「あ、申し遅れました—。あたし、当クリニックで助手を務めさせていただいております、 苑宮空子と申します— 「お待たせいたしました。私、当クリニックの院長を務めさせて頂いております、三階俊 介と申します」 「あ、はい : ・」 篤は、コンビニの安剃刀特有の傷を鼻の下につけた、自分と同年代の青年を不安そうに 見上げる。 篤と比べるともう少し肉付きがいしが、それは比較対象である自分が痩せすぎているだ けの話で、体格的にはまだまだ『ひょろっとした若造』の域を出ていない。 「最初、『さんかい』クリニックって読みませんでした、そこの看板 ? 大抵の人が間違 えるんですよ 「あ、ああ、それは : 「その代わり、一度覚えたら忘れないですもんね。俊介くん : ・院長は、他の名前にしようつ て言うんですけど、勿体ないですよね—」
一ざかっていく。 「ふう : ・お騒がせしました」 「あの : しいんですか ? 」 「でも、ご迷惑ですよね ? あいつが同席してると 「けれど : ・」 あの姿を見せられると、どうしても良心の呵責がわき起こらざるを得ない。 自分がクリニックに訪れた客と知ったときのあの喜びようや、無駄に誠心誠意なもてな しの数々、そして今の半泣きの表情から、少女がどれだけこのクリニックを : ・もしかした ら、目の前の院長を気に掛けているかがひしひしと伝わってきていたから。 「さ、それよりも始めましよう。ええと、お名前は : 「あ、河原です。河原篤、 「河原さんですね・ : それで、どのようなご相談でしようか ? 「えっと・ : 」 「ご安心を。ここであなたが話されたことは、何処にも漏れることはありません。それが たとえ犯罪行為であったとしても、依頼人の秘密は絶対ですから」 「犯罪は・ : してないつもりですけど」 「ならなおさらだ。まずは楽にしてください」
そして俊介は、診察室から出て行く吉崎を、少しだけ苦い表情で送り出す。 手元のカルテに挟まれていた、男が一人で写っている観光地の写真を見つめながら : 「あ : ・吉崎さん」 苑宮ビルから出てきた吉崎を、明るく澄んだ声が呼び止める。 見ると、制服姿の見知らぬ少女が、にこにこと微笑みかけている。 「その・ : 大丈夫、でした ? 「あなたは・ : ? 「あ : ・そか、会ってないことになっちゃったんだ」 「はあ ? 」 「あ—、三階クリニックで助手をさせていただいている苑宮空子って言います。吉崎さん のことは先生から色々と伺っていまして : 「は、はあ : ・」 吉崎は、目の前で屈託なく笑う少女に、怪訝そうな表情を向ける。 メンタルクリニックでの相談者の情報を、たとえ助手とはいえ、簡単に漏らしてしまっ ていたカウンセラーにも、少し不信感を抱いたようだった。
「お騒がせして申し訳ありません : ・」 グレーの上着に、乾いた血を貼りつかせ、両手にナイフを握りながらも、男は、申し訳 なさそうに何度も何度も頭を下げる。 「 : ・とりあえず、座っていい ? 」 「あ、気がっきませんで。どうぞどうぞ、遠慮なく 「そもそもここ、俺のクリニックだし 「あ、そうだったんですか。お邪魔してます」 「そういうことは家賃をきっちり払ってから主張して欲しいところだけど 「おい空子、もっと足たため。俺が座れん」 「動けないんだってば ! あ、ちょっと、押すなー ソファーの上に転がされている空子の足側に無理やり俊介が腰を下ろすと、二人はぐい ぐいと場所取り合戦を繰り広げる。 「えっと : ・当クリニックの院長を務めさせて頂いております、三階俊介と申します」 「あ、私は吉崎駿夫と申します。昨年まで坂井町で貿易会社を経営しておりまして : 「あたし苑宮空子。よろしくね、吉崎さん」 「あ、どうも、こちらこそ :
「あ ! ちょっと待ってください」 「ま、まだ何か ? 」 「落とし物です : ・はい」 「え、これは : ・覚えがありませんが・ : ? 」 しいえ、間違いありません。クリニックの入り口で拾ったんですから」 「しかし・ : 」 「ほら、受け取って下さ、 し。別に邪魔になるようなものでもないでしよう ? 」 少女は、吉崎の手を取ると、そこに無理やり、さっきまで後ろ手に構えていた右手の中 のものを握らせた。 そして、あまりに突然のことだったので、吉崎は、少女の手のひらに巻かれた包帯の感 触を認識できずにいた。 「え、でも、これって・ : ? 少女が吉崎に手渡したもの、それは : 「これからも、苦しいことや、辛いこと、沢山あると思うんです」 「は ? 」 「そんなときでも、もし思い出せるなら、思い出してみてください」 「思い出すって : ・何を ? 」
138 ″代理人〃だからこそ、自らの感情に囚われず、ありのままを伝える。 依頼人の本当の願いを聞き出し、三階クリニックで遂行できる契約形態にまでプレイク ダウンして、そして : 「どうする、空子 ? 」 忌まわしき力をまとった、『半端に全知全能たる善人』に、最後の決断を委ねる。 ・ : やる」 「マスター、お愛想。ほら空子、降ろすぞ」 最後のひとかけらの氷を喉に流し込むと、俊介は、もうこの店に用はないとばかりに、 さっさと立ち上がり : 「ごちそうさま・ : ととっ」 空子の両脇を抱えてスツールから降ろす。 座っていたときは同じくらいの高さにいた二人は、立ち上がると、いつもの頭二つ分の 身長差を取り戻す。 「七千円になります」 「じゃ、これ・ : 」 「はい、一万円で : ・三千円のお返しになります」
166 「だから、ごめんって・ : 」 と、さつくり軽く謝る空子は、実はとても俊介には見せられないくらいに、とてつもな く切ない表情で唇をかみしめていた。 「で : ・どうすんだよ ? 『わかんない : ・』 「あのなあ : ・」 ほんの誤解で、一瞬にしてトーンダウンをかました電話ロの声に戸惑いつつ、俊介は、 空子の気まぐれの糸口を探し続ける。 「そろそろ終わらせないと、こっちが上手くやっちまうぞ ? 」 『 : ・うまくやれそうなの ? 』 「おお、俺にしては結構いい感じだぞ。やっと彼女とも通じ合えたような気がする」 『よかったじゃん : ・』 「このままだと、お前がなにもしなくても、なんとか契約までこぎ着けることができるか も。三階クリニックの独立採算化も近いかもしれんぞ ? 」 『それでも俊介くんは、彼女の記憶を奪うんだよね ? 』 「・ : 契約済みなんだから当たり前。 こっちだって慈善事業でやってるんじゃないんだ」
189 第 3 話十年のお預かりで・・・ 深夜の、小さな公園の、桜の木の下で。 空子は、携帯電話片手に、″三年後の話し相手″がいるはずの場所を眺める。 その三階の窓には、まだ『三階クリニック』の文字はなく、彼女のいる時間軸が、まだ 元に戻っていないことを示している。 「で、いっ戻ってくるんだ ? 家賃できたぞ・ : 一月分だけ」 「そだね、もうちょっとしたら 「何かやり残したことでもあるのか ? 「花見の最中 : ・早咲きの桜が綺麗だよ」 「もう、こっちだって咲いてるぞ ? 」 「こっちの方が早いよ : ・三年くらい」 「・ : 風邪、ひくなよ」 「ひかないよお : ・人じゃあるまいし」 「明後日までには帰って来いよ」 「明後日って : : あ、そか ! 」 「骨董市と、縁日だ」 「俊介くん : ・」 「それと、餓死しそうなので」
57 第 1 話個人情報頂きます 前から知り合いであるかのように、あまりに自然に世話を焼こうとする。 「平気平気、俊介くんもまだ寝てるから。起こしてきて一緒に食べれば、 「俊介くん・ : ? 」 「お友達なんでしょ ? 俊介くんの。それっぽいですもんねえ」 「俊介くんて : ・ ? この際、何が『それっぽい』のかは深く詮索しないことにした。 : あなた、誰 ? 」 と、少女の方も、その言葉を受け、怪訝そうに目の前のひょろりとした篤を見上げる。 「いや、僕はここのクリニックに用があって : ・」 そうして二人は、お互いの噛み合わない認識を、少しの説明と、多めの 埋めていく。 「えっと : ・ある人からの紹介で : ・」 んー 「夋介くううう— 「え ? 「お客様が、お客様がつ、ふた月ぶりのお客様があああ— ! ー ″間″を使って しいじゃない」
121 第 3 話十年のお預かりで・・・ 「そ、そう : ・」 「昨年までは、ペパーダイン大学に渡り、卒業後、日本へと戻ってきて、このクリニック を開業したという訳です」 「なんですか : ・」 「そもそもこのように臨床心理学を極めようと思い立ったのは、やはり、中学時代に半年 間スイスに留学したことがきっかけでして」 「はあ : 「さて、それじゃ、早速お話を伺いましようか ? 遠慮なさらず、心にあるものを全て吐 き出して下さし 、。私は何時間でも黙ってお付き合いしますよ ? 「言いにくいことでも、まずは勇気を持って話してみることです。そうやって、一人でし まい込んで悩むだけでは前に進むことはできません。まずは一歩を踏み出すことです ! 」 「とにかく何でもいいから喋ってみてくださいよ。世間話だってかまいやしません」 「それじゃ、また私の方から、実はこれ、本当にあった話なんですけどね ? 」 「あの : ・」