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検索対象: 「奥の細道」に潜む漢詩文
11件見つかりました。

1. 「奥の細道」に潜む漢詩文

風吹拈水睛夭雨 月照平沙夏夜霜 能就江撲銷署否 比君茅舎較清涼 抗州望海 ( 蛇足 ) も卒夭の「江樓タ望」は「江接晩眺」と共に の春秋の眺めを詠じたもの。「和漢朗詠事夏夜」にもそ 夏夜の霜」が掾り入れられて の一節風は拈木を 芭蕉は「蒙求」や「和漢朗詠事」から漢詩文に親しんだの 力もし、れチ 風は枯水を吹く睛夭の雨 月は平沙を照らす夏夜の霜 よく江接に就きて署を銷さんや否や 君か茅舎に比すればやや清涼なり ( も卒夭江タ望招客 ) ( 平成ニ十ニ年五月 ) 孫明復錦段 )

2. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 象潟 ) 日や・ゃーカた , ぶノ、 潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山 とセば、雨俊の景色ま カくる。闇十に摸木して、「雨もまた奇なり」 たたのもし、と 蜑の苫屋に膝を入れて雨の睛るるを行っ。 ( 十略 ) 公島は笑 江の黻横一里ばり、停松島に適いて、また異 寂しさに悲しいをかへて、地劵魂 をますに似たり 象潟や雨に西施がねよの花 カ、とく、象は怺むかごとし。 を菱べマ、これこそ我い詩ど自慢しているのてろうの。詩十「宅 時相見るは生客に非ず」ど詠「マいるのて、家にくつろいて気の 珍しくもあり面台くも おけない 4 、イル内マの創作だろ、つか ある詩てある ただし、「炎夭の花」 「昔にはありえないもののたと え」の外に、「俗を越した禅家の悟りの境地」の味もある。簡 たとすれば、俊世 斈も芭蕉も俊者のて創作したり引用してい と彼岸てニ人て若笑 知性共に浅溥な輩の鑑賞は御免蒙りたい している力もし - れ子 あま

3. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 松島 ) ( / れど、松島は扶第一の好風にしておよそ洞庭・西 湖を恥ぢず。柬南より海を入れマ、江の十里、江の潮を湛ふ。 島々の数を尽くして、欹つものは夭を指し、伏すものは波に匍匐ふ。 あるはニ重に重なり又重に畳みて、に分かれ右に連なる。負へる 公のユこまや に、枚葉潮 あり抱けるあり 児孫愛すいごとし 風に吹きたわめマ、屈曲おのずらためたるかごとし。その色穹 づみ ちはやふる神の昔、人山祇のなセるわざに 然としマ美人の顔をよ。 づれの人か筆をふるい、言葉を尽くさむ ゃ。造化の天又、 ( 蜷足 ) その昔、喆婚式にお招き項いマ、寄セきの色紙い廻「て来た時、 若気の至りて、したり顔て書いた一ついこの「比翼連理」てあり そしても、つ一つか 「熟田に船乗りセむと月待マば龠もかないぬ今は漕ぎ出てな」 ( 額田工、下葉事な一 ) てあ「た。 力し、よく考えてみれば、長恨歌は玄宗ど揚責妃の悲恋の歌 てあり、熟田津の歌も惨敗したも村江への出陣の歌て、ともに もしてくるか ′、レ 4 よ目応し子よ、 お祝いの色舐にす 今とな「マはの祭りてある 熟田津は存予松山市の郊外にある。機会を非「て訪れてみた し較・均新・し 何時誰建てたのか、レ 今はもう浜甦てはない 「熟田津の ・」の歌碑のぼつんとム「ていた。

4. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 箜の碑 ) ばのりの苔を穿ちて文字幽 つぼの石よみは、高さ六尺余、横又尺 四国界の数里をしるす。 ( 十略 ) 昔よりよみ置ける 歌忱タく支 0 り云立といへども 、山雇れ、叫流れマ、道改ま 石は埋 もれて上に隠れ、木は老いて若水にわれば、時移り代変じて、そ いたみ の跡たし力ならぬことのみを、ここて ( 至りて疑いなき手歳の記念、 今眼前に古人の心をす。 噫吁戯危乎高哉 蜀之難難於上青夭 のくだりて、「のたれ死にすることもあるまい」のてあろうら、 ここては、よけ・いにそぐわ・ない丸かす・る あああ危うき力な高き力な 蜀道の難きは青夭に上るより難し

5. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 潮越の松 ) 越前の境吉嶮の入江を舟に掉さして、潮越の松を尋ぬ よもすから嵐に皮をはこばセて 西行 月をたれたる潮越の松 この一首にマ数景盡きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を 支つるが・ことし。 駢足者速無用え肉也足に駢するは無用の肉を速ぬるなり 枚手者樹無用え指也手に枚するは無用の指を樹つるなり ( 荘子駢拇編 ) ( 蛇足 ) 「この一首にマ景盡きたり」とは、 ・」の歌は蓮如の作とされマいるか 「よもすから のだろ、つカ 芭蕉の時代には、西 , 丁の歌と信じられていた 六本あること。何蛇足 「手に枚する」のは、手の指い , 無用の指をムマるべのらす、と芭 てもカ - んよ、つものな、ら、 被に叱られそ、つだ 将に行賛仰の一節

6. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 羽黒山 ) 別当代会覚閣 六月日羽黒山に登る。図司佐吉といふ 者を尋ねて、 リにす。南谷の別院に舎して憐愍の匱こまやにあるじセらる 四日本昉にいマ誹諧興行。 有難や香をかをらす南谷 人皆若炎劵人は皆炎を若めども 我愛夏日長 我は夏日の長きを愛す 薫風自南来薰風南より来り 殿閣生歔涼 殿閣歔涼を生ず ( 蛇足 ) 「有難や」のは、霊山羽黒山のすいすがしさに盛じ入る共 句会を催しマくれた会覚に対する挨拶の気持ちもめている このの初案は「有難や雪をかをらす風の」てあ。たい、 話にな「た羽黒山の別院僧坊の「南谷」ど、柬坡の「薫風自南 」とを重ね合わせて「南谷」に改め′ , ケてあるカ 挨拶りとしては芸の佃い戸 ・、、初の「風の」の ほうか木直に霊山の雰囲気を醸し出しているように思える ( 蘇柬坡足柳公権連 )

7. 「奥の細道」に潜む漢詩文

避けマ ( 永平寺 ) 。邦機千里を 五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺な 尊きゅゑ有りとや。 カカる山に ~ 小をのこし ~ 立も 邦機十里、これ氏の止まる所 ( 詩経 ) ( 敦賀 ) 十四日のタぐれ、つるいの聿に宿をもとむ。その夜、月に青れ / り。「あすの夜もくあるべきにや」といへば、「越路の習い、 と、あるじに酒すすめられて、気比の なほ明夜の陰暗はかりかた 卩月、より。社頭神・さいて、松の木の 明神に夜参す。仲哀夭皇の子 月の焉り入りたる 玉蟾初上欲円時 銀冠無聲な暗垂 清愽瑟宜先賞 明夜陰睛永可知 ( 蛇足 ) 邦機は奄都の。日本てすえば、さしずめ「内」か 邦機千里、惟民所止 お前のも砂、霜を敷けるがごとし。 玉蟾初めマ上りて円ならんと欲す 銀冠聲無くして、露暗に垂れ 清擲瑟、宜しくまず賞ずるべし 明夜の陰睛未だ知るべらず

8. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 平泉 ) 云代の榮耀一睡の十にして、人門の跡は一里こたれあり。秀が 跡は田野になりて、企鶏山のみ形を残す。 ( 十略 ) さても、義臣すぐ「マこの城にこもり、功名一時の叢どな 「国破れマ山河あり。城春にしマ草青みたり」 と箋 - っち敷きマ、 時の移るまて泪を落としはべりぬ 夏草や兵どもい夢の跡 卯の花に譱房見ゆるも毛な ーノ孑こ存 / り」と杜甫の描写ゃ一磁た 嶽上のあ々に寸しては、「も禾てス , 、 松公体の美景には、「その景穹然として美人の顔を粧ふ」 と蘇柬の詩を下敷 きにしたりして漢詩文の引用は縦横てある 柬坡は西湖の美を西施の化粧した顔に譬えたの、芭蕉も松島 の美しさを西施に見亥 1 たのだろうか。それとも人山祗神の美 っこのだ , わ、つカ 人の、木花咲那姫に譬えたの / 杜甫の「望嶽」は泰山望の詩てある。「造化は神をめ」 云々の五ナ。古詩のほうは、「岱宗久れ如何」て芝ダ、「い女ら ず当に絶項を凌ぎて、一たい衆山の小なるを覧べし」てめく くる若き日の作品。芭蕉の本文同掾引用の杜甫の詩も亦、カの こもったものてみる 曾良

9. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 尿前の關 ) あるじの、 これより出羽の国に人山を隔ママ、道さたカならざ れば、道しるべの人を頼みて越ゅべきよしを申す。 ( 十略 ) 木の下閤りあいて 高山森々として一鳥聲聞ず、 の十踏み分け、水をわたり岩に躓いて、 端につちふる心地して 肌につめたき汗を流しマ最上の庄に出づ。 錦宮城外柏森森 手擔相對坐終日茅擔に相對して坐すること終日 一鳥不啼山更幽一鳥啼かず山更に幽な 惧疑手堂江麓あやま 0 て疑う手堂江麓にぐるいと 巳に風燈に入れば雲瑞につちふる 巳入風磴霾雲喘 ( 杜甫鄭駲馬宅宴洞十 ) ( 蛇足 ) 「高山森森どして一鳥聲閉ず」の一節も、杜甫の蜀拍とエ安 石の鏡山即事を重ねて引用しており、一国破れて山河あり。城春 にしマ草青みたり」と同じ手法てある。「森森」どの表尻いある 「一鳥啼かず のて杜甫の蜀拍を切り離セない力もしれないカ 、よりのみても充分表尻てきるところと思われる 山更に幽チ なお、本文十、「木の下閤茂りあいマ夜行くいごとし」を、「文 錦宮城外、拍森々たり ( 工安石鐘山即事 ) ( 杜甫蜀拍 )

10. 「奥の細道」に潜む漢詩文

日殿 岩に腆かけてしばしやすらふほど、尺はかりなる桜のつほみ半ば いらけるあり ふり積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬざくらの 花の心わりなし 。灸天の掩花 ここにをるかごとし。 , 丁尊 2 正の歌 ここに思い出てマ、なほあはれもまさりて覚ゅ 雪裏芭蕉摩詰画雪裏の芭蕉は摩詰の画 炎夭悔篆簡斎詩炎夭の篆は簡斎の詩 宅時相見非生客宅時拍見るは生客に非ず 箸倚琅琲一段奇琅琲一段の奇に若倚セん ( 蛇足 ) 人峰にマ思いもかけず桜の花の咲きたりけるを見て詠める。 もろどもにあはれと思へ山桜 化 . よ - り・ほか にしる人もよし ( 行尊企葉和歌事 ) 岩に腰のけて休息のいと時、雪の下に埋もれながらも春を忘れぬ 遅桜に愛しみの心を注ぐ姿が目に浮ぶ一 行尊の歌は、百人一首ておなじみてあるカイ ・、、乍者名を隠セば 行の歌と思う人もいるいもしれチ 山伏惨験者どして諸国 をまわった行尊は朝野の季崇厚く、稜に建暦寺座主、人僧正どな る。芭蕉の湯殿山十ての孤独盛が、「もろともにあはれと思へ」と 吉野山十の山桜ー て ' 、いして呼いけた行尊の惜に共鳥したのも 肯ける 「炎夭の花」の原詩ては、作者の簡斎は、王の猤と自分の詩 ( 簡斎簡斎詩 ) ( 摩詰は王維の字 )