朝鎮守様にお参りします。そして、その小さな森でしばし時を過ごし、今日何をど 尸、し。オし力、問題はないのか、そういうことを暝目し うするか、自らを省みて司違、よよ、 て考える安らぎの場であります。ここがいかにも騒々しい現代社会の喧騒から遠く 離れて、自分と向き合う絶好の一隅であるのです。 現代社会の歪み みなさまそれぞれにそのような場をお持ちでしようが、現在のように、万事が超 便利になってしまっている世の中、これには非常に大きな問題が潜んでいるのでは ないかと思っております。特に、最近、私が心を痛めておりますのは「欲しいもの が何でも手に人る」物質文明万能の世の中、爛熟した浪費文明社会です。ジャン・ ジャック・ルソーが『エ ル』の中でこう教えています。 「子供を確実に不幸にする方法を知っているか。それは、子供が物を欲しがった とき、欲しいだけ欲しがる物を与えることだ。そうすれば間違いなく子供は不幸に なる」と。 現代の日本は、金さえあればどうにでもなる、自分さえ良ければそれでいし いうことです。まさに自己中心主義と拝金主義、功利主義というものが大手を振っ て罷り通っているのです。家庭をご覧になってください。テレビはどこに座ってい まか と
は朱子学ではない実学で、どちらかと言えば陽明学に近い方ですかな。 若松は朱子学ですから、人を修めるという政治哲学、『大学』という書物に含ま れている政治学ですね。「修身、斉家、治国、平天下」という縦の関係で中します と、われわれの最初に勉強しなければならないのは古典の『小学』です。それから 先ほどの四書であります。 いま、日本社会の現状について申しますと、家庭が完全にテレビ、携帯、インター ネットに乗っ取られてしまっている。機械の方が大切になってしまっている。テレ ビというのよ、 。しいかげんなことも言っているのですが、みんな本当だと思っている。 子供は子供で、頭が″ゲーム脳。になってしまっていますから、これは大問題です。 脳の発達というのは三歳からだいたい九歳までで、三歳になれば右脳から左脳と代 わる代わる伸びてゆく。そして九歳で約千四百グラムの脳にできあがる。そこから 二十五歳まで発達を続ける。そのように限りない可能性を持っ柔かい脳の活性化は、 いかほど努めても過ぎることはないのです。 足と手と顎を存分に使うことの大切さ いま、私のように八十の坂を越えた者にとりまして、きわめて切実な問題は、脳 と筋肉がどんどん縮んで衰えてゆくことです。よほど心して使うように努力しませ
が、これまた大変な問題を孕むことになりましよう ( 笑い ) 。奥様がおいでになる、 子供さんがいる、「お父つつあん、おじんちゃ、そんな時代遅れのこと言ったって、 何言ってるんですか」と言われるに違いありません。しかし、それはまた、時間を かけていろいろ話し合いをされることではないでしようか。食のときはテレビを 消すとか、抑制する心がけがあっていいと思いますが、いかがでしようか。 アメリカで一九九一年に報告され、日本でも二〇〇四年にありましたが、小日し科 医学会が「二歳以下の幼児にはテレビを見せるな」と勧告しました。あの強烈な片 と光。われわれの今日の会場もそうですが、こんなに強い光は必要ない。本来の趣 旨から言えば ( 笑い ) 。しかし、せつかく皆様方が私のためにやってくれたもので すからありがたいことだとは思いますが。 そういう意味で、世の中、すべてが過剰です。「衣食足りて、礼節を失うーとい うのがいまの社会ではないでしようか。もう少し物が少ない方がいい。過剰を忌む ということは、日本古来の勤勉・倹約という徳目であったことは、知っておかれて よろしいかと思います。「そんなこと言ったって、川島さん、何をとぼけたことを おっしやるのですか」とお叱りを受けることでしよう。どうか、「これは間違いだ」 と思われることには「間違いではないのだろうか」と問題提起をされて、お互いが 言葉を選びながら、時間をかけて話し合い、少しでも世の中がいい方向に向、 はら
を言い当てていると思います。小柄な人で、なかなかに剛直な、お酒の強いお方で した。わたしの前の在京会津高校同窓会長で、会津学生寮の理事長も永く務めてい ただいたのですよ。少々話しが横道にそれましたが。 そうこうしているうちに後藤田さんが辞められて、政界に出るということになり ます。そこで私に官房副長官をやれということになる。私に務まるわけがないとい うか、大変な仕事であることをよく知っていました。閣議にかける案件はすべて事 務次官会議で事前審議します。その会議を主宰するのが役目ですから、その事前と 事後の勉強が生半可なものではありません。よく耐えることができたと、いまも時 折独りになると往時が偲ばれます。優れた藤森昭一主席参事官 ( 現日本赤十字総裁 ) など、部下の人達が懸命に支え、助けてくれたからできたのだと、人間関係の大切 さをかみしめております。とにかくやれということでお引き受けしました。これほ ど心労の多い仕事はほかになかったと思います。 官房副長官としてお仕えしたのは田中内閣の後半と三木内閣の前半でしたが、電 電公社とか国鉄、専売などの「スト権ストーという問題が三木内閣の終焉近くでし たか、持ち上がりました。これらの組合がストライキ権をよこせと要求した問題で す。条件付きで付与するかしないかということになり、ソニーの盛田昭夫さん、総 そうそう 評の岩井章さんなど錚々たる方二十名ばかりにお願いをして、公共企業体等関係閣
東山で消防の分署長などやっていた人、荒木義雄君という商工会議所の専務理事が 私の下に主計下士官でおりました。 終戦まで二度にわたり、イギリスの東洋艦隊の戦艦二隻、航空母艦一隻、巡洋艦、 駆逐艦などの機動部隊による艦砲射撃と空爆を体験いたしました。いま思えば、実 に貴重な戦争体験です。上陸に備えて、全島十三の砲台と司令部はすべて地下壕で、 艦・空爆には耐えるように構築されておりました。二度の体験で、いよいよ真剣に 戦争という決死の気持が高揚してきたものでした。二十二歳の若者でしたから。 なんめい 南溟の孤島で敗戦を迎える そこに行ったのは昭和十九年でしたが、翌年八月十五日、敗戦になりまして、そ しゆらば こからが私の海軍生活の本当の修羅場が始まるわけです。 と申しますのは、ご存知のように、海軍は、「スマートで、目端が利いて、儿帳 ーでしたから、大変スマートであ 面、負けじ魂、これぞ船乗りーというのがモット ることが海軍士官としての躾でした。そういう意味では、私の人格形成の上でかけ がえのない体験の期間であったわけであります。 私の部隊は三千五百名という大部隊でしたから、これをどのようにして日本に帰 すか、大問題でした。司令官が広瀬末人という、あの広瀬中佐の姻戚になられる方 しつけ
はじめに 今日、ここにお集まりの方々は、福島県人会、会津会、会高同窓会の身内のよう な故郷の方々ばかりですので、本当に心安くこの壇上に立たせていただきました。 ただ、正直申しまして、この演題はあまりに思い上がった題との感じを免れませ ん。実は、サプタイトルとしまして「生かされて、生きる、、さらに加えるならば 「生かされて、愚直に生きる」とそのようにして話を始めさせていただきます。