日本ュニバック ( 株 ) 技術部長付兼技術教育課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部企画課長兼関連課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部次長兼関連第一課長 日本ュニバック ( 株 ) 参事営業推進部技術部長心得 ( 部長代理待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 営業推進部技術部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 ( 次長待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 人事本部長 ( 管理職一級 ) 日本ュニバック ( 株 ) カストマーサービス本部副本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・大阪支店長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・カストマーサービス本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役退任 日本ュニバック ( 株 ) 取締役就任 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部次長 ( 株 ) アルゴシステム 21 代表取締役会長 日本テクノシステム ( 株 ) 代表取締役社長 日本テクノシステム ( 株 ) と ( 株 ) アルゴ 21 が対等合併 平成 5 年 6 月 28 日 ( 株 ) アルゴテクノス 21 会長退任
・久松さんの折々の「思い」を綴った文書 久松さんの折々の「思い」を綴った文書 ( 発表年度順 ) * 1953 年 3 月 * 1957 年 8 月 * 2000 年 12 月 25 日 * 1988 年 3 月 23 日 * 1976 年 3 月 4 日 * 1970 年 4 月 20 日 * 1969 年 4 月 1 日 * 1968 年 11 月 1 日 * 1968 年 5 月 IO 日 : 感謝のことば一学部卒業にあたって一 : USSC について ( 発表誌不明 ) : パンフレット : C Z 運動のスタートに当りて : 巻頭言 ( FAMI LY ー 1 9 7 6 年 3 月 ) この一冊ー坂の上の雲ー司馬遼太郎 ( C Z NEWS ー NO. 2 0 ー ) : 昭和 4 5 年度技術本部活動方針と業務計画 ( C Z NEWS ー NO. 8 ー ) : 巻頭言「世界一のサービスを」 ( CZ NEWS ー NO. 4 ー ) 「ユニバックのチーム・プレー」 : 最高学部開学五十年 ( 学部開学のころ ) たもの ) 本稿は久松さんの執筆ではなく、同社記者が書い ( ザ・ディリー・ネットワークニュース、 1 2 2 5 号。 : 日本テクノ、第三者保守部門好調
第一回べンチャーオープン ゴノレフコン。 198 5 年 9 月 7 日。 於 : 鎌倉パプリック 入社の新人が一緒でした。 内旅行がありました。 41 年 記念写真。当時は年 2 回社 同上。磯部温泉。旅館の前で 妙義山にも登りました。 第 1 課 / 秋の社内旅行で。 昭和 41 年 10 月 16 日。関連
舌は盛り上が ういう 場面になると 久松さんの博 識ぶりは大変 ものをいう。直 ぐに先方から 君たち少しは 飲むかい、と誘 いがかかった 遠慮しいしい 1956 平に月 9 日ジャカルタで鈴卞さんとい ME ・家の皆さん 少しは頂きます、と言うと直ぐにスコッチウイスキーー瓶と冷えたコー ラを部屋に持ってこさせた。当時の日本では、スコッチもコーラも貴重 品であまり飲むチャンスは無かったように思う。スコッチのコーラ割り は想像以上にロ当たりが良く、気がついた時には、二人でスコッチー瓶 を空にしていた。これに懲りずにその後もいろいろと面倒を見ていただ いた。別の思い出は、インドネシア軍の将校見習いとの出会いである。 ある日一人のインドネシア人が我々の部屋を訪ねてきた。戦中日本軍の 世話をしていたとのことで、多少日本語ができ日本の歌も幾つか覚えて いた。日本の兵隊達には結構可愛がられていたようで、親日家だった。 将校見習いの研修で地方からジャカルタに出てきて同じホテルに滞在 しているとのことだった。日本人が泊っていると聞いて訪ねて来たとの ことだった。彼からはインドネシアの歌を教わったりした。 ある日、夜のジャカルタに案内したいと言い出した。それは危険だか ら駄目と言われていると断ったが、私が一緒で護衛するから大丈夫とい う。結局彼の熱意に負け 2 度ほど外出したが、彼は平服でジャンパーに 包んだ拳銃を持って我々を護衛してくれた。 帰国はばらばらで、私が先に帰国し、彼は 1 ヶ月位残り UNlVAC-120 の現地担当者への教育を済ませて帰国した。 大阪支店が開設されたのは昭和 30 年 4 月頃と思うが、開設後の営業 34
早いものであれから 3 1 年が経過し、 3 名が霊界入りし、廣末力と赤 須通雄の 2 名が生き残っている。上記 5 名と、非常勤ではあるがわれわ れ 5 名と一緒に取締役に選任された方が、元三井物産副社長の故鬼頭誠 一氏である。鬼頭さんとは親しくお付き合いをさせていただいており、 鬼頭さんが傘寿を迎えられた時にお祝いの会を有志でさせて頂いた。 2 0 0 1 年 6 月 2 2 日だった。この時に久松さんは病状も多少進展してお り、杖を使っておられたが、お 1 人で歩いて会場まで出てこられた。お 元気だった久松さんと酒を飲み歓談したのは、これが最後だった。 20 田年・ 6 新 22 に 久敬 ~ 郎 児頭誠 自宅で気療養中 2 リ年 2 月 23 日 墅頭誠・氏傘寿の況於 : 霞か関ミ片クラブ 佐藤 : 朗 赤須通 久松さんが現役を引退され 闘病生活に入られてから、 20 0 4 年 2 月 2 3 日に久松さんの お見舞いにお宅を訪問した。 の時には既に歩行困難な状況 であったが、頭は確りしており、 改めてパーキンソン病の恐ろ しさを再認識させられた。パー キンソン病の兆候が現れてから 20 年間の闘病生活と伺っているが、本 当に亡くしたくない方を見送ることになってしまった。長期にわたる久 松さんとの交友を有り難く感謝するとともに、久松さんのご冥福をお祈 り申し上げる。 39 ロ早
久松さんのお誕生日のパーティ ( 年月不詳 ) バンコクの旅の思い出暁の寺 = = : ! !
なる軍艦の組み合わせ方を考えて作られたという。それは速力と火力を 同じにする姉妹艦主義、および優速主義で、世界でも初めての着想であ ったとのことである。海軍の首脳は兵器の性能の信奉者であり、海上決 戦は性能と数字の優劣が勝敗を決するという点で、どの文明国の海軍指 導者よりも近代主義者であった。日本海海戦での日本側の損害は水雷艇 三隻。ロシア側は、戦艦八隻を含む大艦隊のほとんどが消滅した。この 戦いほど、完璧な勝利を完璧な形で生みあげたものは、かってなかった。 この海戦で戦ったある参謀は、戦後、なぜあんなに勝っことができた のかと問われて、六分どおり運でしようと答えた。それでは後の四分は、 と問い重ねられて、それも運でしよう。しかし前の六分はほんとうの運 だが、あとの四分は人間のカで開いた運です。と述べたという。 このような勝利に対する謙虚さに、私はあらためて感心させられた。 当時の賢明な指導者層は、薄氷を踏む思いで得た勝利の実態を、冷静に 識していたにちがいない。 い口 しかし、わずか二十数年後に、日本は満州事変を起こし、第二次世界 大戦の敗戦への道を歩んで行く。かってあれほど柔軟に、かっ正確に 事実を事実として把握しようとした日本は、いつの間にか変質し、硬直 化してしまった。われわれが歴史から学ぶというのは、このようなこと であろうか。司馬氏はあとがきの中で次のように述べている。「戦後の 日本は、この冷厳な相対関係 ( ロシアに辛勝したこと ) を国民に教えよう とせず、国民もそれを知ろうとしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日 本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴 呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂 騒の昭和期に入る。 ・・・敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂 気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などという ものはまことに不可思識なものである」。 ( 1976 年 3 月 4 日、 Family 誌 ) 21