人生 - みる会図書館


検索対象: 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー
12件見つかりました。

1. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

と」 0 て」る、と伝えたと一」ろ、向一」うからは「生〈一の保障しがた」、と電報が返 0 てきた ( 笑い ) 。金山さん、飛び上がって「川島君こんな公電は外務省に人って 初めてだ。どうするか」。 私は、新井人事課長、後の長官ですが、相談してこれ以上ご心配をかけるのは本 意ではないとしばらく待っことにした。そしたら、金山局長の方から、「川島君は 共産主義の実態を勉強したいのだろう。それならユーゴスラビアの方がいい ア語を勉強したのだから、荷物の宛名を付け替えてベオグラードへ行け」と新しい プロポーズがあったのです。こうして、五名のうち私一人ベオグラードに参りまし て三年九ヶ月、政務担当の一等書記官の仕事をさせていただきました。 この体験は、その後の私の人生において、何よりの貴重な糧となりました。大き な自信となって役に立ったことは勿論のこと、世界観、人生観などにとっても大き なプラスになりました。当時、東欧を現地視察したなどという人は極めて少なかっ たのです。その意味でも、国際感覚を培うのになによりの駐在経験であったと、 まも多くの想い出を大切にしております。 帰国しまして警視庁の公安部長になり、七十年安保を迎えました。全国のほとん どの大学で学園封鎖をやり、ベトナム反戦闘争その他きわめて厳しい不穏な情勢の 中で公安部長を務めたのです。警視庁にも三年半以上おったわけですが、実に優れ

2. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

私の人生は、まさに会津ということと貧乏というこの二つによって生まれ、支え られたものだと思っております。つまり「会津。という二文字を背負って一生を送 るわけで、この二つが財産でございましたので、会津に生まれなければ現在がなかっ たのはもちろんです。海軍経理学校で号令をかけたことがあります。同期生のみん な笑ってしまってさつばり動いてくれないものですから ( 笑い ) 、「川島のズーズー 弁号令では駄目だーということになってしまった。 「シ」と「ス」と「ヒ」、「ジ」 と「ズ」がわからない訳ですから ( 笑い ) 。 昨今、八十歳を超えて今日もゆっくり話すようにしておりますが、早ロでズーズー 弁だったものですから、昔、同僚から言われたものです。課長・局長のときもそう でしたが、「分かった振りして返事だけしてればいいのだ」ということでした ( 笑 い ) 。今でも笑い種になりますが、「川島局長のところへ行ったら、後から分かる奴 に聞けばいいのだから % その場で聞き返すなんか余計なことをしたら駄目だとい うわけなのです。そんなわけで、ズーズー弁もある意味では会津人の持ち味だった とも言えるだろうと思います。方言には温もりがあり、情緒があります。 しかし、何よりもわが故郷というのは、周囲が山並みそして森に沈む故郷ですか ら、森というものがわれわれ人間の心にどれだけ大きい力を与えるものか。旧い時 代、自然というものは神でありました。私は今でも神様だと思っておりますが、毎

3. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

ひとつ、人生における縁というものについてふれたい。本試験にはもちろん口頭 試問があります。私は、それを当時九州帝大の経済学の高名な高田保馬教授から受 けました。先生の『経済学概論』は名著で、私は、またその本の序論を何十回とな く読んでいました。その一節、「研究室の窓を開ければ筑紫平野に菜の花が一面に : そして思う。自分の進むべき研究 咲いている。その中を一本道が通っている。 の道は経済学の研究である。」この道一本で精進するという強いご意志が名文で述 べられておりました。その序文について、試験官の高田先生から親しくご教示をい ただいたのです。このようなことは、一生忘れられないのであります。 そこで、昭和十七年、行政科の本試験に挑んで受かったのです。みんなびつくり しました。『読売新聞』の福島県版は「焼いたスルメが踊りだす、 ( 笑い ) というタ オしか、川島が受かるわけがないという意味でしょ イトルで、これはまちがいじゃよ、 うが、面白おかしく伝えたものです。 考えてみますと、当時は、帝国大学を出なければキャリアにはなれないのですよ、 内務省以外は。内務省は一人ないし二人、私学出を伝統的に採用しておりました。 それは私もいろいろな人から聞いておりました。言い忘れましたが、当時、仙台の 監督局では大平正芳さんが間税部長で、預金資金部長は小川秀五郎さんという方で

4. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

恩師高橋清先生との出会い 私は大正十一年 ( 一九二二年 ) に、会津若松市に生まれました。当時は、世の中 も貧しい時代でしたが、生家も貧しかった。私は九人兄弟という大家族の長男とし て生まれました。親父は会津漆器の木地職でした。 ぎようにん 小学校は現在の行仁小学校 ( 当時、第三小学校 ) でしたが、そこで高橋清先生に お会いしました。先生は会津柔道会や医師会の事務局長もやられた福島師範出のす ばらしい先生です。先年、お墓にお参りしてきましたが、この高橋清先生との出会 いがなかったならば、おそらく今の私はなかっただろうと信じております。 いちごいちえ 人は誰でもそうでしようが、「一期一会」ではございませんが、このひとと出会 わなければ現在の自分はない、そうお考えになれるような出会い、めぐり合い、あ ・カい戸」う・ るいは邂逅といいますか、そういうものをお持ちだろうと思います。そして、人生 は、やがてどなたにも生老病死で死がくるわけでございますので、いずれ人生とは、 邂逅と別離、めぐり合いと別れ、その想い出であると、こういうふうに申し上げて 間違いではなかろうと思います。 そういう私のこれまでの人生を、こうして皆様方の前で自らを語るなどという、 大変思い上がった題となりましたことは、重ねて申しますが、まことに気恥ずかし

5. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

り角となったのです。いわば、歴史的な転換点であったといっていいと思います。 スト権ストはまさに歴史的な労働運動の転囘する起点となったのです。この転換す る時の流れを、なにより鮮明に脳裡に残しているほどの大きな事件であったといっ て過言ではありません。 三木内閣のときに副長官を退き、それから鉄道建設公団に行ったり、プロ野球界 に行ったりしたわけでございます。 「一期一会」の有難さにいつも感謝して已まない 私の人生のあらましを申し上げてきましたが、お聞き及びの通り、自分の計らい でやったということはないというのは言い過ぎですが、その多くは縁のなせるわざ でございます。今日、お配りしましたが、安岡正篤先生との出会いもまた奇しきご 縁であります。警視庁公安部長の時、都内の早稲田大学、日本大学、明治大学など 、現在の治安状況はど で学園が封鎖されて学校が動かない状況でした。「いナし うなっているか実態を知りたい、という安岡先生のご要請にお応えして説明にあがっ じらい たわけです。爾来、師友協会に人れていただき、人生の師として教えを受けてまい りました。いまもなお、儒学、陽明学、老荘の学など『論語』をはじめ古典に惹か れて、多くの座右の書に学んでおります。その学恩はどれほど感謝しても、尽きる

6. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

ことはありません。「生きることは学ぶことである」との信条は今に変わらない。 それほど先生の教学は大きく深いものであります。先生の学は「東西におよび古今 を貫く」と、東大の宇野精一先生が評され、空前絶後の碩学と、その学風を仰いで おられます。 かきん 世の中の縁というものは、ご存知の通り、柳生家の家訓のなかにもございますが、 「小才は縁に出会って縁に気付かず、中才は縁に出会って縁を活かさず、大才は袖 まかふしぎ 触れ合う縁をも活かすー。縁というものはまことに摩訶不思議なものでございまし て、人智の計らいでどうにかなるものではありません。今日、ここにお集まりの皆 様は、福島県と会津という故郷を共にする方々の集まりでもございますし、私の存 じ上げている方々ばかりです。いろいろな意味でお世話になっている集まりがここ の人間関係でございます。これみな、目には見えない大きな力の計らいと申して間 違っていないわけです。 「人は人によって人となる」との教えを実感する 人生、生きることに対して常に「門、 ロしーを持っている。「自分はどう生きるか」 ということ、どう生きるべきかという志を持っておれば、人間は何のために生きる か、自分は何のために何を志すのかという志が立つ。そこから縁が生まれます。

7. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

だと私は教えられて参りました。 したが 0 て、宮本武蔵ではありませんが、「千日の稽古を『鍛』とし、万日の稽 古を『錬』とした」、「鍛錬。というのはまさに三年と三十年ですから、十年はおろ か二十年のことでもない。そして彼は、七十回余、生死を賭けた闘いに勝ち抜いて 剣聖となりました。晩年「洞穴」に入 0 て沈思黙考、自らの人生体験の総てを『五 輪書』として書き遺しました。 われわれ人間というものよ号、 。弓しものであるということ。おだてられるといい気に な 0 てしま 0 てや「てはいけないことをや「てしまう、みなそうですね。「お前 大丈夫か」と言 0 てくれる友だち、先輩がいてくれればこれほど幸せなことはない。 それが師であり友なのです。そういう人を持たなければ、われわれ一人一人は決し て強いものではありません。良き友に「物くるる友、医師、智恵ある友」と三友が あります。「師恩友益」こそが生き甲斐に通ずるものなのです。 「自然」に学ぶことの功徳は限りない 会津の豊かな森、美しい山河、清冽な水、そういう大きな自然の中で伸びやかに 育んでいただいたということ、福島県の七割は森です。 森というものは、上の方はだいたいそろ「ている。一本だけ図抜けて伸びている

8. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

読むことでも作られますが、もう一つスポーツを通じても人は出来上がります。ス ポーツに人生を賭けているわけですから。長嶋茂雄さんもすばらしい人ですよ。読 書家でもありますが。あのような心やさしく自分に厳しく、他人にやさしいという ースターですな。彼なんかも家に帰ったら毎晩地下室 か、まさにプロ野球のスー でバットを千回以上は振っていますよ。王監督、ワンちゃんが一本足打法を完成す るのに三年かかっているんです。荒川博さんの道場に三百六十五日、三年通ってい るんですよ。ナイターが終わってから車に荒川さんを乗せて、練馬か駒込か忘れた けれど、ワンちゃんが運転して荒川さんの道場に行って、そして一本足打法を作り 上げたんです。それが、まあ大変なんです。居合いの練習を取り入れたり、考えら れるあらゆる方法で鍛え上げているわけですよ。 だから人間というのは、倦むことなき努力と精進なんですな。いつもそう思うん だけど、われわれの内務省の先輩で詩人の安積得也さんがおられる。あの人の詩の 中に出ていますよ。 自分の中には自分の知らない自分がある みんなの中にはみんなの知らないみんながある みんな偉いみんな尊いみんなみんな天の秘蔵っ子

9. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

んと、自分の知らない間にどうにもならなくなってしまいます。 大脳皮質の中には百四十億の脳細胞があるわけですが、そこから神経回路が出て すべての役割りを果たしています。この神経回路にとっての養分は外部からの刺激 です。それは、足から二十五 % 、手から二十五 % 、顎から五十 % の割合で人り、そ れが脳の養分になるのです。そういうわけですから、車をお使いの方々は特段に注 意をしていただきたい。それはまず歩くということ。それから手を使うこと。手と いうのは第二の頭脳といわれます。世界のホンダをつくった本田宗一郎さん、私の かけがえのない人生の師ですが、この方も手というものを非常に大事にされた。す てのひら べては手なのですね。手首、掌などをはじめ、手には三十の神経と五十の筋肉が集 中しているのですよ。日本の漢字で多いのは手扁です。投ける、拾う、攝る、掃く、 捨てるなど実に多いですね。 考えてみますと、いろいろなアイディアが湧いても手を使わなければ何もできま せん。この手だけは、機械に代わってもらうといってもなかなか容易なことではあ りません。最近は洗濯機などでもそうですが、手を使わなくてもいいようになって います。頭も使わなくてもいい。携帯でポンと押せば返事が返ってくるみたいな話 です。こんなふうにしていたのでは、脳も手も全部ダメになってしまいます。もう 一つは顎です。噛むということがどれほど大事か、特に申し上げたいことです。物 あご

10. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

ちらの武器は三分の一くらいイギリスに渡し、武器は足りないわけですから、なる べく早くマラッカ海峡を越えてマレー半島に上がりたい、そういう願いを出してお りました。 イギリスの艦隊もわれわれの主張に同調して手伝おうということになり、英巡洋 艦、駆逐艦各一隻が護衛してくれることになりました。駐屯地から軍港まで約三時 しんがり 間半かかりましたが、先鋒・中核・殿軍と部隊を整え、決死の行軍でアチェ地域か ら脱出したわけです。そして三艘の船に分乗してマラッカ海峡を越え、マレー半島 に帰ってきたのです。 マレー半島では、ジョホールバルとクアラルンプールのちょうど真ん中あたりに 位置するバトバハというゴム林の中に、南西方面艦隊の海軍の駐屯地がありました。 いちばん多いときで五万人、私の行ったときで三万五千人くらい。そこにわれわれ の部隊三千五百がいちばん最後に上陸して加わったわけです。 そこまではいし 、として、さて内地帰還、つまり復員はいつになるのか、全く分か らないわけです。しかも、食糧は自給しなければならない。捕虜でありましたから、 ジュネープ条約で必要な給与は決まっているのですが、英軍は「プリズナーズ・オ ソ プ・ウォー ( POW= 捕虜 ) 」ではなくて、「ジャパニーズ・サレンダード・ ネル」 ( 日本降伏人員 ) という国際法にない地位を作って、条約の規定より三割か