出て - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
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1. 山椒魚

いませんでしたか ? その晴れやかな声は涙を消してしまったが・彼女はその次にどう言っていいかむずかしそう で、やはり私も難しくて彼女から発散する極く徴弱な香料の匂いにもまごっいて、それから火鉢 で手をあぶった。 彼女もどこを見たらいいか瞳を向ける場所がわからなかったのであろう。始末に弱った表情を していたが、その瞳は既往において私が浅尾聞助に、あれはきっと乱視だろうとたずねた瞳であ はいしゅ る。けれど聞助は彼女の瞳の色つやを讃美して、あの黒く濡れた大つぶな瞳には梨の胚種みたい な風味や面影があると言った。 彼女は一つ目ばたきすると、それをき 0 かけに気力をなくした趣で顔をうなだれ、たぶん彼女 人 の乾きすぎている唇は、痛いか気になるかどちらかであったのにちがいない。白い毛の襟巻とト 女ランクとを手もとに引きよせ、トランクから小さな鏡と棒べにとをとり出して鏡に唇を近づける と、ほんの中しわけばかりに唇に棒べにの色をつけた。 私は蓋のあいているトランクの中身を見たが、「ンパクトが一つと女持ちの指環が十箇ばかり ころが「ているにすぎなくて、たぶんこの旅行用具の様子では彼女はこっそりと家を抜け出して 来たものにちがいない。彼女が家を抜け出すときのよくせき思いつめた状態を察することができ るようにも思われて、彼女を一汽車でも早く送りかえさなければいけないと私はかんがえた。 「無断で出て来たりしては、よくないでしよう 191

2. 山椒魚

217 大空の鷲 方角に向って空に舞いあがり、縹渺と上空に消えるように見せながら針路を笹子の方角に向け こ 0 あっけ 呆気にとられていた東京の小説家は、よほど暫くたってから老人に話しかけた。 「あの鷲は、あの猿を食べるんだろうか ? 」 「そりや食べるずら、頭まで食べるちゅうわ」 「あんな高い空で、猿はもう目をまわしているだろうな ? 」 「そりや、もう目をまわしたちゅうわ」 しかし東京の小説家は空に目をこらし、虚空にきこえる猿の悲鳴を聴きとろうとして耳を傾け た。それは無論のこと無益な感傷であった。 老人も鷲の行方を見て述懐した。 「クロはこの山で獲物をつかんでも、今日はここでは食べぬちゅうわ。今晩は、きっとこの山は 霧が深いずら、霧のあるところでは食べぬちゅうわ。せんだってクロは、また大きな魚を御坂峠 に持ってった。諸所方々に根城があるずらよ」 その通り、クロは獲物をつかまえると、或るときは笹子方面に運んで行き、或るときは黒岳に 運んで行く。また御坂峠の頂上に運んで行く。彼の繩張りの範囲内で、なるべく霧の立ちこめな い峰を選んで獲物を運んで行く。 その日、東京の小説家は御坂峠の茶店に帰って来て、今日は大きな鷲を見たと自慢した。茶店 ひょうびよう

3. 山椒魚

「もう帰るんかね ? 」 いきなりそういって、話しかけて来た。 「帰る」 と答えると、その小さなラッパ卒は自信ありげな顔でいった。 「われこそ桟橋に立っておるが、サト ・サヨ子という子にかくまわれたろう ? 学校に来なん だから、案にたがわずそうじやろう ? わしが今朝ラッパ吹いておったのを、あの子は悪口をい 魚ったじやろう ? 」 この言葉も訳述してみる必要があるだろう。この土地の言葉づかいが、どんなにぶつきらぼう 椒であるかを知る確かな参考になるにちがいない。 ラツ。ハ卒は次のような意味のことをいったわけ である。 ・サヨ子のうち 山「きっとそうだろうと思ってたんだけれど、やつばしそうなんだろう ? サト に泊って酒をのんだりしていたんだろう ? あいつ、お客があると、学校を休むんだぜ。この桟 橋のところに来てみると、あいつの休んだ日には今ころの時刻になると、きっと客が不景気な顔 をして立ってるんだ。今朝も、僕がラッパを鳴らして歩いたから、あいっ僕のことを悪くいって 「あの娘さんをいじめない方がいいぜ。気の毒たと思わないかね ? 」 けれどラッパ卒は答えるのである。

4. 山椒魚

176 「何処へ帰るんだ ! 」 「喧嘩でもしたのか ? 」 私は、もう一度頬を撫でたが、血も何も流れてはいなかった。 「酔っていたのでちっとも覚えない」 「早く帰りたまえ」 私は自分が村山十吉でなかったことをはっきり了解して、またさっきの白い梅の花や高い塀 椒 は、この一年来の妄想の所為であったと納得した。意気揚々と、しかし前後左右によろけなが おうと ら、或いは倒れそうになりながら、そして嘔吐を催したりしながら家の方に向って帰って来た。 山そしてロでは呶鳴った。 「俺は酔っぱらえば酔っぱらうほど、しつかりするんだそ。びつくりさせやがって、村山十吉 ! ゃい、ちっとも怖くはないぞ村山 ! 出て来い、村山十吉、早く出て来んか ! 」

5. 山椒魚

そうして私は、誓ってもいいが決して好色のつもりではなしに、手を彼女の肩に触ってみたい つじつま 衝動にかられた。けれど直ぐにばかなことを考えるものだと辻褄の合わない後悔をして、火鉢で あぶっていた手を引込めた。 「あたくし、きっと叱られるだろうと思っていましたわ」 そう言って彼女は、やっとこれで重荷をおろしたというかのように溜息をついた。私は責任が 重くなるばかりで減多なことを言ってはいけないと気がついたが、これが彼女でなくて、もっと 魚やくざな了簡の女であったなら、私は自分から家出をすすめ、痛快な気持でいっしょに東京を逃 げ出してもししテ 、、・ころう。一週間か二週間くらい仲よししていると、どちらも相手がつまらないの 椒に呆れ返り、私も無事に東京に帰って来るにちがいない。 りんご 隣の部屋でおとなしくしていたユキコが、紅茶や林檎を連んで来ると、客人は急に豹変して屈 山託のない有様でユキコに話しかけた。その声も晴ればれとしていたのである。 「お邪魔して、すみません。直ぐおいとまいたしますわ。今日は昔のことでお詑び申しあげるつ もりでしたけれども、お詑びが愚痴になりそうですから、自分で厭んなっているところでござい ます」 そう言って客人は、女同士が寄るとたちまちおしゃべりになる事情を利用したものらしい。ュ キコにともっかず私にともっかず、 「ひどく古風なんでございますのよ、あたくし」 あ、 ひょうへん

6. 山椒魚

2i0 ただわたしは翌日になってから、サワンをしかりつけただけでした。 「サワン ! おまえ、逃げたりなんかしないだろうな。そんな薄情なことはよしてくれ」 わたしはサワンに、かれが三日かかっても食べきれないほど多量のえさを与えました。 サワンは、屋根に登って必すかんだかい声で鳴く習慣を覚えました。それは月の明かるい夜に かぎり、そして夜ふけにかぎられていました。そういうとき、わたしは机にひじをついたまま、 または夜ふけの寝床の中で、サワンの鳴き声に答えるところの夜空を行くがんの声に耳を傾ける のでありました。その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなに かすかながんの遠音です。それは聞きようによっては、夜ふけそれ自体が孤独のためにうち負か 」椒 されてもらす歎息かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜ふけの歎息と話をしていたわけ でありましよう。 山 その夜は、サワンがいつもよりさらにかんだかく鳴きました。ほとんど号泣に近かったくらい です。けれどわたしは、かれが屋根に登ったときにかぎってわたしのいいつけを守らないことを 知っていたので、外に出て見ようとはしませんでした。机の前にすわってみたり、早くかれの鳴 き声がやんでくれれば、 しいと願ったり、あすからはかれの羽を切らないことにして出発の自由を 与えてやらなくてはなるまいなどと考えたりしていたのです。そうしてわたしは寝床にはいって からも、たとえばものすごい風雨の音を聞くまいとする幼児が眠るときのように、ふとんを額の

7. 山椒魚

茶店のおかみさんは、この情景に呼応して、 「ハチこう、ハチこう」 と大を呼び、ますます犬の疳をたかぶらせた。大は飛び出しそうにして、その都度、繩で引き もどされ、声に憤りを込めて吠えたてた。 とうとう、おかみさんの嬉しそうな声がきこえた。 「ほうれえ、クロが見えるじゃあ 鷲見ると、黒岳の方向にあたって旧御坂峠上のすこし赤みを帯びて来たタ空に、。ほっかりとクロ の姿が浮んでいた。 の 青い猪はその覆いを剥ぎとって、 空 「わあ、汗だくだくじゃあ」 大 と一一一一口った。 それで赤い猪も覆いを脱ぐと、ハチ公は吠えるのを止して一と声「ぐう」と唸って静まった。 四辺は一時に森閑とした。 クロは旧御坂峠上の上空から、巨大な円弧を虚空に描きながら茶店の上空に現われて来た。黒 い翼と天色の胴、その待望の主体は薄くタ陽を浴びて三人の頭の真上に来た。空を仰いでいた茶 店の主人は言った。 「あれが、天城山の鷲だちゅうものは、いま、ここへ来い。来て、よっく見ることじゃ。ほんま 241 おお

8. 山椒魚

喜十さんは素裸に絽の半纒を著ていたので、外人に対する礼儀として著物にきかえ白足袋をは いてアービングさんの部屋に伺った。しかしアービングさんは。ハンツ一つになって涼み廊下の籐 様子に腰かけていた。この外人は外国映画の二枚目のように顔だけは優さ男だが、胸毛が腹部へ 流れ落ちるように一と筋に連らなって下まで蔓びこっている。背も高く隆々たる肉体をして話す 日本語も可成り上手である。「お呼びしてすみません。内田さん、どうかここへおかけなさい」 と日本流に手招きして「そこで内田さん、あなたにおたずねいたします。わたくしのところの選 手の人、キャッフェに行ったり女に冗談を言うのを内田さん見たことがありますか」と言った。 ち 「いえ、私ちっとも存じません」と答えると「わかりました。そこでもう一つお話があります。 持この宿屋の玄関を出ると路の左手に、 ミカドと呼ぶ日本流のキャッフェがある。その家の花子さ んという女の人、内田さん知っておりましよう。誰いうともなく、以前から内田さんは彼女に大 掛騒ぎをしておりますということです。しかしわたくしは、あのミカドと呼ぶ家の、どの女の人が 花子さんか知りません。その花子さんという人の書いた手紙、運動場でわたくしがコーチしてい るとき選手に配達されました」とアービングさんはそう言って、その青く澄んだ目で喜十さんの 顔をじっと見た。 喜十さんはちょっと面くらった形であった。彼は「いやそれはどうも、何で御座いますな」と 言葉を濁したが、アービングさんは「わたくし考えますに、なぜ花子さんの手紙、この宿に配達 されないで運動場に配達されたのでしようかーと静かな調子で自問自答して「それは花子さんと

9. 山椒魚

さんにさんざん油をしぼられた。 オトキさんは甲府で芸者をしていたこともあるし、そのうえ韮崎の泰さんという顔役を旦那に 持っている。気も強いしロも達者である。 「喜十さん。あんたは、御自分でお客さまの目鏡を毀しといて、この目鏡は幾らだいなんて大き な声を出してたってね。ずいぶん、お客さまに失礼だわよ」とそう言って、彼女は立て膝で莨を ふかすのである。「すみません。あのとき私は、お客さんが含嗽をしてなすったので大きな声で ち言ったんですよ。ちょうどそこへ、オョッさんが来たんですよ」と喜十さんが弁明につとめると 「それじゃあまるで、あんたをオョッさんが私に告げロしたと言ってるようなものね。あんたは 持お客さまに迷惑かけといてオョッさんを恨むのねーとオトキさんが言った。まるで阿呆扱いに頭 ごなしに言うのである。喜十さんは弁解するロがきけなくて、ただ無念のあまり涙が出そうにな 掛るのを押しこらえ「すみません」と言った。オトキさんはそれでも勘弁してくれなかった。「喜 十さん、あんたはいい年をして、泣いているのね」とオトキさんは高飛車に言って「宿屋の番頭 というものは、泣いたり笑ったりしちゃあ駄目。どんなときでも顔色を変えては駄目、お面のよ うにしてるものなの」と彼女はそう言って立て膝の恰好をなおした。彼女の説によると宿屋の番 頭というものは、ホテルのポーイと同様にお面のように顔色を冷たくしていなくてはいけないの である。お客の前でおびえたり喜んだりするのを顔色に出すと、お客は直ぐに番頭と馴染みにな 皿ったつもりで見くびってしまう。なぜかというに、こちらはお給金をもらう番頭で、先方は心づ

10. 山椒魚

ⅱ 6 しかった。眠りから目をさましたての兎達は、立ちどまったり耳をそばだてたりして、そうして こだま 彼等は、半鐘の音と向うの島からきこえる木精とに対して、交互に耳をうごかした。しかしそれ 等の音響が彼等に危害を加えるものでないことに気がつくと、彼等は耳を背中にくつつけて駈け まわった。野兎が跳びあがると、家兎の幼児はそれを真似ようとした。家兎は数ひきすつが一群 となって、そのうちに或る一びきが駈け出すと、その方角へ他のものが追いすがった。 宮地伊作は半鐘を鳴りすことが好きなので、彼は誰よりも先に起きて出る癖があった。彼は最 もはげしく半鐘をうち鳴らすのであるが、若し沖あいを航行する汽船の姿でも見つけると、彼は さらにはげしくうち鳴らした。そういうとき私達が目をさまして甲板へあがってても、彼は汽船 椒の姿が隣の島の向う側へかくれてしまうまで、愉快げに起床の鐘を鳴らしつ・フけたのである。 或る朝、伊作は寝すごした。そこで私よりも先に起きた村上オタッが半鐘を鳴らした。伊作は 山寝間衣姿 ( 彼にとって寝間衣姿というのは裸体であること ) のままとび出して来た。そのとき沖 の起床の鐘に挨拶をし 合を通りかかった汽船が気まぐれに汽笛を鳴らした。汽船がこのアパート て行くことは、かってないことであった。伊作は村上オタッの手から槌をひったくって沖の汽船 をにらめながら乱暴に鐘をうち鳴らした。 村上オタッが逆上しない筈はなかった。彼女は伊作の耳もとに口を近づけて呶鳴った。 . 鐘が鳴りつづけて、私には彼女の言うことがわからなかった。伊作は槌でもって半鐘をたたき