年 - みる会図書館


検索対象: 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー
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1. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

らし心を込めて視ることがなにより大事なのです。とにかく目を動かすと脳も動く のだと理解してほしいのです。 真剣に心して見れば今まで見えなかったことが見える。さらに、形のないものを 見るということ。たとえば、みなさんお使いのお椀にしましても長く大事に使って おられるに違いない。そうしますと、無機質なものが、実はよく洗って、触って大 事に使って五年、十年、十五年になりますとその無機質なものが生きてくる。あた いのち かも生命あるがごとき物になる。敢えて言うならば、生命があると言っても決して 間違いではないのです。 心眼ということばがあります。川上哲治さんとよく話をしましたが、川上さんは : 、ツトを振っていたら、一瞬パッと「球が止まっ ある暑い夏、多摩川のグラウンドてノ て見えた」というのです。それは打てますよね。いや、それは一年二年の話ではな いんですよ。あの人は昭和十四年からやっていますからね。止まって見えたのは、 昭和二十八年の話ですから、十四年たっているわけでしよう。それだけずっと毎日 バットスイングを八百回、千回とやっているわけです。一日も休まずに。また、二、 三年前になりますが、川上さんが私のところにおいでになって、「この前、ゴルフ 場で、ショートホールで打ったら、打ったとたんに『コトン』と音がしたのですよ。 と打って「コトン」といっても、 ・イン・ワンですよ」とおっしやる。パッ

2. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

講演者略歴 大正 11 年 2 月 27 日会津若松市にて誕生 昭和 17 年 10 月内務省入省・宮城県属兼警部 ( 見習 ) 海軍主計大尉で終戦 ( 昭和 22 年 12 月佐世保へ帰還 ) 札幌警察管区本部警備課長、東北管区警察局公安部長 在ューゴスラビア日本国大使館一等書記官 ( 3 年 9 ヶ月 ) 警察庁外事課長、警視庁公安部長、警察庁警備局長・警務局長 内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁 セントラル野球連盟会長 ( 13 年 ) 日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー ( 6 年 ) 現在、 ( 財 ) 本田財団理事長 自らを五明るー生かされて、愚直に生きる・ー 発行平成ト九年匕月匕日 島廣守 講演者 平成十八年ヒ月二十三日 於グランドアーク半蔵門 発行者川島廣守氏「野球殿堂人り」 記念講演実行委員会 久 代表谷澤 講演記録丹藤佳紀 編集・校正平石元明 表紙題字菊池良輝 発行所株式会社ニシギン 〒 , 新東京都新宿区百人町一下八・二 電話〇三ー三三六四ー一一四一 ( 代 )

3. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

だと私は教えられて参りました。 したが 0 て、宮本武蔵ではありませんが、「千日の稽古を『鍛』とし、万日の稽 古を『錬』とした」、「鍛錬。というのはまさに三年と三十年ですから、十年はおろ か二十年のことでもない。そして彼は、七十回余、生死を賭けた闘いに勝ち抜いて 剣聖となりました。晩年「洞穴」に入 0 て沈思黙考、自らの人生体験の総てを『五 輪書』として書き遺しました。 われわれ人間というものよ号、 。弓しものであるということ。おだてられるといい気に な 0 てしま 0 てや「てはいけないことをや「てしまう、みなそうですね。「お前 大丈夫か」と言 0 てくれる友だち、先輩がいてくれればこれほど幸せなことはない。 それが師であり友なのです。そういう人を持たなければ、われわれ一人一人は決し て強いものではありません。良き友に「物くるる友、医師、智恵ある友」と三友が あります。「師恩友益」こそが生き甲斐に通ずるものなのです。 「自然」に学ぶことの功徳は限りない 会津の豊かな森、美しい山河、清冽な水、そういう大きな自然の中で伸びやかに 育んでいただいたということ、福島県の七割は森です。 森というものは、上の方はだいたいそろ「ている。一本だけ図抜けて伸びている

4. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

です。私は会津中学で松平賞をもらったのですが、「こんないい成績でなぜ進学し ないのか」とお叱りを受けるような具合で、しまいに涙が出てきました。返事の仕 様がないものですから黙ったまま泣いていますと、佐川さんが部長をなだめておら れるのが見えました。毎しいというか、恥ずかしいというか、そういう情けない思 いをいたしました。世の中を知る、ひとつの切っかけになったかと思い出されるの です。 そういうことで仙台に参りましたら、後に総理になられた大平正芳さんが間税部 長をされていて、四人の部長のお一人でした。私は秘書課勤務になりました。 高等文官試験に挑戦する蛮勇 高等文官試験を通れば役人になれるということは知っていましたから、翌年の昭 和十五年、高等文官予備試験を受験して僥倖にも通りました。そしたら、部長以下、 「せつかくここまで来たのだから、今度は大蔵省へ行き、夜学へ行って勉強したら どうだ。行け」ということになりました。予備試験を通っていますから事務官になっ て大蔵省に出向させてもらい、中央大学に夜、勉強に行きました。 したがって、昭和わ四年に会津中学を卒業し、十五年に高等文官予備試験を通っ て大蔵省に参りましたが、その翌年にこれまた法外なことに、高等文官試験行政科 ぎようこう

5. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

のあろうはずがない。、 しったい何をやるんですか。ただ座っていればいいんだ。名 前だけ、座っていてください。最初は断ったんだけれど、あちこちへ手が回ってて ね。竹下登さんにも手が回る。川島、お前手伝ったらどうだ、われわれも応援する からと、中曽根さんとか政治家の方々もおっしやる。それでお引き受けしたわけで す。 そしてセ ・リーグの会長を十三年、コミッショナーになって二期六年、あしかけ 二十年野球の世界にお世話になったわけです。それが野球界に貢献したということ で、殿堂入りの栄誉をいただけたのでしよう。 一つだけ申し上げますと、皆様方、野球をご覧になって楽しんでいただいている と思いますけれども、プロの世界というのに初めてぼくは足を踏み人れて、私が想 像していたのとはまるで違うのですね。努力は裏切らないといいますが、たとえば 二月のキャンプで、一流の選手になるとバットスイングは一日二千回やっています。 ースターといわれる選手は、頭脳の働きも抜群で、記憶力も いずれにせよスー 凄い、話す言葉もすばらしい。そして明るく、挨拶も立派で礼儀正しい。そうでな ければ一流のスターになれないということです。プロの世界というのは、野球に限 らずプロのスポーツ選手というのは、イチローにしても、松井君にしても、スポー ツが作り上げた人間というのはね、素晴らしいですよ。人間というのは読書、本を

6. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

四割少ない食糧しか与えてくれなかったのです。ですから、食べることにも労し たというわけです。 わが部隊が最後にキャンプに人ったものですから、復員は最後になると言われ、 第九特根 ( 特別根拠地 ) の主計長たる私は「最後に帰ります。と、キャンプの幕僚 会議で宣一言しました。そしたらもう一人、どうしても帰れない者がいたわけです。 第百一軍法会議というものがありまして、その法務官の高木文雄君、後の大蔵次官、 国鉄総裁で、今年亡くなり、私が弔辞を読んだのですが、彼は法務大尉で、刑務所 に悪いことをした兵隊を抱えている。「高木、お前のところは最終船だよ。お前も 一緒に残れ」と、彼を説き伏せて彼の部隊、七、八百名とともに最後まで二年半そ こにおったというわけです。 帰国、そして騒然たる北海道にて治安を護る 南十字星を仰いで、「望郷無限。の思いで二年四ヶ月を経たわけです。待ちに待っ た帰国の日が来たわけです。部隊の責任者たる主計長でしたから、嬉しいというよ りも、とにかく部隊全員が無事帰国できることを唯々願い、祈っている心境でした。 そして、シンガポールから台湾沖、花蓮港を経て、昭和二十二年の十二月、南方最 後の引き揚げ船で佐世保に帰ってまいりました。内務省は同年同月、占領軍の指令

7. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

と」 0 て」る、と伝えたと一」ろ、向一」うからは「生〈一の保障しがた」、と電報が返 0 てきた ( 笑い ) 。金山さん、飛び上がって「川島君こんな公電は外務省に人って 初めてだ。どうするか」。 私は、新井人事課長、後の長官ですが、相談してこれ以上ご心配をかけるのは本 意ではないとしばらく待っことにした。そしたら、金山局長の方から、「川島君は 共産主義の実態を勉強したいのだろう。それならユーゴスラビアの方がいい ア語を勉強したのだから、荷物の宛名を付け替えてベオグラードへ行け」と新しい プロポーズがあったのです。こうして、五名のうち私一人ベオグラードに参りまし て三年九ヶ月、政務担当の一等書記官の仕事をさせていただきました。 この体験は、その後の私の人生において、何よりの貴重な糧となりました。大き な自信となって役に立ったことは勿論のこと、世界観、人生観などにとっても大き なプラスになりました。当時、東欧を現地視察したなどという人は極めて少なかっ たのです。その意味でも、国際感覚を培うのになによりの駐在経験であったと、 まも多くの想い出を大切にしております。 帰国しまして警視庁の公安部長になり、七十年安保を迎えました。全国のほとん どの大学で学園封鎖をやり、ベトナム反戦闘争その他きわめて厳しい不穏な情勢の 中で公安部長を務めたのです。警視庁にも三年半以上おったわけですが、実に優れ

8. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

刊行に寄せて 私どものひとしく敬愛する川島廣守会長が、平成十八年に野球殿堂入りの栄誉に輝きました。そのご指導を仰 ぐ福島県人会、会津会そして会津高校同窓会は、殿堂入りを祝賀するとともに後進の歩むべき道を照らし出し ていただくため、同年七月二十三日、東京のグランドア 1 ク半蔵門で祝賀記念講演会を共催いたしました。 この講演会には、川島会長の郷里会津からも会津若松市長はじめ多数の方々が参加し、大盛況を呈しました。 川島会長は、「自らを語る」と題したこの講演で、家が貧しかったために旧制会津中学への進学も難しかった少 年期から説き始め、恩師の強い勧めで会津中学に入学できたこと、上級学校への進学はかなわず、周囲の方々 の助言もあって働きながら学ぶ道を選んだこと等々「人は人によって人となる。ことを体験した歩みを回顧さ れました。 そのお話の一端を紹介しますと、私学出身には稀有な内務省入り、海軍士官になってからの南洋での英軍捕虜 生活、そして復員してからの現警察庁勤務など、そのご経歴は昭和史そのものと言って過言ではありません。 さらに、傘寿を超すこと四年のご体験の中からにじみ出た、人間と社会あるいは国家についての貴重な思索が この講演には数多く盛られております。 それだけに、この特別講演を多数の方に知っていただきたいと考え、講演録を刊行しました。 この趣旨に賛同し、おカ添えをお願いして、発刊のごあいさつに代える次第であります。 平成十九年七月吉日 川島廣守氏の野球殿堂入り「記念講演会」 世話人代表谷澤久

9. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

川島廣守氏「野球殿堂人り」記念講演会 平成十八年七月二十三日 於グランドアーク半蔵門

10. 自らを語るー生かされて、愚直に生きるー

い思いをしております。 小学校から旧制会津中学に入るときに、先ほど申し上げた家庭の事情がございま したので、到底、中学には人学できない、まず、学資が続かないと思っておりまし た。小学校四、五年生のときから「自分で独学するしか手はないだろう」と心に決 めていたのです。 そのころ、高橋清先生が私の家に足しげく通ってくださり、「何とか川島君を会 津中学に上げたいー と強いお気持ちを伝えられた。それで父も母も、「先生の言う 通りに致しましようーということで人れてもらったのです。その有難い思いが忘れ られません。 そこまでは良かったのですが、こんどは授業料がなかなか払えないわけです。今、 思い返しますと、年に三回ぐらい授業料滞納で、大沢という事務局長さんに身体を 小さくしてお詫びに上がって辛い思いをしたこと、慰められたことを、いまでも忘 れられません。「貧乏という名の教育者」という言葉がございます。私にとりまし てはまことに実感のあるものであります。 こうして中学五年で卒業しましたが、松平賞を受けていたので校長先生以下、 「どこか上の学校を受験して受からないと学校も困る , というのですね。そう言わ ていしん れて、「金のかからない学校はどこでしようか。と尋ねましたら、高等師範と逓信