出て - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
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1. 山椒魚

翌朝、私はこの宿を出発する際に三人のお婆さんの顔を見くらべてみた。一ばん上のお婆さん は痩せていて細い顔で、二ばん目のお婆さんは背が低くて太っていた。いわば日のような、とい う形容が適当であった。三番目のお婆さんは中肉中背で、以前はいい顔だちだったろうと思われ る目鼻だちに見えた。一一人の子供の姿は見えなかった。 「お婆さん、子供さんたちは出かけたのかね」 私が三番目のお婆さんにたずねると、 魚「学校へ行ちよります [ と言った。私はばかな質問をしたものだと独りで苦笑した。 椒その宿を出がけに戸口を見ると、柱に「遍路岬村尋常小学校児童、柑乃オシチ」という名札と 「遍路岬村尋常小学校児童、柑乃オクメ」という名札が二つ仲よく並んでいた。私を戸口まで見送 山ってくれた極老のお婆さんは、 「どうそ、気をつけておいでなさいませ、御機嫌よう」 そう言って、丁寧に私にお辞儀をした。 はまゆう その宿の横手の砂地には、浜木綿が幾株も生えていた。黒い浜砂と、浜木綿の緑色との対象が 格別であった。 ひと かんの うす

2. 山椒魚

真最中に於けるセロの緩徐調の役目をはたした。朽助は、この一律の湿っ。ほい斧の音は、桜の木 を伐る音だということを言いあてた。 雨は止まなかったが、朽助はこんなに・ほんやりしているのは寧ろつまらないと告白して、牛を 連れて出かけた。彼は藁製のカッパを着込んで、牛の背中にも同じ種類のカッパを羽織ってやっ わらびさし たのである。私は牛小屋の藁廂の下に雨を避けながら立 0 て、石垣のの口から流れ出る谷川を ーよ水量を極度に増して、樋のロの許すかぎり巨大な水の棍棒となってほとばしり出 眺めた。谷月冫 魚ていた。そしてこの棍棒のなかには幾本もの丸太がまぎれ込んでいたのである。伐採夫達は、谷 間いつばいに斧の音を響かせながら、彼等はその片手間に、伐り倒した樹木の枝を刎ねて上流に 椒投げ込んでいたのであろう。丸太は絶え間なく流れ出た。 樋の口からほとばしり出る水の棍棒は、滑らかな半円を描きながら一個の瀑布であった。滝壺 おのずか 山に落下した水は純白な水煙をまき上げたが、水は自ら横なぐりの風を涌き起して、純白な水煙を 空中に高く吹きまくった。多くの丸太は滝壺のなかで逆立ちをしたり、一心不乱に輪を描いたり いかだ した。或る一本の丸太は、他の二本が体をくつつけている間へ割込んで、三本で細長い筏となっ て勢いよく川しもに走り去った。或る一つの丸太は、他の丸太の上に体を投げ出して相手を驚か したが、周章てて水中深く滑り込んだ。これ等の光景は、あたかもマッチの箱から軸木をぶちま けた場合の光景に似ていたのである。 まる四日ほど雨が降りつづいた。そして五日目に晴れて、谷間の樹木は最も明快な緑色を示し むし

3. 山椒魚

花私は声の正体をはっきりと見とどけようとしてふり返った。すると驚いたことには、麦の穂かげ に一箇の赤い光がきらめいていたのである。私はいびつな月だと知るより前に、すくみあがって しまった。ところが彼も、同じく麦の穂の上におどりあがって、再びすばやく身をしのばせた。 だが彼は確かに私の後をつけていたのにちがいない。私は明らかに見とどけたのだ。彼は赤くた なまぐさ だれた一箇の腥い片目であった。私は彼を追い返してやろうとして前進した。 「こいつめ ! 」 へきえき けれども、真赤にただれた片目は少しも辟易しないのみでなく、ぬらぬらと麦の穂の上に浮び 魚 出た。 その日、いつものように私の腕の環の中で、みち子が最も感傷的であった時、不意に賄の娘が 山部屋に入って来た。 これは何たる失策であるか ! みち子はちちみ上って、気持たけで火鉢のかげにかくれた。私 は、頼みもしないのに娘が洗濯してくれるのを叱ってやろうかと思ったが、 あか 「とても、みち子さんの耳には、垢がたまっているんだよ。多分、きみの耳よりもひどく汚れて いるんだ」 私は賄の娘にそう言ってしまったが、それはあさはかなことに違いなかった。賄の娘は私達の

4. 山椒魚

113 「コノイェニモ正月ガアリマス」 おそらく以前にこの部屋に住んでいた人が、新年の門松や餅飾りの代りに書いたものであろ う。らく書が入口の外側の鴨居に書いてある点から推察すると、彼は他の部屋に住んでいる人が けんせい 自分よりも景気よく正月を迎えそうなのを見て、牽する意味で書いたものに相違ない。私は次 の年の正月までここに住んでいるつもりはなか 0 たので、らく書を墨汁で消した。これを見つけ た隣室の宮地伊作 ( 当時五十五歳で、外見は七十歳以上に見えた ) は、私が廊下の鴨居を黒く塗 ったといって非難した。 景 叙「これではまるでだいなしにな 0 たでがす。削 0 てとらねばならんー 島 レ 彼は第八号船室の村上オタッ ( 当時四十九歳 ) のところ〈走「て行 0 て、一挺の古びた鋼を借 グりて来た。村上オタッは約そ三十分以上もがか「て、その鉋を支那鞄のなかから捜し出してくれ シ たのである。 宮地伊作は鉋と砥斤とを甲板に持 0 て出て、鉋を研ぎはしめた。村上オタッは伊作のあとを追 0 て、彼女も甲板に出て伊作の研ぎ「ふりを見物しはじめた。そうして彼女は、はじめのデちは 黙「て見物していたが、伊作が世だしく手間ど「て研ぐので、あまりながく研いでは刃が減「て 困ると言いだした。伊作はことさらカをこめて研ぐふりをして見せた。村上オタッは狼狽して叫 「刃が減ってしまうではないか ! 」

5. 山椒魚

なかんずく 就中、村山十吉は狂暴な男らしい。決して油断はならないのであゑ彼は突然ものかげからお どり出て、私の前に立ちふさがるかもわからない : 「もし、もし、きみ ! 僕の顔は血だらけではないかね ! 」 弁天町の邸宅の塀が現われて、その塀の上に白い梅の花がさしかかる。彼は私を捉えてどうし ても放さない。私は何時でも彼に支払いのできるようにしておく筈であった。けれど、今は五円 しばしば えり という金を持っていない : ・ : そういう妄想が、履々暗い夜路を歩いている時の私の襟すじに凍り 魚ついた。 今年もまた梅が咲き、すでに昨今では散りはじめた。弁天町の邸宅の高い塀の上に枝をさしか 椒わした古木もよく咲いた。 私は給料日にではなく、筆立ての五円より他にはもはや湯銭もなくなった日に、村山十吉を訪 山 ねることに決心した。梅の花さえも、私が五円をごまかしたことを摘発するようであったからで ある。村山十吉は必ず梅の木の下でよろめいているに違いなかった。そして血だらけの手でもっ て私の頬を撫で、または喉を締めつけるかもしれなかった、飯田橋の辻便所の中では、或る夜、 私はそうされたようにさえ感じた。また、その記事が、極く小さい字で最近の新聞に出ていたよ うにも思われて来た。 村山十吉の家、鶴巻町三十七番地、石川方は直ぐに知れた。石川質店というのがそれである。 番頭だと彼が称したの・は、彼はこの質屋の番頭であったらしい。 170

6. 山椒魚

187 た。汽車で来ている途中の駅から発信したもので、その汽車が着いて直ぐに彼女が私のうちに訪 ねて来るとすれば、私たちは朝早くから目をさます必要があった。 「起きてるのか ? 」 そう言ってたずねると、ユキコは眠っていなかったばかりでなく腹を立てていた。彼女は憂さ ばらしの溜息をついて、増長しなくては言えそうもないことを言った。 「岡アイコさん、あなたの上京は二週間ほど遅うございました : : : 」 私は相手にしないでいたが、ユキコは彼女自身、手に負えない女だということを私に見せるつ もりであったのだろう。 来 : 二週間ほど遅うございました。あなたがそう言って彼女の肩にさわると、やがて彼女はさ 人 めざめと泣きだします。こないだ読んだ人情小説に書いてあったのとそっくりの光景が予想でき 女ます : : : あたしは明日、外出した方がいいでしよう ? 」 ばくれん 彼女は莫連な女であることを証明する恰好で蒲団を頭からかぶり、蒲団のなかでもう一度きっ ・はり・ A 」、 「あたしは外出します」 と言ったのである。

7. 山椒魚

いておると、なかなか詩的な田舎が目に浮ぶ」 二人の談話は円滑に進んでいた。 東京の小説家は、そのノートの続きとしてもう一つノートをとった。それは、女優とその後援 てんまっ 者が、後援者の所有していた流星号という鷲、つまり別名クロを見に出かける顛末のノートであ る。女優の主張によると、クロは御坂峠にも伊豆の谷津温泉の空にも現われるが、御坂峠の茶店 鷲 には女優と顔見知りのでつぶり太・つた四十男がいる。村瀬監督もこの四十男の人相を見て、あれ は何たか気にくわぬ野郎だと言っていた。それで女優と後援者は、御坂峠は止して谷津温泉へ出 の かけることにしこ。 空 谷津温泉場には、そこかしこ水田のなかに天然の湯が湧き出して、速成栽培の菖蒲などっくら 大れている。山裾にはところどころに雛舎がある。難舎の雄鳥はよく飼い太らせられ、一つの難舎 で雄鳥が鳴くと他の雛舎で呼応して鳴く。東南の風が吹く日には、その声は二つも三つも山の尾 根を越え途方もない山奥まできこえることがある。するとどこからともなく空に鷲が浮び出て、 天城山の上空から谷津温泉場の上空にとんで来て空に輪を描いて舞う。 女優とその後援者は、東南の風が吹く日に出発する約東をした。温泉につかって、空とぶ鷲を 湯殿の窓から見ようというのである。その宿には御坂峠の茶店のように、彼女に馴れ馴れしくチ ョ坊と話しかけて来る男などいない筈である。女優も一日ゆっくり南豆荘のお湯につかりたいと

8. 山椒魚

221 岳ニ通ズ」と書いた標柱につないでいた。犬はカメラに向って吠えていたのである。 小説家が清水で顔を洗って来ると、店のおかみさんはこわごわと撮影の成り行きを眺めてい 「おかみさん、御飯の仕度は出来てるかね ? とても餓じい」 「ほうかい、御飯の仕度は出来てるじゃ。女優さんを見物しながらここで食うかね。気晴らしに なるずらよ 鶯「全くだ、見物しながらここで食べる」 おかみさんはお膳を運んで来て、土間の入口に近いテー・フルに置いた。小説家は入口に向って そのテープルにつき、ゆっくり撮影見物をしながら飯を食べることにした。ところが彼がまだ箸 ・空 をつけないのに、撮影はおしまいになった。 撮影技師はカメラを片づけた。俳優たちはがやがや騒ぎ、土間に埃をたてたり洋楽の音階を口 ずさんだりしながら服装を着かえた。カメラの前に最後まで立っていた青年俳優と若い女優は、 テー・フルにつき小さな鏡を前に置いて顔のドーランを拭きとった。 茶店のおかみさんは、この団体客のためお茶をついでいた。そこへ茶店の主人がのっそりとは いって来て、彼は撮影監督の前に行き改まった口調で謝った。 「どうも犬が啼いて、相すみません。ハチ公は文明器具に慣れませんから吠えるのでありますが、 人を噛むようなことはありません。棒につないどいたから大丈夫であります」 あやま

9. 山椒魚

「平気ですがな、い っそ疑り深いんじゃもの」 共の夜、私は月の出るのを待った。 月はやはり島の上にぬらぬらと浮びあがる一箇のただれた片目であった。けれど私はそれをこ の前の夜ほどには排斥しないつもりでいたのだ。 私は彼に諮ねた。 魚「ご覧の如く僕は悪い男かもしれない。君、たのむから先日の夜、君の言ったことを、も一度敷 えん 衍してくれないかね ? 」 椒彼は、熱情をもって私に何か語る身ぶりをした。私は窓にのり出したけれど、彼の言うことは ききとれなかった。 山 言か、活動写真の弁士のように、彼の言っていることを私に語ってくれないものか。 「君は何か言っているらしいが、僕にはちっともきこえはしない ! 君が何うしても言わないな ら僕は他から諮ねてもいいんだそ。後になってから僕に罪をくだそうとしたって僕はしらないか らな。だが今日は一刻も早く西の方へ消えてしまってくれないか ! 私は窓を閉めて机の中を整頓したり部屋を掃除したりした。そして考えた。人間にはにがてと いう奴があって、私には真赤な片目の彼奴が一番のにがてなのである。

10. 山椒魚

219 銭 . と書き、更に次のような人懐しい文章が小さな字で書いてある。 「この望遠鏡を見ると、富士登山をしている二人づれの若い男女の顔がよく見えます。それはみ なさんのお知り合いの方であるかもわかりません。スキー場のヒュッテの窓も見えます。また右 手にあたって、黒岳の頂上の大きな黒い岩の根元に咲く白百合の花も眺められます」 東京の小説家がその望遠鏡でクロの飛んで来る姿を見ていると、茶店の主人は傍に来て解説し こ 0 さば ぶり 鷲「ね、よく見えるずら。脚に魚をつかんでるのが見えるずら。鯖かね、鰤かね、今日は山が不猟 さがみなだ だちゅうて、相模灘にでも御苦労して来たずらよ」 の クロの脚につかんでいる魚は、紡錘型の大型な魚であった。 空 「さあ、望遠鏡を引込めようかね、重機関銃だと思われるからね」 大 小説家はそう言って、望遠鏡を持って土間のなかに引込んだ。茶店の主人も土間のなかにはい うかが って来て、二人はグリコの立看板のかげからクロの行方を窺った。 もはや肉眼でも獲物が見える距離まで近づくと、クロはゆるやかに動かしていた羽ばたきを止 した。翼をひろげたその体は空を切って斜めに方角を変え、尾根に向って突き進んで来た。そし てクロは尾根の栂の木のところまで舞いおりると、一つ二づふんわりと羽ばたきをして梅の木の 上から三段目の枯れ枝にとまった。 かたず 東京の小説家は固唾をのんでクロの動きを見ていたが、」