で解体されてなくなっていました。浦島太郎のようなものでした。人事課長であら れたのが鈴木俊一さん、後の東京都知事ですが、訪ねましたら経歴を見られて「川 島君、君は宮城県で警察の見習いをやっている。北海道で新しい警察を試行するの でそこへ行って勉強したらどうだ、と言われ、「それはありがたい、私はズーズー 弁で関西では駄目ですからぜひお願いします」と喜んで北海道へ行きました。昭和 二十三年の一月です。行李一つ担いで、青函連絡船で雪国の北海道へ渡りました。 北海道へ行ったところが、大変な事態になっていました。『北海道新聞』その他 そらち が「北海道人民共和国、と報道していたような状況で、空知炭鉱に約六万人の炭鉱 労働者がいたのですが、そこから石炭が全然出てこない。ストライキ、サポタージュ、 生産管理、人民管理で働かないわけですから、室蘭で船が待っていても石炭が出な いのです。戦後復興のなによりの柱となる石炭ですから黒いダイヤと呼ばれていま した。当時の知事は田中敏文という社会党の知事で、労働部長が蛯子哲二という内 務省の三年先輩でした。私は警察の札幌方面本部長というポストにいて、しばしば タ張とか美唄、三笠などあのへんの炭鉱を回っていたのですが、彼等は全然仕事を しない。治安も不安定で、あちこちでストライキだ、サポタージュだと、職場放棄 という状況で、社会的にはまことに不穏な情勢でした。中央からオルグが派遣され てきて、労働組合に潜入して煽動する、スト、サポタージュの謀議をするで、左翼
らし心を込めて視ることがなにより大事なのです。とにかく目を動かすと脳も動く のだと理解してほしいのです。 真剣に心して見れば今まで見えなかったことが見える。さらに、形のないものを 見るということ。たとえば、みなさんお使いのお椀にしましても長く大事に使って おられるに違いない。そうしますと、無機質なものが、実はよく洗って、触って大 事に使って五年、十年、十五年になりますとその無機質なものが生きてくる。あた いのち かも生命あるがごとき物になる。敢えて言うならば、生命があると言っても決して 間違いではないのです。 心眼ということばがあります。川上哲治さんとよく話をしましたが、川上さんは : 、ツトを振っていたら、一瞬パッと「球が止まっ ある暑い夏、多摩川のグラウンドてノ て見えた」というのです。それは打てますよね。いや、それは一年二年の話ではな いんですよ。あの人は昭和十四年からやっていますからね。止まって見えたのは、 昭和二十八年の話ですから、十四年たっているわけでしよう。それだけずっと毎日 バットスイングを八百回、千回とやっているわけです。一日も休まずに。また、二、 三年前になりますが、川上さんが私のところにおいでになって、「この前、ゴルフ 場で、ショートホールで打ったら、打ったとたんに『コトン』と音がしたのですよ。 と打って「コトン」といっても、 ・イン・ワンですよ」とおっしやる。パッ
講演者略歴 大正 11 年 2 月 27 日会津若松市にて誕生 昭和 17 年 10 月内務省入省・宮城県属兼警部 ( 見習 ) 海軍主計大尉で終戦 ( 昭和 22 年 12 月佐世保へ帰還 ) 札幌警察管区本部警備課長、東北管区警察局公安部長 在ューゴスラビア日本国大使館一等書記官 ( 3 年 9 ヶ月 ) 警察庁外事課長、警視庁公安部長、警察庁警備局長・警務局長 内閣調査室長、内閣官房副長官、日本鉄道建設公団総裁 セントラル野球連盟会長 ( 13 年 ) 日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー ( 6 年 ) 現在、 ( 財 ) 本田財団理事長 自らを五明るー生かされて、愚直に生きる・ー 発行平成ト九年匕月匕日 島廣守 講演者 平成十八年ヒ月二十三日 於グランドアーク半蔵門 発行者川島廣守氏「野球殿堂人り」 記念講演実行委員会 久 代表谷澤 講演記録丹藤佳紀 編集・校正平石元明 表紙題字菊池良輝 発行所株式会社ニシギン 〒 , 新東京都新宿区百人町一下八・二 電話〇三ー三三六四ー一一四一 ( 代 )
です。私は会津中学で松平賞をもらったのですが、「こんないい成績でなぜ進学し ないのか」とお叱りを受けるような具合で、しまいに涙が出てきました。返事の仕 様がないものですから黙ったまま泣いていますと、佐川さんが部長をなだめておら れるのが見えました。毎しいというか、恥ずかしいというか、そういう情けない思 いをいたしました。世の中を知る、ひとつの切っかけになったかと思い出されるの です。 そういうことで仙台に参りましたら、後に総理になられた大平正芳さんが間税部 長をされていて、四人の部長のお一人でした。私は秘書課勤務になりました。 高等文官試験に挑戦する蛮勇 高等文官試験を通れば役人になれるということは知っていましたから、翌年の昭 和十五年、高等文官予備試験を受験して僥倖にも通りました。そしたら、部長以下、 「せつかくここまで来たのだから、今度は大蔵省へ行き、夜学へ行って勉強したら どうだ。行け」ということになりました。予備試験を通っていますから事務官になっ て大蔵省に出向させてもらい、中央大学に夜、勉強に行きました。 したがって、昭和わ四年に会津中学を卒業し、十五年に高等文官予備試験を通っ て大蔵省に参りましたが、その翌年にこれまた法外なことに、高等文官試験行政科 ぎようこう
といわれるので脱ぎましたら、アイロンをかけてくださるのですね。親切な奥様で ございました。そこで先生にお会いしましたら、「分かった。俺も君を推薦するか ら内務省を受けたまえ」と推薦状を書いていただき、内務省を受験したわけです。 そこまでは良かったのですが、試験が始まると、内務次官が試験委員長でしたが、 かずみ その隣に飯沼一省先生、わが会津の先輩である方が神祗院副総裁という立場でおら れた。人江人事課長が「川島君、内務省に君の先輩はおられないか」と盛んに質問 されるのですね。こちらはあがってしまい、上気しているものですから、目の前に 先生の顔を見ているのに出てこない。入江課長は何度も訊かれるのですが、どうし ても飯沼先輩の名前が出てこない。結局、とうとう出ないまま、試験は終わってし まったのです。 表へ出ましたら、人江課長が「川島君、君は宮城県の見習で採用する」と言われ ました。要するに、キャリアで、宮城県が任地ということですね。ということで、 また仙台に、今度は宮城県属兼警部ということになり赴任をしたのです。 学徒動員、海軍の短期現役士官を志すー戦争体験に出遭う それまで中央大学に学籍がありましたので、兵役猶予されていたのですが、昭和 十八年、学徒動員令でそれがなくなりました。私も兵隊に行かざるを得なくなった じようき
ひとつ、人生における縁というものについてふれたい。本試験にはもちろん口頭 試問があります。私は、それを当時九州帝大の経済学の高名な高田保馬教授から受 けました。先生の『経済学概論』は名著で、私は、またその本の序論を何十回とな く読んでいました。その一節、「研究室の窓を開ければ筑紫平野に菜の花が一面に : そして思う。自分の進むべき研究 咲いている。その中を一本道が通っている。 の道は経済学の研究である。」この道一本で精進するという強いご意志が名文で述 べられておりました。その序文について、試験官の高田先生から親しくご教示をい ただいたのです。このようなことは、一生忘れられないのであります。 そこで、昭和十七年、行政科の本試験に挑んで受かったのです。みんなびつくり しました。『読売新聞』の福島県版は「焼いたスルメが踊りだす、 ( 笑い ) というタ オしか、川島が受かるわけがないという意味でしょ イトルで、これはまちがいじゃよ、 うが、面白おかしく伝えたものです。 考えてみますと、当時は、帝国大学を出なければキャリアにはなれないのですよ、 内務省以外は。内務省は一人ないし二人、私学出を伝統的に採用しておりました。 それは私もいろいろな人から聞いておりました。言い忘れましたが、当時、仙台の 監督局では大平正芳さんが間税部長で、預金資金部長は小川秀五郎さんという方で
東山で消防の分署長などやっていた人、荒木義雄君という商工会議所の専務理事が 私の下に主計下士官でおりました。 終戦まで二度にわたり、イギリスの東洋艦隊の戦艦二隻、航空母艦一隻、巡洋艦、 駆逐艦などの機動部隊による艦砲射撃と空爆を体験いたしました。いま思えば、実 に貴重な戦争体験です。上陸に備えて、全島十三の砲台と司令部はすべて地下壕で、 艦・空爆には耐えるように構築されておりました。二度の体験で、いよいよ真剣に 戦争という決死の気持が高揚してきたものでした。二十二歳の若者でしたから。 なんめい 南溟の孤島で敗戦を迎える そこに行ったのは昭和十九年でしたが、翌年八月十五日、敗戦になりまして、そ しゆらば こからが私の海軍生活の本当の修羅場が始まるわけです。 と申しますのは、ご存知のように、海軍は、「スマートで、目端が利いて、儿帳 ーでしたから、大変スマートであ 面、負けじ魂、これぞ船乗りーというのがモット ることが海軍士官としての躾でした。そういう意味では、私の人格形成の上でかけ がえのない体験の期間であったわけであります。 私の部隊は三千五百名という大部隊でしたから、これをどのようにして日本に帰 すか、大問題でした。司令官が広瀬末人という、あの広瀬中佐の姻戚になられる方 しつけ
四割少ない食糧しか与えてくれなかったのです。ですから、食べることにも労し たというわけです。 わが部隊が最後にキャンプに人ったものですから、復員は最後になると言われ、 第九特根 ( 特別根拠地 ) の主計長たる私は「最後に帰ります。と、キャンプの幕僚 会議で宣一言しました。そしたらもう一人、どうしても帰れない者がいたわけです。 第百一軍法会議というものがありまして、その法務官の高木文雄君、後の大蔵次官、 国鉄総裁で、今年亡くなり、私が弔辞を読んだのですが、彼は法務大尉で、刑務所 に悪いことをした兵隊を抱えている。「高木、お前のところは最終船だよ。お前も 一緒に残れ」と、彼を説き伏せて彼の部隊、七、八百名とともに最後まで二年半そ こにおったというわけです。 帰国、そして騒然たる北海道にて治安を護る 南十字星を仰いで、「望郷無限。の思いで二年四ヶ月を経たわけです。待ちに待っ た帰国の日が来たわけです。部隊の責任者たる主計長でしたから、嬉しいというよ りも、とにかく部隊全員が無事帰国できることを唯々願い、祈っている心境でした。 そして、シンガポールから台湾沖、花蓮港を経て、昭和二十二年の十二月、南方最 後の引き揚げ船で佐世保に帰ってまいりました。内務省は同年同月、占領軍の指令
刊行に寄せて 私どものひとしく敬愛する川島廣守会長が、平成十八年に野球殿堂入りの栄誉に輝きました。そのご指導を仰 ぐ福島県人会、会津会そして会津高校同窓会は、殿堂入りを祝賀するとともに後進の歩むべき道を照らし出し ていただくため、同年七月二十三日、東京のグランドア 1 ク半蔵門で祝賀記念講演会を共催いたしました。 この講演会には、川島会長の郷里会津からも会津若松市長はじめ多数の方々が参加し、大盛況を呈しました。 川島会長は、「自らを語る」と題したこの講演で、家が貧しかったために旧制会津中学への進学も難しかった少 年期から説き始め、恩師の強い勧めで会津中学に入学できたこと、上級学校への進学はかなわず、周囲の方々 の助言もあって働きながら学ぶ道を選んだこと等々「人は人によって人となる。ことを体験した歩みを回顧さ れました。 そのお話の一端を紹介しますと、私学出身には稀有な内務省入り、海軍士官になってからの南洋での英軍捕虜 生活、そして復員してからの現警察庁勤務など、そのご経歴は昭和史そのものと言って過言ではありません。 さらに、傘寿を超すこと四年のご体験の中からにじみ出た、人間と社会あるいは国家についての貴重な思索が この講演には数多く盛られております。 それだけに、この特別講演を多数の方に知っていただきたいと考え、講演録を刊行しました。 この趣旨に賛同し、おカ添えをお願いして、発刊のごあいさつに代える次第であります。 平成十九年七月吉日 川島廣守氏の野球殿堂入り「記念講演会」 世話人代表谷澤久