意味 - みる会図書館


検索対象: 萬葉秀歌 上巻
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1. 萬葉秀歌 上巻

られないといふやうに解するやうになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はさ ういふ意圖を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらはれたものを第一義 とせねばならぬから、おのづから私の解釋のやうになるし、それで感情上決して不自然では ない。 第二句、『立儀足』は舊訓サキタルであったのを代匠記がタチョソヒタルと訓んだ。その 他にも異訓があるけれども大體代匠記の訓で定まったやうである。ョソフといふ語は、『水 鳥のたたむョソヒに』 ( 卷十四・三五二八 ) をはじめ諸例がある。『山吹の立ちよそひたる山淸 水』といふ句が、既に寫象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれ で押とほして行って味へば、この歌の優れてゐることが分かる。古調のいひ難い妙味がある と共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌とし ての關聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切實かといふに、『かはづ鳴く甘南備 河にかげ見えて今か険くらむ山吹の花』 ( 巻八・一四一 = 五 ) 等の如く、當時の人々が愛玩した花 だからであった。 104

2. 萬葉秀歌 上巻

0 あさてか た しりあづまをみなわす 庭に立っ麻手刈り干しし慕ぶ東女を忘れた 常陸娘子 ふな〔卷四・五二一〕 ・ ) まトひ 藤原字合 ( 藤原不比等第三子 ) が常陸守になって任地に數年ゐたが、任果てて京に歸る時、 ひたちのをとめ ( 養老七年頃か ) 常陸娘子が贈った歌である。娘子は遊行女婦のたぐひであらう。『庭に立っ』 あさて は、庭に植ゑたといふ意。『廱手』は麻のことで、卷十四 ( 三四五四 ) に、『庭に類っ廠布小 ぶすま』の例がある。類聚古集に據って『手』は『乎』だとすると分かりよいことは分かり よい。『刈り千し』までは、『しきしぬぶ』の序のやうだが、これは意味の通ずる序だから、 序詞をも意味の中に取入れていい。地方にゐる遊行女婦が、かうして官人を持成し優遇し、 別れるにのぞんでは纏綿たる情味を與へたものであらう。そして農家のをとめのやうな風に あづまをみな して詠んでゐるが、輕い諧謔もあって、女らしい親しみのある歌である。『東女』と自ら云 うたのも棄てがたい。 やまとめひざま あ 卷十四 ( 三四五七 ) に、『うち日さす宮の吾背は大和女の膝枕くごとに吾を忘らすな』とい ふのがある。これは古代の東歌といふよりも、京師から來た官人の歸遺する時に詠んた趣の た : 82

3. 萬葉秀歌 上巻

なさけ 縱ひ雲でも情があってくれよ。こんなに隱すといふ法がないではないか、といふのである。 『あらなむ』は將然言につく願望のナムであるが、山田博士は原文の『南畝』をナモと訓 こころ み、『情アンナモ』とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に『南武』とあるの で、暫く『情アラナム』に從って置いた。その方が、結句の響に調和するとおもったからであ る。結句の『隱さふべしゃ』の『や』は強い反語で、『隱すべきであるか、決して隱すべき では無い』といふことになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して 居り、情感がこの結句に集注してゐるのである。この作者が抒情詩人として優れてゐる點が この一句にもあらはれてをり、天然の現象に、恰も生きた人間にむかって物言ふごとき態度 に出て、毫も厭味を感じないのは、直接であからさまで、擬人などといふ意圖を餘り意識し ないからである。これを試に、在原業平の、『飽かなくにまだきも月の隱るるか山の端逃げ て入れずもあらなむ』 ( 古今・雜上 ) などと比較するに及んで、災にその特色が暸然として來 るのである。 カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的經過をあらはすこと、チル、 0 0 0 キ一フノと同じい。『奥っ藻を隱さふなみの五百重浪』 ( 卷十一・二四三士 ) 、『隱さはぬあかき心を 皇方に極めつくして』 ( 卷二十・四四六五 ) の例がある。なほペシャの例は、『大和戀ひいの寢

4. 萬葉秀歌 上巻

よしぬ きさやま さわ ) り・ み芳野の象山の際の木末には幾許も騷ぐ鳥の 山部赤人 こゑかも〔卷六・九二四、 聖武天皇訷龜一一年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作ったものである。『象町』 のひだ一なか は芳野離宮の近くにある山で、『際』は『間』で、間とか中とかいふ意味になる。『奈良の山 の、山の際に、い隱るまで』 ( 卷一・一七 ) といふ額田王の歌の『山の際』も奈良山の連なっ て居る間にといふ意。此處では、象山の中に立ち繁ってゐる樹木といふのに落著く。 一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、實に澤山の鳥が鳴いて居る、といふので、中 味は單純であるが、それだけ此處に出てゐる中味が磨をかけられて光彩を放つに至ってゐる。 この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、『ここだも騒ぐ鳥の聲かも』に作歌衝迫もおの あひたい づから集注せられてゐる。この光景に相對したと假定して見ても、『ここだも騒ぐ鳥の聲か も』とだけに云ひ切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、 ここだ 赤人傑作の一つであらう。『幾許』といふ副詞も注意すべきもので、集中、『禪柄か幾許曾 き』 ( 卷二こ三〇 ) 『妹が家に雪かも降ると見るまでに幾許もまがふ梅の花か」 ( 卷五・八四 こぬれ ここだ ここだ 212

5. 萬葉秀歌 上巻

と假定しても、古日といふ童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐 らく他人の子であらう。 ( 普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は士十歳ぐらゐの老翁だと解せら れてゐる。なほ土屋氏は、古日はコヒと讀むのかも知れないと云って居る。 ) をさな 一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼い童子で、冥土の道はよく分かってゐない。冥 上の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負って通してやって呉れよ、といふの まひ いほよ つくよみをとこまひ である。气幤』は、『天にます月讀壯子幤はせむ今夜の長さ五百夜繼ぎこそ』 ( 卷六・九八五 ) 、 まひ 『たまぼこの道の前たち整はせむあが念ふ君をなっかしみせよ』 ( 卷十七・四〇〇九 ) 等にもあ る如く、に奉る物も、人に贍る物も、惡い意味の貨賂をも皆マヒと云った。 この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雜で、人麿の歌の内容の簡單なものなど なまなま とは餘程その趣が違ってゐる。然かも黄泉の道行をば、恰も現實にでもあるかの如くに生々 しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動 的に行かないのは、一面はさういふ素材如何にも因るのであって、かういふ素材になれば、 かういふ歌調をおのづから要求するものともいふことが出來る。 こよひ 205

6. 萬葉秀歌 上巻

縱ひ作者は女性であっても、集團的に心が融合し、大御心をも含め奉った全體的なひびきと してこの表現があるのである。供奉應詔歌の眞髓もおのづからここに存じてゐるとればい い。 結句の原文は、『許藝乞菜』で、舊訓コギコナであったが、代匠記初本で、『こぎ出なと よむべきか』といふ一訓を案じ、萬葉集燈でコギイデナと定めるに至った。『乞』をイデと イデアギ : 、 イデワガコマ 訓む例は、『乞我君』、『乞我駒』などで、元來さあさあと促がす詞であるのだが『出で』と同 音だから借りたのである。一字の訓で一首の價値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。 また初句の『燹田津に』の『に』は、『に於て』の意味だが、橘守部は、『に向って』の意味 に解したけれどもそれは誤であった。斯く一助詞の解釋の差で一首の意味が全く違ってしま ふので、訓詁の學の大切なことはこれを見ても分かる。 なほ、この歌は山上憶良の類聚歌林に據ると、齊明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた 時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから齊明天皇の九年に二たび伊豫の湯 に御いでになられて、往時を追懷遊ばされたとある。さうならば此歌は齊明天皇の御製であ らうかと左注で云ってゐる。若しそれが本當で、前に出た字智野の歌の中皇命が齊明天皇の お若い時 ( 舒明皇后 ) だとすると、この秀歌を理會するにも便利たともおもふが、此處では題

7. 萬葉秀歌 上巻

絶ゆる日あらめや』 ( 二四三 ) と和へてゐられる。 さきふね なっくさ みぬめ たまも 玉藻かる敏馬を過ぎて夏草の野島の埼に船ち 柿本人屆 かづきぬ〔卷三・二五〇〕 これは、柿本朝臣人麻呂旅歌八首といふ中の一つである。羇旅八首は、純粹の意味の連 作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東歸る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは 注意していいと思ふ。敏馬は攝津武庫郡、小野濱から和田岬までの一帶、戸市の灘區に編 入せられてゐる。野島は淡路の津名郡に野島村がある。 一首の意は、〔玉藻かる〕 ( 枕詞 ) 攝津の敏馬を通って、いよいよ船は〔夏草の〕 ( 枕詞 ) 淡 路の野島の埼に近づいた、といふのである。 内容は極めて單純で、ただこれだけだが、その單純が好いので、そのため、結句の、『船ち かづきぬ』に特別の重みがついて來てゐる。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、 普通謂ふ意味の内容が簡單になるわけである。この歌の、『船近づきぬ』といふ結甸は、客 觀的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。萬葉集中では、『ひむがしの野にか ぬじま

8. 萬葉秀歌 上巻

一首の意は、かうして妻に別れねばならぬのが分かってゐたら、筑紫の國々を殘るくまな く見物させてやるのであったのに、今となって殘念でならぬ、といふのである。 この歌の『知る』は前の歌の『知る』と稍違って、知れてゐる、分かってゐる程の意であ る。次に、『あをによし』といふ語は普通、『奈良』に懸る枕詞であるのに、憶良は『國内』 に續けてゐる。そんなら、『國内』は大和・奈良あたりの意味かといふに、さう取っては具 合が惡い。やはり筑紫の國々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのである が、憶良は必ずしも俥統的な日本語を使はぬ事があるので、或は、『あをによし』の意味を ただ山川の美しいといふぐらゐの意に取ったものとも考へられる。 ( 憶良は、『あをによし奈良 の都に』 ( 八 0 八 ) とも使ってゐるじ次に、この歌は、初句から、『くやしかも』と置いてゐる のは、萬葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてかう いふ手法を實行してゐる。もっともこの手法は、『苦しくも降り來る雨か』などといふ主觀 句の短いものと看做せば説明のつかぬことはない。 この歌を味ふと、内容に質實的なところがあるが、聲調が訥々としてゐて、沁み透るもの が尠いので、つまりは常識の發逹したぐらゐな感情として俥はって來る。併し聲調が流暢過 ぎぬため、却って輕佻でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、『かからむと 191

9. 萬葉秀歌 上巻

たび來られよといふ意もこもってゐる。 この歌は、『秋さらば』といふのだから現在は未だ秋でないことが分かる。『鹿鳴かむ山 ぞ』と將來のことを云ってゐるのでもそれが分かる。共處に『今も見るごと』といふ視覺上 の句が入って來てゐるので、種々の解釋が出來たのだが、この、『今も見るごと』といふ句 を直ぐ『妻戀ひに』、『鹿鳴かむ山』に績けずに寧ろ、『山そ』、『高野原の上』の方に關係せ しめて解釋せしめる方がいい。印ち、現在見波してゐる高野原一帶の佳景その儘に、秋にな るとこの如き興に添へてそのうへ鹿の鳴く聲が聞こえるといふ意味になる。『今も見るごと』 は『現在ある从態の佳き景色の此の高野原に』といふやうになり、單純な視覺よりももっと 廣い意味になるから、そこで視覺と聽覺との矛盾を避けることが出來るのであって、他の諸 學者の新々の解釋は皆不自然のやうである。 この御歌は、豐かで緊密な調べを持ってをり、感情が濃やかに動いてゐるにも拘らず、さ ういふ主観の言葉といふものが無い。それが、『鳴かむ』といひ、『山そ』で代表せしめられ てゐる観があるのも、また重厚な『高野原の上』といふ名詞句で止めてゐるあたりと調和し て、萬葉調の一代表的技法を形成してゐる。また『今も見るごと』の插入句があるために、 却って歌調を常識的にしてゐない。家持が『思ふどち斯くし遊ばむ今も見るごと』 ( 卷十七。

10. 萬葉秀歌 上巻

なかち土ひね を かぐやまうねび みみなし 中大兄 ( 天智天皇 ) の三山歌の反歌である。長歌は、『香具山は畝傍を愛しと耳成と相爭ひ うっそみ いにしへしか き紳代より斯くなるらし古も然なれこそ現身も妻を爭ふらしき』といふのであるが、反歌の あほのおぼかみ 方は、この三山が相爭った時、出雲の阿菩大禪がそれを諫止しようとして出立し、播磨まで 來られた頃に三山の爭鬪が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたといふ播磨風土記にあ る俥説を取入れて作ってゐる。風土記には揖保郡の處に記載されてあるが印南の方にも同様 の俥詭があったものらしい。『會ひし時』は『相戰った時』、『相爭った時』といふ意味であ る。書紀禪功皇后卷に、『いざ會なわれは』とあるは相鬪ふ意。毛詩に、『肆代二大商一會朝淸 明』とあり、『會へる朝』は印ち會戰の日一也と注せられた。共に同じ用法である。この歌の 『立ちて見に來し』の主格は、それだから阿菩大になるのだが、それが一首のうへにはあ らはれてゐない。そこで一讀しただけでは、印南國原が立って見に來たやうに受取れるので あるが、結句の『印南國原』は場處を示すので、大の來られたのは、此處の印南國原であ った、といふ意味になる。 一首に主格も省略し、結句に、『印南國原』とだけ云って、その結句に助詞も助動詞も無 いものだが、それだけ散文的な通俗を脱却して、蒼古とも謂ふべき形態と響きとを持ってゐ るものである。長歌が蒼古悛厳の特色を持ってゐるが、この反歌もそれに優るとも劣っては あは