みるように白い。その上を、鳥が一、旋囘するように飛んでいるのが、ここからはやはり下 の方に見おろされる。 天も地も、骨格をむき出しにしたような、淸淨ではあるが、きびしくそっけない風景。天地 の間には透明な室氣が一ばいにつまり、情緖的なもの雰圍氣的なものは、何びとつない。ある ものといえば、こうこうと吹きわたる風。透明な室氣に龜裂を作ってなく猿。おなじところを ぐるぐると飛ぶ鳥。 しか . しこうした自然の中にも、何か大きくざわめき、うごめくものはないであろうか。杜甫 はじ「とそれに耳をかたむける。 むへんらくぼくしようしよう 「無の落木は蕭蕭として下ち こんこん 不盡の長江は滾滾として來たる」 落木とは、落ち葉する木である。証に葉のまばらになった木は、吹きつける突風に、葉をさ しようしよう らわれ、葉は蕭蕭と、音を立てて下る。視界のかぎり無湯際にびろがる落葉の林、林が無邊際 であるとともに、蕭蕭の音も無邊際である。かさこそと散る葉の音は、もはやささやきではな い。耳をすませば、大きなざわめきとな「て、天地の間にみちみちる。空虚な空間にみちみち る。 更にまた長江、すなわち揚子江は、あだかも巨大な動脈のように、大きくうごめきつつ流れ
は、その年最後の行樂である。社甫のこの詩が、どこでの作であるかは、いまびとっ明かでな く、成都での作ともいい 州での侔ともいう。おそらくあとの説の方が正しいであろう。い ずれにしても、山上の高樓から、晩秋の世界を俯瞰しての感懷であり、きびしい晩秋の自然の なかに、百年の憂いを抱きつつ苦悶する社甫の言葉は、悲壯をきわめ、豪快をきわめる。 詩はそのはじめからして、すでにはなはだ切迫する。 「風は急に天は高くして猿嘯哀し」 風は山上なるが故に、はなはだはげしく、山上から見る天室よ、、 をしよいよ高い。風はすべて をふきはらわんとするごとくに吹き、天のとばりは高く高くまきあげられたままである。中國 の室の高さ、あおさを、日本の空のそれで想像してはいけない。廣大で室虚で、ただま「さお な空間、それが今や社甫の前にある。あだかもその室虚をかきむしるように、風がときどき運 んでくるのは、猿のなき聲、聞こえてはまた消える。それは、古來の詩人が爭「て論くように、 至ってかなしい。 さて、 なぎさ めぐ 「渚は淸く沙は白くして島の飛ぶこと囘る」 前の句と對句にな「たこの句では、視線は山すその方 ~ むけられる。はるか下に、揚子江の 流れが透明な空氣を通して、ありありと見える。秋のなぎさはすみ、すなはまの色は、目にし
のど 雲は在りて意は供に遲かなり」 まず目に入るのは、目の前を悠悠と流れすぎる川。孔子が川のほとりで、「逝く者は斯くの 如きかな、晝夜を舍かず」と、歡じて以來、川の流れこそは、時間の推移を示すものとして、 今は水を見ていても、ちっともい 人の心にむか「て、ある焦躁を與えがちなものであるのに、 らだたしくない。悠悠たる春の流れのように、わが生命を安らかに、時間の流れに托すること ができる。 ふと見あげれば、室にはうかぶ輕い雲。風はない春の日、雲はじ「とそこに存在し、とどま 「て動かない。わたしの心も、雲とおなじように、しすかである。つまり、自然と完全におな じ秩序の中に、いる。 まさく 「寂寂として春は將に晩れなんとし 欣欣として物は自すから私ぐ」 せきせぎ かく平和にみちた秩序のうちに、春は寂寂として音もなく、晩春にむかって推移せんとする。 きんきん そして、この平和な時間のうちに、「物」はみな欣欣として、それぞれにみすからの生命をい となんでいる。「自すから私げている」。「物」という字、ここでは植物よりもむしろ動物をさ すであろう。「自私」の二字は、なかなか譯しにくい。それぞれみずからの領域の中で、思い 思いの生活をいとなみつつ、しかも他の領域と犯しあわない。すべては大きな調和につつまれ
といついた兎絲は、あわれてある。人間とてもおなじこと、おなじお嫁さんでも、出征兵士の お嫁さんになるくらいなら、道ばたにすてられた方が、まだまし。 それにしても、あまりにも唐突な召集令の來かた。髮あげをして、あなたの奥さんにな「 たのは、ついこの間のこと、おそばにいたのも、つかの間。「暮に婚して晨に別れを告げる」 といっては、すこしいい過ぎだけれども、でもあんまりいそがしすぎる。 ついそこの河陽縣だといいます・ あなたのいらっしやるさきは、そんなに遠いところでなく、 りこうひっ けど、河陽といえば、いまそこで大將の李光弼さまが賊軍と對峙していられる前線地帶、そこ の守備とあれば、萬一のことがないとはいえません。 だというのに、わたしはまだた「た何日かのお嫁さん、家の中での身分さえは「きりせす、 どういって「しゅうと、しゅうとめ、つまりあなたのおとうさんおかあさんに御挨拶したもの か、それすらわかりませんわ。 里のてておやははおやは、 小さいときからわたしの幸輻をいのりつづけ、牛は牛づれ、馬は 馬づれ、鷄は鷄づれ、狗は狗づれ、しかるべ、きところ ~ お嫁に行「てさえくれればと、それば かりがふたおやのねがいでした。 それに今あなたは、大へんなことになりました。それを考えると、わたしのむねははりさけ 事柄は そう。どうあ「てもあなたについて行くんだと、子供みたいな考えもおこしましたが、
この前、君とあったのは、どこだったかな。あれから何年、おたがいに、おやじになった。 おたがいばかりじゃない。そもそも世の中が大きくかわ「た。かっての太平の世は、今や内戦 の蓮績である。 「故人還お寂寞 かんぐ 創迹共に艱虞」 故人とはむかしなじみの人、舊友である。むかしなじみのきみ、乃至はきみのおじさん。み なまだ寂寞として、一向にうだつがあがらず、生活は、おれとともどもに、一様に苦しい。「割 迹」とは孔子の傳記に見える故事であ「て、孔子の法難のびとつである。 「文を論する友を失いて自り 酒を賣る驢を室しく知る」 りはく あのころは、李白くん、きみ、きみのおじさんと、毎日、文學論ばかしやっていたね。連中 がどこかへ行ってしま「てから、飮みに行ってもち「とも面白くないよ。「賣汨の壙」とは、 居酒屋であり、「空しく知る」の空しくとは、英語の vain に近い 「生飛動の なんし 爾を見ては無き能わす」 しかし、おれは決して衰えてはいない。何かやりたくて、むすむすしている。文學について さく
、、けはなれた衞戍地、つまりこの 裳年とは、老年。肺を病むとは、喘息である。絶塞とは 峽谷の町をさす。夕方、早く門をしめてしまうのは、泥棒に對する用心のためはかりではない 9 時世に對する心配から、人にあいたくないのてある。 むすびは最も悲痛である。 らん 「久しく留まる可からず豺虎の亂 たましい 南方には實にも有り未だ招かれざる魂」 この ~ んの土地にいつまで留まることはできない。内亂、土匪、奇妙な風俗、ここは人間 らん の世界ではない。凶惡な猛獸、豺と虎がいとなむ亂の世界、無秩序の世界で、ここはある。 豺狼の國をさまようおのれの魂、それを都へと招き返してくれる人間はいないか。 そうぎよく くっげん 楚のくにの詩入、屈原が、國家の運命をうれいて放浪の旅に出たとき、その弟子の宋玉は、放 たましい 浪する屈原の魂を呼び返すべく、「招魂」の歌を作り、魂のゆくえを、東方にもとめ、西方に もとめ、南方にもとめ、北方にもとめた。おれも、長安よりはるか南の、 ~ んびな國國ばかり をさまよ「ている。おれこそは招かれざる魂。「南方には實に未た招かれざる魂が有る」とい わればならない。
昔別是何處昔し別れしは是れ何れの處なりし おのこ 相逢皆老夫 相い逢えば皆老いし夫なり な むかし せきばく 故人還寂寞故の人は還お寂寞として あしあとけす なやくる 削跡共艱虞跡を創りて共に艱み虞しむ 自失論文友文を論する友を失いて自りのちは ろ 空知賣酒驢 空しく知る賣酒の驢 ひどうも 平生飛動意生の飛動の意い なんし あた 見爾不能無爾を見ては無き能わす こう 友人に對する愛情、すなわち友情のこまやかさも、社甫の詩の一特徴である。ここにいう高 しきがん こうせき 式顏とは、社甫の詩友で、これもすぐれた詩人であ「た高適の甥である。社甫と高適との友情 は、のちの三好君の文章にも見える。ところで高式顏は、高適の甥であるとい「ても、年はそ んなにちがうわけでない。むかし社甫や高適また李白が、太平の時代の文學靑年として、ボ〈 ミアンの生活を送「ていたころ、やはりその仲間であ「た。 「昔しの別れは是れ何處なりし ろう 相逢えば皆老夫なり」
しかし、李白は實は答黛ている。ごらん、谷川の流れの上を、桃の花が、ずう「と、むこう の方へ流れてゆく。俗人どもの世界とはちが「た、純粹な美しい別の一つの天地が、ここには にんげん にんげん あるんだよ。「別に天地の人間に非る有り」。人間とは、今の日本語の人間の意味ではない。人 の間、人間の世界の意味である。 世の中の人間は、李白のような、ますらおばかりではない。そうすれは、こうした大膽不敵 な言葉も、ある時には、生まれざるを得なか「たであろう。 ゅうヒん 山中與幽人對酌 山中にて幽人と對酌して たいしやく さんか 兩人對酌山花開兩人對酌すれば山花開く 一杯一杯又一杯 一杯一杯又一杯 しよら 我醉欲眠君且去我は醉うて眠らんと欲す君は且く去れ 明朝有意抱琴來明朝意有らば琴を抱いて來たれ これも有名な七言絶句である。題に「幽人」というのは、山水の美を解する人物の意。「對 酌」とは、むかいあ「て、酒を樽から酌みながらのむこと。 ひと、
そうしょ 落ちのこ「ている黄昏の中に、鳴る砧のおと。感傷的な風景。雙杵とは砧である。 「南菊再び逢うて人は病に臥し 北書至らず無情」 南國にさすらうようにな「てから、これは二度目の菊。親戚故舊は多く北方にいるが、手紙 は一こうに來ない。雁は人間から手紙をことづかる動物たという晋話があるのに、雁さえもっ れない。 ぎゅうと えんほ 「簷に歩し杖に倚りて牛斗を看る」 牛も斗も星座の名。牛は Ca もユ c 日づ、斗は Sagittarius である。 まさうしよう世っ 「銀漢は遙かに應に城に接するなるべし」 あまがわ 北にむかっておちかかる銀の漢。なっかしい國都長安、鳳の城と呼ばれる長安は、あまのが わの流れおちるあたりにこそあるのであろうか。 ばせを あらうみや佐渡に横たふ天のー はるかかなたの距離を、天の川によってむすびつける發想は、芭蕉のこの句とおなじであり、 芭蕉の句には、おそらく杜甫のこの詩の影響があるであろう。芭蕉は、杜詩の愛讀者であ「た。 七言律詩の名篇は、以上あげた三首ばかりではない。なおなお數多くある。そうしてこの詩 ぎんかん きた
それは常に中國の詩の根底にある。社市の場合も、もとより例外ではない。去年の春も、おと としの春も、おなじようにしておのれの前を通りすぎて行「た。今年の春も、又このようにし て、通りすぎてゆくので、あろうか。依然として旅人であるおのれをおきざりにして。「今春 も看のあたりに又過ぎんとす」。 ところで注意すべきは「看のあたりに又過ぎんとす」の看の字である。自然の推移に敏感で ある人間は、反射的にそれに抵抗して推移をおしとどめたく思う。それは徂く春を惜しむとい う風流の心からばかりではない。少くとも社甫の場合は、そうではない。季節の變化によ「て 示される自然の推移、それとおなじ時間の上にの「て、おのれの生命も推移して行く。かくお のれの生命をも卷き込みつつ推移してゆく世界の推移、それを少しでもおしとどめようとする 意慾、それは、風景に對する熟視とな「て現れる。しかしながら、それはむなしき熟視であっ て、じ「と見つめる社甫の目の前を、自然は冷淡に音もなく推移してゆき、春ははや牛はをナ ぎんとする。「今春看又過」。看の字には、そうした感情がこもっているのである 9 かくて推移の感覺をよびさまされた詩人は、最後の句では、推移の流れのなかにうかぶおの れをとりあげて、おのれの悲しみをのべる。 「何の日か是れ歸る年ぞ」 一度失「た官吏としての地位を、再び得るためには、ます長安に歸らねばならぬ。しかしそ