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検索対象: 「奥の細道」に潜む漢詩文
16件見つかりました。

1. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 山十澂泉 ) てゆかりあれば、先ムち 曾良は腹を病みマ、伊劵の国長嶋といふ戸ー て , 丁くて、 曾良 行き行きマたよれ伏すとも萩の原 とき置 きたり。 , 丁くものの匪 2 しみ、残るもののうらみ、箋鳧の , れてにまよふかごとし。 今日よりや付消さん艾の露 人聖寺い城外、全昌寺といふ 客有吹洞簫者、倚歌而和之、其聲鳴鳴然、如怨如慕 如汯如訴、餘嫋嫋、不絶如僂 客に洞簫を吹く者あり、歌に倚ってえに和す、其の聲鳴々 殀 として、 2 むか如く慕、つカ致く ・、くか攷く・再ふるカ 如し餘嫋嫋として、絶へざること僂の如し。 ( 蘇柬坡 寺にとまる。なほ加賀の地なり 前赤壁賦 )

2. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 旅ムち ) 子住といふ , , 町にマ <D をあかれは て、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。 行く春や鳥啼き魚の目は泪 羇鳥恋旧沐羇鳥は旧沐を恋い 池魚思故淵池魚は故淵を思ふ 開荒南野際荒を南野の際に開かんとし 守拙峰田園拙を守って田園にる 陶淵明啼田園居その一 ) ( 蛇足 ) 行く春と親しい友との惜別の匱を、ど魚に託しているところは 陶淵明の「峰田園居」を踏まえている、ど一 = 。うのがいとつの説 この句の魚とは、弟子てあり同時に府御用達の魚間屋 てもある杉山杉風 ) ヒ日し、 世話に、よった杉風への挨拶との説も ある。この杉風説、芭蕉をあまり神搖視しないて人問芭蕉として 受け止めマいこうとする、それなりの説とも言える てはあるい、芭蕉の旅ムちを、自然を愛し孤高を求めて俗麈を 離れ田園に峰「た陶淵明ど重ねる前者を抹りたい 「前途十里のおもい」からは、平家物語忠度都落ちのくだり 師の俊成に己の和歌を託し、別れに際しマロずさんだ詩、「前途程 し」云々、を思い起こす 「前途程、馳思雁山え暮雲、稜會期追、霑纓鴻櫨え晩涙 前途程遠し、思いを雁山の暮の雲にす、 力なり 彼會の期遥、 偰を鴻臚の吮の涙に霑す」 ロ漢朗詠事い原典て、人江朝綱い渤海国の使者に贈「た別 のり。古詩に託して心境を伝えようとした文武両道の平家公達の 面目躍如たるところて、源氏の猪武者諸君、以「マ如何と為す 、 / 、ところてある とす 前途三十里のおもい ゅうべ - 均ーい , ふカ・り・

3. 「奥の細道」に潜む漢詩文

月日は五代の客にして行きかふ年もまた旅人なり 舟の上に生涯をうかべ、馬のロとらへて老をむかふる者は日々旅に して旅を栖とす。古人も多く旅に死セるあり。 久夭地者萬物え逆旅 久れ夭地は萬物の逆旅にして 光陰者五代え客 光陰は五代の客なり 而浮生若夢、為歓幾何 ( 稜略 ) 而して浮生は夢の如し歓を為す幾何ぞ ( 李も春夜宴諸従弟挑李園序 ) ( 発喘 ) ( 蛇足 ) 「奥の道」に潜む漢詩文 引用の、李もの「挑李園の序」は、享卒思想を謳い上げた名文 てはある奥の細道の冒頭には必すしも馴染まないのてはな 、カレ」 い択間は予てより残るところてある 鴨長明の「方丈記」も同様に、「子在川上日逝者如斯夫不舎 夜」 ( 論語子罕篇 ) を踏まえた表呪て ゆく円の流れは絶へずして、しも、もとの水にあらす。 み、手かな、つ子ーカ + ー し′、 *J ま かっ消へかっ喆いて、久 。り・仁へる仁へめしよし。 と女っ」出しているか 、、のほ、つは。ヒタリ・とノ、る 原典の享卒思想を切り捨マての「挑李園の序」の引用は、こ の他にも、西鶴の「日本永代蔵」 など、多く行われており、貞 享のら元求にけての時代の , 丁だったとも言われている 、ずれにセよ、宇宙の本質を、生々流転してとどまるところ を知らぬ旅てある、とする世界観の表明として、芭蕉い李もの 文牽の一郤を用い

4. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 象潟 ) 日や・ゃーカた , ぶノ、 潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山 とセば、雨俊の景色ま カくる。闇十に摸木して、「雨もまた奇なり」 たたのもし、と 蜑の苫屋に膝を入れて雨の睛るるを行っ。 ( 十略 ) 公島は笑 江の黻横一里ばり、停松島に適いて、また異 寂しさに悲しいをかへて、地劵魂 をますに似たり 象潟や雨に西施がねよの花 カ、とく、象は怺むかごとし。 を菱べマ、これこそ我い詩ど自慢しているのてろうの。詩十「宅 時相見るは生客に非ず」ど詠「マいるのて、家にくつろいて気の 珍しくもあり面台くも おけない 4 、イル内マの創作だろ、つか ある詩てある ただし、「炎夭の花」 「昔にはありえないもののたと え」の外に、「俗を越した禅家の悟りの境地」の味もある。簡 たとすれば、俊世 斈も芭蕉も俊者のて創作したり引用してい と彼岸てニ人て若笑 知性共に浅溥な輩の鑑賞は御免蒙りたい している力もし - れ子 あま

5. 「奥の細道」に潜む漢詩文

余抗門外、日将に哺れむとす 余抗門外日将哺 多景朧どして一景無し 多景朧一景無 雨も奇にして晴も好しのを暗じ得たり 暗得雨奇睛好匂 暗十摸木して西湖を見る 暗十摸木識西湖 水光瀲瀧暗方好山色空濛雨亦奇 若把西湖比西子淡粧県抹両拍宣 、ム島に続いての再登場てあ ( 蛇足 ) 蘇柬坡の「飲湖上初睛稜雨」が、 る。「暗十に摸木して、」は、策彦の詩を踏まえたものて、己 の盛性を和漢の詩情と交響さセないら文章に表呪していくと ころは、推敲の上てはあろうの見事と盛心セざるを得な、 「松島は笑ふいごとく、象潟はむのごどし」は、太平洋岸 の明るい第、しさと、日本海岸の暗いけれどもしっとりとした 美しさを、一言て言い表しており、歳時記の、「山笑う」「山 眠る」を想起さセる ついてなからこの季語も 春山淡冶而如笑夏山蒼翠而如滴 秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡 ( 北宋、禅宗の画家「郭煕」の言。画論一臥遊録一に収﨧 ) い拠っている。 さらに思い出さセるのは、同じく蘇柬坡の「前赤壁の賦」 の「客有吹洞簫者 ・」のくだりてある 芭蕉は、雨稜の潟の風匱を、西施の憂悶に譬えるどどもに、 ・、ロし」と表尻することによって、赤壁の賦の 「象潟はむカ攷 「洞蕭のさまざまな査」ども響き合わセていたのてはないろ うの。もっとも、このことは手元のどの脚注にも無く、豚手 読みとこれ窈芭蕉に叱られるもしれチ ( 蘇柬坡飲湖上初睛俊雨再掲 ) ざくげん

6. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 最上川 ) 所に日和をっ 最上円乗らんと、人石田といふ , 蘆角一声の心 種落ちこぼれて、忘れぬ花の昔を慕い、 この道にさぐり足して、新古ニ道に踏み迷ふといへども道しるべ 一なを残しぬ。このたいの風流ここ する人しなけれはと、わりなき に至れり 翠黛紅顔錦粧 汯尋沙寒出家郷 邊風吹斯狄心偖 隴水流添夜涙行 記、項羽本記」の「富貴にしマ故郷に峰らざるは、嘯を衣て夜 ' : どの注釈もある 「くカ致し」を踏ま - ん / 得淡然の戒めを忘れた項羽のこの俗言を、關越え の深山幽谷の描写に無理に関連づけずに、未直に「夜行くか攷 し」と読むほうか自然な気もする。 翠黛紅顔、錦繍の粧い 汯く汯く沙寒を尋ねて家郷を出ず 邊風は吹き斯っ秋の心の偖 隴水流れ添ふ夜の涙の行 に古き佛諧の をやはらげ、

7. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( ネの松山 ) ネの松山は寺を造りてネ松山といふ。 松のあいあい皆蟇はらにて、 カノ、の・、 . ど、 . どト 9 し、 のネも冬ては、 はねをかはし枚をつらぬる契り もさりマ、塩のまの浦に入相いのかねを聞く。 在夭願作比翼鳥 夭に在りては願はくば比 翼のと作らん 在地願為連理枚 也に在りては願はくば連理の枚と為らん 夭長地久有時盡 夭は長く地は久しくとも時ありての盡く 此恨狒狒無絶期 北の恨は・々として絶ゆるの期無からん ( も居易長恨歌 ) ( 蛇足 ) 地崩山摧壮士死 然後夭梯石找拍鈎連 剣閣崢嶸而崔嵬 一久當関萬久莫開 ( 稜略 「山崩れ、円流れマ、道改まり」の表尻を、李も、蜀道難の 「地崩山摧壮士死」の一節によるとする脚注は、 力なり付人に 思える。本当にそ、つなの芭霍 ( に閉いてみたいところてある 蛇足のついてに この蜀道難の誇の稜半に「一久閧に當たるや 萬久も開くなし」と、 う「箱根八里」の歌詞い出てくる。子供の 頃求もわいらすに、お軽よろセく歌っていたカ 俊年この詩 の一即に安し、 なにやら旧友に出会ったようなかしさかこみ上 、け、て、たこと′ど憶 , てている 地崩れ山摧げて壮士死す 然る稜に夭石桟ねい鈎連す 剣崢嶸として崔嵬 一久閧に當るや萬久も開く莫し ( 李も蜀道難 )

8. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 松島 ) ( / れど、松島は扶第一の好風にしておよそ洞庭・西 湖を恥ぢず。柬南より海を入れマ、江の十里、江の潮を湛ふ。 島々の数を尽くして、欹つものは夭を指し、伏すものは波に匍匐ふ。 あるはニ重に重なり又重に畳みて、に分かれ右に連なる。負へる 公のユこまや に、枚葉潮 あり抱けるあり 児孫愛すいごとし 風に吹きたわめマ、屈曲おのずらためたるかごとし。その色穹 づみ ちはやふる神の昔、人山祇のなセるわざに 然としマ美人の顔をよ。 づれの人か筆をふるい、言葉を尽くさむ ゃ。造化の天又、 ( 蜷足 ) その昔、喆婚式にお招き項いマ、寄セきの色紙い廻「て来た時、 若気の至りて、したり顔て書いた一ついこの「比翼連理」てあり そしても、つ一つか 「熟田に船乗りセむと月待マば龠もかないぬ今は漕ぎ出てな」 ( 額田工、下葉事な一 ) てあ「た。 力し、よく考えてみれば、長恨歌は玄宗ど揚責妃の悲恋の歌 てあり、熟田津の歌も惨敗したも村江への出陣の歌て、ともに もしてくるか ′、レ 4 よ目応し子よ、 お祝いの色舐にす 今とな「マはの祭りてある 熟田津は存予松山市の郊外にある。機会を非「て訪れてみた し較・均新・し 何時誰建てたのか、レ 今はもう浜甦てはない 「熟田津の ・」の歌碑のぼつんとム「ていた。

9. 「奥の細道」に潜む漢詩文

( 飯塚の里 ) 、よし AJ いへÄJ , 辷なる行くネをへて、かる病おばっか子 れ夭の命な 道路に死なん、こ 羇旅辺土の行脚、恰身無常の鯢念、 と気力聊かとり直し、道黻横に踏んて伊の人木戸を越す。 且予縦不得人葬且っ予、黻い人葬を得ずとも ( 論語子罕 ) 予死道路乎道路に死なむや ( 蛇足 ) 恰身無常の観念ならば、西行の「花のもどにマ春死なむ」の登場か あっマ然るべきところてある 「たとい人葬を得ずとも」を受けて 論語の「道路に死なむや」は、 ( 蛇足 ) 廬山速嶺と日光の山々とては、そのスケールの迎いはあるとして も、か百尺と写実的なのに対し、李もは十尺と例によ 0 て 誇人表尻。ても、続く「疑是銀河落九夭」と併セて鑑賞すれば、 李もらしく気宇壮人なのか良い 宮延を追われた李もが放浪十年、暫し隠接の地に送んだ廬山の 麓は、俊年も居易も草堂をんて詩を賦しいる。その十の一つ、 日高く睡足りて猶起きるに慵し 日高睡足猶慵起 小悶に衾を重ねマ寒を怕れす 小閣重衾不怕寒 遺愛寺の鐱は忱を欹てマ聴き 遺愛寺鐘欹忱聴 番爐峰雪撥簾看 ( 俊略 ) 番爐峰の雪は簾を撥げて看る 稜半が和漢朗詠事にも収録され、忱草子「番爐峰の雪は 何ならん」の清少納言自讃の段 ( ニ九九段 ) 、のおかげて、カな り人口に膾炙している 黒髪山 ( 男体山 ) は歌枕のいとつ。高爐峰の紫煙や雪など、 廬山は十国の歌忱なのだろうい

10. 「奥の細道」に潜む漢詩文

風吹拈水睛夭雨 月照平沙夏夜霜 能就江撲銷署否 比君茅舎較清涼 抗州望海 ( 蛇足 ) も卒夭の「江樓タ望」は「江接晩眺」と共に の春秋の眺めを詠じたもの。「和漢朗詠事夏夜」にもそ 夏夜の霜」が掾り入れられて の一節風は拈木を 芭蕉は「蒙求」や「和漢朗詠事」から漢詩文に親しんだの 力もし、れチ 風は枯水を吹く睛夭の雨 月は平沙を照らす夏夜の霜 よく江接に就きて署を銷さんや否や 君か茅舎に比すればやや清涼なり ( も卒夭江タ望招客 ) ( 平成ニ十ニ年五月 ) 孫明復錦段 )