月 - みる会図書館


検索対象: 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-
69件見つかりました。

1. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松敬一郎履歴書 昭和 29 年 2 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 入社 昭和 32 年 4 月 1 日吉沢会計機 ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 吉沢会計機のユニ . バック関連業務が、三井物産が米国ュニバックと合弁で設立した 日本レミントン・ユニバック ( 株 ) に移管されたことに伴い、昭和 33 年 3 月 31 日付 けで吉沢会言刊株 ) を退社、翌 4 月 1 日に新会社「日本レミントン・ユニバック ( 株 ) 」 に入複日本レミントン・ユニバック ( 株 ) は、昭和 43 年「日本ュニバック ( 株 ) 」 に社名変更。 昭和 33 年 4 月 1 日 昭和 33 年 8 月 1 日 昭和 35 年 3 月 25 日 昭和 36 年 10 月 1 日 昭和 37 年 4 日 1 日 昭和 40 年 4 月 1 日 昭和 41 年 4 月 1 日 昭和 43 年 4 月 1 日 昭和 44 年 4 月 1 日 昭和 45 年 2 月 1 日 昭和 46 年 2 月 1 月 昭和 46 年 4 月 1 日 昭和 50 年 2 月 1 日 昭和 53 年 4 月 1 日 昭和 54 年 6 月 28 日 昭和 56 年 4 月 1 日 昭和 5 9 年 4 月 1 日 昭和 60 年 6 月 27 日 昭和 60 年 8 月 1 日 平成元年 7 月 1 日 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課 日本ュニバック ( 株 ) 大阪支店ュニバック課係長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部技術第四課課長代理 日本ュニバック ( 株 ) 技術部長付兼技術教育課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部企画課長兼関連課長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部次長兼関連第一課長 日本ュニバック ( 株 ) 参事営業推進部技術部長心得 ( 部長代理待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 営業推進部技術部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 ( 次長待遇 ) 日本ュニバック ( 株 ) 人事本部長 ( 管理職一級 ) 日本ュニバック ( 株 ) カストマーサービス本部副本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・大阪支店長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役・カストマーサービス本部長 日本ュニバック ( 株 ) 取締役退任 日本ュニバック ( 株 ) 取締役就任 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術本部長 日本ュニバック ( 株 ) 技術部次長 ( 株 ) アルゴシステム 21 代表取締役会長 日本テクノシステム ( 株 ) 代表取締役社長 日本テクノシステム ( 株 ) と ( 株 ) アルゴ 21 が対等合併 平成 5 年 6 月 28 日 ( 株 ) アルゴテクノス 21 会長退任

2. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

・久松さんの折々の「思い」を綴った文書 久松さんの折々の「思い」を綴った文書 ( 発表年度順 ) * 1953 年 3 月 * 1957 年 8 月 * 2000 年 12 月 25 日 * 1988 年 3 月 23 日 * 1976 年 3 月 4 日 * 1970 年 4 月 20 日 * 1969 年 4 月 1 日 * 1968 年 11 月 1 日 * 1968 年 5 月 IO 日 : 感謝のことば一学部卒業にあたって一 : USSC について ( 発表誌不明 ) : パンフレット : C Z 運動のスタートに当りて : 巻頭言 ( FAMI LY ー 1 9 7 6 年 3 月 ) この一冊ー坂の上の雲ー司馬遼太郎 ( C Z NEWS ー NO. 2 0 ー ) : 昭和 4 5 年度技術本部活動方針と業務計画 ( C Z NEWS ー NO. 8 ー ) : 巻頭言「世界一のサービスを」 ( CZ NEWS ー NO. 4 ー ) 「ユニバックのチーム・プレー」 : 最高学部開学五十年 ( 学部開学のころ ) たもの ) 本稿は久松さんの執筆ではなく、同社記者が書い ( ザ・ディリー・ネットワークニュース、 1 2 2 5 号。 : 日本テクノ、第三者保守部門好調

3. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

1 9 6 3 年の 5 3 台、 4 5 ューザーがピークであった。 1 9 6 4 年以降、新 規設置は無く、最後の 1 台が稼動停止したのは 1972 年 ~ 73 年頃であ った。 USSC ハードウェア・サービスのトレーニング・コースには小原君 ( 現 複合システム事業部長 ) と久松の 2 名が参加した。コースは NewYork り、 lil lllion にある UNIVAC のスクールで、 1 9 5 9 年 3 月 2 日から同年 7 月 IO 日迄 19 週間行なわれた。 我々は渡航手続の遅れで 3 月 1 2 日に日本を出発、 3 週目の 3 月 1 6 日から参加した。コースの内容は、 Logic に 6 週間、 program に 3 週間、 I/O 実習に 2 週間、工場でのテスト参加に 8 週間であった。コース終 了後、調査、見学のため UNIVAC の各地工場、ユーザー等を訪問し、 8 月 5 日帰国した。 日本向け USSC の最初の 2 台は前述のように、 1 9 5 9 年 8 月、東芝と 日証金に設置された。搬入は東芝 ( 鶴見工場内計算センター ) の方が早 かったが、ドラム故障により 1 ヶ月以上も動かなかったため、実際の稼 動は日証金の方が早かった ( 8 月 1 8 日搬入、 9 月 1 日火入れ式 ) 。 本格的な中型コンピューター USSC の導入サポートのため、 UNIVAC からハードウェア・エンジニアの HansNeumeister 氏が来日し、 195 9 年 8 月から約 1 年間、ドイツ人らしい几帳面さで NUK の仕事をサポ ートして呉れた。 この年、日証金は USSC の設置、稼動を前提として証券代行業務を 開始していた。我々が帰国した 8 月にはすでに、八幡製鉄、富士製鉄外 IO 数社の株式業務の代行引受が決定していた。 USSC の初仕事はこれ らの会社が 1 1 月に開催する株主総会の招集通知、株式配当金支払通知 等の発行業務であった。もし USSC のハード / ソフトが期待通り動か なければ、日本でも有数の会社の株主総会が予定通り開催出来なくなる ところであった。日証金の USSC は、 2 ヶ月以上連続運転というハー 6

4. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんの想い出 赤須通雄 1944 年 ( 昭和 19 年 ) 4 月、私は自由学園男子部 ( 中学校 ) に 10 回生と して入学した。一年先輩の 9 回生に久松さんは在学していた。その後太 平洋戦争の激化に伴い、 1945 年の 2 月には 9 、 10 回生は学園が所有す る栃木県の那須農場に疎開した。この年の 8 月 15 日に終戦を迎えたが、 IO 月の収穫祭までは農場での作業に従事し、帰京した。それから 1950 年 3 月私が高等科 ( 高等学校 ) を終了し、社会に巣立つまでの 6 年間、久 松さんとは男子部でご一緒していた。男子部は一学年一クラスで、 20 ~ 30 人だったし、男子部は中高一貫教育だったので、全校生徒の顔と 名前は承知していた。久松さんは高等科終了後、自由学園の最高学部 ( 大 学 ) の一期生として進学した。自由学園男子部でご一緒した 6 年間は、 久松さんとの特別な思い出に残る出来事はなかった。 1950 年 ( 昭和 25 年 ) に、私は日本ュニバックの前身である「吉沢会 計機 ( 株 ) 」に入社し、 PCS の保守業務に従事していた。 1954 年 ( 昭和 2 9 年 ) に久松さんは大学卒として「吉沢会計機 ( 株 ) 」に入社し UNIVAC-60/120 の保守要員としてユニバック課に配属された。翌 1954 年 1 2 月には、私は仙台駐在員として仙台に赴任し、 1 9 5 6 年 1 月には 仙台から東京を通り越して大阪支店に転勤した。従って同じ会社に居な がら久松さんとの接触は全く無かった。 彼と一緒に仕事をする機会は、 1956 年 ( 昭和 31 年 ) の秋にインドネシ 一郎 当時のインドネシアはまだオランダ アへの海外出張という形で実現した。 久松敬 1956 年 10 月 27 日羽田空港にて 赤須通雄 の影響が強く、政府機関への PCS の 売り込みはオランダ UNIVAC の手 によって行われた。販売された内容 は UNIVAC- 120 を中心とする 3 型 の PCS 一式だった。 3 型の PCS は 戦後開発された新鋭機で、オランダ 31

5. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

第一回べンチャーオープン ゴノレフコン。 198 5 年 9 月 7 日。 於 : 鎌倉パプリック 入社の新人が一緒でした。 内旅行がありました。 41 年 記念写真。当時は年 2 回社 同上。磯部温泉。旅館の前で 妙義山にも登りました。 第 1 課 / 秋の社内旅行で。 昭和 41 年 10 月 16 日。関連

6. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんの思い出 志村丈郎 私と久松さんの出会いは、昭和 33 年 2 月当時吉沢会計機勤務小生の大 阪支店転勤により西宮市甲子園寮にお世話になる事からはじまりまし た。当時の寮長は、妹川さんだ。たと思いますが、彼から 2 階一番奥の 久松さんの部屋に入ってください、と言われました。 4 月に日本レミン トンユニバックに社名が変わりましたが、独身寮はそのまま継続して、 久松さんと同室も変わらず、寝食を共にさせて頂きました。久松さんは、 沈着冷静、クールと申しますか物静かで、帰寮された夜の時間や休日も よく本を読んでいられ、よい刺激を受けた記憶が残っております。 久松さんが違。た一面を見せて頂いたのが、次のエピソードです。某月 某日、「志村君、東京に出張しますから後よろしくね」。多分一週間ぐら いだったかな、何ごともなく東京から帰られ「お帰りなさい、あれ、お 顔どうされました ? 」久松さんのロ許に大きなオデキが出来て大変痛た そうでしたが、若気のいたり。そのまま「残念でしたね。それでは彼女 にキスもしてもらえなくて」。一瞬、雰囲気が変わり、心なしか久松さ んの顔色も変化。っかっかと私のそばまで来られ一あれ殴られるかなー あの大きな手で背中を一発。 その時の久松さんの表情は、何とも言い難い複雑な顔でした。今迄のク ールな人から全然違った一面、よい人間味を垣間見ました。翌年の 2 月 にアメリカに出張との事で寮を出られ、東京に移られました。一年弱生 活を共にさせて頂いた青春の一ページ。訃報をお聞きした時に自然に思 い出されました。ご冥福をお祈り申し上げます。 50

7. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

今、改めてスナップ写真を見ると久松さんは血気盛りの子供の修学旅 行で、はしゃいでいる子供たちを静かに見守っている先生のように見え ますね。 更にはあの一通の電報は我々 4 名に対しての慰労の気配りだったの ですね。 翌日、森田、広野両君は受講地の UTICA に移動のため全員で駅まで見 送り、その後、我々 4 名と久松、広末 さんの 6 名で国連ビルを見物、夕刻、 我々 4 名はフィラに戻り楽しい「 NY の休日」は終わりました。 7 月上旬、第 2 陣がフィラの第 1 陣 と合流し、 8 月には石光、武井両君が 日本での技術講習のため、帰国第 1 陣 としてフィラを離れ、残った秋元、増 田、森田、広野はピッツバーグの US スチールで INSTALLATION を実習し、 9 月下旬帰国。 昭和 38 年 5 月に、野村證券、山一證券を皮切りに 14 システムが導入 され、コンカレント・オペレーションの大型電子計算機の名を欲しい儘 にした。シフト勤務が定常化し、山一證券、労働省での開所式での失敗、 野村證券、東京ガス等の大きなトラブルも今では懐かしい思い出です。 久松さん、その節は大変お世話になり有難うございました。 安らかにお休みください。 、 0 第 4 連ヒつ物朝 秋元広未行を久気井 42

8. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

早いものであれから 3 1 年が経過し、 3 名が霊界入りし、廣末力と赤 須通雄の 2 名が生き残っている。上記 5 名と、非常勤ではあるがわれわ れ 5 名と一緒に取締役に選任された方が、元三井物産副社長の故鬼頭誠 一氏である。鬼頭さんとは親しくお付き合いをさせていただいており、 鬼頭さんが傘寿を迎えられた時にお祝いの会を有志でさせて頂いた。 2 0 0 1 年 6 月 2 2 日だった。この時に久松さんは病状も多少進展してお り、杖を使っておられたが、お 1 人で歩いて会場まで出てこられた。お 元気だった久松さんと酒を飲み歓談したのは、これが最後だった。 20 田年・ 6 新 22 に 久敬 ~ 郎 児頭誠 自宅で気療養中 2 リ年 2 月 23 日 墅頭誠・氏傘寿の況於 : 霞か関ミ片クラブ 佐藤 : 朗 赤須通 久松さんが現役を引退され 闘病生活に入られてから、 20 0 4 年 2 月 2 3 日に久松さんの お見舞いにお宅を訪問した。 の時には既に歩行困難な状況 であったが、頭は確りしており、 改めてパーキンソン病の恐ろ しさを再認識させられた。パー キンソン病の兆候が現れてから 20 年間の闘病生活と伺っているが、本 当に亡くしたくない方を見送ることになってしまった。長期にわたる久 松さんとの交友を有り難く感謝するとともに、久松さんのご冥福をお祈 り申し上げる。 39 ロ早

9. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

昭和 31 年 10 月 27 日久松・赤須のインドネシア出張を見送りに来られた方々と羽田空港にて 矢田芳江田中博子植木政子辺静枝福永保子久松敬一郎福田松江赤須通雄富田和夫田中重男渡辺明田中稔 には保守を担当する技術者が居ないと言うことで、日本に援助要請があ ったとのことであった。真相はアメリカに要請したが、費用面での話し 合いがっかず、日本に要請がきたとのことである。 UNIVAC-120 の技 術者は UNIVAC 課の久松敬一郎が選任されたが、 pcs 対応は東京に適 任者無という 昭和 31 年 1 1 月インドネシア政府に納入された UNIVAC ー 120 を背景に ( 久松敬一郎、赤須通雄、現地 S ね ff のアン ) ことで、大阪の 赤須通雄にお 鉢が回ってき たとのことで あった。奇しく も自由学園コ ンビでのイン ドネシア出張 となった。 △をを、 32

10. 久松 敬一郎さん ―折々の「思い」と「想い出」と-

久松さんを偲んで 矢沢 祥弘 久松さんの訃報はショックでした。 かれこれ、 20 年近くお会いしておりませんでした。体調がすぐれな いと伺っておりましたので、もうお会い出来ないだろうと思ってはおり ましたが、訃報に改めて大切な先輩を失ったのだなと感じました。 1 0 年ほど前になりますが、「もとゆに」の「へぼ碁会」にお誘いの電話 を掛けた時にお声を聞いたのが最後でした。懐かしいあの声でした。 昭和 3 5 年 4 月に学校を出て、日本レミントン・ユニバックに入社、 技術部技術 4 課に配属された時の課長が久松さんでした。当時は福吉町 に本社があり、技術部は別館の 2 階が事務所でした。 以降、昭和 60 年に日本ュニバックを退職するまでの 25 年の大半を久 松さんの傘下で仕事をしてきました。その後、日本テクノシステムでも 1 年余りお世話になりました。 日本テクノシステム ( 株 ) の久松さん ( 社長 ) と長尾さん ( 副社 長 ) 。 1985 年 8 月 15 日。 ( 取締役会か部長会 ) 65