マラッカ海峡 - みる会図書館


検索対象: 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー
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1. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

ちらの武器は三分の一くらいイギリスに渡し、武器は足りないわけですから、なる べく早くマラッカ海峡を越えてマレー半島に上がりたい、そういう願いを出してお りました。 イギリスの艦隊もわれわれの主張に同調して手伝おうということになり、英巡洋 艦、駆逐艦各一隻が護衛してくれることになりました。駐屯地から軍港まで約三時 しんがり 間半かかりましたが、先鋒・中核・殿軍と部隊を整え、決死の行軍でアチェ地域か ら脱出したわけです。そして三艘の船に分乗してマラッカ海峡を越え、マレー半島 に帰ってきたのです。 マレー半島では、ジョホールバルとクアラルンプールのちょうど真ん中あたりに 位置するバトバハというゴム林の中に、南西方面艦隊の海軍の駐屯地がありました。 いちばん多いときで五万人、私の行ったときで三万五千人くらい。そこにわれわれ の部隊三千五百がいちばん最後に上陸して加わったわけです。 そこまではいし 、として、さて内地帰還、つまり復員はいつになるのか、全く分か らないわけです。しかも、食糧は自給しなければならない。捕虜でありましたから、 ジュネープ条約で必要な給与は決まっているのですが、英軍は「プリズナーズ・オ ソ プ・ウォー ( POW= 捕虜 ) 」ではなくて、「ジャパニーズ・サレンダード・ ネル」 ( 日本降伏人員 ) という国際法にない地位を作って、条約の規定より三割か

2. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

わけです。当時、海軍の短期現役という主計、法務、技術、医科などの専門分野が ありまして、大学の学部卒業者および高等文官試験合格者が受験資格でした。後者 の資格で受験したのですが、当時、三十人か四十人に一人という大変厳しい競争率 でした。その短期現役で合格し、翌年三月まで、第十期補習学生として海軍経理学 校で勉強しました。短期現役の主計で、中曽根康弘さんは八期ですから私の二年上 でした。早川崇さんなど政治家になられた内務省の先輩が何人もおられました。 それから、私が艦船に乗りたいと言っていたものですから、「大和」、「武蔵。に ず・い - か / 、 次ぐ三番艦で「瑞鶴」、これは戦艦の予定を航空母艦に造り替えた第三号艦ですが、 これに便乗して横須賀から当時昭南といわれていたシンガポールに参りました。そ ミッドウェー海戦などで次々に海 こで船待ちしていたのですが、ご存知のように、 軍の大機動部隊がやられて惨敗という戦況でしたから、船がないのですね。そこで、 スマトラ海軍部隊の副官として、シンガポールからスマトラ島のバンダアチェ、二 年前に地震、津波がありましたあそこから北方二十二キロのサバン島というところ へ飛行機で赴任しました。湾ロの非常に深い立派な港があって、インド洋作戦の根 拠地となったところです。 そこの部隊は三千五百名の部隊でしたが、横須賀、呉、佐世保鎮守府の三つの部 隊編成でして、会津若松からも私のドに下士官などが来ていました。芳賀君という