で、豪気な人で情の深い指揮官でした。この広瀬少将 ( のち中将 ) の下、先任参謀 と機関参謀がおり、私が副官、それに主計長、軍医長という顔ぶれでした。 ( ンダアチというところにいたアチ族というのは、オランダと百年戦争をや 0 たイスラム原理主義者の部族です。ですから大変に怖い部族の集落が集まっていた のです。イスラム経典『コーラン』の中に、「人を殺せば幸せになれる」と書いて ある。そういう部族のいるところがバンダアチで、つい最近、三年前まで独立運 動をやっておりました。 そのうち、わが部隊の主計長 ( 少佐 ) がメダンにある近衛第二師団に連絡に行き ました。いっ帰還できるか分からないため、陸海軍手を結んでどのように自活して 行くかという協議のためです。ところが、先ほど申しましたアチ族に闇討ちされ、 殺害されてしま「たのです。士官五名、下士官も合わせて十二名ほどでしたか、未 だに遭難当時の詳細は不明なのです。そこで、電報で私を主計長兼分隊長に発令し てもらってバ ハのキャンプ生活を送りました。糧食衣料補給の総責任者という 立場でしたので、正直申して大変な苦労がありました。 その部族の集落プランビンタンというところに移り、そこに四ヶ月ほど駐屯して おりましたが、周りからは「武器をよこせ」と言 0 てきてきかない。我が方も第一 南遣艦隊司令長官に打電するなど連絡し、このままでは部隊の安全が保てない。
四割少ない食糧しか与えてくれなかったのです。ですから、食べることにも労し たというわけです。 わが部隊が最後にキャンプに人ったものですから、復員は最後になると言われ、 第九特根 ( 特別根拠地 ) の主計長たる私は「最後に帰ります。と、キャンプの幕僚 会議で宣一言しました。そしたらもう一人、どうしても帰れない者がいたわけです。 第百一軍法会議というものがありまして、その法務官の高木文雄君、後の大蔵次官、 国鉄総裁で、今年亡くなり、私が弔辞を読んだのですが、彼は法務大尉で、刑務所 に悪いことをした兵隊を抱えている。「高木、お前のところは最終船だよ。お前も 一緒に残れ」と、彼を説き伏せて彼の部隊、七、八百名とともに最後まで二年半そ こにおったというわけです。 帰国、そして騒然たる北海道にて治安を護る 南十字星を仰いで、「望郷無限。の思いで二年四ヶ月を経たわけです。待ちに待っ た帰国の日が来たわけです。部隊の責任者たる主計長でしたから、嬉しいというよ りも、とにかく部隊全員が無事帰国できることを唯々願い、祈っている心境でした。 そして、シンガポールから台湾沖、花蓮港を経て、昭和二十二年の十二月、南方最 後の引き揚げ船で佐世保に帰ってまいりました。内務省は同年同月、占領軍の指令
わけです。当時、海軍の短期現役という主計、法務、技術、医科などの専門分野が ありまして、大学の学部卒業者および高等文官試験合格者が受験資格でした。後者 の資格で受験したのですが、当時、三十人か四十人に一人という大変厳しい競争率 でした。その短期現役で合格し、翌年三月まで、第十期補習学生として海軍経理学 校で勉強しました。短期現役の主計で、中曽根康弘さんは八期ですから私の二年上 でした。早川崇さんなど政治家になられた内務省の先輩が何人もおられました。 それから、私が艦船に乗りたいと言っていたものですから、「大和」、「武蔵。に ず・い - か / 、 次ぐ三番艦で「瑞鶴」、これは戦艦の予定を航空母艦に造り替えた第三号艦ですが、 これに便乗して横須賀から当時昭南といわれていたシンガポールに参りました。そ ミッドウェー海戦などで次々に海 こで船待ちしていたのですが、ご存知のように、 軍の大機動部隊がやられて惨敗という戦況でしたから、船がないのですね。そこで、 スマトラ海軍部隊の副官として、シンガポールからスマトラ島のバンダアチェ、二 年前に地震、津波がありましたあそこから北方二十二キロのサバン島というところ へ飛行機で赴任しました。湾ロの非常に深い立派な港があって、インド洋作戦の根 拠地となったところです。 そこの部隊は三千五百名の部隊でしたが、横須賀、呉、佐世保鎮守府の三つの部 隊編成でして、会津若松からも私のドに下士官などが来ていました。芳賀君という
東山で消防の分署長などやっていた人、荒木義雄君という商工会議所の専務理事が 私の下に主計下士官でおりました。 終戦まで二度にわたり、イギリスの東洋艦隊の戦艦二隻、航空母艦一隻、巡洋艦、 駆逐艦などの機動部隊による艦砲射撃と空爆を体験いたしました。いま思えば、実 に貴重な戦争体験です。上陸に備えて、全島十三の砲台と司令部はすべて地下壕で、 艦・空爆には耐えるように構築されておりました。二度の体験で、いよいよ真剣に 戦争という決死の気持が高揚してきたものでした。二十二歳の若者でしたから。 なんめい 南溟の孤島で敗戦を迎える そこに行ったのは昭和十九年でしたが、翌年八月十五日、敗戦になりまして、そ しゆらば こからが私の海軍生活の本当の修羅場が始まるわけです。 と申しますのは、ご存知のように、海軍は、「スマートで、目端が利いて、儿帳 ーでしたから、大変スマートであ 面、負けじ魂、これぞ船乗りーというのがモット ることが海軍士官としての躾でした。そういう意味では、私の人格形成の上でかけ がえのない体験の期間であったわけであります。 私の部隊は三千五百名という大部隊でしたから、これをどのようにして日本に帰 すか、大問題でした。司令官が広瀬末人という、あの広瀬中佐の姻戚になられる方 しつけ
を言い当てていると思います。小柄な人で、なかなかに剛直な、お酒の強いお方で した。わたしの前の在京会津高校同窓会長で、会津学生寮の理事長も永く務めてい ただいたのですよ。少々話しが横道にそれましたが。 そうこうしているうちに後藤田さんが辞められて、政界に出るということになり ます。そこで私に官房副長官をやれということになる。私に務まるわけがないとい うか、大変な仕事であることをよく知っていました。閣議にかける案件はすべて事 務次官会議で事前審議します。その会議を主宰するのが役目ですから、その事前と 事後の勉強が生半可なものではありません。よく耐えることができたと、いまも時 折独りになると往時が偲ばれます。優れた藤森昭一主席参事官 ( 現日本赤十字総裁 ) など、部下の人達が懸命に支え、助けてくれたからできたのだと、人間関係の大切 さをかみしめております。とにかくやれということでお引き受けしました。これほ ど心労の多い仕事はほかになかったと思います。 官房副長官としてお仕えしたのは田中内閣の後半と三木内閣の前半でしたが、電 電公社とか国鉄、専売などの「スト権ストーという問題が三木内閣の終焉近くでし たか、持ち上がりました。これらの組合がストライキ権をよこせと要求した問題で す。条件付きで付与するかしないかということになり、ソニーの盛田昭夫さん、総 そうそう 評の岩井章さんなど錚々たる方二十名ばかりにお願いをして、公共企業体等関係閣
講演者略歴 大正 11 年 2 月 27 日会津若松市にて誕生 昭和 17 年 10 月内務省入省・宮城県属兼警部 ( 見習 ) 海軍主計大尉で終戦 ( 昭和 22 年 12 月佐世保へ帰還 ) 札幌警察管区本部警備課長、東北管区警察局公安部長 在ューゴスラビア日本国大使館一等書記官 ( 3 年 9 ヶ月 ) 警察庁外事課長、警視庁公安部長、警察庁警備局長・警務局長 内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁 セントラル野球連盟会長 ( 13 年 ) 日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー ( 6 年 ) 現在、 ( 財 ) 本田財団理事長 自らを五明るー生かされて、愚直に生きる・ー 発行平成ト九年匕月匕日 島廣守 講演者 平成十八年ヒ月二十三日 於グランドアーク半蔵門 発行者川島廣守氏「野球殿堂人り」 記念講演実行委員会 久 代表谷澤 講演記録丹藤佳紀 編集・校正平石元明 表紙題字菊池良輝 発行所株式会社ニシギン 〒 , 新東京都新宿区百人町一下八・二 電話〇三ー三三六四ー一一四一 ( 代 )
ちらの武器は三分の一くらいイギリスに渡し、武器は足りないわけですから、なる べく早くマラッカ海峡を越えてマレー半島に上がりたい、そういう願いを出してお りました。 イギリスの艦隊もわれわれの主張に同調して手伝おうということになり、英巡洋 艦、駆逐艦各一隻が護衛してくれることになりました。駐屯地から軍港まで約三時 しんがり 間半かかりましたが、先鋒・中核・殿軍と部隊を整え、決死の行軍でアチェ地域か ら脱出したわけです。そして三艘の船に分乗してマラッカ海峡を越え、マレー半島 に帰ってきたのです。 マレー半島では、ジョホールバルとクアラルンプールのちょうど真ん中あたりに 位置するバトバハというゴム林の中に、南西方面艦隊の海軍の駐屯地がありました。 いちばん多いときで五万人、私の行ったときで三万五千人くらい。そこにわれわれ の部隊三千五百がいちばん最後に上陸して加わったわけです。 そこまではいし 、として、さて内地帰還、つまり復員はいつになるのか、全く分か らないわけです。しかも、食糧は自給しなければならない。捕虜でありましたから、 ジュネープ条約で必要な給与は決まっているのですが、英軍は「プリズナーズ・オ ソ プ・ウォー ( POW= 捕虜 ) 」ではなくて、「ジャパニーズ・サレンダード・ ネル」 ( 日本降伏人員 ) という国際法にない地位を作って、条約の規定より三割か
僚協議会の専門委員懇談会をつくって検討してもらいました。 そういう経過でしたが、私は、経営が「親方日の丸」ですからスト権はやるわけ 、よ、、経営形態を変えなければスト権は与えないという結論を出して、そ の線でまとめてもらいました。この間、新聞などは、「治安官僚・川島がいる限り スト権は労働者側に戻らない。と盛んに書き立てたりしましたので、大変な修羅場 の中で仕事をしたことになります。結局、八日間、一九二時間に及ぶストを敢行し ましたが、スト権奪還はついに幻に終わったのです。 当時の自民党幹事長が中曽根康弘先生で、大いに激励されたものです。党は早速、 総務会を開いて損害賠償請求を決めた。ゼネストで止まった列車の損害二〇二億円 を国鉄労組に請求しました。組合には非常な重荷になったようです。その延長線に 国鉄の民営化があったわけです。 ここで申し上げておきたいことは、先ずスト権ストはまさに暴挙と言わざるをえ ません。国労の思い上り、傲りの為せる業といっていいものなのです。 当時の物流は、トラック輸送が大きなシェアを占めるほどになっていました。そ のことを軽視した国労の軽挙妄動でした。それがこのストによって、物流界に大き な迷惑をかけ、国労の評価は一挙に急落したのです。このストを契機に、これまで の左翼勢力主導の労働運動から、現在のような健全な労使関係に大きく転換する曲 おご