努力の成果として、昭和 32 年は客先へのシステムの搬入が相次いだ。 私は、技術課の責任者として客先対応の人材の確保と営業サポートに追 われていた。システムには UNIVAC-60/120 が中心機器として含まれて いるケースが多く、大阪支店にも UNIVAC 課が新設され、中心人物と して久松さんが大阪に転勤した。大阪での思い出は、毎晩のように飲み 歩いては仕事の情報交換に精出したことである。 昭和 33 年の IO 月には、 UFC の導入準備のために松山俊介、森正宗、 妹川和夫と私の 4 名が米国 NY 州の北部に位置するユティカ市の UNIVAC-UFC トレーニング学校に長期出張した。当時の日本はまだま だ貧乏で、外貨の割り当てがもらえず、米国 UNIVAC のギャランティ で米国 UNIVAC より日当 $ IO の支給を受けると言うことで政府の許可 を得ての出張だった。翌昭和 34 年の 3 月には、ユティカ市の隣村にあ るイリオンの USSC トレーニング学校に、久松敬一郎、小原脩司の 2 名が長期出張してきた。ュティカ組の 4 名は、日当の範囲で生活できる よう YMCA に週決め料金で宿泊していた。また、運良く奥さんが日本 人の家族と知り合いになり、大変お世話になった。また UFC の別のク ラスに日本語が結構達者な二世がいて我々と殆ど一緒に行動していた。 当然の成り行きで、ウィークエンドにはイリオン組の 2 名もバスでユティ 力に遊びにきており、 7 名でのウィークエンドは結構楽しく過ごすこと ができた。 帰国後は、新機種の受け入れ準備、受け入れ、要員の教育等々に追 い回されて連日夜遅くまで良く体が持ったという日々の連続で、久松さ んと会うことも余りなかったと思う。 昭和 35 年 ~ 36 年は、急拡大を続ける事業を如何に乗り切るかの検討 が始まり、久松さんも私も技術部門の意思決定ボードの一員として連日 喧々諤々の議論を行っていた。彼は何事にも慎重で重みのある意見を出 す人で、奥の深い大人物の風格を備えていた。 35
昭和 31 年 10 月 27 日久松・赤須のインドネシア出張を見送りに来られた方々と羽田空港にて 矢田芳江田中博子植木政子辺静枝福永保子久松敬一郎福田松江赤須通雄富田和夫田中重男渡辺明田中稔 には保守を担当する技術者が居ないと言うことで、日本に援助要請があ ったとのことであった。真相はアメリカに要請したが、費用面での話し 合いがっかず、日本に要請がきたとのことである。 UNIVAC-120 の技 術者は UNIVAC 課の久松敬一郎が選任されたが、 pcs 対応は東京に適 任者無という 昭和 31 年 1 1 月インドネシア政府に納入された UNIVAC ー 120 を背景に ( 久松敬一郎、赤須通雄、現地 S ね ff のアン ) ことで、大阪の 赤須通雄にお 鉢が回ってき たとのことで あった。奇しく も自由学園コ ンビでのイン ドネシア出張 となった。 △をを、 32
USSC(=Univac Solid-State Computer) について USSC の前身は 1956 年米空軍に納められた UNIVAC AF/CRC (Air Eorce/Cambridge Research Center) Magnetic Computer である。 ーターは論理素子に超小型の磁気増幅器 ( 商品名 のコンピュ "FERRACTER ” ) とゲルマニウム・ダイオードを使用し、脱真空管世 代の先頭を切った機械であった。またメモリに高速磁気ドラムを使用し たのも、新しい技術であった。この Magnetic Computer は、入出力装 置が紙テープとタイプライターだけの簡単な構成であったが、従来の真 空管式コンピューターに較べると、高速性、信頼性、コンパクトなサイ ズという点で画期的な機械であった。 USSC はこの Magnetic Computer に、汎用機としての入出力装置を 付け、かっドラム容量を大きくし、演算速度を上げたコンピューターで ある。基本的にはカード・べースの機械であったが、後に磁気テープ、 紙テープ、大容量ドラム (RANDEX) 等も付くようになった。 発表は 1957 年、初出荷は 1958 年夏で西ドイツのドレスデン銀行に 設置された。 この当時は UCT (=Univac Calculating Tabulator) と呼ばれていた。 日本における USSC の発表は 1958 年であったが、最初は技術的な詳 細が殆ど分らず客先説明にも苦心することばかりであった。同年 10 月に 米国 UNIVAC からエンジニア、 D. W. W ⅱ so Ⅱ氏が来日し、主要客先を 集めて USSC の説明会を行なった。これが USSC の実際上の発表会で あった。日本における初設置は 1 9 5 9 年 8 月、日本証券金融 ( 日証金 ) 及び東芝の 2 台であった。 USSC は当時中型コンビューターとしては抜群の高性能を有してい た。入出力装置とのバランスも良く、またその高速性が大きな特徴であ った。例えば、 1 0 桁の加減算の所要時間は 8 5 ″ s であるが、これを USSC より後に出て来た IBM の代表的機種 1401 ( 中型 ) の 230 ″ s 、 7070 ( 超大型 ) の 60 ″ s と較べて見ても、中型機 USSC の優れている ことが分る。 4
ドなスケジュールにもかかわらず、ほゞ順調に稼動して無事仕事を仕上 げ、最初の大きな山を越えることが出来た。 USSC の特徴である高速ドラムは、ヘリウムガスを封入したケースの 中に入っており、前述の東芝の時のように一旦故障すると、米国に返送 して修理するより外、方法が無かった。またこのドラムは USSC の型 によって 90 欄 / 80 欄用、 5000 語 / 9200 語用等と種類がいくつもあ り、故障から返送・入手迄に 3 ~ 5 ヶ月も時間がかかることと併せて、 スペア・ドラムの管理は非常に気を使う仕事であった。 LP 計算のこと UNIVAC の工場で USSC の調整及びテストを行なっていた 1959 年 6 月中旬に、日本から難問が一つ持ち込まれた。客先 ( 三菱石油 ) から、 USSC を使って LP 計算をやって見て欲しい、という強い要望があり米 国で何とか出来ないか、という依頼である。 UNIVAC のデータセンター に依頼するのは、費用や我々のスケジュールから見て論外であったが、 丁度、工場では日本向けの USSC の調整が 8 分通り出来上がっており、 これを使うことにして計算を引き受けた。一方、日本側では柳生君 ( 現応用ソフトウェア部長 ) を中心とするグループが、初めての lnternal program Machine に取組み、 LP 計算の Program を書き上げ た。以下柳生君のメモを引用する。 。。「 UNIVAC Solid-State での LP 経験」 1 . ModeI の大きさは 50 x 60 程度 2 . program は浮動小数点演算、 lnterpreter を用いた求解部、 Machine Code による入出力部、合わせて 2 , 000 statements 程。 3 . Programmer は全部で 5 人程、勿論 program を実際に run させ た経験は無し。机上の経験も全員 2 年未満。 4 . program の机上検査を徹底してやったが、 1 , 2 ヶ所の誤りのた め、入力 data を印書し、求解に入った後、停止した。出力はかな り凝った様式であったが、正しく印書されていた。 7
久松さんの想い出 赤須通雄 1944 年 ( 昭和 19 年 ) 4 月、私は自由学園男子部 ( 中学校 ) に 10 回生と して入学した。一年先輩の 9 回生に久松さんは在学していた。その後太 平洋戦争の激化に伴い、 1945 年の 2 月には 9 、 10 回生は学園が所有す る栃木県の那須農場に疎開した。この年の 8 月 15 日に終戦を迎えたが、 IO 月の収穫祭までは農場での作業に従事し、帰京した。それから 1950 年 3 月私が高等科 ( 高等学校 ) を終了し、社会に巣立つまでの 6 年間、久 松さんとは男子部でご一緒していた。男子部は一学年一クラスで、 20 ~ 30 人だったし、男子部は中高一貫教育だったので、全校生徒の顔と 名前は承知していた。久松さんは高等科終了後、自由学園の最高学部 ( 大 学 ) の一期生として進学した。自由学園男子部でご一緒した 6 年間は、 久松さんとの特別な思い出に残る出来事はなかった。 1950 年 ( 昭和 25 年 ) に、私は日本ュニバックの前身である「吉沢会 計機 ( 株 ) 」に入社し、 PCS の保守業務に従事していた。 1954 年 ( 昭和 2 9 年 ) に久松さんは大学卒として「吉沢会計機 ( 株 ) 」に入社し UNIVAC-60/120 の保守要員としてユニバック課に配属された。翌 1954 年 1 2 月には、私は仙台駐在員として仙台に赴任し、 1 9 5 6 年 1 月には 仙台から東京を通り越して大阪支店に転勤した。従って同じ会社に居な がら久松さんとの接触は全く無かった。 彼と一緒に仕事をする機会は、 1956 年 ( 昭和 31 年 ) の秋にインドネシ 一郎 当時のインドネシアはまだオランダ アへの海外出張という形で実現した。 久松敬 1956 年 10 月 27 日羽田空港にて 赤須通雄 の影響が強く、政府機関への PCS の 売り込みはオランダ UNIVAC の手 によって行われた。販売された内容 は UNIVAC- 120 を中心とする 3 型 の PCS 一式だった。 3 型の PCS は 戦後開発された新鋭機で、オランダ 31
1 9 6 3 年の 5 3 台、 4 5 ューザーがピークであった。 1 9 6 4 年以降、新 規設置は無く、最後の 1 台が稼動停止したのは 1972 年 ~ 73 年頃であ った。 USSC ハードウェア・サービスのトレーニング・コースには小原君 ( 現 複合システム事業部長 ) と久松の 2 名が参加した。コースは NewYork り、 lil lllion にある UNIVAC のスクールで、 1 9 5 9 年 3 月 2 日から同年 7 月 IO 日迄 19 週間行なわれた。 我々は渡航手続の遅れで 3 月 1 2 日に日本を出発、 3 週目の 3 月 1 6 日から参加した。コースの内容は、 Logic に 6 週間、 program に 3 週間、 I/O 実習に 2 週間、工場でのテスト参加に 8 週間であった。コース終 了後、調査、見学のため UNIVAC の各地工場、ユーザー等を訪問し、 8 月 5 日帰国した。 日本向け USSC の最初の 2 台は前述のように、 1 9 5 9 年 8 月、東芝と 日証金に設置された。搬入は東芝 ( 鶴見工場内計算センター ) の方が早 かったが、ドラム故障により 1 ヶ月以上も動かなかったため、実際の稼 動は日証金の方が早かった ( 8 月 1 8 日搬入、 9 月 1 日火入れ式 ) 。 本格的な中型コンピューター USSC の導入サポートのため、 UNIVAC からハードウェア・エンジニアの HansNeumeister 氏が来日し、 195 9 年 8 月から約 1 年間、ドイツ人らしい几帳面さで NUK の仕事をサポ ートして呉れた。 この年、日証金は USSC の設置、稼動を前提として証券代行業務を 開始していた。我々が帰国した 8 月にはすでに、八幡製鉄、富士製鉄外 IO 数社の株式業務の代行引受が決定していた。 USSC の初仕事はこれ らの会社が 1 1 月に開催する株主総会の招集通知、株式配当金支払通知 等の発行業務であった。もし USSC のハード / ソフトが期待通り動か なければ、日本でも有数の会社の株主総会が予定通り開催出来なくなる ところであった。日証金の USSC は、 2 ヶ月以上連続運転というハー 6
( 自由学園資料室 提供 ) 。全長、 10 , 第、、 メートルほど。毎 3 を差 : きま 学生時代の久松さ た姿を思い出しま データを取ってい 日、水を流しては、 47 は「元気か、困ったことはないか」などと、声をかけていただきました。 導と受ける立場ではありませんでした。しかし、ときたま会ったときに は担当した機種も、久松さんは USSC 、私は UFC と異なり、直接ご指 た ) ので、また、勤務地が東京と大阪に分かれていたり、さらに、後に UNIVAC120 の保守、私は同じコンピュータのプログラマでしたのでし 入社後は、技術とシステムに分かれたために ( 当時、久松さんは ピュータのエンジニアとは、どこで、いつ、身につけたのでしようか。 は、電気とか電子を勉強している様子はありませんでした。それが、コン
昭和 3 7 年にム 社組織に本部制が とりいれられ、営 業本部と技術本部 に営業・技術のス タッフ機能が取り まとめられた。ラ イン部門は営業 所・支店に営業 / 技 術が配属された。 1962 年技術本部の社内旅行 技術本部に新たに 「関連課」という組織が新設された。この関連課という名称は初代課長 の久松さんが名付け親である。機能としては、米国 UNIVAC の FE(CE) が持っていたエンジニアリング・リエイゾンをイメージしていたが適当 な日本語の名称が思い浮かばず、久松さんが名づけることになったもの である。後のテクオペと類似の組織である。 技術本部の本部長には、親会社「三井物産」から出向された方が就任 していたが、本部長付として、久松さんか私が本部長を補佐して運営し ていた。その後久松さんと私がともに営業所に出た時には、長尾芳治が 技術本部に入り本部長補佐を行った。 久松敬一郎 長尾芳治 赤須通雄 36
Hardware-Software Gap 解消促進 主要機種について、 Diagnostic Software Specialist を育成すると同時に、技術員全 体の Software 知識のレベルを向上させる。 RepIace & Upgrade (R & U) オペレーション能率向上のため、旧型機、特 殊機の整理、オーバーホール、新型機種への Upgrade を計画し、積極的に営業本部及び Customer に働きかける。 8 . 検査 /QC 業務の整備 国内調達の機器、部品の受入検査、 QC 業 務を整備、 UNIVAC QUALITY を確保する。 9 . 技術本部オペレーション管理体制の整備 オペレーション・コストの正確な把握、リア ルタイム・システムが一般化した現状にマッチ したサービス方式、料金体系の検討等、生産性 向上の基礎となる諸業務を推進する。 7 . 6 . に検討、改善し、時間当りの作業密度を高め、 作業の内容、方法、スケジュール等を徹底的 1 0 . 時間使用の生産性向上 Tech. サポート 推進室 Tech. サポート Tech. サポート Tech. サポート 技本各部 過度の残業を解消する等、 活用を計る。 ( 注 ) マンパワーの有効 技 / サービス : 技術サービス統轄部 ーツ・センター部 Tech. サポート : テクニカル・サポート部 F. サポート : 技術フィールド・サポート ノヾーー : ン : ノヾ 19 推進室 : 生産性椎進室
久松さんの想い出 池田元久 久松さんには、私が日本レミントンユニバックに入社した年から、 久松さんが日本ュニバックをお辞めになった年まで、本当に長い間お 世話になりました。 病魔と闘っておられるとお聞きして以来、克服してお会い出来る日 が来てほしいと望んでおりました。「お会いしたいですね会」から開催 案内をお送りして、或る時は、出席して頂ける期待を持ったのですが、 叶わずに終わってしまい、残念でなりません。 私など技術の昭和 34 年入社組 ( 大卒 ) は UNIVAC 120 の 2 ヶ月半 の講習を福吉町の本社隣の別館で受け、直ちにフィールド出ました が、先輩たちは UFC や USSC の受講のために I-J ー 120 のサービスか ら次から次と引き上げるという状況でした。新人 6 名は、自身の駐在 サイトに出勤しても、他のお客先のトラブル対応に出向くことも多く なり、秋頃には都心は勿論、近郊も含めた対応にも関わる毎日となり ました。 ある日の夕方、トラブル解決が出来ず技術部 SOS の電話を掛け たところ、久松さんが出られたのです。お顔も知らない当時です。久 松さんはその時点では昼間の時間は USSC のインストラクターか、受 け入れ準備の業務をされていたと思いますが、夕方で席戻られたと ころという様子でした。私のトラブルの現象は何とも複雑で、説明も 要領を得なかったと思うのですが、久松さんからは一言「本体の右サ イドカバーを外して下の電源部の 3 / 8 Q の抵抗を取り替えてみたま え。」という指摘でした。この一言で何時間かを費やした悪戦苦闘は終 わりでした。 「知る」と「知らない」は雲泥の差と、スペシャリティの目標を知 らされた思いで、いまだに忘れられません。 43