を言い当てていると思います。小柄な人で、なかなかに剛直な、お酒の強いお方で した。わたしの前の在京会津高校同窓会長で、会津学生寮の理事長も永く務めてい ただいたのですよ。少々話しが横道にそれましたが。 そうこうしているうちに後藤田さんが辞められて、政界に出るということになり ます。そこで私に官房副長官をやれということになる。私に務まるわけがないとい うか、大変な仕事であることをよく知っていました。閣議にかける案件はすべて事 務次官会議で事前審議します。その会議を主宰するのが役目ですから、その事前と 事後の勉強が生半可なものではありません。よく耐えることができたと、いまも時 折独りになると往時が偲ばれます。優れた藤森昭一主席参事官 ( 現日本赤十字総裁 ) など、部下の人達が懸命に支え、助けてくれたからできたのだと、人間関係の大切 さをかみしめております。とにかくやれということでお引き受けしました。これほ ど心労の多い仕事はほかになかったと思います。 官房副長官としてお仕えしたのは田中内閣の後半と三木内閣の前半でしたが、電 電公社とか国鉄、専売などの「スト権ストーという問題が三木内閣の終焉近くでし たか、持ち上がりました。これらの組合がストライキ権をよこせと要求した問題で す。条件付きで付与するかしないかということになり、ソニーの盛田昭夫さん、総 そうそう 評の岩井章さんなど錚々たる方二十名ばかりにお願いをして、公共企業体等関係閣
た同僚・部下に恵まれ、助けられての勤めでした。い まも年に一回「公親会」とい う親睦会をもっております。 本来であれば、そこから府県本部長へ出る順番なのですが、全国的な治安情勢が おさまらないというので、そのまま本庁に上がって警備局長になりました。警察の キャリアで、府県の警察本部長をやらなかったのは私だけではないかと思います。 警備局長としても佐藤総理の訪米反対の羽田闘争、アメリカ原子力空母エンター プライズ号の佐世保寄港反対闘争、それに東大安田講堂封鎖解除など大学紛争の鎮 圧などにもかかわりましてから、筆頭局長である警務局長になりました。 そこまでは良かったのですが、私学出身ですから、その先、警察庁長官とか警視 、よ、 0 、 総監というわけには、簡単こよ、 後藤田長官も頭を抱えてしまった。「私 学出ではこの際やはり難しい。ということになった。学閥というものの効用は、大 きいのです。皆さんもご体験なされておられるかと思いますが。 そのことは分かっていました。内閣調査室にいろいろな事情がありましたから、 そこへ行ったらいいなと考えていた。後藤田さんのところで「内調は私が行きます から , と申し上げました。「行ってくれるか」と言われまして、警察から離れるこ とになったのです。 当時は佐藤内閣の時代で、官房長官が保利茂さんでした。保利さんは中央大学の
先輩でもありますが、 ( 佐藤栄作総理に就任挨拶にうかが「たとき ) 佐藤総理が 「保利君、川島君は ( 警察庁に ) 帰すのか」と尋ねられた。保利さんが「帰します」 と答えられた。総理の部屋から戻 0 てくる階段のところで「私は帰りませんよ」と 二回申し上げた。そしたら保利さんに「余計なことを言うな」とひどく叱られまし たものです。情の人、保利茂という政治家に、いまも大きなご恩を忘れられないも のです。 内閣官房副長官に就任しての心労を省みる ここで大事な郷里の大先輩のご恩について申し上げたい。リ、 前述のように、わたし には三年九ヶ月外交官としてユーゴスラヴィアに駐在した経験がある。そのときに いわゆる第一次安保闘争という騒擾的な大衆運動が発生し、女子学生が国会前にて 死亡する事件などが発生しました。戦後最大の暴動が頻発した時期です。その当時 の警察の最高指揮官が警察庁長官で、それが柏村信雄さんなのです。 この方は会津若松の行仁町の生れで、旧第三小学校、旧制会津中学から旧制静岡 高校、東京帝大を出て内務省へ人省された。わたしの八年先輩になられる方です。 生れ育「たところの全く同じという奇しきご縁につながる大恩人であります。大き あずか な恩情に与 0 たのです。「山椒は小粒でもピリッと辛い」というのが、そのお人柄
講演者略歴 大正 11 年 2 月 27 日会津若松市にて誕生 昭和 17 年 10 月内務省入省・宮城県属兼警部 ( 見習 ) 海軍主計大尉で終戦 ( 昭和 22 年 12 月佐世保へ帰還 ) 札幌警察管区本部警備課長、東北管区警察局公安部長 在ューゴスラビア日本国大使館一等書記官 ( 3 年 9 ヶ月 ) 警察庁外事課長、警視庁公安部長、警察庁警備局長・警務局長 内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁 セントラル野球連盟会長 ( 13 年 ) 日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー ( 6 年 ) 現在、 ( 財 ) 本田財団理事長 自らを五明るー生かされて、愚直に生きる・ー 発行平成ト九年匕月匕日 島廣守 講演者 平成十八年ヒ月二十三日 於グランドアーク半蔵門 発行者川島廣守氏「野球殿堂人り」 記念講演実行委員会 久 代表谷澤 講演記録丹藤佳紀 編集・校正平石元明 表紙題字菊池良輝 発行所株式会社ニシギン 〒 , 新東京都新宿区百人町一下八・二 電話〇三ー三三六四ー一一四一 ( 代 )
本日は、私の「野球殿堂人り」記念講演会ということでありましたが、どうして 私が「野球殿堂人り」したか、川島と野球はどのようなつながりがあったのか、よ く分からないという方がおられるということを聞きましたので、私と野球について 語らせていただきます。野球界に人ったのも、前にお話ししたように縁によるわけ です。 川島なんて全然野球なんて分からないのが、なぜ、そんなところへ人ったんだと 聞かれるんです。私が官房副長官の時に第一次オイルショックがあったわけです。 それでテレビの野球の放映の時間をカットするか、止めるかというようなことが俎 上にのりまして、新聞なんかでもかなり騒がれたんです。それで、総理官邸の私の 所に当時の野球連盟役員とかオーナーの方々が陳情に見えられたのです。 私も、国民娯楽としていろいろ考えてみると、野球が一番ポビュラーな国民スポー ツになっているので、これだけは何とか夜の放映を残さなければ、国民の娯楽を奪っ てしまうことになる。何とか残したいと思って考えていたものですから、「やりま しよう」ということになったわけです。 こっちは野球は好きだけれど、野球の会長というのはちょっとね。もちろん自信 0 0
り角となったのです。いわば、歴史的な転換点であったといっていいと思います。 スト権ストはまさに歴史的な労働運動の転囘する起点となったのです。この転換す る時の流れを、なにより鮮明に脳裡に残しているほどの大きな事件であったといっ て過言ではありません。 三木内閣のときに副長官を退き、それから鉄道建設公団に行ったり、プロ野球界 に行ったりしたわけでございます。 「一期一会」の有難さにいつも感謝して已まない 私の人生のあらましを申し上げてきましたが、お聞き及びの通り、自分の計らい でやったということはないというのは言い過ぎですが、その多くは縁のなせるわざ でございます。今日、お配りしましたが、安岡正篤先生との出会いもまた奇しきご 縁であります。警視庁公安部長の時、都内の早稲田大学、日本大学、明治大学など 、現在の治安状況はど で学園が封鎖されて学校が動かない状況でした。「いナし うなっているか実態を知りたい、という安岡先生のご要請にお応えして説明にあがっ じらい たわけです。爾来、師友協会に人れていただき、人生の師として教えを受けてまい りました。いまもなお、儒学、陽明学、老荘の学など『論語』をはじめ古典に惹か れて、多くの座右の書に学んでおります。その学恩はどれほど感謝しても、尽きる
で、豪気な人で情の深い指揮官でした。この広瀬少将 ( のち中将 ) の下、先任参謀 と機関参謀がおり、私が副官、それに主計長、軍医長という顔ぶれでした。 ( ンダアチというところにいたアチ族というのは、オランダと百年戦争をや 0 たイスラム原理主義者の部族です。ですから大変に怖い部族の集落が集まっていた のです。イスラム経典『コーラン』の中に、「人を殺せば幸せになれる」と書いて ある。そういう部族のいるところがバンダアチで、つい最近、三年前まで独立運 動をやっておりました。 そのうち、わが部隊の主計長 ( 少佐 ) がメダンにある近衛第二師団に連絡に行き ました。いっ帰還できるか分からないため、陸海軍手を結んでどのように自活して 行くかという協議のためです。ところが、先ほど申しましたアチ族に闇討ちされ、 殺害されてしま「たのです。士官五名、下士官も合わせて十二名ほどでしたか、未 だに遭難当時の詳細は不明なのです。そこで、電報で私を主計長兼分隊長に発令し てもらってバ ハのキャンプ生活を送りました。糧食衣料補給の総責任者という 立場でしたので、正直申して大変な苦労がありました。 その部族の集落プランビンタンというところに移り、そこに四ヶ月ほど駐屯して おりましたが、周りからは「武器をよこせ」と言 0 てきてきかない。我が方も第一 南遣艦隊司令長官に打電するなど連絡し、このままでは部隊の安全が保てない。
といわれるので脱ぎましたら、アイロンをかけてくださるのですね。親切な奥様で ございました。そこで先生にお会いしましたら、「分かった。俺も君を推薦するか ら内務省を受けたまえ」と推薦状を書いていただき、内務省を受験したわけです。 そこまでは良かったのですが、試験が始まると、内務次官が試験委員長でしたが、 かずみ その隣に飯沼一省先生、わが会津の先輩である方が神祗院副総裁という立場でおら れた。人江人事課長が「川島君、内務省に君の先輩はおられないか」と盛んに質問 されるのですね。こちらはあがってしまい、上気しているものですから、目の前に 先生の顔を見ているのに出てこない。入江課長は何度も訊かれるのですが、どうし ても飯沼先輩の名前が出てこない。結局、とうとう出ないまま、試験は終わってし まったのです。 表へ出ましたら、人江課長が「川島君、君は宮城県の見習で採用する」と言われ ました。要するに、キャリアで、宮城県が任地ということですね。ということで、 また仙台に、今度は宮城県属兼警部ということになり赴任をしたのです。 学徒動員、海軍の短期現役士官を志すー戦争体験に出遭う それまで中央大学に学籍がありましたので、兵役猶予されていたのですが、昭和 十八年、学徒動員令でそれがなくなりました。私も兵隊に行かざるを得なくなった じようき
と」 0 て」る、と伝えたと一」ろ、向一」うからは「生〈一の保障しがた」、と電報が返 0 てきた ( 笑い ) 。金山さん、飛び上がって「川島君こんな公電は外務省に人って 初めてだ。どうするか」。 私は、新井人事課長、後の長官ですが、相談してこれ以上ご心配をかけるのは本 意ではないとしばらく待っことにした。そしたら、金山局長の方から、「川島君は 共産主義の実態を勉強したいのだろう。それならユーゴスラビアの方がいい ア語を勉強したのだから、荷物の宛名を付け替えてベオグラードへ行け」と新しい プロポーズがあったのです。こうして、五名のうち私一人ベオグラードに参りまし て三年九ヶ月、政務担当の一等書記官の仕事をさせていただきました。 この体験は、その後の私の人生において、何よりの貴重な糧となりました。大き な自信となって役に立ったことは勿論のこと、世界観、人生観などにとっても大き なプラスになりました。当時、東欧を現地視察したなどという人は極めて少なかっ たのです。その意味でも、国際感覚を培うのになによりの駐在経験であったと、 まも多くの想い出を大切にしております。 帰国しまして警視庁の公安部長になり、七十年安保を迎えました。全国のほとん どの大学で学園封鎖をやり、ベトナム反戦闘争その他きわめて厳しい不穏な情勢の 中で公安部長を務めたのです。警視庁にも三年半以上おったわけですが、実に優れ
わけです。当時、海軍の短期現役という主計、法務、技術、医科などの専門分野が ありまして、大学の学部卒業者および高等文官試験合格者が受験資格でした。後者 の資格で受験したのですが、当時、三十人か四十人に一人という大変厳しい競争率 でした。その短期現役で合格し、翌年三月まで、第十期補習学生として海軍経理学 校で勉強しました。短期現役の主計で、中曽根康弘さんは八期ですから私の二年上 でした。早川崇さんなど政治家になられた内務省の先輩が何人もおられました。 それから、私が艦船に乗りたいと言っていたものですから、「大和」、「武蔵。に ず・い - か / 、 次ぐ三番艦で「瑞鶴」、これは戦艦の予定を航空母艦に造り替えた第三号艦ですが、 これに便乗して横須賀から当時昭南といわれていたシンガポールに参りました。そ ミッドウェー海戦などで次々に海 こで船待ちしていたのですが、ご存知のように、 軍の大機動部隊がやられて惨敗という戦況でしたから、船がないのですね。そこで、 スマトラ海軍部隊の副官として、シンガポールからスマトラ島のバンダアチェ、二 年前に地震、津波がありましたあそこから北方二十二キロのサバン島というところ へ飛行機で赴任しました。湾ロの非常に深い立派な港があって、インド洋作戦の根 拠地となったところです。 そこの部隊は三千五百名の部隊でしたが、横須賀、呉、佐世保鎮守府の三つの部 隊編成でして、会津若松からも私のドに下士官などが来ていました。芳賀君という