目 - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
218件見つかりました。

1. 山椒魚

タ立のはげしく降った後、私は窓に腰を卸して歴史小説の種本を読んでいた。 そこへ、みち子と由蔵とが麦畑の間の路をやって来た。みち子は麦のかげから下半身を現わし て、足駄では歩き難い浜砂に気をとられているらしく、裾を高くまくっているのをなおそうとは しなかった。私は双眼鏡を目にあててレンズを彼女の方に向けながら、あたかも少女の可憐な長 じゅばん 襦袢を指摘するかのように窓にのり出した。直ぐに彼女はそれに気がついて、叫び声に似た笑い あわ 景声を出したが、丁度酷いめにあわされた女がするように周章てて衣物の裾をおろした。そして門 風の石柱のところまで来ると急に立ちどまって、手に持った傘で海の方を指ざして叫んだ。 「虹がー の けれどその方角の空は、私の立っている窓からは見えなかった。 由蔵は薬局室へ入って、使い残りの薬品を薬鉢でごろごろ調合しはじめた。すでに私はみち子 が訳読に興味をもっていないことを知っていたし、また彼女は、私が課業の下手な彼女を好いて いることを知っていたので、私達は無駄話をすることによって課業をおろそかにしはじめてい た。それ故、由蔵が薬品を調合する物音は決して私達の課業の邪魔になることはなかったのだ が、彼女は、薬局法を無視した由蔵を非難して窓にのぞいて叫んだ。 「由蔵、お前、そんなものをのむと危険になるわよ」 むし 由蔵は寧ろ得意らしく、一層はげしい音をたてた。彼女は再三由蔵を非難した後、小さい声で ひど

2. 山椒魚

方へ背を向けたまま、洗濯物は真白に乾いたことや、此頃は何でも早く乾くことなぞを、いくら か早口に言った。みち子はその間に机の横に滑り出た。三人は黙ってうつむいた。私といえばこ れこそとても面目ないことであった。みち子ははげしく呼吸していたが、それが次第にすすり泣 きに変って来たのである。 「きみの耳にも垢がたまっているだろう、ここへ来てごらん、見てあげるから」 けれど賄の娘は洗濯物を拡げたりたたんだりして動かなかった。 景「ここへ来てごらん、見てあげるから みち子はやはり涙を流しながらではあるが、賄の娘の傍へ行って、沈黙のまま洗濯物をたたむ 風 のを手伝ってから、やがてマッチの軸で娘の耳をほじくろうとした。娘もやはり沈黙のままみち の 子に耳を任して目をつむった。みち子は必ず垢を掘り出そうと、熱心にマッチの軸をうごかした。 みち子は、私のあさはかなごまかし言葉を、いかんなく実際らしく見せかけるべく沈着に果断 にふるまったのである。彼女は漸く賄の娘の耳から少量の垢をとり出すと、それを紙の上にのせ て、十分一一人へ見せた。そして彼女は三人の沈黙の中心にありながら、英語読本を約そ二頁位ほ ど黙読して、帰って行った。 賄の娘は嘆息をついた。私はあさはかにも、耳の中は衛生上清潔にすべきことであるとか、他 人のことを人に言いふらすのはよくないことであるとか、くり返して言った。 じようぜっ 娘は私の長たらしい饒舌の後で快活に言った。 ようや およ

3. 山椒魚

皿けまで置くお客だからである。番頭だけでなくて、宿屋の女中たちも、同じようにこの点を心得 なくてはいけないとオトキさんは言った。目鏡ひとつぐらい毀したって、無暗にペこペこしては 拙いのだそうである。「今日は先ず、これくらいにしとくわ。わかったら台所の後片づけでもす るがいいわ」とオトキさんは漸くのことで勘弁してくれた。 しかし妙なもので、喜十さんは、谷津温泉の東洋亭に住み・込むとまるで一変した扱いを受け る。帳場机に頬杖をつき新聞の小説を読んでいても誰も何とも言わないし、おまけに押し出しの 魚きく気のきいた番頭さんだということになっている。夕方まで鮎釣りをして三びきしか釣れない で帰っても、おかみさんまで「まあ、よく釣れたこと。こんなの釣り上げたときは、さそ嬉しい たと かっさい 椒ことだろうね」と譬えばそういったエ合に喝采してくれる。そのうえこの宿のおかみさんは、喜 かえ 十さんが夜遊びに行って外泊して来ると却って上機嫌である。「もう一と晩、いつづけして来た 山 かったでしようにね」と言って笑っていることもある。なぜおかみさんがそんなに上機嫌になっ てくれるのか、喜十さんにはその理由がわからない。彼女は月に二回か三回は東京にいる御主人 に会いに出かけるので、外泊という行為について理解が深いのかもわからない。それとも外泊し て家に帰って来た人間は、みんなに上機嫌に迎えられるべきだと思い込んでいるのかもわからな 。おかみさんは時によっては東京に三日も四日も泊って来て、その翌日すぐまた御主人に会い にゆくこともある。御主人は東京で鉄工場を経営しているが、御主人自身は毎月一回しかこちら に帰って来ないのである。 ようや

4. 山椒魚

218 の主人は言下に言った。 「そりやク・ロじゃ。しばらく姿を見せなかったが、では近々この山にも来るずらよ」 茶店の主人は軒先きに出て、東京の小説家に説明した。尾根にそびえる大きな柵の木を指ざし て言うのである。 「クロは、いつもあの栂の木にとまるじゃ。右手の上から三段目の枝の、あの枯れ枝にとまるじ ゃ。そうしてから、河口湖を目の下に睥呪しているじゃ」 魚「な・せ鷲は、枯れ枝にとまるんだろう」 よ 0 ら・、 0 ・ん 「クロは猛禽類だもの、猛禽類は羽根を大事にするもの。獲物がなかったら、絶対に地べたにな 椒んか降りつこはない。とまる枝は、いつもきまってるじゃ」 東京の小説家は、いい加減にその話をきいていたが、果してその話の通りであった。それから 山数日たって、小説家が茶店の一一階で昼寝をしていると主人が起しに来た。 「お客さん、クロが帰って来たじゃ。望遠鏡で見るとよく見えるじゃ」 小説家はとび起きて階下に降りた。軒先きに望遠鏡が据えてあってその筒の向いている方向の 空に遠く鳥のとんでいる姿が見えた。さっそく望遠鏡をのそいて見ると、クロが脚に大きな魚を つかんでとんで来ているのがまともに見えた。 望遠鏡はなかなか精巧であった。筒は三脚の上に据えつけられ、これは遊覧客から見料をとっ て見せ、る商用の品物である。三脚には三寸四角の木の札を紐で下げ、 . その札には、「料金一回三

5. 山椒魚

219 銭 . と書き、更に次のような人懐しい文章が小さな字で書いてある。 「この望遠鏡を見ると、富士登山をしている二人づれの若い男女の顔がよく見えます。それはみ なさんのお知り合いの方であるかもわかりません。スキー場のヒュッテの窓も見えます。また右 手にあたって、黒岳の頂上の大きな黒い岩の根元に咲く白百合の花も眺められます」 東京の小説家がその望遠鏡でクロの飛んで来る姿を見ていると、茶店の主人は傍に来て解説し こ 0 さば ぶり 鷲「ね、よく見えるずら。脚に魚をつかんでるのが見えるずら。鯖かね、鰤かね、今日は山が不猟 さがみなだ だちゅうて、相模灘にでも御苦労して来たずらよ」 の クロの脚につかんでいる魚は、紡錘型の大型な魚であった。 空 「さあ、望遠鏡を引込めようかね、重機関銃だと思われるからね」 大 小説家はそう言って、望遠鏡を持って土間のなかに引込んだ。茶店の主人も土間のなかにはい うかが って来て、二人はグリコの立看板のかげからクロの行方を窺った。 もはや肉眼でも獲物が見える距離まで近づくと、クロはゆるやかに動かしていた羽ばたきを止 した。翼をひろげたその体は空を切って斜めに方角を変え、尾根に向って突き進んで来た。そし てクロは尾根の栂の木のところまで舞いおりると、一つ二づふんわりと羽ばたきをして梅の木の 上から三段目の枯れ枝にとまった。 かたず 東京の小説家は固唾をのんでクロの動きを見ていたが、」

6. 山椒魚

もたでがす。雉子の雛は、ゆっくりと餌をくうすべを知らんでがす ! 一粒たべると走りまわり、 ひも それから一粒たべると走りまわり、鶏のように丹念には食べとりませなんだ。あれでは饑じかっ あまっさ たろ ! 剰えにあれでは、さそや走り疲れて死んだのじやろか ? いやはや死んだる雉子の雛は、 頭のところが噛み殺されていましたるそ。多分は雉子の親鳥が、あとをつけて来て噛み殺したの じやろか ? 雉子の親鳥くらい執念深いものが、またとありますか ! 何ですか ! 吾れの卵を 寝とられたるとても、吾れ自身が子を噛み殺すことは何たることでがすか ! 私らは何度でも見 間たでがす。親鳥がこの人里まであとをつけて来て、それからそればかりではないでがす。育て親 谷たる雌鳥をだまして、雉子の雄鳥の親鳥はいなげなことばかりしましたるそ ! 私らはその度毎 かえ に鶏の産んだる卵を孵化そうと思いましたれど、鶏の子が生れるやら雉子の子やら、それは所詮 とが の は鶏と雉子とのまがいものが生れる筈だりますれば、それは何うあっても咎にあたると思うて止 助 朽めてしまいましたがな。そういうことは咎じゃ。ああはや、なんぼうにも咎でがす ! 」 そこまで話して来ると、彼は急に言葉を切って、深い歎息をもらした。おそらく彼はタエトの 生いたちに考え及んで、そして悲歎にくれはじめたのであろう。暫くして彼は言った。 「なんたる咎だりますか ! 」 おえっ そして突然はげしい涙の発作にかられたのである。夜更けの部屋で老人の鳴咽するのを聞くこ とは、それを聞く人の心を感傷的にさせるものである。私の目からも多少の涙の点滴であった。 けれど私は老人の悲歎をいかにして救っていいかを考えつくことができなかったので、再び贋の めす

7. 山椒魚

ある。 「沈みましたわ」 タエトはそう言って、興奮の吐息をもらした。朽助が目を開いた時には、屋根の沈んだあたり の水面から、数本の柱が連続的に勢いよく突き出て来た。柱はそれ自体が一本の棒となって、全 もぐ 、つりつ 体の長さの三分の二ほども水面に姿を見せて屹立したのである。そうして再び水のなかに潜る様 あわただ 子をみせながら水面に横たわり、流木となって慌しく水岸に沿うて走り去った。 魚水は、段々畑を襲いはじめた。段々畑にはまだ収穫期に至らない黍と棉とがあったが、黍は寄 せ波の一撃によって、ひとたまりもなく抜きとられ、一東の苗となって押し流された。棉は真黄 椒色の花や純白の綿毛の実をつけたまま、段々畑と一しょに水のなかに沈んだ。すでに池は二つの 、湾を持ちはじめていたのである。そして朽助の言うところによれば九つの湾をーー九つの湾を持 山った池となるには数日を費さなければならない筈であった。けれど谷間に見出すことのできる一 やわら つの湖水であったのだ。赤土色に濁った水は周囲の山と青空とを水面に映して、谷間の形相を和 げようとこころみた。 川しもの谷川で水の音がすっかり絶えると、朽助は耳鳴りがすると言いだして、しきりに彼自 身の耳を引っぱった。二人の役人は、人夫達を連れて帰って行った。私や朽助は木立の下から現 しゅんこう われて、堤防の上に出た。小さな立札があって、立札にはこの池の竣工祭は来月一日に挙行する ことが記してあった。 、び

8. 山椒魚

% 「内田さん、お手が空きましたら階下でアービングさんが一寸お話したいと仰有ってます」と言 った。アービングさんという外人は、この宿に合宿している立教大学のラグビ 1 選手のコーチャ ーであり目附役のような人である。喜十さんが「はて何の御用だろうな」と不審そうな顔をする と「何でも選手のことで、たいへん大事なお話があるんですって。アービングさん、とても心配 そうにしていらっしゃいましたーと彼女は自分まで心配そうに言った。「いったい何の話だろ う。こちらは選手といっしょに酒を飲んだこともなし、夜遊びに行ったこともない。選手と何の し、 魚関係もない筈だが」と喜十さんは頻りに頭をひねっていた。女中の語る話はひどく遠慮がちでま た曖昧なようにも思われたが、この宿の近所の女からラグビーの選手に手紙が来たそうである。 椒それもこの宿の気附でなしにラグビー練習場の小学校運動場気附にして、選手のユニホームの背 中の番号の何番様へという宛名の手紙である。しかしその何番様という選手当人は、夕食後の散 山歩にも一と足も出たことのない石のように堅い学生である。手紙の中身はアービングさんには読 めないが選手たちの話では、是非とも一度お会いしてゆっくりお話がしたいという文面である。 手紙の差出し人の名前は減多に他人には言えないが、番頭の内田さんにだけは報告しておく必要 がある。内田さんのような粋な人は、何とか巧く取りさばいてくれるだろうという話であった。 喜十さんは大きく腕を組み「そうかね、あれでラグビーの選手たちは、女に好かれるんだな」と 考え込み「よろしい、ア 1 ビングさんに詳しい話をきいてみる . と言ってゆっくり座を立って部 屋から出た。 おっしゃ

9. 山椒魚

に意見してきかせることにした。先ず「泣いてはいけないじゃないか」と言ってみた。次に「女 中が人の前で泣くのは、ふてくされることだよ」と言ってみた。しかしオウメさんは相変らず両 手で顔を覆っていた。「お前さんは女中さんだ。女中というものは、時には嬉しいことも悲しい こともある」と慰めて、喜十さんはいっか湯村の篠笹屋で女中頭のオトキさんに油をしぼられた ときの相手のロ前を取入れた。「いったい宿屋の女中というものは、人前で顔色を変えてはなら ん。番頭も同様だ。ホテルのポーイも同様だ。習練の積んだ宿屋の番頭はたいていそれを心得て 負いるようだ。顔色はお面のようにしなくちゃならないんだ。なぜかといえば、お客は女中の顔色 を見て見くびってしまう。これには深い事情がある。つまりお客はわれわれにチッ。フをくれるか 椒ら、自然こちらを見くびることになるというものだね。ことに可愛らしい女中にはチップをたく さんくれる」喜十さんが脱線してそういう問わず語りのようなことを言っていると「もう止せ、 つまらん」と言って、井能さんが掛蒲団をはねのけた。喜十さんはびつくりした。「もう止せ、 番頭さん。しかしいま何時だろう」と井能さんは、腕時計を見て「まだ十時ちょっと過ぎだ。と もかく、どこかへ二人で飲みに行こう。番頭さん。君はこの土地で顔が広いのだろう。もし君が 散歩に出たら必ず寄ってやろうと思う店があるだろう。その店に行こう」と太った客はそんなこ とを言いながら、のこのこと起きあがって枕元にころがっている目鏡をかけた。 喜十さんも自分の時計を見て「まだ十時ですよ。もちろん、お供いたします」と苦もなく賛成 はしゃ した。彼は何となく気が躁いで来そうに思われたが、そのせいか井能さんも浮き浮きしているよ

10. 山椒魚

119 この事情によっても推測できるであろうが、私達の廃船アパートメントは、崖の下に坐礁してい たのである。 崖の突端を朝の太陽が照らしはじめた。太陽のあたる部分は次第に拡大して行って、やがて檣 と半鐘の影を崖の面に描き出し、つづいて船尾のポックスの影を描き出し、今度は甲板と、そし てまだ論争をつづけている伊作や村上オタッの影を描き出した。彼等の声は私の窓まではきこえ なかったが、二つの人影の動き工合から観察すると、彼等は今にもっかみかかろうとしているか 景のごとくであった。崖にうつる伊作の影は当然のところ裸体であったので、彼等一一者の影はたや 叙すく区別できた。彼等は腕をうちふり足ぶみをして、あたかもこの崖の面に映写された影絵芝居 の一人の騎士と一人の西洋貴婦人との会談の光景であった。 レ グ岸の最も頂上に草原がはみ出て、そこから二ひきの野兎が甲板の方を見おろしていたが、周章 てて首をひっこめた。 私は炊事室へはいって朝の食事の支度にとりかかった。私の炊事室というのは、私の居間と向 い合った第七号船室である。伊作の炊事室は彼の居間と向い合った第六号船室で、村上オタッの 炊事室は彼女の居間と向い合った第八号船室である。彼等はまだ甲板で論争中なので、彼等の炊 事室の扉からは煙がもれ出ていなかった。風の強い朝などには、彼等の炊事の煙は廊下にたち込 めて、私の目を痛くしたものである。 炊事室の窓からは陸地が眺められた。金刺分県地図によると、このアパートもそこの陸地つづ