一味の幹部の中でもいい顔になった。モリアーティーは気まえよく金をやり、チンビラには手 も出ないような、とびきりすごい仕事を一つか二つ、あいつにさせただけだった。一八八七年、 ローダーのステ = ワート夫人が死んだのを、きみはまだお・ほえているだろう。お・ほえていない しようこ しゅやく じけん かな。あの事件には、たしかにモーランがかくれた主役をつとめていた。しかし、何も証拠が よ、つこ 0 オカナ モリアーティーの一味が根こそぎやられたときも、あの大佐のやつはうまく身をかくして、 ゅうざい どうしても有罪にはできなかった。ぼくがきみのうちをたずねたとき、空気銃がこわいからと みよう いって、よろい戸をおろした、あの日のことを、きみはまだおぼえているだろう。ずいぶん妙 なことを考えるやつだと、きっと思われたにちがいない。・ほくはじぶんのやっていることぐら じゅう こころえ 、ちゃんと心得ていた。つまり、こんなたいへんな銃ができていて、しかもそのかげには、 せかいいちりゅうめいしやしゅ 世界一流の名射手がひかえていることを知っていたからだ。ばくたちがスイスにいたとき、あ いつはモリアーティーといっしょにあとを追ってきていた。そうして、ライへンパッハの岩だ なで、五分ばかり、ばくを死ぬような目にあわせたのも、たしかにあいつだったのだ。 ばくはフランスにいたあいだ、なるべく注意して新聞を読んでいた。あいつをつかまえる機 会をさがしていたのだ。あいつがロンドンでのさばっているかぎり、・ほくの生活はまるで実の ない、名ばかりのものになる。夜も昼も、ばくの上にかげがおおいかぶさって、いっかあいっ いちみ かんぶ いちみ ふじん たいさ くうきじゅう
もどったようなあとはなかった。あのとき、ちゃんとこの目でたしかめたんだぜ。」 きようじゅ 「それはこういうことなんだ。教授がすがたを消したとたんに、こいつは天のめぐみ、また とないチャンスだと、ばくは思った。 ' ほくのいのちをもらうといっているのは、モリアーティ こころえ ーひとりじゃない。そのくらいのことはばくも心得ている。しかえしをたくらんでいるのは、 少なくとも、ほかに三人いて、かしらがやられたときけば、その気もちはつのるばかりだろう。 みんなぶっそうなやつらだし、あの中のだれかが、きっとぼくにとびかかってくる。ところが、 せけん かって ホウムズが死んだものと世間が思いこめば、あいつらはまた勝手なことをはじめるにちがいな 、。むろんすがたをかくしたりはしないだろうから、いずれやつつけることもできるわけだ。 生きていることを発表するのは、そのあとでも、 しい。これだけのことを、ばくはモリアーティ きようじゅ たき ー教授がライへンノ くッハの滝つぼに落ちきらないあいだに考えたものとみえる。われながらす ばやく、頭がはたらいたものだ。 いわかべ ばくは立ちあがって、うしろの岩壁をしらべた。この事件についてきみが書いた、あの生き 生きとした文章を、何か月かたってから、ぼくはひじようにおもしろく読んだが、きみはあの いわかべ 岩壁を、切りたったがけというふうに書いていた。だが、そのことばの使いかたは正しくない。 いわかべ わずかな足場がいくつか見えていたし、岩だならしいものも、ところどころにあった。岩壁は 高すぎて、上まで登ることはできそうもないが、ぬれた小道に足あとをつけずに引きかえすこ じけん
まだ番狂わせのつづくことをしみじみとさとった。大きな岩がいきなり頭の上から落ちてきた たき のだ。うなりをたてて、ばくのそばをかすめ、道にあたって、滝つばの中へ落ちていった。ば くはそのとき、これはぐうぜんの出来事だと、ふと思ったが、しかし、すぐあとで、上を見あ けると、暮れかかった空に、人間の頭が浮きだしているのが見えた。そうして、石がもうひと つ、ばくのねていた岩だなに打ちあたった。しかも・ほくの頭から三十センチとははなれないと ひとめ なかま けんとう 、ころにだ。むろん、こうなれば見当はつく。モリアーティーには仲間がいた。しかも一目みた なかま だけで、どれほどぶっそうな男だか、よくわかるような仲間だ。モリアーティーが・ほくにおそ とこか しかかっているあいだ、そいつは見張りをしていた。そうして、・ほくに見つからない、。 なかま 遠くのほうから、仲間の死んだことも、・ほくの逃けたことも、ぜんぶ見ていた。しばらくじっ いわかべちょうじよう と待ってから、まわりみちをして、岩壁の頂上への・ほり、仲間の失敗をどうにかしてつぐなお うとしたのだ。 これだけ考えるのに、たいして時間はかからなかった。 がけの上から、また気味のわるい顔がのそき、ああ、また岩を落とすつもりだな、とぼくは いわかべ 思った。そこで、ようやく小道まで、岩壁をはいおりた。落ちつきはらっておりたとはとても いえない。おりるのは、登るより百もつらいことだった。なにしろ岩だなのはじに、両手で ぶらさがっているあいだも、石がまた音をたててかすめていったくらいだから、あぶないなど ばんくる できごと なかま しつばい
そん はんざいがくせんもんか 「犯罪学の専門家からみると、あのモリアーティー教授が死んでから、ロンドンはふしぎに つまらない都会になってしまった。」と、シャーロック・ホウムズはいいました。 わたし さんせい んりようしみん 「善良な市民は、きみのそんな意見にあまり賛成しないんじゃないか。」と、私は答えました。 わら す かれちょうしよく 彼は朝食のテー・フルから、椅子をうしろへずらして、ニッコリ笑うと、 せけん 「うん、なるほど、自分勝手なことは言うもんじゃないな。たしかに、世間は勝ったのだし、 せんもんか 損をしたものはいない。もしいるとすれば、仕事にあぶれた、このあわれな専門家ぐらいのも ざいりよう のさ。モリアーティーが活躍していたころ、毎朝の新聞は記事の材料にこと欠かなかったもの せきちょうこう はんざい だ。ときには、犯罪ともいえない、ごくわずかなこん跡や徴候のこともあったが、それでさえ、 きようあくずのう ばくには、そのかげに凶悪な頭脳の持ち主のいることがよくわかった。それはちょうど、クモ どく の巣のはじがほんのちょっぴり揺れても、そのまんなかに、毒グモのひそんでいるのがわかる どろ しようがいうこう のと同じなのだ。こそ泥、わけもない傷害や暴行ーー・こういうものも、手がかりさえっかめれ こ ) ど はんざいしゃ ~ い じけん ば、みんなつながりのある、ひとつの事件にまとめあけることができた。高度の犯罪社会を研 っ・こう しゆと ハのどこの首都よりも都合のいい街だった。だが、 究するものにとって、ロンドンは、ヨーロッ ちゃ いまはーーーー」自分のカで住みよい街にしたことが、かえって恨めしいように、ホウムズは、茶 かつやく まち ぬし きようじゅ うら まち -0
けんこう の生活ぶりのあまり健康ではないことがわかります。 しんちょう せばね 「背骨をのばせて、ありがたいよ、ウォトスン。背の高い男が、何時間も休みなしに、身長 を三十センチもちちめていなきゃならないなんて、まったく笑いごとじゃないぜ。ところで、 この話のつづきだが、きみに手つだってもらえるなら、ひとっ夜なべの仕事があるんだ。ちょ っとやっかいで、あぶない橋わたりだがね。くわしい話は、仕事がすんでからしたほうがいい と思うんた。」 「なんだかききたいな。いまきかせてくれたっていいじゃないか。」 「今夜、いっしょにきてくれるかい。」 「いつでも、どこへでも、のそみのままだ。」 むかし 「昔とちっともかわらないな。出かけるまでに、めしをたべる時間ぐらいはある。よし、そ たき れでは、滝つばの話をしよう。あそこから出るのは、それほどむずかしいことじゃなかった。 理由はかんたん。・ほくは滝つばへなんか落ちはしなかったからさ。」 「落ちなかったって。」 「そうだ、ウォトスン。落ちなかった。きみへ書いた手紙は、あれはけっしてにせものじゃ なかった。死んだモリアーティー教授があのせまい山道に立って、こっちの逃げみちをふさい いっしよう だ、あのときのあいつの、そっとするようなすがたを見たとき、ばくの一生もこれで終わりだ きようじゅ わら
「それはね、ウォトスン。ある人間に、・ほくが部屋の中にいると思わせたい。じっさいはよ そにいるんだが、どうしてもうちにいると思いこませたかったからなのだ。」 へや 「では、あの部屋が監視されていると思っていたんだね。」 かんし 「思っていたんじゃない。けんに監視されている。・ほくにはそれがわかっていたのだ。」 「だれに。」 たき むかしてき 「昔の敵にだよ、ウォトスン。おかしらがライへンバッハの滝でおやすみになっていらっし やる、あのかわいい一味のみなさんさ。・ほくがまだ生きていることを、やつらは知っている。 わす 、、まくがあの すれ、いっ力を いや、やつらだけしか知らないんだ。それを忘れちゃいけない。い・ しん 部屋にもどってくることを、やつらは信じていた。そうして、ずっと監視をつづけ、けさ、・ほ くがついたのを見つけたんだ。」 「どうして、それがきみにわかる。」 「窓からそとをのそいたときに、やつらの見張りを見つけたからだ。パーカーという名まえ ほんしよく の男で、こいつはちっとも危険な男じゃない。追いはぎが本職で、ユダヤ琴の名人。ぼくはべ つに問題にしていない。大いに気をつけなくてはならないのは、そのうしろにひかえている、 しんゅう ずっとおそろしい人間だ。モリアーティーの親友で、がけの上から岩を落としてよこした男、 いちばんぶっそうな悪人。これが今夜、ぼ しかも、ロンドンじゅうでいちばんわるがしこい へや まど いちみ かんし きけん かんし こと
「ほら、わかるだろう、ウォトスン。質のやわらかい。ヒストルのたまだ。これは天才のしわ くうきじゅ ) ざだよ こんなたまが空気銃からとびだすなんて、だれも気がつくやつはないからな。ゃあ、 どうも、 ハドスンさん。あんたに手つだってもらって、ほんとうにたすかった。そうして、ウ むかし + トスン。きみはまた昔の椅子にすわってくれたまえ。いろいろきみと話したいことがある。」 きようぞう けしようぎ かれ 彼はくたびれたフロック・コートをぬぎ、胸像からはぎとった、ねずみ色の化粧着を着て、 むかし これで昔なっかしい、あのホウムズにもどりました。 「あの名人、年はとっても、なかなか神経はしつかりしている。それに、視力だって、まだ たしかなものだ。」 きようぞう しぶんの胸像のひたいのところがこなごなにくだけているのを見て、笑いながら、ホウムズ はこういいました。 しゃ こうとうぶ 「後頭部のちょうどまんなかにあた 0 て、ブスリと天を突き抜いている。インドでは、射 げき 撃の第一人者だったが、ロンドンでも、あいつの右に出るものはほとんどないだろう。名まえ をきいたことがあるかい。」 「いや、ない。」 ひょうばん 「そうそう、評判というのは、そ ういうものだ。だが、きみはたしか、今世紀のもっともす ぎようじゅ すの ) ぐれた頭脳のもちぬし、ジ = イムズ・モリアーティー教授の名まえもきいたことがないといっ しんけい わら こんせいき しりよく
私は本をかえしながら、 けいれき ぐんじん 「これはおどろいた。この男の経歴は、なかなかりつばな軍人じゃないか。」 いうと、ホウムズもあいづちをうって、 「そうなんだ。あいつも、あるところまではまじめにやっていた。いつも鉄のような、強い ひとく 神経のもちぬしで、あるとき手きずを負った人食いトラを追って、みその中をはっていったと いう話が、まだインドでは、語りぐさになっているくらいだ。ところで、木の話だがね、ウォ トスン。ある高さまで育っと、それから先は、急にとんでもなくみにくい形に変わるものがあ る。人間でも、個人はそれそれ、その先祖代々の流れをうっしながら育っていくもので、こう い、つふ、つに、 ししほうにか、わるいほうにか、急に変わるというのは、その祖先の系図の中に えいきよう ある、何か強い影響をうけたからだ。と、ばくはこういう 意見をもっている。人間はいわば、 いちそくれきし しゆくず その一族の歴史の縮図になっているわけだ。」 「それはどうも、雲をつかむような話だな。」 「いや、ばくはべつにこの説を押し通すつもりはない。 と , もカ 2 、、ど、つい、つ わけか、モーラ ンはわるいことをするようになった。よくないうわさがたったわけでもないが、インドにいづ ぐんじん あくめい らくなり、あいつは軍人をやめて、ロンドンへやってきた。そうして、ここでも悪名を立てら れるようになった。モリアーティー教授に見出だされたのはこのときで、あいつはしばらく、 しんけい わたし こじん せつお きようじゅみ せんぞだいだい そせんけいす
、ばかにされて、だまっている理由はないはずた。もし法律に服せよというなら、法律のみとめ る正しい方法でやってもらいたい。」 「なるほど、それはもっともだ。どうです、ホウムズさん。われわれの引きあける前に、何 かおっしやることがありますか。」 と、レストレイドがいいました。 くうきじゅうゆか ホウムズは力の強い空気銃を床から拾いあけて、その装置を調べていましたが、 ぶき 「これはたいした武器だ。どこにでもあるというしろものじゃない。音が出ないし、それに、 すごい力だ。・ほくはフォン・ヘルデルというドイツ人を知っている。めくらの技師で、死んだ き力い きようじゅ モリアーティー教授にたのまれて、こいつを作ったんだ。いままで使う機会こそなかったが、 こういうものがあるということは、何年も前から知っていた。しゅうぶん注意して扱ってくだ さいよ、レストレイドさん。そいつにびったりあうたまも、ね。」 「だいじようぶ、まかせといてください、ホウムズさん。ほかに何かお話は。」 ドアのほうへみんな歩きだしたときに、レストレイドはこういいました。ホウムズは、 とんな罪名をつけるつもりですか。」 「ひとつだけうかがっておきましよう。、つこ、、・ しさつがいみすい ざいめい 「どんな罪名ですって ? もちろん、シャーロック・ホウムズ氏殺害未遂ですよ。」 「ちがう、ちがう、レストレイドさん。・ほくはけっしてこの事件に名まえをだすつもりはな ほうほう まりき ほうりつふく そうち ざいめい じけん ほうりつ あっか
なと、九分どおりそう思 0 たものだ。あいつの灰色の目の中に、どうしてもばくを殺すという 決意がありありと見えた。そこで、二こと三こと話をして、かんたんな手紙を書いてもいいカ とたずねると、どうそという。これはあとで、きみの手にはい 0 た、あの手紙た。そいつをシ ガレ ' ト・ケースや杖とい 0 しょにおいて、小道を歩きだした。モリアーティーはあいかわら ずあとについてくる。ゆきどまりまでい 0 て、す 0 かり追いつめられたかたちにな 0 た。あい ぶき つは武器もださず、ぼくにとびかか 0 て、長いうでを巻きつけてきた。じぶんが負けたことを さと 0 て、このうえはただ、ぼくにしかえしをしようとけんめいだ 0 たのだ。ふたりは滝ロの がけつぶちでもみあった。だが、・ ほくはいささか日本式のレスリング、つまりジ = ウジ = ツを こころえ 心得ている。いままでなんどか役に立 0 たことがあるくらいだ。あいつの手をふりほどくと、 あいつはものすごいさけび声をあげて、しばらくきちがいのように足でけ 0 たり、手で空をつ かんだりした。しかし、からだのつりあいをどうしてももと〈もどすことができず、あいつは もんどりうって、 : カけから落ちた。がけ 0 ぶちに顔をだして、のそいてみると、はるか下のほ う〈ぐんぐん落ちていく。そうして、岩にぶつかり、はねかえ「て、ざぶんと水の中に沈んで しまった。」 ホウムズがたばこをふかしながら話すはなしに、私はただおどろき、あきれるばかりでした。 「でも、足あとがあ 0 たじゃないか ! 二組の足あとがゆきどまりのほうへつづいていて、 わたし