と大きく時をきざんでいるほかは、物音ひとっきこえません。いつの間にか、何とも言えない不 あん みようひとざと 安な気持がわいて来ました。このドイツ人たちはいったい何者なのだろうか。妙に人里はなれた、・ こんなところに住んで、いったい何をしているのだろうか。そうして、ここはいったいどこなの かしら。私の知っているのは、アイフォードから十マイルばかりやって来たということだけで、 それが北なのか、南なのか、東なのか、西なのか、まるでわからないのです。アイフォ 1 ドから はんけい 十マイルというだけならば、レディングも、おそらくそのほかの大きな市も、みんなその半径の ひとざと 中へはいってしまいますから、ここはやはり、それほど人里はなれたところでもなさそうです。 しかし、この物音ひとっきこえない静かさから考えると、 いなかだということも、まずまちがい ありません。 はなうた 私は元気をつけるために、小さな声で鼻歌をうたい、 心の中では、まるまる五十ギ = ーのもう・ けがあるんだと思いながら、部屋の中をゆきつもどりつしていました。 すると、このしんとした静かさの中に、いきなり何の前ぶれの物音もたてないで、部屋のドア ひろま くら がすうっとあきました。広間の暗やみを背にして、戸口に立っているのは、さっきの婦人です。 ひょうじより 何かしきりにききたそうな表情をした、美しいその顔には、この部屋のランプの黄色い光が、ま ひとめ ともにあたっていました。おそろしさにうちひしがれているのが、一目でわかりますし、それを 見て、私も思わすそっとしました。 とぐち へや しん 229
「だからそういったろう。キングズ・。 ( イランドへ帰ったか、ケイプルトンへいったにちがい ないとさ。キングズ・。〈イランドにはいないんだから、きっとケイプルトンにいるよ。ひとまず けいぶ そうきめておいて、その先、どうなっていくか見ようじゃないか。警部もいっていたように、こ・ のへんの原つばはずいぶん土がかたくて、かわいているが、ケイプルトンのほうへはずうっと坂 になっていて、ほら、あそこに細長いくぼみが見えるだろう。きっとあそこは、月曜日の晩は、 かなりぬかるみだったにちがいない。ぼくたちの考えが正しければ、あの馬はあそこを横切った はずだし、足あとをさがすとすると、あそこが一ばんいいことになる。」 もんだい こんな話をしながら、私たちはきびきびした足どりで歩いて、二、三分後には、問題のくぼみの ところまでやって来ました。ホウムズの言うとおりに、私はくぼみのヘりのところを右のほうへ 向い、彼は左のほうへ歩いてゆきました。ところが、五十歩もゆかないうちに、ホウムズは大声 かれ をあげて、私のほうへ手まねきしているのが見えました。彼の前のやわらかな地面の上には、馬 ていてつ の足あとがはっきりついていて、ポケットから取り出した蹄鉄が、その足あとにちょうどびった りあうではありませんか。 「想像というものは大したもんだろう。この特性がグレゴリーには欠けているんだよ。まずど そうぞう ほくの想像の んなことがあったかを想像して、その仮定をもとにして、仕事をはじめたんだが、・ 正しいことが、これでわかったわけだ。さあ、先へいって見よう。」 そうぞう かてい 3
しようこ かんぜん フィッツロイ・シンプソンについての証拠は、けっして完全なものだとは思っていませんでし しんはんにん たが、それでもほくは、あの男がやはり真犯人にまちがいないと思いながら、デヴォンシャ よっにく ばしゃ 出かけてゆきました。馬車へのっていて、ちょうどストレイカーの家へついたとき、ふと羊肉の りようり カレー料理にたいへんな意味があることに思いあたりました。あのとき、あなた方がみんな馬車 をおりてしまったのに、ぼくだけがぼんやりして、車の中に残っていたのをまだおぼえておいで ないしん でしよう。ぼくは、こんなはっきりした手がかりをどうして今まで見のがしていたのか、内心ふ しぎでならなかったのです。」 大佐は、 やく 「いや私なそ、今でもわかりませんよ。カレー料理がどんな役に立ったのですか。」 あじ 「そこから、ぼくは推理をはじめました。アヘンの粉末というものは、けっして味のないもの じゃない。わるい味ではありませんが、はいっていればすぐにわかります。ふつうの料理にまぜ いじよう たら、たべた人はすぐに気がついて、きっとそれ以上たべはしないでしよう。カレ 1 はたしかに、 この味を消す微目をしていました。フィ〉ツ。イ・シンプソンというよその人間が、あの晩のス しよくじ トレーカー家の食事に、カレー料理を出すようにするなどということが、どう考えたってできる ばずがありません。そうかといって、味を消すのにちょうどいい料理の出たその晩に、アヘンの 勝をもってシンプソンがやって来たというのも、あまり話が合いすぎておかしいでしよう。ちょ こな たいさ すいり んまっ 301
「まったく面白い目にお会いになりましたねえ。」 きやく たはこ 客が話の間をおいて、かぎ煙草をたくさんつまみながら、いろいろと思い出している間、ホウ ムズはこう言いました。 「どうそ、その面白いお話をつづけて下さい。」 じむしょ まっざい 「事務所の中に・は、木の子が二つと、松材のテープルが一つあるだけで、がらんとしていま かみ こおとこ しがんしゃ す。テープルのむこうには、私よりももっと赤い髪の毛の小男がこしかけていました。志願者が けってん らくだい はいって来ると、二こと三こと話をしては、何か欠点を見つけてしまい どしどし落第にしてし けついん悲き まうのでした。どうも、なまやさしいことで欠員の席にありつけるとは思えません。しかし、私 けゅんばん たちの順番がやって来ますと、この小男はだれよりも私に好意をもったらしく、私たちと内しょ の話ができるように、はいって来たドアをしめてしまいました。 れんめい けついん 『この方はジ = イベズ、、・ウイルスンさんと申します。連盟の欠員に入れていただきたいと思っ ておられるのです。』 とスボウルディングが言ってくれました。 ひ』ようしかく 『これはまったくうってつけの方だ。必要な資格を、何でもそなえていらっしやる。これほど 申し分のない人にいっ会ったか、ちょっと思い出せないくらいだなあ。』 こう言って、小男はうしろへさがり、 いっぽうへ首をかしげて、私の髪の毛をじっと見つめ、 かた かた こうい あいだ
が、ねるころには、そんなことはもうすっかりあきらめてしまおうと思いました。しかし朝にな ると、ともかく見にゆくだけはいって見ようと思いなおして、一ペニーのインキびんと、鵞。ヘン おおばん と、大判の紙を七枚買って、ポープス・コートへ出かけました。 ところがおどろいたことに、またうれしいことに、何もかもちゃんとそろっているではありま ようい つくえ せんか。机は私のために用意してあり、グンカン・ロスさんは私がうまく仕事をはじめられるか どうか見に来ていました。の字から書きはじめさせて、かれは出てゆきましたが、だいじよう ぶかどうか時々見にはいって来ます。そうして、一一時になるとさようならを言い、ずいぶん書け じむしょ ましたねなどとお世辞を言って、私の出たあと、事務所のドアにかぎをかけるのでした。 ホウムズさん、こんな暮らしが毎日つづくようになりました。そうして土曜日になると、ロス んか さんがやって来て、一週間分のソヴリン金貨四枚をはらってくれました。次の週も、次の週も同 じでした。毎朝、私は十時に出かけていって、午後の二時にかえるのでした。ダンカン・ロスさ んはだんだん朝一どしか来なくなり、しばらくたっと、とうとうまったく来なくなってしまいま した。それでも、私はもちろんいっときも、部屋を出ようとはしませんでした。ロスさんがいっ 来るかわかりませんし、仕事は楽で、私にはうってつけだし、この仕事をなくすようなことはし たくなかったからでした。 アーマ、アーキテクチャー、 こうして八週間たちました。私はアポット、アーチ = リー、 らく
しゅんさまち なかま は巡査が街をかけて来るぞと、仲間の東インド人から知らされていたかも知れない。ぐずぐずし ているひまはない。そこで、今までもらいためた金をかくしてある、秘密の場所へかけていって、 どうか ポケットの中へつかめるだけの銅貨をぎゅうぎゅうつめこんだ。これで上着はしずむだろう。そ まど こで窓から投げすてた。下からあがって来る足音がきこえなかったならば、他の衣類も同じよう しまっ に始末したかったのだろうが、窓をしめるのがやっとで、そこへどやどやと巡査がやって来た。」 「なるほど、もっともだと思えるね。」 せつめい じっさい 「うん。他にいい説明がっかないから、実際にあったのはこんなことじゃないかと考えて見た しら けいさっ のさ。前に話したように、プーンは逮捕されて、警察へ引っぱってゆかれたが、今までの事を調 べて見ても、この男に不利なものは何ひとつ出て来ないんだ。長年こじきをしていることはわか じみ っているが、たいへん地味な暮らしをしていて、わるい事は何もしていないようなのだ。 かいけっ 事件はここまでわかっているが、これから解決しなくてはならない問題はいろいろあるーーーっ まり第一に、ネヴィル・セント・クレアがアヘン窟で何をしていたか、そこで彼の身に何がおこ ったか、今どこにいるのか、彼のすがたを消したことがヒ、 ・プーンとどんな関係があるのか、 というような問題がひとつも解決されていないんだ。ちょっと見るととてもかんたんに見えて、 牛よ、まったくはじめてだよ、ぼくは。」 しかもこれほどやっかいな事イ。 シャーロック・ホウムズがこんな風にこのふしぎな事件をこまごまと話しているうちに、私た じけん ひみつ うわぎ
二、三日これをおあずかりしておりました。しかし、なぜ広告なさらなかったのでしようねえ。」 こんや さん。今夜は寒いですな。あなたの血色を拝見しますと、夏よりは冬のほうが苦手のようにお見 受けします。ゃあ、ウォトスン。ちょうどいい時にやって来たね。べイカーさん、これはあなた のお帽子ですか。」 「さようです。たしかに私の帽子でございます。」 おおとこ べイカーはねこ背の大男で、頭は大きく、幅の広い りこうそうな顔が下のほうへい冫オ がってだんだん細くなり、白髪のまじった、茶色のあごひげにつづいています。鼻と頬がわすか すいさっ に赤く、さしのべた手がすこしふるえています。ホウムズがさっきこの男の酒ぐせについて推察 したことは、なるほどと思えました。うすよごれた、黒いフロック・コートにボタンをびちんと てくび はめており、えりをすっかりたてていました。そでからにゆっと出ている細い手首を見ると、カ ようす フスもシャツもつけている様子はありません。一つ一つ使うことばを気をつけてえらびながら、 がくもん ぼつんぼつんと、ゆっくり話してゆきます。だいたいに学問もあり、本も読んでいる人のように 思われますが、しかし、すっかり不運つづきのような感じを受けました。 ホウムズは、 こうこく じゅうしょ 「あなたのほうから、広告でご住所を知らせてくださるかと、おまちしていたものですから、 客はちょっとはずかしそうに笑って、 きやく ぼうし しらが みうん けっしよくはいけん にがて 128
ちのの 0 た縣鵈は。ンドン郊外の一ばん家のまばらなあたりも過ぎて、両側にいなか風の垣が まど つづいている道を走ってゆきました。しかしホウムズの話がすんだ頃は、窓ごしに明りが二つ三 っちらちらと見えている、人家のまばらな二つの村の間をまだ走っていました。 ホウムズは、 「もうリー市の郊外へやって来たよ。ちょっとの間に州を三つも通りすぎて来たわけだ。ミド いっかく ルセックスにはじまって、サリーの一角をぬけ、ケント州までたどりついたことになる。ほら、 あか すぎそう 林の間に明りが見えるだろう。あれが『杉荘』なんだ。あのランプのそばに、女の人が心配そう にすわっていて、きっともう、この馬車のひすめの音をききつけているにちがいないよ。」 「だけど、どうしてあのべイカーの君の家ではできなかったんだい。」 と私はたずねました。 「ここで調べなくちゃならないことが沢山あるからさ。セント。クレア夫人がしんせつに二部 むか 屋もぼくに使わせてくれているし、ぼくの友だちで仕事仲間だと言えば、あの人はよろこんで迎 えてくれるから、君は安心していていいよ。だが、ウォトスン。ぼくはあの人に会いたくないな。 ご主人の知らせを何も持ってこられなかったからな。さあついた。ほら、どう、どう ! 」 ていえん べっそうみうたてもの 私たちの馬車が、庭園の中に立ている大きな別荘風の建物の前に止まると、馬工の少年がか にやりみち けて来て、馬の手ずなを取りました。私はとびおりて、まがりくねったせまい砂利道を、ホウム しら じんか たくさん じん あか た (
けいさっとりしら い叔母さんのところへ連れていった話とか、また、警察の取調べがひどくのんびりしていて、 どく 博士があんな目にあったのは、毒ヘビなどと遊ぶような軽はずみをしたからだということに、や きま ひつよう っと決った話などを、くだくだしくお話しする必要はないと思います。 じけん ただこの事件について、まだわからなかったところを、次の日、帰りの汽車の中で、シャーロ ック・ホウムズにすこしばかり説明してもらいました。その話をここに書いておきましよう。 けつろんくだ 「ねえ、ウォトスン。ぼくはまったくまちがった結論を下してしまっていた。不じゅうぶんな ざいりよクすい きけん 材料から推理することがどんなに危険なものか、こんなことからでもわかるだろう。近くにジプ けんとり シ 1 がいたこと、死んだ姉さんが言った『ひも』ということば、こんなまるで見当ちがいの手が かりにだまされてさ。あのひもだって、たしかにあの人がマッチをすった時に、ちらりと見たも しろもの ののことを言ったにちがいないんだ。ただ姉さんをふるえあがらせた危険な代物が何であったに まど しろ、こいつが窓からはいって来たり、ドアをぬけて来るわけがない。これをこの目でたしかめ てん て、はっきりわかったときに、すぐに見方をかえて、考え直した点だけは、ぼくのいいところだ ったと言えるだろう。 よび あな 前にも君に言ったように、ぼくはたちまちあの空気ぬきの穴と、べッドに垂れさがっていた呼 ゆかくぎ りん やく 鈴のひもに気がついた。あれが役にも立たない、ただのかざりだということと、べッドが床に釘 へやって来るのに、あの づけになっていたのを見つけてから、何者かが穴を通りぬけて、べッド はかせ . ねえ せつめい みかた なお 2
ストレイカーは何かわけがあって、馬を朝の運動につれていったのだろうと、四人ともまだそ あれのはら んなのぞみをかけていたが、あたりの荒野原がすっかり見はらせる近くの丘にのぼって見ても、 馬のすがたはまったく見えないで、かえって、何かわるいことがあったのじゃないかと思わせる ものを見つけてしまった。 うまやから四分の一マイルほどのところにあるハリエ = シグのしげみから、ジョン・ストレイ カーの外套がひらひらしていたのだ。そのすぐ先の原つばにわんの形をしたくぼみがあって、そ の底に、ストレイカーのむざんな死が見つか 0 た。頭は何か重いものでひどく打たれたらしく、 骨がくだけていたし、ももにも長い切りきずがあって、このほうはたしかに何かよく切れる刃も のでやられたものと思われた。しかし、ストレイカ 1 も相手にたいして、かなりはげしく手むか ったことはよくわかる。右手には、つかまで血のこびりついている、小さなナイフをにぎりしめ きぬ ていたし、左手には赤と黒のもようの絹ネクタイをつかんでいた。このネクタイは、ゆうべうま けよちゅう やヘやって来た変な男がしめていたものだと、女中はみとめている。 もちぬし ハンターもやっとわれにかえって、同じように、そのネクタイの持主はあの男だとはっきり言 りようり まど った。そうしてやはりあの男が窓のところに立っている間に、羊肉のカレ 1 料理の中へねむり薬 じゅう を入れて、うまやの番人の自分をねむらせ、うまやの中へ自由にはいれるようにしたにちがいな いと言うのだ。 がいとう はんにん ようにく おか 5