( 尿前の關 ) あるじの、 これより出羽の国に人山を隔ママ、道さたカならざ れば、道しるべの人を頼みて越ゅべきよしを申す。 ( 十略 ) 木の下閤りあいて 高山森々として一鳥聲聞ず、 の十踏み分け、水をわたり岩に躓いて、 端につちふる心地して 肌につめたき汗を流しマ最上の庄に出づ。 錦宮城外柏森森 手擔相對坐終日茅擔に相對して坐すること終日 一鳥不啼山更幽一鳥啼かず山更に幽な 惧疑手堂江麓あやま 0 て疑う手堂江麓にぐるいと 巳に風燈に入れば雲瑞につちふる 巳入風磴霾雲喘 ( 杜甫鄭駲馬宅宴洞十 ) ( 蛇足 ) 「高山森森どして一鳥聲閉ず」の一節も、杜甫の蜀拍とエ安 石の鏡山即事を重ねて引用しており、一国破れて山河あり。城春 にしマ草青みたり」と同じ手法てある。「森森」どの表尻いある 「一鳥啼かず のて杜甫の蜀拍を切り離セない力もしれないカ 、よりのみても充分表尻てきるところと思われる 山更に幽チ なお、本文十、「木の下閤茂りあいマ夜行くいごとし」を、「文 錦宮城外、拍森々たり ( 工安石鐘山即事 ) ( 杜甫蜀拍 )
( 飯塚の里 ) 、よし AJ いへÄJ , 辷なる行くネをへて、かる病おばっか子 れ夭の命な 道路に死なん、こ 羇旅辺土の行脚、恰身無常の鯢念、 と気力聊かとり直し、道黻横に踏んて伊の人木戸を越す。 且予縦不得人葬且っ予、黻い人葬を得ずとも ( 論語子罕 ) 予死道路乎道路に死なむや ( 蛇足 ) 恰身無常の観念ならば、西行の「花のもどにマ春死なむ」の登場か あっマ然るべきところてある 「たとい人葬を得ずとも」を受けて 論語の「道路に死なむや」は、 ( 蛇足 ) 廬山速嶺と日光の山々とては、そのスケールの迎いはあるとして も、か百尺と写実的なのに対し、李もは十尺と例によ 0 て 誇人表尻。ても、続く「疑是銀河落九夭」と併セて鑑賞すれば、 李もらしく気宇壮人なのか良い 宮延を追われた李もが放浪十年、暫し隠接の地に送んだ廬山の 麓は、俊年も居易も草堂をんて詩を賦しいる。その十の一つ、 日高く睡足りて猶起きるに慵し 日高睡足猶慵起 小悶に衾を重ねマ寒を怕れす 小閣重衾不怕寒 遺愛寺の鐱は忱を欹てマ聴き 遺愛寺鐘欹忱聴 番爐峰雪撥簾看 ( 俊略 ) 番爐峰の雪は簾を撥げて看る 稜半が和漢朗詠事にも収録され、忱草子「番爐峰の雪は 何ならん」の清少納言自讃の段 ( ニ九九段 ) 、のおかげて、カな り人口に膾炙している 黒髪山 ( 男体山 ) は歌枕のいとつ。高爐峰の紫煙や雪など、 廬山は十国の歌忱なのだろうい
( 日光 ) あるじ仏五 ~ 打門のなす事に心をとどめてみるに 。剛毅朴訥の仁に近 か別にしマ正直偏固の者なり ( 十略 ) 質もっとも尊よべし。 子日オ言近仁子日くオ言 ( 黒髪山は霞いりて、雪いまだもし。 リり捨てて黒髪山に衣更 、山を発「てあり。岩洞の項より飛流しマ百尺、十岩の ニ十余 碧覃に落ちたり。 日照呑爐生紫煙 遥看瀑布挂長川 飛流直下十尺 疑是銀河落九夭 ( 蛇足 ) リ殳ト訥は仁に近し」は、同じく侖吾、手而の「巧一 = 。 令色、鮮し仁」と対の言葉 、」几人ト・内を装ったり 七十余年の我が人生を振り「てみると罔オ言 どちらも我が人生、消 巧一 , 0 人マ色を用いたりしたことも数タタ、 し去ることは出來ないカ ないどころか人 日は番爐を照らして紫煙を生ず 遥に看る暴布の長円に挂くるを 飛流直下又十尺 疑ふらくは是れ銀河の九夭より落つるかと ( 李も望廬山布 ) 、「仁に近し」「鮮し仁」と新定してい フとなってはセめてもの救いに思・んる 曾良 ただ無知無 くい、気稾の ( 論語子路編 ) ( 十略 )
避けマ ( 永平寺 ) 。邦機千里を 五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺な 尊きゅゑ有りとや。 カカる山に ~ 小をのこし ~ 立も 邦機十里、これ氏の止まる所 ( 詩経 ) ( 敦賀 ) 十四日のタぐれ、つるいの聿に宿をもとむ。その夜、月に青れ / り。「あすの夜もくあるべきにや」といへば、「越路の習い、 と、あるじに酒すすめられて、気比の なほ明夜の陰暗はかりかた 卩月、より。社頭神・さいて、松の木の 明神に夜参す。仲哀夭皇の子 月の焉り入りたる 玉蟾初上欲円時 銀冠無聲な暗垂 清愽瑟宜先賞 明夜陰睛永可知 ( 蛇足 ) 邦機は奄都の。日本てすえば、さしずめ「内」か 邦機千里、惟民所止 お前のも砂、霜を敷けるがごとし。 玉蟾初めマ上りて円ならんと欲す 銀冠聲無くして、露暗に垂れ 清擲瑟、宜しくまず賞ずるべし 明夜の陰睛未だ知るべらず
( 平泉 ) 云代の榮耀一睡の十にして、人門の跡は一里こたれあり。秀が 跡は田野になりて、企鶏山のみ形を残す。 ( 十略 ) さても、義臣すぐ「マこの城にこもり、功名一時の叢どな 「国破れマ山河あり。城春にしマ草青みたり」 と箋 - っち敷きマ、 時の移るまて泪を落としはべりぬ 夏草や兵どもい夢の跡 卯の花に譱房見ゆるも毛な ーノ孑こ存 / り」と杜甫の描写ゃ一磁た 嶽上のあ々に寸しては、「も禾てス , 、 松公体の美景には、「その景穹然として美人の顔を粧ふ」 と蘇柬の詩を下敷 きにしたりして漢詩文の引用は縦横てある 柬坡は西湖の美を西施の化粧した顔に譬えたの、芭蕉も松島 の美しさを西施に見亥 1 たのだろうか。それとも人山祗神の美 っこのだ , わ、つカ 人の、木花咲那姫に譬えたの / 杜甫の「望嶽」は泰山望の詩てある。「造化は神をめ」 云々の五ナ。古詩のほうは、「岱宗久れ如何」て芝ダ、「い女ら ず当に絶項を凌ぎて、一たい衆山の小なるを覧べし」てめく くる若き日の作品。芭蕉の本文同掾引用の杜甫の詩も亦、カの こもったものてみる 曾良
( 旅ムち ) 子住といふ , , 町にマ <D をあかれは て、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。 行く春や鳥啼き魚の目は泪 羇鳥恋旧沐羇鳥は旧沐を恋い 池魚思故淵池魚は故淵を思ふ 開荒南野際荒を南野の際に開かんとし 守拙峰田園拙を守って田園にる 陶淵明啼田園居その一 ) ( 蛇足 ) 行く春と親しい友との惜別の匱を、ど魚に託しているところは 陶淵明の「峰田園居」を踏まえている、ど一 = 。うのがいとつの説 この句の魚とは、弟子てあり同時に府御用達の魚間屋 てもある杉山杉風 ) ヒ日し、 世話に、よった杉風への挨拶との説も ある。この杉風説、芭蕉をあまり神搖視しないて人問芭蕉として 受け止めマいこうとする、それなりの説とも言える てはあるい、芭蕉の旅ムちを、自然を愛し孤高を求めて俗麈を 離れ田園に峰「た陶淵明ど重ねる前者を抹りたい 「前途十里のおもい」からは、平家物語忠度都落ちのくだり 師の俊成に己の和歌を託し、別れに際しマロずさんだ詩、「前途程 し」云々、を思い起こす 「前途程、馳思雁山え暮雲、稜會期追、霑纓鴻櫨え晩涙 前途程遠し、思いを雁山の暮の雲にす、 力なり 彼會の期遥、 偰を鴻臚の吮の涙に霑す」 ロ漢朗詠事い原典て、人江朝綱い渤海国の使者に贈「た別 のり。古詩に託して心境を伝えようとした文武両道の平家公達の 面目躍如たるところて、源氏の猪武者諸君、以「マ如何と為す 、 / 、ところてある とす 前途三十里のおもい ゅうべ - 均ーい , ふカ・り・
余抗門外、日将に哺れむとす 余抗門外日将哺 多景朧どして一景無し 多景朧一景無 雨も奇にして晴も好しのを暗じ得たり 暗得雨奇睛好匂 暗十摸木して西湖を見る 暗十摸木識西湖 水光瀲瀧暗方好山色空濛雨亦奇 若把西湖比西子淡粧県抹両拍宣 、ム島に続いての再登場てあ ( 蛇足 ) 蘇柬坡の「飲湖上初睛稜雨」が、 る。「暗十に摸木して、」は、策彦の詩を踏まえたものて、己 の盛性を和漢の詩情と交響さセないら文章に表呪していくと ころは、推敲の上てはあろうの見事と盛心セざるを得な、 「松島は笑ふいごとく、象潟はむのごどし」は、太平洋岸 の明るい第、しさと、日本海岸の暗いけれどもしっとりとした 美しさを、一言て言い表しており、歳時記の、「山笑う」「山 眠る」を想起さセる ついてなからこの季語も 春山淡冶而如笑夏山蒼翠而如滴 秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡 ( 北宋、禅宗の画家「郭煕」の言。画論一臥遊録一に収﨧 ) い拠っている。 さらに思い出さセるのは、同じく蘇柬坡の「前赤壁の賦」 の「客有吹洞簫者 ・」のくだりてある 芭蕉は、雨稜の潟の風匱を、西施の憂悶に譬えるどどもに、 ・、ロし」と表尻することによって、赤壁の賦の 「象潟はむカ攷 「洞蕭のさまざまな査」ども響き合わセていたのてはないろ うの。もっとも、このことは手元のどの脚注にも無く、豚手 読みとこれ窈芭蕉に叱られるもしれチ ( 蘇柬坡飲湖上初睛俊雨再掲 ) ざくげん
( 箜の碑 ) ばのりの苔を穿ちて文字幽 つぼの石よみは、高さ六尺余、横又尺 四国界の数里をしるす。 ( 十略 ) 昔よりよみ置ける 歌忱タく支 0 り云立といへども 、山雇れ、叫流れマ、道改ま 石は埋 もれて上に隠れ、木は老いて若水にわれば、時移り代変じて、そ いたみ の跡たし力ならぬことのみを、ここて ( 至りて疑いなき手歳の記念、 今眼前に古人の心をす。 噫吁戯危乎高哉 蜀之難難於上青夭 のくだりて、「のたれ死にすることもあるまい」のてあろうら、 ここては、よけ・いにそぐわ・ない丸かす・る あああ危うき力な高き力な 蜀道の難きは青夭に上るより難し
( 象潟 ) 日や・ゃーカた , ぶノ、 潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山 とセば、雨俊の景色ま カくる。闇十に摸木して、「雨もまた奇なり」 たたのもし、と 蜑の苫屋に膝を入れて雨の睛るるを行っ。 ( 十略 ) 公島は笑 江の黻横一里ばり、停松島に適いて、また異 寂しさに悲しいをかへて、地劵魂 をますに似たり 象潟や雨に西施がねよの花 カ、とく、象は怺むかごとし。 を菱べマ、これこそ我い詩ど自慢しているのてろうの。詩十「宅 時相見るは生客に非ず」ど詠「マいるのて、家にくつろいて気の 珍しくもあり面台くも おけない 4 、イル内マの創作だろ、つか ある詩てある ただし、「炎夭の花」 「昔にはありえないもののたと え」の外に、「俗を越した禅家の悟りの境地」の味もある。簡 たとすれば、俊世 斈も芭蕉も俊者のて創作したり引用してい と彼岸てニ人て若笑 知性共に浅溥な輩の鑑賞は御免蒙りたい している力もし - れ子 あま
( ネの松山 ) ネの松山は寺を造りてネ松山といふ。 松のあいあい皆蟇はらにて、 カノ、の・、 . ど、 . どト 9 し、 のネも冬ては、 はねをかはし枚をつらぬる契り もさりマ、塩のまの浦に入相いのかねを聞く。 在夭願作比翼鳥 夭に在りては願はくば比 翼のと作らん 在地願為連理枚 也に在りては願はくば連理の枚と為らん 夭長地久有時盡 夭は長く地は久しくとも時ありての盡く 此恨狒狒無絶期 北の恨は・々として絶ゆるの期無からん ( も居易長恨歌 ) ( 蛇足 ) 地崩山摧壮士死 然後夭梯石找拍鈎連 剣閣崢嶸而崔嵬 一久當関萬久莫開 ( 稜略 「山崩れ、円流れマ、道改まり」の表尻を、李も、蜀道難の 「地崩山摧壮士死」の一節によるとする脚注は、 力なり付人に 思える。本当にそ、つなの芭霍 ( に閉いてみたいところてある 蛇足のついてに この蜀道難の誇の稜半に「一久閧に當たるや 萬久も開くなし」と、 う「箱根八里」の歌詞い出てくる。子供の 頃求もわいらすに、お軽よろセく歌っていたカ 俊年この詩 の一即に安し、 なにやら旧友に出会ったようなかしさかこみ上 、け、て、たこと′ど憶 , てている 地崩れ山摧げて壮士死す 然る稜に夭石桟ねい鈎連す 剣崢嶸として崔嵬 一久閧に當るや萬久も開く莫し ( 李も蜀道難 )