そのとき突然横あいから、 「もし、もし、きみ ! 」 私を呼びかける太い声がした。心臓が止ったーー去年のあの声だ 村山十吉 ! 交番だな、と早く感づく前に、交番であるべき風景はそうではなくて、ふり返った私の目に は、弁天町の邸宅の高い塀が見えた。そして実際、頭の上には白く梅の花が咲いて、電信柱が私 花の鼻先で動かなかったのである。 の 」梅 私は爪先たてて逃げかけた。 ふ「もし、もし、きみ ! ・夜 私は立ちすくんだ。 「 : : : 僕の顔は血だらけになってやしませんか ? 」 そして私は自分の頬の血を平手で撫でた。 私は質屋の番頭であった。 「何処へ帰るんだ ! 」 同時に邸宅の塀も梅の花も電信柱も消え失せた。その声も、交番の巡査のものであった。それ とわかってしまえば、自分はおそろしくない。 つまさ、
187 た。汽車で来ている途中の駅から発信したもので、その汽車が着いて直ぐに彼女が私のうちに訪 ねて来るとすれば、私たちは朝早くから目をさます必要があった。 「起きてるのか ? 」 そう言ってたずねると、ユキコは眠っていなかったばかりでなく腹を立てていた。彼女は憂さ ばらしの溜息をついて、増長しなくては言えそうもないことを言った。 「岡アイコさん、あなたの上京は二週間ほど遅うございました : : : 」 私は相手にしないでいたが、ユキコは彼女自身、手に負えない女だということを私に見せるつ もりであったのだろう。 来 : 二週間ほど遅うございました。あなたがそう言って彼女の肩にさわると、やがて彼女はさ 人 めざめと泣きだします。こないだ読んだ人情小説に書いてあったのとそっくりの光景が予想でき 女ます : : : あたしは明日、外出した方がいいでしよう ? 」 ばくれん 彼女は莫連な女であることを証明する恰好で蒲団を頭からかぶり、蒲団のなかでもう一度きっ ・はり・ A 」、 「あたしは外出します」 と言ったのである。
しゅうらんぼん 由蔵のためには袖珍本の講談を買って来て置いて、彼が来た時に与えた。けれどみち子は目っ きで私をとがめた。何故かというに、由蔵は令嬢の課業の傍らでその袖珍本を読みはじめたのみ でなく、興にのって来ると音読さえもしたからである。 「黙って読まないと、退場を命じるぞ」 私が忠告する度毎に彼は黙読したが、それでも再三規律を破った。 蹙 「由蔵お前ここで読みたいなら、わたし外へ行って勉強していただくわよ」 とうとう我慢ならないというかのようにみち子が彼を威したので、彼は周章てて袖珍本をふと 風 ころに入れて外に出ようとした。 「お見せ ! お前、読めもしないくせに」 坤彼は令嬢に愛読書を奪われて、海岸の方へ出て行った。私は好ましく彼の後ろ姿を見送った後 「掌は痛みませんか ? 」 「少しばかり」 夜おそくなって、私は麦畑の丘へ遊びに出た。 麦の間の小路を行くと、野鼠は私の足音に驚いて小さな悲鳴をあげ、麦の茂みに滑り込んだ。 で、 おど
からね」 「それもそうだね。では、も一度傷を見せたまえ。何とかごまかしがつくかもしれないぜ」 「何うだ、ひどいだろう ? そう言って目近く顔を寄せて来る彼の傷を、私は代診みたいに強いて落ちつきを示しながら、 薄暗い光で診察してやった。 「ああ、これは少しひどすぎる」 魚私は左手をマントのポケットに入れ、右手で彼の血の流れている顎を上下左右に動かしなが ら、 椒「なる程ね ~ ちょっと、も少し上を向いてごらん。ひどいことをする奴だな。何か棒の尖ででも 突かれたね、頬のところは ? 」 山「酔っていたからちっともわからない 「唇のところも、引き裂いたような傷だね。歯はゆらがないかね ? 」 彼は舌先を歯並に触ってみて、 「歯は何ともないー 「それは結構だ : : : それで、帰ったら日一那に期う言いたまえ。酔っぱらって電車に乗って帰って ふところで 来る途中、昇降台に立「て懐手をしたまま風にふかれていると、急に電車がカアプして、真逆様 にふり落されたんだと言いたまえ。そして運悪く掘り返された敷石の角に、頬のところがぶつ突
「あら殿様、それでは、峠で見た鷲と同じ鷲で御座いますわ、きっと。峠で見た鷲も真黒で御座 いましたもの、きっとお邸の鷲で御座いますわ」 とっさ 咄嗟に彼女は、自分の言った通りそれに違いないというような仕草をした。すこし居すまいを なおし、そうして殿様の手の上にふんわりと彼女の手を置いたのである。 その仕草は殿様を満足させた。同時に、空とぶ大鳥もわが邸のものであると思いたい殿様の所 有欲を満足させた。 一日に馬肉を、七百目く 魚「左様、或いは邸の鷲かもしれぬだろう。なにしろ大きな鳥であった。 らい平気で食べた」 椒「その鷲の名前、御坂ではクロという名前で御座いましたわ 「いや、邸では流星号と言っておった。はじめ、吾輩に寄贈してくれた人は、別な名前を言って 山おったようだ。それが、はて、何と言っておったかな」 「クロという名前で御座いますわ、きっと」 「或いは、そういう単調な名であったかもしれん。 . はじめ田舎の百姓屋で飼っておったというか らな」 「その百姓屋、信州の田舎の大きな紅梅の木の生えてる、百姓屋であったかもしれませんわ、き 「いや、或いはそうではなかったかもしれんが、或いはそうであったかもしれん。お前の話をき
勉となったり抜けたりした光景に、ひどく失笑してしまフた。全く蝦くらい濁った水のなかでよく 笑う生物はいないのである。 山椒魚は再びこころみた。それは再び徒労に終った。何としても彼の頭は穴につかえたのであ る。 魚彼の目から涙がながれた。 「ああ神様 ! あなたはなさけないことをなさいます。たった二年間ほど私がうつかりしていた あなぐら 椒のに、その罰として、一生涯この窖に私を閉じこめてしまうとは横暴であります。私は今にも気 が狂いそうですー 山 諸君は、発狂した山椒魚を見たことはないであろうが、この山椒魚にいくらかその傾向がなか ったとは誰がいえよう。諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど暗黒 りト ( ・つ′ムハ、 の浴槽につかりすぎて、もはやがまんがならないでいるのを、諒解してやらなければならない。 ふうてん いかなる瘋新病者も、自分の幽閉されている部屋から解放してもらいたいと絶えず願っているで 冫ないか。最も人間嫌いな囚人でさえも、これと同じことを欲しているではないか。 「ああ神様、どうして私だけがこんなにやくざな身の上でなければならないのです ? 」 岩屋の外では、水面に大小二ひきの水すましが遊んでいた。彼等は小なるものが大なるものク
しようとしたか ? あんたん 私は夜史けの窓を明けて海を見ながら、暗澹として且っ旧式な自分の生活を嘲笑したこと しばしば が暖々であったのだ。その時、私は必ず黒くうずくまる島の上に、おそいぶざまな月を見たが、 私にとっては月は一箇の赤くただれた片目であった。私はおびえた。真赤な片目は空に浮びあが なまぐさ って、腥い光をもって私をにらんでいるのだ。私はいそいで窓を閉め、それから寝床に入るので ある。けれど彼は私の閉じた目の中へまで現われて来る。 「早く夜が明けてくれればいいのだ : : : 」 魚 私は私を睨んでいる彼に唾をはきかける真似をしたり、両手をふってそれを威しつけたりした。 椒ところがみち子は、私に生活の反省とか考え方の深さとかを持たそうとはしないで、常に例え ば次のような思想を宣伝した。 山「ほんとに世の中って楽しいものですわね。わたし、この世の中に代数と鼠とさえなければ、ど れだけ幸福かわかりませんわ。でもこれは誰の罪でもありませんわねー みち子の手の上に私の手を重ねようとするには、少しの困難もなかった。 「掌は痛くはありませんか ? 直ぐに彼女は机の端に手をさし出して見せた。彼女は余程以前に手に怪我したことがあったか らである。
「今日は急いでいますから、今度またゆっくりお会いいたしますわ」 そうして彼女は私が不平な顔をしていると、改めて次のように挨拶した。 「しばらくごぶさたいたしました。このごろ親戚のうちに来ていますの。今日はお会いしなくて もいいと思いましたけれど、それとなく来てみましたの」 なんだか落ちつかないで大急ぎのところであると思われたが、私は彼女を連れて硝子屋の裏の 空地に行った。そして私たちはこの広場のまだ消えていない雪の上に立って、次のような短い会 魚話をして別れた。雪は一昨年と同じくどっさりと消えのこっていた。 こわ 「あたくしこのごろ親戚で、毎日たのしく暮しておますの。あたしが応接間の大きな花瓶を毀 椒したら、みんな一一階に逃げて行ってたいへん笑いましたの」 「それは結構です」 山「過失なんですものね ? ・ : : ・あたくし、まだ図太くなれないんですけれど、お目にかかってしま いましたわ 「あんな約東、早く忘れちゃった方がいいんです」 「あたくしの田舎のうち、桐の材木問屋ですから、下駄の台を送らせましようかしら。つい気が つかないで、ばかなことをしてしまいましたわー きっと彼女は、私のはいていた心細い下駄を見て気の毒に思ったのだろう。彼女は私の下駄か そむ ら目を反け、雪の上に刻まれたその下駄の足跡だけを丹念に眺めていた。
いたずら おそらく気まぐれな狩猟家か悪戯すきな鉄砲うちかが狙い撃ちにしたものに違いありません。 わたしは沼池の岸で一羽のがんが苦しんでいるのを見つけました。がんはその左の翼を自らの血 潮でうるおし、満足な右の翼だけを空しく羽ばたきさせて、青草の密生した湿地で悲鳴をあげて 魚いたのです。 わたしは足音を忍ばせながら傷ついたがんに近づいて、それを両手に拾いあげました。そこ 椒で、この一羽の渡り鳥の羽毛や体の温かみはわたしの両手に伝わり、この鳥の意外に重たい目方 は、そのときのわたしの思い屈した心を慰めてくれました。わたしはどうしてもこの鳥を丈夫に 山 してやろうと決心して、それを両手に抱えて家へ持って帰りました。そして部屋の雨戸を閉めき しよく って、五燭の電気の光の下でこの鳥の傷の治療にとりかかりました。 けれどがんという鳥は、ほの暗いところでも目が見えるので、洗面器の石炭酸やヨードホルム の瓶を足蹴にして、わたしの手術しようとする邪魔をします。そこで少しばかり手荒ではありま したが、わたしはかれの両足を糸で縛り、暴れるかれの右の翼をその胴体に押しつけて、そうし また て細長いかれの首をわたしの胯の間にはさみ、 「じっとしていろ ! 」 むな
翌朝、私はこの宿を出発する際に三人のお婆さんの顔を見くらべてみた。一ばん上のお婆さん は痩せていて細い顔で、二ばん目のお婆さんは背が低くて太っていた。いわば日のような、とい う形容が適当であった。三番目のお婆さんは中肉中背で、以前はいい顔だちだったろうと思われ る目鼻だちに見えた。一一人の子供の姿は見えなかった。 「お婆さん、子供さんたちは出かけたのかね」 私が三番目のお婆さんにたずねると、 魚「学校へ行ちよります [ と言った。私はばかな質問をしたものだと独りで苦笑した。 椒その宿を出がけに戸口を見ると、柱に「遍路岬村尋常小学校児童、柑乃オシチ」という名札と 「遍路岬村尋常小学校児童、柑乃オクメ」という名札が二つ仲よく並んでいた。私を戸口まで見送 山ってくれた極老のお婆さんは、 「どうそ、気をつけておいでなさいませ、御機嫌よう」 そう言って、丁寧に私にお辞儀をした。 はまゆう その宿の横手の砂地には、浜木綿が幾株も生えていた。黒い浜砂と、浜木綿の緑色との対象が 格別であった。 ひと かんの うす