国破山河在 城春草水深 も骨城辺草自青 憂来藉草坐 浩歌涙盈把 ( 蛇足 ) 平泉ては、芭蕉は幻想の世界に浸り、義経滅亡時のリアルな戰 を見つめていた 文章はイメージの世界に陶酔した 力の如くてある 「国破れて山河あり。城春にしマ草青みたりの用は、牡甫の 「春望」の詩に湖伯雨の「望淮」の詩を重ねたもの ( 頴原遇 尾形仂、 おくの細道 ) 、それとも、芭蕉の記憶の誤り、わざと 「草青みたり」と改めたの ( 吉円幸次郎 好達治、新唐詩送 ) ニりの解釈があるようだ。 北島德一さんも、その箸「独りよかりの漢詩鑑賞」のなかて 、、の、、レいれ ( 芭蕉は杜甫の詩の第ニ句を、「城春にして草青みたり」ど記して いるい、一草青みたりの表呪は、盛慨がややソフトに流れてお り、原詩の「草木深し」のほうい詠嘆の心を訴える力が勝って 、るように思われる。 ) と逆べ、さらに ( 草み 円たり、は芭蕉の記憶いてはない の説もある ) とコメントしている 国破れて山河あり 城春にして草木米し も骨城辺、草自ずから青し 憂い来りて草を藉いマ坐セば 浩歌涙把に盈っ ( 牡甫玉筆宮 ) ( 杜甫春望 ) ( 湖伯雨望淮 )
( 尿前の關 ) あるじの、 これより出羽の国に人山を隔ママ、道さたカならざ れば、道しるべの人を頼みて越ゅべきよしを申す。 ( 十略 ) 木の下閤りあいて 高山森々として一鳥聲聞ず、 の十踏み分け、水をわたり岩に躓いて、 端につちふる心地して 肌につめたき汗を流しマ最上の庄に出づ。 錦宮城外柏森森 手擔相對坐終日茅擔に相對して坐すること終日 一鳥不啼山更幽一鳥啼かず山更に幽な 惧疑手堂江麓あやま 0 て疑う手堂江麓にぐるいと 巳に風燈に入れば雲瑞につちふる 巳入風磴霾雲喘 ( 杜甫鄭駲馬宅宴洞十 ) ( 蛇足 ) 「高山森森どして一鳥聲閉ず」の一節も、杜甫の蜀拍とエ安 石の鏡山即事を重ねて引用しており、一国破れて山河あり。城春 にしマ草青みたり」と同じ手法てある。「森森」どの表尻いある 「一鳥啼かず のて杜甫の蜀拍を切り離セない力もしれないカ 、よりのみても充分表尻てきるところと思われる 山更に幽チ なお、本文十、「木の下閤茂りあいマ夜行くいごとし」を、「文 錦宮城外、拍森々たり ( 工安石鐘山即事 ) ( 杜甫蜀拍 )
( 平泉 ) 云代の榮耀一睡の十にして、人門の跡は一里こたれあり。秀が 跡は田野になりて、企鶏山のみ形を残す。 ( 十略 ) さても、義臣すぐ「マこの城にこもり、功名一時の叢どな 「国破れマ山河あり。城春にしマ草青みたり」 と箋 - っち敷きマ、 時の移るまて泪を落としはべりぬ 夏草や兵どもい夢の跡 卯の花に譱房見ゆるも毛な ーノ孑こ存 / り」と杜甫の描写ゃ一磁た 嶽上のあ々に寸しては、「も禾てス , 、 松公体の美景には、「その景穹然として美人の顔を粧ふ」 と蘇柬の詩を下敷 きにしたりして漢詩文の引用は縦横てある 柬坡は西湖の美を西施の化粧した顔に譬えたの、芭蕉も松島 の美しさを西施に見亥 1 たのだろうか。それとも人山祗神の美 っこのだ , わ、つカ 人の、木花咲那姫に譬えたの / 杜甫の「望嶽」は泰山望の詩てある。「造化は神をめ」 云々の五ナ。古詩のほうは、「岱宗久れ如何」て芝ダ、「い女ら ず当に絶項を凌ぎて、一たい衆山の小なるを覧べし」てめく くる若き日の作品。芭蕉の本文同掾引用の杜甫の詩も亦、カの こもったものてみる 曾良
日殿 岩に腆かけてしばしやすらふほど、尺はかりなる桜のつほみ半ば いらけるあり ふり積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬざくらの 花の心わりなし 。灸天の掩花 ここにをるかごとし。 , 丁尊 2 正の歌 ここに思い出てマ、なほあはれもまさりて覚ゅ 雪裏芭蕉摩詰画雪裏の芭蕉は摩詰の画 炎夭悔篆簡斎詩炎夭の篆は簡斎の詩 宅時相見非生客宅時拍見るは生客に非ず 箸倚琅琲一段奇琅琲一段の奇に若倚セん ( 蛇足 ) 人峰にマ思いもかけず桜の花の咲きたりけるを見て詠める。 もろどもにあはれと思へ山桜 化 . よ - り・ほか にしる人もよし ( 行尊企葉和歌事 ) 岩に腰のけて休息のいと時、雪の下に埋もれながらも春を忘れぬ 遅桜に愛しみの心を注ぐ姿が目に浮ぶ一 行尊の歌は、百人一首ておなじみてあるカイ ・、、乍者名を隠セば 行の歌と思う人もいるいもしれチ 山伏惨験者どして諸国 をまわった行尊は朝野の季崇厚く、稜に建暦寺座主、人僧正どな る。芭蕉の湯殿山十ての孤独盛が、「もろともにあはれと思へ」と 吉野山十の山桜ー て ' 、いして呼いけた行尊の惜に共鳥したのも 肯ける 「炎夭の花」の原詩ては、作者の簡斎は、王の猤と自分の詩 ( 簡斎簡斎詩 ) ( 摩詰は王維の字 )
( 箜の碑 ) ばのりの苔を穿ちて文字幽 つぼの石よみは、高さ六尺余、横又尺 四国界の数里をしるす。 ( 十略 ) 昔よりよみ置ける 歌忱タく支 0 り云立といへども 、山雇れ、叫流れマ、道改ま 石は埋 もれて上に隠れ、木は老いて若水にわれば、時移り代変じて、そ いたみ の跡たし力ならぬことのみを、ここて ( 至りて疑いなき手歳の記念、 今眼前に古人の心をす。 噫吁戯危乎高哉 蜀之難難於上青夭 のくだりて、「のたれ死にすることもあるまい」のてあろうら、 ここては、よけ・いにそぐわ・ない丸かす・る あああ危うき力な高き力な 蜀道の難きは青夭に上るより難し
( 潮越の松 ) 越前の境吉嶮の入江を舟に掉さして、潮越の松を尋ぬ よもすから嵐に皮をはこばセて 西行 月をたれたる潮越の松 この一首にマ数景盡きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を 支つるが・ことし。 駢足者速無用え肉也足に駢するは無用の肉を速ぬるなり 枚手者樹無用え指也手に枚するは無用の指を樹つるなり ( 荘子駢拇編 ) ( 蛇足 ) 「この一首にマ景盡きたり」とは、 ・」の歌は蓮如の作とされマいるか 「よもすから のだろ、つカ 芭蕉の時代には、西 , 丁の歌と信じられていた 六本あること。何蛇足 「手に枚する」のは、手の指い , 無用の指をムマるべのらす、と芭 てもカ - んよ、つものな、ら、 被に叱られそ、つだ 将に行賛仰の一節
( 羽黒山 ) 別当代会覚閣 六月日羽黒山に登る。図司佐吉といふ 者を尋ねて、 リにす。南谷の別院に舎して憐愍の匱こまやにあるじセらる 四日本昉にいマ誹諧興行。 有難や香をかをらす南谷 人皆若炎劵人は皆炎を若めども 我愛夏日長 我は夏日の長きを愛す 薫風自南来薰風南より来り 殿閣生歔涼 殿閣歔涼を生ず ( 蛇足 ) 「有難や」のは、霊山羽黒山のすいすがしさに盛じ入る共 句会を催しマくれた会覚に対する挨拶の気持ちもめている このの初案は「有難や雪をかをらす風の」てあ。たい、 話にな「た羽黒山の別院僧坊の「南谷」ど、柬坡の「薫風自南 」とを重ね合わせて「南谷」に改め′ , ケてあるカ 挨拶りとしては芸の佃い戸 ・、、初の「風の」の ほうか木直に霊山の雰囲気を醸し出しているように思える ( 蘇柬坡足柳公権連 )
避けマ ( 永平寺 ) 。邦機千里を 五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺な 尊きゅゑ有りとや。 カカる山に ~ 小をのこし ~ 立も 邦機十里、これ氏の止まる所 ( 詩経 ) ( 敦賀 ) 十四日のタぐれ、つるいの聿に宿をもとむ。その夜、月に青れ / り。「あすの夜もくあるべきにや」といへば、「越路の習い、 と、あるじに酒すすめられて、気比の なほ明夜の陰暗はかりかた 卩月、より。社頭神・さいて、松の木の 明神に夜参す。仲哀夭皇の子 月の焉り入りたる 玉蟾初上欲円時 銀冠無聲な暗垂 清愽瑟宜先賞 明夜陰睛永可知 ( 蛇足 ) 邦機は奄都の。日本てすえば、さしずめ「内」か 邦機千里、惟民所止 お前のも砂、霜を敷けるがごとし。 玉蟾初めマ上りて円ならんと欲す 銀冠聲無くして、露暗に垂れ 清擲瑟、宜しくまず賞ずるべし 明夜の陰睛未だ知るべらず
余抗門外、日将に哺れむとす 余抗門外日将哺 多景朧どして一景無し 多景朧一景無 雨も奇にして晴も好しのを暗じ得たり 暗得雨奇睛好匂 暗十摸木して西湖を見る 暗十摸木識西湖 水光瀲瀧暗方好山色空濛雨亦奇 若把西湖比西子淡粧県抹両拍宣 、ム島に続いての再登場てあ ( 蛇足 ) 蘇柬坡の「飲湖上初睛稜雨」が、 る。「暗十に摸木して、」は、策彦の詩を踏まえたものて、己 の盛性を和漢の詩情と交響さセないら文章に表呪していくと ころは、推敲の上てはあろうの見事と盛心セざるを得な、 「松島は笑ふいごとく、象潟はむのごどし」は、太平洋岸 の明るい第、しさと、日本海岸の暗いけれどもしっとりとした 美しさを、一言て言い表しており、歳時記の、「山笑う」「山 眠る」を想起さセる ついてなからこの季語も 春山淡冶而如笑夏山蒼翠而如滴 秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡 ( 北宋、禅宗の画家「郭煕」の言。画論一臥遊録一に収﨧 ) い拠っている。 さらに思い出さセるのは、同じく蘇柬坡の「前赤壁の賦」 の「客有吹洞簫者 ・」のくだりてある 芭蕉は、雨稜の潟の風匱を、西施の憂悶に譬えるどどもに、 ・、ロし」と表尻することによって、赤壁の賦の 「象潟はむカ攷 「洞蕭のさまざまな査」ども響き合わセていたのてはないろ うの。もっとも、このことは手元のどの脚注にも無く、豚手 読みとこれ窈芭蕉に叱られるもしれチ ( 蘇柬坡飲湖上初睛俊雨再掲 ) ざくげん
( 飯塚の里 ) 、よし AJ いへÄJ , 辷なる行くネをへて、かる病おばっか子 れ夭の命な 道路に死なん、こ 羇旅辺土の行脚、恰身無常の鯢念、 と気力聊かとり直し、道黻横に踏んて伊の人木戸を越す。 且予縦不得人葬且っ予、黻い人葬を得ずとも ( 論語子罕 ) 予死道路乎道路に死なむや ( 蛇足 ) 恰身無常の観念ならば、西行の「花のもどにマ春死なむ」の登場か あっマ然るべきところてある 「たとい人葬を得ずとも」を受けて 論語の「道路に死なむや」は、 ( 蛇足 ) 廬山速嶺と日光の山々とては、そのスケールの迎いはあるとして も、か百尺と写実的なのに対し、李もは十尺と例によ 0 て 誇人表尻。ても、続く「疑是銀河落九夭」と併セて鑑賞すれば、 李もらしく気宇壮人なのか良い 宮延を追われた李もが放浪十年、暫し隠接の地に送んだ廬山の 麓は、俊年も居易も草堂をんて詩を賦しいる。その十の一つ、 日高く睡足りて猶起きるに慵し 日高睡足猶慵起 小悶に衾を重ねマ寒を怕れす 小閣重衾不怕寒 遺愛寺の鐱は忱を欹てマ聴き 遺愛寺鐘欹忱聴 番爐峰雪撥簾看 ( 俊略 ) 番爐峰の雪は簾を撥げて看る 稜半が和漢朗詠事にも収録され、忱草子「番爐峰の雪は 何ならん」の清少納言自讃の段 ( ニ九九段 ) 、のおかげて、カな り人口に膾炙している 黒髪山 ( 男体山 ) は歌枕のいとつ。高爐峰の紫煙や雪など、 廬山は十国の歌忱なのだろうい