離れ - みる会図書館


検索対象: 歌に縁り思うことなど
9件見つかりました。

1. 歌に縁り思うことなど

四軍律きいしき十なれど しつかりセよ」と抱き起 しにもどるては 七戰済んて日が暮れて 探 どうぞ生きてゐてくれよものなと言へと願 故郷・ヘ峰ったポケットに 八空しく冷へマ魂は 時計ばりかコチコチと動いてゐるもけなや 隣に居りし戦友の 三ああ戰の最十ー 俄の にはたと倒れしを我は思はす駟け寄りて ここはお国を何五里離れて速き満州の 赤いタ日に照らされて友は野ネの石の下 戦友 これか見舎ママ置のりよ、つカ 仮包帯も丸の十

2. 歌に縁り思うことなど

鉄幹作詞のこの曲は、一昔の挙生の酒を飲むと歌「た歌」として十挙・高校時代の 思師池田不ニ男先生に教わった。 この詩は「人生気に盛ず、功名誰か復論せん」て 締め繰られた魏敬の詩などとも重ね併セ、高校生の心を揺さ立った。 七、節あった 歌詞も当時は公郤憶えマ、 / ( 一昔前とはいえ、数多くの人々に愛され 歌われたこの曲、作曲者は明らかてはない この曲を借りて歌われマいた 「行春哀歌」 ( 旧制高の寮歌 ) とい う曲もあり、これ亦田先生に教えられた。作曲者不明、どちらが本家かは知らぬい 、ろんな詩の節回しに使われマもおのしくない曲のもしれチ 高校年の漢文選択クラスの生徒は何故名のみ。授常は教室を離れ、近くの 佐鳥湖畔・まて足を仲・ばすこともしばしばてあっ・ : / その際、先生自ら歌う「人を恋う るの歌」「行春哀歌」は今日なお耳にる。 行春哀歌 静に來たれしき 曇りて光る女の髪に われらカ ・、彡を浮べたる黄金の委の美酒は 半ー半ーーり一イ、 見よム日もなくしこ : にほへるしすく盡きむとす ああ青春は夸のゆく暮るるにはやき若き日の 安の庭の花むしろ足もなき「時」の舞 友よ憂いの手を取らん 消へゆく若き日は嘆く つき 、つ↓ - ィけ -

3. 歌に縁り思うことなど

名も知らぬ遠き島より 故郷の岸を離れマ 旧の水は生いや民れる われもまた渚を忱 実をどりて胸にあつれば 海の日の沈むを見れば 思いやる八重の潮々 流れ奇る揶子の実いとっ 女はそも波に幾月 枚はなお影をやなセる 孤身の浮寝の旅ぞ たなり流離の憂 漱り落っ異郷の涙 ーすれの日に国に帚らん

4. 歌に縁り思うことなど

妻を娶らばオたけてみめうるわしく匱けある 友を選ばば弯を読みて六分の侠気四分の熱 恋のいのちをたずぬれは名を惜しむな男の子ゆえ 友のけをたずぬれば義のあるところ火をも踏む 春の桜に秋の月世の暇人の酔へるとき フロバガンタにえ、て 我い青春よ行のむどす ハイロン ああわれダンテの奇オなく ハイネの熱 石を、 、たきマ野に、ったふ芭蕉のさいをよろこはす 人を恋うるの歌 、な、も

5. 歌に縁り思うことなど

井関農機在職十、台北郊外にお住まいの周さん宅を訪れ、半世化 を果た した。その際、この「追憶」の話をしたら、 「そんなこともありましたな と、往時を偲よか如く老顔をほころばセた。 「私たちか習ったその曲の歌詞は 磯馴れの松の梢に棲める十六夜月の鏡の面ー ゑまい 移らふ影カ我か亡き友の 言ら」カ歔笑のさまカ 月より響く蟲のあはれ 訪なう声の十々に乱れマ と言う歌・こっ , 、。 この歌詞のほうか 追憶どいう題名により 、たアつ、つ・カ との話をされた。それ以來この曲を口すさむときは 、「磯馴れの松の」とな「た。 周欽塗さんは台湾の人。卒の造詣深く、新婚家庭に坊主頭のわれわれ十守 生をよく召いてくださった。 この話もその時の一こまてある 近いのてはな よりの再会

6. 歌に縁り思うことなど

さ霧消ゆる江の舟にもし朝の霜 いまだ覚めず岸の家 / た水 % の士尸はして 人は畑に麦を踏む も啼きマ木に 3 く げに」春日ののどけしゃのえり咲きの花も見ゅ 嵐吹きて雲は落ち時雨降りて日は暮れぬ 若し灯火の漏れ耒ずはそれと分じ野辺の里 昼、夜の初冬の景色を、湖畔、里山、拊落についマ歌「ている。 佛の題材になりそうな田園風景いその歌詞らうかかはれる 文郤省歌十の名曲のいとってる。 同、よ、つ 春、夏、秋のそれぞれの風景が、歌言 「て耒る文部省歌の名曲に、「朧月夜」一夏は來ぬ」「紅葉」などいあるい こちらは既に北島卅子に写 ( とコメント付て収められズいる 冬景色 どともに孚のい上か

7. 歌に縁り思うことなど

終戦の年は国民守校の四年生。再疎開した夭竜川沿いの十瀬村て迎えた。 焼夷、機銃掃射、艦砲射撃 などによる恐ろしい経験は心の古傷となっているのだ ろ、つカ 。今ても花火見物をあまり好まないのは、頭上の花火い焼夷年の降り注ぐさ まを思い出さセるからだ。 意味もよく匀カらぬままに 歌「た軍歌も多い。不思議なものて、焼夷陣などによ る経験とは逆に、軍歌に対してはむしろ懐いしさを盛ずるのはなセか來を理解 セいい しないて記憶した 歳月の化作用によるものかはたまたの魔術による ・ものだろ、つ 太平洋戦争十のものてはないか 、「戰友」は、よく父歌ってくれたセいもあり、 むしろ好きな軍歌てある メロ丁イもよいか 歌訶に充れるヒューマニスムかさ らに良い。明治の戰争には、与謝野晶子の「君死 ヒュ 1 マニズムを包摂する奥行きかあ「たのもしれチ そうてあれば、それは もはや軍歌の範疇には入らな、

8. 歌に縁り思うことなど

この歌、小挙唱歌として明治四十五年に収され昭和十六年に姿を消すま て歌いのれた。念ないら昭和十セ年に国民挾に入挙した私は挾ては 習っていな、 毋がロすさんているのを聞いて憶えたものらし、 「冬の夜」は、夜なべ姿の毋に重なる思い出ての歌てもある。「夜なべ」は呪 代ては将に死語。とは言っ 1 も「靴下の穴かり」は我々の年代の人 っては、懐かしい当時の匱景を想い出さセてくれる 盛傷に溺れて母の思い出をもう一つ。それは、って、老毋の待っ浜ね の自宅へ駅いらタクシーを使っマ峰ったときの毋の言葉てある いっカらそんなに偉・くなっ ( 。 カカか銀行て少し 「バスをなぜ使わないの。 肩女きか上ったくらいて叮様だと思っているんてすか昔、買い出しの帰・ / こと ~ ごお亡心 ハス代を節杓して一諸にお芋を負「て夜を歩いて啼「こ れ」 毋は明治の生まれマあった。

9. 歌に縁り思うことなど

ロシア民謡の「灯」とシャンソンの一口マンス」は私の内面ては、 共存して 田舎育ちの私の上京したのは十八歳の春。上京早々都会の雰囲気を味わ「た のは、新宿の歌声喫茶「ともしい」と、銀座のシャンソン喫荼「銀巳里」てあ 柬京出身の友人に案内されマ訪れた歌声喫茶ては、関鑑子のんだ「青年歌 事」を歌っマ、都会の自由な雰囲気を満喫したし、 「銀巴里」ては 、「原光太郎 と柬京六重奏団」のシャンソンの生演奏が醸し出す洒落た雰囲気に圧倒された 「赤いサラファン」「カチュ 歌声喫茶ての曲は「灯」のほか シャ」「泉のほと り」「あさんの歌」 「銀巴里」ては、「ロマンス」のほか、丸山明弘 ( 尻 美輪明宏 ) 歌う「カナダ旅行」や、岸洋子の「赤いいなげしの花」などい懐い しく甦る 歌声喫茶はともかくどして、「銀巴里」は、当時貧乏挙生の出入りする听ては なかったののもしれ子 毎月樊手金を受け取りに銀座七丁目にあった日本卒 器へ行った時、偶々薦められマムち奇ったのいそのキッカケてある。 後年 ) やサンクト・ペテル、フルグて、それぞれシャンソンやロシア民謡 を聴く機会を得た。その際、心十密の彳 て主時の「銀巴里」や「どもしい」を思 起こしていたかそれとても今てはいと昔前の思い出となっこ。