第 2 章世界の情勢 馴染みやすい。 などが挙げられる。 P I CK ()S の販売チャネルは次図の通りとなっている。 PICK SYSTEMS (PICK OS の開発元 ) IRVINE, CA 社名 H/W 名 IBM CS9000 ()C 68000) , IBM 43XX, IBM 30XX, SMI ALL 370 Look a like H/W, IBM PC/XT CD I ULTIMATE ALTOS MICRODATA ADDS/NCR PERTEC DATAMEDIA RADIO SHARK SUMITOMO IBM SI, DEC LSI Ⅱ Honey Well Level 6 ALTOS ( 8086 ) REALITY ADDS (z 8000) PERTEC ()C 68000) DATAMEDIA ()C 68000) 上図にしめされている如く、 PICK オペレーティングシステムは、 Dick Pick が率いる PICK SYSTEMS が総販売権を持ち、 PICK OS を 走らせるための開発をした各社が、その H / w 毎に販売権を持って いる。 例えば、 IBM 43XX H/w と PICK OS を販売する場合は、 SMI 社と の Nego になるし、 UIS の H/w と PICK()S を販売する場合は、 PICK SYSTEM と直接の Nego となる。 日本への導入の実績はないと前述したが、住友グループのどこ かが ( Mr. Markowitz は SUMITOMO としか知らなかった。 ) PICK SYSTEM と直接コンタクトし契約したとのことなので近日中に導 207
第 3 部拡張 ( 2 ) IBM の世界へのベネトレーション 日本のコンヒ。ュータ市場は IBM 並びに IBM コンパチブルが市場の 圧倒的シェアを占めるように成ってきており、 NUK のシェアは年々 低下を余儀なくされていた。このまま推移すれば NUK は事業の縮小 に追い込まれると言う危機感から、 s E サービスをハードウェアに 依存したサービスから脱皮させ、全ての市場を対象に展開しようと 言う検討を開始した。これの準備として IBM の OS を始めとする I BM のソフトウェアの調査研究チームを発足させた。 今日ではこの様な考え方は常識となっており、日本ュニシスもそ の方向で動いている様であるが、どうも言い出したのが 10 年—20 年早かったようで UNIVAC の強硬な反対に抗し切れず、あたらマーケ ットチャンスを逃がしてしまった。 ラ 186
第 3 部拡張 ( 2 ) PNR システムの出現 PNR 座席予約システムは、在庫管理機能に加えて、予約された座 席の保有者の氏名・旅程 ( 乗り継ぎ便・復路便等の全ての搭乗予定 便 ) ・連絡先電話番号等を一括してコンヒ。 = ータに登録し、予約され た座席の管理精度向上と旅客ー、のサービス向上を主目的として開発 された。 その後、自動発券・セルフチ = ックイン・顧客管理等の発展に伴 い、 PNR 情報が様々な形で活用されることとなり、航空会社におい ては PNR の存在は「常識」となっている。 PNR 座席予約システムを最初に実現したのは、初の商用リアルタ イムシステムと同様にアメリカン航空である。それは航空業界・旅行 業界では世界的に有名な「 SABRE システム」 ( Semi-Automat i c Business-Related Environment) であり、 IBM 7()90 (CPU) と IBM 1301 ( Disk ) で構成され、昭和 38 年 ( 1963 年 ) に稼動した。 SABRE の経験に基づき、 IBM ューザーが相次いで PNR システムを開 発し、パンアメリカン航空の PANAMAC システム (IBM 704 の、デルタ 航空の DELTAMATIC システム (1BM7080) が昭和 39 年 ( 1964 年 ) に稼動 ( 3 ) IPARS vs USAS IBM は、上述 3 航空会社システムの開発経験に基づくとともに、当 時の最新テクノロジであるシステム 360 の技術を取り人れた、航空業 界全般を対象とする座席予約システムパッケージ PARS(Programmed Airline Reservation System) を開発した。 PARS では業務プログラム ( アプリケーションプログラム ) と制御プログラムが一体化された構 造となっていたが、その後制御プログラム部分、及び関連ューティリ ティが分離され、 ACP(Airline control Program) として独立した専用 OS となった。 ACP はその後 TPF(Transaction Processing Facility) 154
1 1 IJNIVAC のリアルタイムシステムを支えた GCS 開発物語 クで競技記録の集計、速報に IBM 1401 システムが使用されて成功 を収めオンラインシステムが実用になることが証明されたのであ る。これを契機に IBM と UNIVAC はオンラインシステムの熾烈な受 注合戦を繰り広げることになった。 後述するように当時 ( 1960 年代後半から 70 年代前半 ) は通信の 自由化以前の時代で、通信事業は電電公社 ( 現 NTT) が独占し、同 社の技術基準や機器認定制度等々外部制約が多々あり、加えてコン ピュータに通信を行わせるプロトコルの国際標準化も作業途上にあ ったので、 NUK では独自のプロトコルを制定するなど苦労が多かっ たが UNIVAC が持っリアルタイム機能の優秀さとハードウェア、ソ フトウェアの技術陣の創意工夫と努力に加えて営業陣の熱意により NUK は IBM を凌駕する実績を築きつつあった。 オンライン / リアルタイム時代の黎明期に何故 UNIVAC は IBM を 凌ぐことが出来たのだろうか ? それには幾つかの理由を挙げることが出来るが、何と言っても UNIVAC のハードウェアと OS が優秀であったことが第一に挙げられ よう。本章では IBM に無い UNIVAC のオンラインシステムの最大の 特徴、コンピュータと通信制御装置 scs (Standard Communication Sub ー system ) 間のデータの授受を制御する画期的方式 ( これは特許で もあった ) ESI モード (Externally Specified lndex Mode) につ いて簡単に紹介したい。 ESI 方式が何故画期的であったか。第 2 世代の UNIVAC のオンライ ン機能を持ったセントボール系のコンピ = ータの入出力は、入出力 装置を入出力チャネルに接続し、データの入出力は ISI(Interna11y Specified lndex) 方式、即ち、チャネルの番号に対応する入力用、 出力用の BCW(Buffer control word) により指定されたメモリ上のバ ッフア領域を通じて行なわれていた。したがって、同時に接続でき 319
第 9 章全日空プロジェクト と改名され、現在でも多くの IBM ューザー航空会社や銀行等で大量ト ランザクション処理 (l,000æ25,000 件 / 秒 ) の OS として利用され ている。 PARS システムのアプリケーションは、 IATA ( 国際航空運送協会 ) の提唱している航空会社間の座席予約標準プロセデュア ( AIRIMP ) に 準拠する機能を加えて、 IPARS(InternationaI PARS) に発展し、日本 航空、英国航空、 KLM 航空、ユナイテッド航空等々の多くの IBM ュ ーザー航空会社にて、 TPF とともに利用されている。尤も、 IBM 社に よる PARS/IPARS の機能拡張は行われておらず、先進航空会社が IPARS べースで各社固有のパッケージ化を行い、業務システムパッ ケージの販売 & サービス提供を行っているのが現状である。 一方 UNIVAC 社は 1960 年代に UNIVAC 418 、 UNIVAC 490 、 UNIVAC 494 というリアルタイム用の名コンピュータを世に送り出している。 座席予約システムとして UNIVAC 機を使用している先進航空会社 には、ノースウェスト航空、カナダ航空、フランス航空、ルフトハ ンザ航空、スカンジナビア航空等があり、 IBM ューザー航空会社と 肩を並べる拮抗した勢力を持っていた。 1960 年代後半での PARS/IPARS 出現を見て、 UNIVAC 社とノースウ ェスト航空が中心となり、 1973 年 ( 昭和 48 年 ) に米国ミネアポリ スに A0(Airline0perations) という組織を編成し、標準パッケージ 「 USAS 」 (UNIVAC Standard Airline System) の開発に着手した。 USAS の機能にはノースウェスト航空に加えて、当時の UNIVAC494 ューザ ーであるルフトハンザ航空、スカンジナビア航空、イベリア航空、 トランスオーストラリア航空の協力を得て、各社のシステムの優れ ている点を取り入れ、業界標準の AIRIMP に準拠する仕様で、座席予 約パッケージ及び航空メッセージスイッチングパッケージが開発さ れた。 IBM パッケージは業務機能部分 (IPARS) と大量トランザクション 155
第 5 部ユニバックあれこれ 5 私のユニバック四方山話・・・あれこれ 大戸真日呂 私がユニバックに入社したのは、昭和 39 年 ( 1964 年 ) であった。 その当時の社名は「日本レミントンユニバック」であった。 私はその当時「日本 IBM 」に入るつもりであったが「日本 IBM 」は 入社試験を年明けに行うと言うことで、しかも場合によっては新人 の採用はやらないかもしれないという不確定情報があったため、躊 躇していた。その時タイミング良くと言うか偶然にもユニバックに 入社していた先輩からユニバックに来ないかと言う強い誘いもあり 入社することにった。 当然、筆記と面接の入社試験はあったが無事クリアーできた。 しかし、電子計算機というものがどのようなもので、まして IBM とユニバックとがどう違うのか等々、会社の内容は良く分からない まま入社したのが実情であったような気がする。ただュニバックも IBM も英和辞典に単語として載っていたがその意味すら分かったよ うな、分からなかったようなことも記憶している。 入社後は約半年に及ぶ長い新人研修が待ち受けていた。 私の仕事は USSC (Univac solid state Computer) の保守であった。 その当時ソフトウェアという言葉があったか否かは定かではない が、プログラミングは機械語であった。 USSC は「 2 ー 5 進法」を採用していた。プログラムを読込む時 G2 ー F6 、 又は 72 ー 96 等という言語 ( 命令語 ) をコンソール画面から入力した ように記憶している。 ータの回路はトランジスタから I c (TTL) 、 ss 1 、 LS 1 、そ コン・ヒュ 272
第 9 章全日空プロジェクト の岡田の認識は、 ・ RTOS は、未熟で稼動の見込みが立たず、 UNIVAC 社全体の予 算も逼迫していること。 ( 全日空プロジェクトが RTOS のカ ギを握ることになること ) ・ Harry Sweere 率いる AirIine Operations (AO) は、 USAS を設計するためのノウハウはあるが、 PNR 座席予約のよう な大規模ソフトウェア開発については見通しが甘く、開発 責任者の ReganCampbell は、アプリケーションに強く勉強 もしているが、納期や移行についてはいささか感覚が古い ソフトウェアマンであること。 ・ローズビルには H i gh Vo lume OLTP のノウハウがないので、 EXEC8 のアーキテクチャでは実現不可能とされていること。 ・ 1 100 シリーズ標準 OS での PNR 座席予約システムの実現に は、世界の航空業界の座席予約関係者が強い関心、という より実現の可能性についての疑問を持っており、カットオ ーバー延期申し入れのタイミングを誤ると全日空社は「キ ャンセルー IBM 採用」の路線を取ると予想されること。 ( 事 実、日本 IBM も含め IBM は実現不可能と見ており、いずれ UNIVAC はギフ。アップして、全日空が IBM に泣きついてくると 判断していたことが、プロジェクト発足後すぐに分かった。 ) 昭和 50 年 ( 1975 年 ) の 4 月に全日空の内示を受け、いよいよ待っ た無しの窮地に追い込まれた営業は、 TOP 折衝で広末営業本部長が 赤須システム本部長に膝詰め談判で岡田の割愛を要請した。この結 果 5 月には業務命令で岡田は全日空プロジェクト部長に就任する。 またシステム本部は岡田の放出に伴いソフトウェア開発部を廃部せ ざるを得なかった。 岡田はプロジェクト部長就任後考えられるあらゆる手を打った。 165
第 3 章 IJNIVAC 1004 第 3 章 UN IVAC 1004 3. 5 受け入れ体制作り 3. 4 UN IVAC 1 004 のインストラクターズコース 3. 3 UN IVAC 1 004 カードプロセッサーの発表 3. 2 PCS について 3. 1 時代背景 3. 9 昭和 39 年度一 40 年度体制 3. 8 OUK ( 沖ユニバック株式会社 ) 発足 3. 7 RPM 制度のスタート 3. 6 UNIVAC 1004 サポートの為沖縄出張 3. 1 時代背景 高性能のタブレータの出現は NRU の願望でもあった。 IBM の 407 タフ。レータに苦杯を舐めさせられることが多くあった。 とほぼ互角に戦っていた。しかし、 UNIVAC の弱点はタブレータで、 pcs の世界では UNIVAC 120 の出現により、 NRU の健闘著しく IBM でしかなかった。 システムを持たないがために紙テープを入出力装置とした試作段階 れていた。国産各社のコンピュータ開発は開始されていたが、入力 したがって情報処理システムの分野は UNIVAC と IBM の 2 社に 2 分さ パンチカードに依存する pcs 全盛の時代であった。 システムは高嶺の花であり、コンピュータシステムのデータ入力は ていたが、まだまだ多くの企業にとって大型 / 中型のコンピュ この時代には一部企業ではコンピュータシステムの導入が始まっ
第 3 章 UNIVAC 1004 UNIVAC の PCS 工場 ( 当時は UNIVAC ではなく Remington Rand) は兵 器工場に転用され米国でも若干のブランク時代があったようである。 戦後米国でも開発が再開し 3 型の時代に移る。戦後の日本では、 米軍が IBM の pcs を携えて進駐し、中古市場一、の放出なども影響し IBM の pcs が急速に普及したために戦前の UNIVAC の優位は失われる ことになる。戦後は財閥の解体により U Ⅵ VAC の pcs の推進母体がな くなってしまったが、戦前の三井物産の担当課長だった吉澤審三郎 氏が吉澤会計機を起こし事業の再開をし、昭和 25 年 ( 1449 年 ) の 10 月にはモデル 3 の pcs の導入が再開されている。 当時の機械の構造は、 IBM は電気式、 UNIVAC は機械式であり、主 な相違は穿孔カードの読取りに、プラッシュを使って電気的に読み 取るか、ピンを使用して機械的に読み取るかの違いであり、性能面 での差はほとんどなく正確性では機械式の方が優れていたという指 摘もある。 このころから電子式と言われる真空管を利用した高性能の機械が 出現し始めた。最初はソーターで UNIVAC ではモデル 4 と言われてい た。それまでリレーを多用した計算穿孔機があったがこの分野の電 子化された機械が U Ⅵ VAC120 であり、日本初の商用電子計算機とし て昭和 29 年 ( 1954 年 ) に野村證券、東京証券取引所に導入された。 IBM も同種の機械を出していたが、読取り方式の違いにより性能差 は歴然としており、 U Ⅵ VAC のシェア拡大が続いた。前述したように U Ⅵ VAC の弱点はタブレータであり、モデル 4 の ( 電子化された ) 少 なくとも 120 桁の印刷容量を持つ「 4120 」 ( 4 型 120 桁 ) タフ。レータ の出現が切望されていた。 49
第 8 章商品開発 第 8 章商品開発 8. 1 8. 7 OEM MTU( 富士通 ) 8. 6 OEM HSP( 日立 ) 8. 5 OEM 8470 ディスク ( 日立 ) 8.4 DCP インテリジェント通信処理システム 8.3 バンガード (Vanguard) 並びにマッ / ヾ—(MAPPER) 8. 2 GCS 通信制御システム UNIVAC 1100 コンバチプルメモリーユニット 125 多くの IBM システムプラグコンパチプルメモリーユニットを開発販 感があった。米国市場では独禁法の制約を受けている IBM を狙って 一人 UNIVAC のみがプレイテッドワイヤメモリーに固執している ーに採用し、国産各社も追随していた。 製品が世に紹介され続けている。 IBM は逸早く DRAM をメインメモリ ほぼ 3 年毎に 4 倍すなわち 16K 、 64K 、 256K 、 IM 、 4M と集積度の高い 昭和 48 年 ( 1973 年 ) には 4K ビットの DRAM が各社より発表され、 ルから発売されたのを皮切りに、世界的に DRAM 開発競争が始まった。 昭和 46 年 ( 1971 年 ) に M()S LS 1 による IK ビットの DRAM がインテ ( 1 ) 背景 8. 1 UNIVAC 1100 コン / ヾチプルメモリーユニット くの日本での開発 (0EM を含む ) が行われるようになった。 昭和 48 年 ( 1973 年 ) 頃より、プロダクトギャップを埋めるための多 8. 9 0S3 コンバチプルコンピュータ 8.8 TlP(Transaction lnterface p 「 ogram ) 採用までの経緯