間にあいませんのでね。よくない、ほんとうによくないことだと思いながら、年よりには、ほ かに楽しみもありませんからな。たばこと仕事ーーわしに残っているのは、もうこれだけです ホウムズはたばこに火をつけると、鋭いまなざしで、部屋のなかをちらちらと見まわしてい ました。 「たばこと仕事、しかし、いまはもう、たばこだけになりました。ああ、たいへんなじゃま がはいったものです。こんなおそろしいことになるなどと、だれが思いましよう。あんないし せいねん じよしゅ 青年だったのにー 二、三か月教えこんだだけで、りつばな助手になってくれました。この事 けん 件を、いったいどうお思いですか、ホウムズさん。」 「まだどうともきめかねています。」 「わしどもにはまるでわけがわからんのですが、せめてあなたに見とおしをつけていただけ れば、こんなうれしいことはありません。わしのようにあわれな本の虫、しかも病人にとって、 だげき こんな打撃は、ただもうぼんやりするばかりで、考える気力さえなくなりました。しかし、あ たんてい なたは活動家だしーー探偵がお仕事だ。こんなことは毎日のようにやっておいでのはずです。 どんなあぶない目にあっても、びくともなさらない方でしよう。あなたに受けもっていただけ て、わしらはほんとうにしあわせでした。」 するど へや 196
むかし いヒステリーをおこした。見ると、マイクロフトが部屋の中を、書類までそっくり昔のままに しておいてくれていた。 むかしへや むかしいす というわけで、・ほくはきようの二時に、あの昔の部屋の、昔の椅子にこしをおろしていた。 いん たた一つのいは、以前よくや 0 てきて、この部屋をパ , と明るくしてくれた旧友ウォトスン を、。せひ向かいの椅子にすわらせたかったことだ。」 わたし これが、あの四月の夜、私のきいた、びつくりするような物語でした。もう二度と見られな ねっ いだろうと思っていた、すらりと背の高いあのすがた。熱のこもった、するどいあの顔。それ をこの目でじっさいに見たからこそ、べつにうそとも思わずにききましたが、さもなければ、 しん ほんとうの話と信じこむことなど、とてもできなかったでしよう。 かれわたしつま どうしてわかったのか、彼は私が妻をなくしたことを知っていて、ことばにはだしませんで どうじよう たいど したが、その同情の気もちは態度によくあらわれていました。 「悲しみをまぎらすには、仕事にうちこむのがいちばんいいんだよ、ウォトスン。ちょうど 今夜、ばくたちにあつらえむきの仕事がある。もしこの仕事をうまくやり終えたら、この世に 男子と生まれたかいがしゅうぶんあるというものだ。」 もっとくわしく話をききたいと思って、いろいろたのんでみましたが、どうしてもだめでし こ 0 しよるい きゅうゆう
は、その裏づけになる確かな証拠がいるだけでしたが、それもさっそく手にいれました。 せいねん はじめからお話しすると、こういうことになります。この青年は午後の時間を運動場ですご はばと はばと くっ し、幅跳びの練習をしていました。帰りがけに、幅跳び用の靴をもっていましたが、これはご まど 存しのように、スパイクが底に何本か打ってあるやつです。あの部屋の窓ぎわを通りながら、 かれ つくえ こうせいず とくべっ背の高い彼は、あなたの机の上にのっていた校正刷りを見て、それが何だかわかりま わす かぎ した。ドアの前を通りすぎるとき、パニスターがうつかり忘れていった鍵を見つけなければ、 しけんもんだい 何事もおこらなかったでしように、いきなり、あれがほんものの試験問題かどうか、 はいって、 しつもん たしかめてやろうという気を、むらむらとおこしてしまった。もし見つかっても、質問があっ きけん て、はいってみたというふりもできるから、それほど危険な仕事でもなかったわけです。 しけんもんだい かれゆうわく くつつくえ さて、それがほんものの試験問題だとわかったとき、彼は誘惑に負けました。まず、靴を机 の上においたが、窓ぎわの椅子の上においたのはなんでしたか。」 てふくろ せいねん 「手袋です。」と、青年は答えました。 ホウムズは勝ちほこったようこ、く 冫ノニスターを見やりました。 かれてふくろ しけんようし がくかん 「彼は手袋を椅子の上に置き、試験用紙を写そうと、一枚ずっとっていきました。学監は表 門から帰ってくるとばかり思っていましたから、姿が見えるときめこんでいたのです。ところ もど が、戻ったのは、横の入口からでした。いきなり、ドアのところで、足音がきこえました。もう ぞん れんしゅう まど たし そこ しようこ すがた 169
けんこう の生活ぶりのあまり健康ではないことがわかります。 しんちょう せばね 「背骨をのばせて、ありがたいよ、ウォトスン。背の高い男が、何時間も休みなしに、身長 を三十センチもちちめていなきゃならないなんて、まったく笑いごとじゃないぜ。ところで、 この話のつづきだが、きみに手つだってもらえるなら、ひとっ夜なべの仕事があるんだ。ちょ っとやっかいで、あぶない橋わたりだがね。くわしい話は、仕事がすんでからしたほうがいい と思うんた。」 「なんだかききたいな。いまきかせてくれたっていいじゃないか。」 「今夜、いっしょにきてくれるかい。」 「いつでも、どこへでも、のそみのままだ。」 むかし 「昔とちっともかわらないな。出かけるまでに、めしをたべる時間ぐらいはある。よし、そ たき れでは、滝つばの話をしよう。あそこから出るのは、それほどむずかしいことじゃなかった。 理由はかんたん。・ほくは滝つばへなんか落ちはしなかったからさ。」 「落ちなかったって。」 「そうだ、ウォトスン。落ちなかった。きみへ書いた手紙は、あれはけっしてにせものじゃ なかった。死んだモリアーティー教授があのせまい山道に立って、こっちの逃げみちをふさい いっしよう だ、あのときのあいつの、そっとするようなすがたを見たとき、ばくの一生もこれで終わりだ きようじゅ わら
ませんからね。まあ、まあ、たいそうかわった事件で、またお調べになったうえ、おわかりに なったことがありましたら、ぜひお知らせねがいたいと思っております。」 ーディング氏の申し立ての間、ホウムズは何度もメモをとっていましたが、事のなりゆき まんぞく ようすわたし にじゅうぶん満足している様子が私にもよくわかりました。しかし、ホウムズは何もいわず、 やくそく ただ、急がないとレストレイドとの約東におくれるといっただけでした。べイカー街へもどっ ようすへや てみますと、やはりレストレイドはとっくに来ていて、待ちきれない様子で部屋の中を行きっ きよう ぼね もどりつしていました。そのもったいぶった顔つきを見ると、今日の仕事がむた骨でなかった ことがわかりまオ》。 「やあ、いかがでした、ホウムズさん。」と、かれがたずねました。 ばたら 「今日はひどくいそがしかった。それほどむだ働きではなかったがね。」と、ホウムズは説 こうりしょ ) おろもとこうじようぬし きょ 5 ・ぞうわた 明します。「小売商を二軒と、それに卸し元の工場主にも会って来た。胸像の渡りあるいた道 すしが、はじめからすっかりわかったよ。」 きようぞう 「胸像ですって ! 」と、レストレイドは大声を出しました。「まあ、まあ、あなたはあなた のやり方でしたな、シャーロック・ホウムズさん。わたしには何もいうことはありませんがね。 しにん でも、こちらはあなたよりもいい仕事をしたようですよ。死人の身もとがわかったんです。」 「そりやおどろいたな ! 」 きよう けん じけん こと せつ 120
せつ ゅうり 「いろいろな点で、証拠が、きみの説にずっと有利だということをみとめないわけじゃあり ませんがね。ただ、もっとほかに考えられることがあると、それだけ言いたかったんです。 われるとおり、いずれはわかることです。では、さようなら ! ・ほくはきようじゅうにノーウ トへ寄って、きみの捜査の進行ぶりを見せていただくつもりです。」 じゅんび 〔警部が出て行くと、ホウムズは立ちあがって、その日の仕事の準備をはじめましたが、いか にも自分にびったりの仕事が見つかったというふうに、いきいきと動いていました。そうして、 せかせかとフロック・コートを着ながら、 「まず、手はじめに、目ざすは・フラックヒースだ。さっきも言ったがね、ウォトスン。」と、 しいました。 「どうして、ノーウッドじゃないんだ。」 「それは、この事件で、ひとつのかわった出来事が、べつのかわった出来事にすぐひきつづ けいさっ はんざい いておこっているからだ。警察は、第二の事件のほうが、 はっきりした犯罪だというので、そ ねっちゅう じけんすじみち のほうにばかり熱中するまちがいを犯している。ところが、第二の事件に筋道を立てて近づく そうぞく ためには、まず、第一の事件ーーっまり、あれほどあわてて作られ、しかも、思いがけぬ相続 にん - えら ゆいごんじよう 人を選んだ、あの遺言状のほうをはっきりさせる必要があると、・ほくは思う。そうすれば、つ じけん づいておこった第二の事件も、むずかしく考えずにすむはずだ。いやいや、きみに手伝っても じけん そうさ しようこ じけん おか でき・こと じけん ひつよう でぎごと てつだ
さんこうぶんけんもんく スミスは ) 仕事に使う参考文献や文句をさがして、時間をすごしていました。このウイロビー アツ。ヒンガム校での少年時代も、のちに、ケンプリッジ大学の学生としても、まったく申し分 きんべんか すいせんじよう さいときから、上品で、おとなしい勤勉家で、なに のない男でした。推薦状も見ましたが、小 きようじゅしよさい せいねん ひとっ欠声がないそうです。それなのに、 この青年が、けさ、教授の書斎で、殺されたとしか 考えられない死に方をしていたのです。」 まど 風はなおも吹きあれて、窓を鳴らしています。ホウムズと私は、火のそばへ椅子を引き寄せ ) 若い刑事はゆっくりと、かんでふくめるように、ふしぎな物語をつづけました。 くら むかんけい 「イギリスじゅうさがしまわっても、あれほど外部と無関係に、自分だけで暮している家は 見つからないでしよう。何日、何週間たっても、人っ子ひとり、庭の門をくぐるものはいな きようじゅ いんですから。教授は仕事だけに生きる人で、まったくほかのことをかえりみません。スミス 青年も、近所に知り合いもなく、主人と似たりよったりの暮しでした。一一人の女性も外へ出る ぐんじんおんきゅう くるまいすお 用事がありません。車椅子を押す庭男のモーティマーは軍人恩給を受けていてーークリミア戦 かれ やしき そう ( 1 ) 争にもいった、気だてのいい男です。彼は同じ屋敷のなかではなく、庭のすみにある三間の小 やかたとち 屋に住んでいます。ョックスリ館の土地のなかには、これだけの人間しかいません。なお、庭 ほんかいどう の門は、ロンドンからチャタムへ通じる本街道から百メートルほどはいったところにあって、 掛け金さえはずせば開き、だれでも自由にはいることができます。 せいねん わかけいじ がね しゅじんに くら わたし じよせい ころ せん 179
「ええ、ホウムズさん。いま気にかかっていることを隠したってしかたがありませんが、で も、あまりばかばかしい話なので、あなたがたをなやませてもどうかと思ったのです。とはい いつぶうかわ っても、つまらない事件なのに、これはたしかに一風変っていて、あなたはまた、かわった話 が何でも大好きだときている。しかし、これはどうも、私たちよりはウォトスン先生の受け持 ちだという気がするんですよ。」 わたし 「病気ですか。」と、私。 いまどき、ナポレ 「とにかく、気ちがいですね。それも、ひどくかわった気ちがいですー オン一世が憎くてたまらず、目についた像を片つばしからこわして歩く人間がいるなんて考え られますか。」 しず ホウムズは椅子の背にからだを沈めて、 「そいつはばくの受け持ちじゃないな。」と、 「そう。わたしのいったとおりでしよう。しかし、この男が自分のものではない像をこわし けいかん たさに他人の家に押し入ったとなれば、これはもうお医者ではなくて、警官の仕事になってし まいます。」 ホウムズはまたからだをのり出して、 「どろばうかー こいつはおもしろくなった。くわしい話を聞かせてくれないか。」 たにん だいす にく お じけん ぞう しいました。 わたし ぞう
たいくっ あるのを思いださずにはいられませんでした。長い、退屈な旅をつづけて、私たちはやっとチ やどや ャタムから数キロの、小さな駅におりました。いなかの宿屋で、馬車に馬をつないでいるあい やかたっ ちょうしよく だ、大いそぎで朝食をとり、ヨックスリ館へ着くころには、仕事の用意をぜんぶととのえてし けいかん まいました。庭の門のところで、警官と出会いました。 「やあ、ウイルスン。なにかめぼしいことはなかったかね。」 しいえ、何もありません。」 ほうこく 「見なれないものを見かけたという報告はないか。」 お 「ありません。駅でも、きのうは、よそ者の乗り降りはなかったそうです。」 やどやげしゆくや 「宿屋や下宿屋を調べてみたか。」 「はい。あやしい者はひとりもおりませんでした。」 「すると、あとは、チャタムへ歩いていく道だけだな。あそこなら、見つからずに泊れもす るし、汽車にも乗れる。これが、ゆうべお話しした庭の道です、ホウムズさん。きのうここに は、たしかに足跡がありませんでした。」 あと 「草のうえにふんだ跡があったというのは、どちらがわでしたか。」 「こっちがわです。道と花壇のあいだの、せまい草のところです。いまはわからなくなりま したが、そのときははっきりしていました。」 あしあと かだん ばしゃ わたし とま 190
のあと、オウルディカーさんは、大きな金庫のある寝室へわたしを連れて行き、金庫の戸をあ けて、山のような書類を取りだしました。二人はいっしょにそれを調べ、仕事が終ったのは十 かせいふ 一時と十二時の間でした。家政婦をおこさないように、と、あの人は言って、ずっと開けつば まど なしのフランス窓から、わたしを送りだしました。」 「プラインドはおろしてありましたか。」と、ホウムズがたずねます。 「よくはおぼえていませんが、でも、半分だけおりていたような気がします。あ、そうでし まど た。窓をいつばいにあけるのに、あの人がプラインドを引きあげたのをおぼえています。わた しいよ。これからはときどき しのステッキが見あたりませんでしたが、あの人は、『いいよ、 会えるんだし、こんど来るときまで、あずかっておいてあげるから。』といいました。そこで、 たばっくえ きんこ 金庫は開けつばなし、書類はいく束も机の上に置きつばなしのまま、あの人と別れました。す おそ つかり遅くなって、ブラックヒースまでは帰れませんので、『エイナリ・アームズ』という宿 屋に泊り、けさ、新聞で、このおそろしい事件を読むまで、なんにも知らなかったのです。」 「もっと何か聞きたいことがありますか、ホウムズさん。」と、レストレイドがたずねまし かれ 彼よ一、二度眉をあげただけでした。 た。このふうがわりな話のあいだ、 , を 「プラックヒースへ行ってみるまでは、いまのところ何もありません。」 「ノーウッドへ、でしよう。」 しよるい しよるい きんこ じけん まゆ しんしつ わか きんこ やど