第 5 部ユニバックあれこれ コンピュータから端末機ー、向けてデータを送信する時は、送信す るデータがあることを scs に通知し、 scs は指定された端末に送信 可能であれば、該当する ESI アドレスを CPU に返答し、 CPU は返答 された ES I アドレスにより 1 字分のデータを読み出し出力ラインに 乗せ同時に出力準備が出来たことを SCS へ通知する。 SCS はこの ESI アドレスに固有の IM を通して出力ラインに乗せられているデータ を、対応する通信回線に送り出すことが出来る。 〔注 : BCW の様式は機種によって若干異なる。上の記述は U Ⅵ VAC 494 に準拠しているが、例えば UNIVAC 490 では WC ではなくて TA (Terminal Address) となっており、データを記録したあと lA に 1 を加えて TA より大きくなれば割り込みが発生するようにな っている。〕 scs では 32 回線の通信回線は互いに独立しており、それぞれの 回線の端末側が必要な時にデータの送信を即時に実行することが出 来た。これは通信の望ましい自然な姿である。この方式をコンテン ション方式と呼び UNIVAC の通信の特徴であった。これに対して当 時の IBM は多数の端末を接続するためには、コンピュータ本体から 1 台ずつの端末機に、送信するデータの有無を順次に問い合わせ、 端末機が送信データを用意していればそれを吸い上げるポーリング 方式を採用せざるをえなかった。この方式は端末機側から見れば、 ータが御用聞きに来てくれるまで待っことになる。このこ コンヒュ とは真の意味でのリアルタイムを実現することが出来ず、特に軍関 連では、コンテンション方式が強く要望されていたと言う。 更に、コンテンション方式では送信と受信の IM が独立している ので全二重通信が可能であると言う利点があったが、ポーリング方 式では半二重通信のみであった。 322
1 1 UNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 11 UN Ⅳ AC のリアルタイムシステムを 支えた GCS の開発物語 赤須通雄 317 この文の作成に当たっては、多くの方々の協力を頂いた。 2 項の とと思いこの文を起こすことにした。 が苦労して積み上げてきた足跡を、記録に留めることも価値あるこ になりかけている。オンライン、リアルタイムの実現のために先人 度で進み、今日ではオンライン、リアルタイムと言った言葉は死語 僅か 40 ~ 50 年の間に、コンピュータと通信の融合は信じがたい速 いる。 進み、いまやインターネットが情報通信分野でのインフラとなって 能とし、通信のデジタル化が急速に普及しコ , ンピュータとの融合が らに 1970 年代末に実用化された光通信が大容量の情報の伝達を可 発が開始された。今日のインターネットの元となるものである。さ より保護する仕組みとして 1968 年に米国国防省による ARPANET の開 一方通信の分野では、国の神経系である電気通信を、国防の観点 し世の中の全ての分野での変化を後押しした。 パイダル現象を引き起こし、コンピュータの利用技術の進歩と共振 れ、これらの技術を活用したコンピュータの性能の向上が、正のス 積回路に代表されるマイクロエレクトロニクス技術の進歩が加速さ 能の向上に拍車を掛けた。コンヒ。ュータを活用することにより、集 ランジスタの発明と、 1958 年の集積回路の発明がコンビュータの性 世の中の変化は、それこそ激動といえるものであった。 1947 年のト 20 世紀後半、人類がコンピュータを道具として使い始めてからの まえがき
第 5 部ユニバックあれこれ る入出力装置の数はチャネルの数と同じである ( マルチプレクサチ ャネルを使用した場合には、接続できる入出力装置の数は増やせる が、チャネル当たり同時に制御出来る装置は 1 台に限定される ) 。オ ンラインシステムでは、接続される端末の数は入出力チャネルの数 をはるかに上回る台数となる。当時の UNIVAC のコンヒ。ュータで通 信を行うには、通信制御装置 scs を介して通信回線と接続していた。 SCS はコンビュータのチャネルに接続する CTMC (communication Terminal Module Controller) 、通信回線に接続する IM(Interface Module ) 、及びコンピュータの入出力チャネルを拡張し多数の端末装 置を接続できるようにする CTM(Communication Termina1 Modu1e) に より構成されていた。 CTM は最大 16 個まで CTMC の下に構成するこ とが出来、通信回線に対応させていた。 1 組の通信回線には送信機 能と受信機能のそれぞれの IM を持っ構成になっていた。したがって 1 台の SCS には送伊 伊各々 32 個の計 64 個の IM があり、最 ロ、 -. ヌ - ロ、 大 32 回線を収容することができた ( ハードウェア概念図参照 ) scs の構成の概念は次図参照 ユ七ュータ チャネル ←端末進信可泉信制御装罟 GOS ) パッコ自域 喘末自 CTM 1 喘末日 OTM 2 OP 凵 メモ」一 OTMO I 2 I 3 Ib'b4 OTM 16 喘末秤 N ードウェア概念図 320
第 5 部ュニバックあれこれ 4. 日本での電気通信行政 日本に於ける電気通信は、昭和 60 年 ( 1985 年 ) に通信の自由化が 行われるまで、 NTT ( 公社 ) が独占的に支配していた。したがって防衛 庁、国鉄等を除いた自社回線を保有していない会社がオンラインを 行うためには、 NTT の回線を借用する以外に方法はなかった。 しかも多くの制約があり、公衆通信網 ( 電話回線網 ) との接続は不 可であった。したがって価格の高い専用線の使用で同一会社の事業 所間の接続しか出来ず、子会社との接続も認められていなかった。 加えて接続する機器の制約もあり、 NTT の技術基準に合致した機器 以外の機器の接続は出来ず、勢い米国から輸入した機器は、 NTT 仕 様に合うように改造を加える必要があった。 ータ使用客先の増大と、データ伝送をオンラインで行う コンヒュ 業界からの要望が高まり、昭和 46 年 ( 1971 年 ) に通信回線の部分的 な自由化が行われた。この改正で、公衆電気通信法の中に「データ 通信」の項が新設された。内容は次の 2 点である。 「特定通信回線使用契約」 専用線を提供する場合は、従前の厳しい制約を緩和し、親企業 と下請け企業間、提携関係の企業相互間、企業グループ内の通 一般の加入電話・電信網にコンピュータを接続して、アータ通 信を行うことを認める。 「公衆通信回線使用契約」 信回線の共同利用を認める。 326 米国でも、通信はその性格上規制下での発展拡大を続けており、 5. 米国の電気通信政策 これでも米国に比較すれば、まだまだ制約の多い自由化であった。
第 2 章世界の情勢 以上に関する情報、資料及び収集した全ての資料は関連部署へ配 TELCOM' 83 依頼した 布の上検討を TELECOM' 83 と併行して FORUM' 83 と呼ばれる SYMPOSIUM が行 MITEL ・・・等を挙げることが出来る。 た会 : 社としては、 IBM 、 ITT 、 ATT 、日電、 NORTHERN TELECOM 、 PHILIPS 、 の PAVILIONSPACE 外に独自の展示場を持った大企業の内、目立っ 国の威信を掛けて力を入れているとの印象を強く感じた。又各国 社が展示に参加しており、参加各社の意気込みとは別に各国が自 国際電気通信連合が事務局を行っている。今回は 38 ヶ国、約 700 展示会であり、 ITU(International Tele Communication Union) TELECOM' 83 は 4 年に一回開催される 4 回目の前世界総合通信 内容 : 視察員 : 赤須、中山、中西、萬澤 開催日 : 10 月 25 日 ~ 11 月 1 日 (New Exhibition and Conference Center GENEVA SWITZER LAND) われており、 PART I PART Ⅱ PART Ⅲ・ この SYMPOSIUM は、 POLICY/ECONOMIC/FINANCIAL TECHNICAL LEGAL ASPECTS OF INTERNATIONAL COMM. の 3 部構成で行われていた。我々は PARTI 及び PART Ⅱに部分的に 参加したが、特に PARTI の講演者は豪華絢爛である。 OPENING ADDRESS を行った ATT 会長を始めとする各国のコモンキャリアの 201 ー、ルー、フィリピン、マレーシア、シ 責任者 ( ( オーストラリア、フランス、英国、カナダ、米国 (ATT 社 長他 ) 、スイス、イタリー
11 UNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 規制のないコンビ = ータ市場とは異なっていた。 ( 日本でもコンビ = ータは非規制であったが、行政指導という名の下にコンピ = ータの 輸入に関しては厳しい行政介入が行われていた。 ) 技術革新の潮流のなかで、電子計算機と通信との結合による利用 が拡大を開始した時期で、情報処理事業者がデータ処理と通信とを 複合したサービス「高度サービス」を開始するに及び規制と非規制 が大きな問題になりはじめていた。最大の問題は当時米国での通信 事業の支配的事業者であった AT & T の「高度サービス」事業 , 、の参入 の可否であり AT&T の「高度サービス」事業 , 、の参入は規制対象とさ れた。 1970 ( S45 ) 年に FCC (Federal communications commission : 連邦 通信委員会 ) は高度サービス ( データ処理と通信とを複合したサー ビス ) に関する提供条件を定めるためにンピ = ータ調査を開始した。 ① 1971 ( S46 ) 年に「第 1 次コンピュ ータ調査裁定」が出された。 内容は「通信を主とするものは規制、データ処理を主とするもの は非規制」であった。この時点では AT & T の高度サービス , 、の参入 は認められていない。 ② 1980 ( S55 ) 年に「第 2 次コンピュ ータ調査裁定」が出された。 この裁定で「基本サービス / 高度サービス」の概念の規定が行わ れた。同時にそれまで高度サービスー、の参入を規制されていた AT&T に対し、分離子会社設立により高度サービスの提供を行うこ とが認められた。 ( 所謂「分離子会社要件」である。 ) ③ 1984 ( S59 ) 年に独禁法の関連で AT & T の分割が行われた。 ④ 1986 (S61 ) 年 6 月に「第 3 次コンピュ ータ調査第 1 次裁定」が出 された。 AT&T の分割が行われ、米国の電気通信に競争原理が働き始めた と並びに「分離子会社要件」は米国の電気通信会社の発展の阻害 327
ータ業界では「日本ュニバック」に 34 年間勤務し、 コン・ヒュ 電気通信業界では「共同 VAN( 後に CSK ネットワークシステムズ に社名変更 ) 」に 14 年間勤務し、その後もテレコムサービス協会 に関係しているので、電気通信業界に約 20 年関係していること になる。 コンピ = ータの黎明期と、通信の自由化による競争社会一、の黎明 期の両方の経験を持っていることは、時代と言う、デジタル化の 進展に伴い、コンピ = ータと通信の本格的な融合が行なわれている 今日では、貴重な経歴の持ち主である。 私と U N ー VAC 日本における電子計算機の歴史 2006 年 12 月 16 日 編著お会いしたいですね会代表赤須通雄 発行お会いしたいですね会 午可なく複製転載を禁じます 一三ロ
第 8 章商品開発 末に秋元は大変な苦労をすることになってしまった。 8. 2 GCS 通信制御システム ( 1 ) 背景 IC 化の潮流にも拘わらず、 UNIVAC の主力機種である通信制御装置 は SCS(Standard Communication Subsystem) というトランジスタ ダイオードの旧型装置でこれに変わる装置の開発計画はなかった。 オンラインが普及し、システムに接続する回線数が増えるに従い、 scs の価格並びに設置面積は UNIVAC 1100 システムの競争力の足を 引っ張り始めていた。 さらに接続端末は多岐に渡り、通信プロトコルも種類が増えていた。 これら装置の接続をソフトウェアで対応するのは、その開発工数も さることながら、処理パフォーマンスの問題もあり、通信制御装置 での対応が嘱望されていた。 ( 2 ) HCS 通信制御に関する問題点を解消する目的で、 NUK 開発部は SCS の IC 化に対する検討を内々進めていた。当初、 HCS(HighPerformance communication system) の名称でプロトタイプを作成し各種テスト に入ったが、 UNIVAC ( スペロニ ) からの干渉が日に日に強くなり、 その対応に頭を悩ませていた。 ( 3 ) RPM こうした背景のもと、国鉄から地域間急行列車貨物情報管理シス テム ( UNIVAC490 システムで稼動していた ) のアップグレイドの要求 が出され、他社との競合入札になってしまった。 NUK は UNIVAC494 で新システムを提案していたが、客先の要望仕
第 5 章開発部門の立上げ は、標準製品と言う考え方がなく、注文主の要求に合わせて機器仕 様を決めていた。これは、通信に関する機器のほぼ全てを、独占公 社の NTT ( 分割民営化前の日本電信電話公社を指す ) が発注し、 NTT との共同開発と言う形に、日本の通信機器メーカーは全て因ってい たためと思われる。 NRU と組んだ沖電気も例外ではなく、 UNIVAC の 文化に浸っていた NRU と NTT 文化に浸っていた沖との考え方に関す るギャップは大きかった。したがって、標準のリアルタイム端末を 開発したい NRU と沖の意見調整はそう簡単なものではなく、数年の 年月を経ても実現できなかった。 このような環境の中でも、ユニバックのシステムに接続する端末 の開発は精力的に行われ、赤須も高崎の沖開発センターに頻繁に通 っている。 特に接続プロトコルに関しては、 IBM の半二重のポーリング制御 に対して、全二重制御のプロトコルを実現している。半二重のポー リング制御はホストがすべての主導権をもち、ホストの側で端末を 制御するのに対して、全二重制御ではホストと端末の主従関係はな く、全く対等の立場で通信が可能な極めて通信効率の高い方式であ り、ユニバックの大きな利点であった。しかしながら、当時の NRU 沖電気には全二重制御に関する経験が無かったため、接続プロト コルは白紙からの検討を余儀なくされた。特に障害発生時の対応を 如何にするかは、複数障害の同時発生等も考慮しなければならず、 大変に難しい問題を数多く抱えていた。 85
11 UNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 なることで解決をみた。また、基板メーカーとしては当時その第 1 人者と目されていた凸版印刷が引き受けてくれることで解決した。 ③モジュールの新規設計 大型基板の採用により当時開発部で使用していたモジュールを構 成する部品が使用できないため新規にモジュールを部品 ( コネクタ、 PCA ガイド、 PCA ハンドル等 ) から開発することとなった。 HCS の構成はホストコンピュータと通信制御部のなかだちをする CTCI 、 CTC2 の 2 枚の大型基板と通信制御用大型基板 CT ( 1 回線 1 枚 ) 32 枚と通信インタフェース (CI) 32 枚からなる。 CT は 2 つの外部と の接続が必要でありその 1 っ CTC との接続は統一された信号とヒ。ン アサインでバックボードを基板化することに成功した。然し、 32 回 線のワイヤオア ( 複数のデバイスからの出力をワイヤーで接続し 1 つのデバイスの入力にする回路でワイヤーのみで OR の論理回路を 構成するものをワイヤオアと呼ぶ ) のレシーパ・ドライバと平行した 長い信号線の相互干渉の解決には苦労したものの最終的にはドライ バ / レシーバ間を流れる電流値の最適化が、 T I 社が新たに出した Low-Power IC により解決された。もう 1 つの接続は通信回線部との 接続であり、多種の回線に対応しかっ CT の種類を最小にするため c I を別基板とすることでサイズは 9000 標準基板と同じとした。別 基板となった CI は CT 上にバックボード用コネクタと直角の位置に 殳けられたコネクタで CT と接続し通信ケープルで外部に出すこと となった。この形態は非常にユニークでありモジュールの設計は大 変だったと想像される。これ等の問題解決に当たっては田中のアイ デアとその実現のための実行力が大であった。 14. テストべンチでの HCS ロジックの接続テストを開始 scs では、 1 回線を制御する回路は一つのモジュールの半分を占め ており、バッケージの数で 20 枚位を占めていたが、 HCS では IC 化 337