この境地が井伏さんの苦心の為所なのだと私は思う。かような筆をとる折の作者の、稍々ューモ きぜん ラスとみえる毅然たる態度に私は魅力を感じた。 筆を殺し、抒情を抑える。誰しも試みるところだが、井伏さんには独自の工夫がある。たとえ しばしま ば人物の動きや会話に、屡ダ漢文調や翻訳調が故意に用いられている点は注目に価する。ことさ らに生硬そうな言葉を用いて、抒情への惑溺を抑え、そこに或る均衡をもたらすことによって逆 に抒情を生かそうとする。微妙な節度への無限な追究力と言ろたのはこういう点である。作品は がんしゅう けいかく こうして圭角を与えられ、同時に含羞の詩となる。 て これと関連して言えることは、井伏さんは老人を描くことが巧みで、もし老人が出てこないと っ に きは、自ら老人の口調を真似るということである。老成の口調は、漢語の使用とともに、自己抑 れ制力の所作であり、また井伏風のフィクションであると言ってよい。私の読んだ範囲で言うと、 井伏さんの作品には若い娘とともに、老人が多く登場する。老人の声と若い娘の声と、言わばこ こわいろ の中和に文体そのものの生理があるように思えるのだが、どちらかと言えば老人の声色の方が高 一方から言うと、描かんとする人物に対する愛情の質である。作品にみられる井伏さんの愛 情は老成と若さとのふしぎな化合物だ。それは人なっかしさであり、優しく、とばけており、ひ るがえって自嘲となり、またはにかみを含み、峻厳であり、そしてひどくダンディでもある。と くに漢語、翻訳調、老人、老成の口調、これは井伏さんの古風なダンディズムといえよう。 しどころ
ところまでかぶって眠ろうと努力しました。それゆえ、サワンの号泣はもはや聞こえなくなりま したが、サワンが屋根の頂上に立って空を仰いで鳴いている姿は、わたしの心の中から消え去ろ うとしませんでした。そこでわたしの想像の中に現われたサワンもかんだかく鳴き叫んで、実際 にわたしを困らせてしまったのでありました。 わたしは決心しました。あすの朝になったら、サワンの翼に羽の早く生じる薬品を塗ってやろ う。新鮮な羽は、かれの好みのままの空高くへかれを飛び立たせるでしよう。 万一にもわたしに ゾ古風な趣味があるならば、わたしはかれの足に・フリキの指輪をはめてやってもいい。そのプリキ には、「サワンよ、月明の空を、高く楽しく飛べよ」ということばを小刀で彫りつけてもいし の 上 の翌日、わたしはサワンの姿が見えないのに気がっきました。 屋「サワン、出てこい ろうばい わたしは狼狽しました。廊下の下にも屋根の上にも、どこにもいないのです。そしてトタンの びさしの上には一本の胸毛が、あきらかにサワンの胸毛であったのですが、トタンの継ぎ目にさ さって朝の徴風にそよいでいます。わたしは急いで沼池へ捜しに行きました。 そこにもサワンはいないらしい気配でした。岸にはえている背の高い草は、その茎の先にすで に穂をつけて、わたしの肩や帽子に綿毛の種子が散りそそいだのであります。 、オし力しるならば、出てきてくれ ! どうか頼む、出てこい 211 「サワン、サワノ、よ、、。、
帰って来たとき土間の柱にかかっている時計は九時すぎであった。廊下の突きあたりの時計は およ 八時すぎであった。約そ一一時間か三時間ほどかかって岬を一周する散歩から帰って来たわけであ る。部屋にはいると、もうせんからそうしていたらしく彼女は電燈の真下に坐って、裁縫の材料 たんどく をとり散らかしたまま小学校の教科書を耽読している最中であった。そうして赤すぎると思われ る色の寝間衣を着てお客用のどてらを羽織り、ひざ坊主の出ているのにも気がっかない様子であ . 魚った。彼女はいうのである。 「おや、帰った」 椒そして、ひとりぼっちで学校のお裁縫の宿題をしたり考査の下調べをするのは、こんなに夜が じゅばん ふけて来ると辛気くさくていけないといった。彼女がとり散らかしていた晒し木綿の子供の襦袢 山は、明日の放課後までにはどうしても仕上げなければいけないのだそうである。その上に尋常小 あんしよう 学校修身書巻四の第一一十一課を、明日の臨時試験の時間までには諳誦しておかなくてはいけない のだという。彼女は確かに尋常四年生にちがいないが、 「きみは年は幾つだね ? 」 とたすねると、 いつばくすいせい 「一白水星の十五歳」 と答えた。そして掛蒲団の裾を引張ってくれたり灰皿やマッチを枕元に持って来たりして、」
また顔を覆った。堅く顔を覆って身動きしないのである。四角なものは畳の上をころがって行 き、それがいかにもお粗末な品のように見え井能さんに気の毒であった。喜十さんがそれを見か ねて「オウメさんは、強情だね。お客さまに失礼たよ」と慰める代りに咎めると、井能さんは、 「どうも弱った。僕は失礼して寝るとしよう」と言いながら、掛蒲団を頭から冠って寝床に横に よっこ 0 それでもオウメさんは、顔を両手でおさえてじっと坐っていた。泣き声を出すまいと一生懸命 にカこぶを入れ、そのために石のように堅くなっているのに違いなかった。しかしお客さんが寝 ち ているのに、女中や番頭がその蒲団の傍に居残っている法はない。喜十さんは勿論そこを立ちの 持かなくてはならないのを知っていたが、そうかといってオウメさんをそこに置き去りにするわけ にも行かないのである。「オウメさん、もういい加減にしないかね。お客さんはおやすみになった 掛んだよ。私は階下に行くよ」と部屋を出て行くような足音をしてみせたが、オウメさんは断じて 動こうとしなかった。それで、顔を覆っている手をつかんで連れ出そうとすると、その手を振り きって彼女は泣き声を立てそうになった。あまり手荒な扱いをすれば、彼女はわっと泣き出すに ちがいない。おかみさんもびつくりして駆けつけて来るだろう。ラグビーの選手たちも、木刀を 持ってどやどやと押しかけて来るにちがいない。 オウメさんはいつもは愛嬌のいい子であるが、こんなに強情な子であろうとは全く意外であっ あき た。喜十さんは殆ど呆れてしまったので、ただ黙って坐っている時間を消すために、オウメさん おお
137 さげして鈴を鳴らしつづけているーーその音で目をさまされたと思って、実際に目をさますと、 さきほどの少女がすっかり職業おんなに身なりをととのえて、電気のスイッチをひねっていると かけひ こであった。さきほどまでお下げにしていた髪は結いたての島田に結び、そして裾の部分に筧の 模様を派手に染めた衣物を着て、見た目にも堅そうに見える岩乗な織物の帯をしめ、そのために 効果をおさめた事項を挙げれば、彼女がいきなり背が高く見えたことと、どんなに派手な服装を しても彼女には派手ではあるまいと思われることと、この一対の仔細らしい暗示であった。けれ ど彼女はますますぶつきら・ほうな言葉づかいをした。 あんばい 「起きたんかね ! 風呂は程よい塩梅じゃが、どうじゃ、はいらんかね ? 」 やはりこれも訳述してみなくては、徴笑しながらお風呂に案内してくれようという彼女の本心 に 葉がったわって来ない。次のような意味なのである。 言「おめざめになりまして ? お風呂の加減がよろしいようでございます。よろしかったらおはい りになってはいかがでございます ? 」 ひえびえするタ方で風邪をひいたかもしれなかったが、お湯にはいることにした。風呂場のな かはあたかも戸棚のなかみたいに呼吸のしにくいところで暗かった。手さぐりで窓を見つけ、そ みさき の板戸をあけて見ると、船などは一艘も浮んでいない海がひろがり、一つの細長い岬が突き出て 海の色を余計に黒くにじませていた。 夕食後、港内名所絵葉書というのを買い、それから散歩に出た。し
山椒魚 「出て来い ! 」 どな 山椒魚は呶鳴った。そうして彼等は激しい口論をはじめたのである。」 「出て行こうと行くまいと、こちらの勝手だ」 しつまでも勝手にしてろ」 「よろしい、、 「お前は莫迦だ」 「お前は莫迦だ」 彼等はかかる言葉を幾度となくくり返した。翌日も、その翌日も、同じ言葉で自分を主張し通 していたわけである。 一年の月日が過ぎた。 よみいえ 初夏の水や温度は、岩屋の囚人達をして鉱物から生物に蘇らせた。そこで二個の生物は、今年 の夏いつばいを次のように口論しつづけたのである。山椒魚は岩屋の外に出て行くべく頭が肥大 しすぎていたことを、すでに相手に見ぬかれてしまっていたらしい 「お前こそ頭がっかえてそこから出て行けないだろう ? 」 「お前だって、そこから出ては来れまい」 「それならば、お前から出て行ってみろ」
そうして客人は、「キコがとうとう釣りこまれたほど晴れやかな笑い顔をして見せた。 「まあ、古風だなんて勿体ないですわ」 ユキコはその笑いをとめようとしたが、客人が捨てばちに、 「あたくし、減茶苦茶に古風なんですの」 晴ればれと笑ったので、うつかりユキコもいっしょになって笑い声をたてた。キイキイという 笑い声であって、そんなのは嘘だと私が顔をしかめていると、ユキコは番茶のさめたのを持って ふすま 訪退散し、襖をしめて出て行くときにはトランクの上にふんわり載せてある白い毛の襟巻に気がっ いて、驚嘆の表情を隠すことができなかった。 来 客人は心残りなく笑ったのであろう。彼女は肉つきのいい頬をさすりながら、しばらく笑った しょげ 人 ことがないのに今日は笑いすぎて頬の笑う筋肉が痛くなったようだと言った。そして今度は悄気 えり 女た顔になりきらないうちに帰りたいと言った。けれど彼女は発作的に悄気た顔をして、衿をかき 合わせたり帯のエ合を手で触ってみたりして、きつく締めている帯じめを締めなおしたときの彼 女の胴は、小判型の手の胴に似た恰好のいい丸みを見せた。彼女が帯の胸のところをぼんとた たくと、帯は堅くて、ぼんと音をたてた。もう彼女は帰るのである。 「やつばし、あたし気がかりですから中しますわ」 そういう前ぶれで、彼女はわざわざ訪ねて来た理由を次のように手短に述懐した。忙しそうに かえ 話さなくては彼女は反ってロもきけなくて、私は大急ぎの立話でもきいているような気持であっ
222 監督はそれを遮って無造作に言った。 「いや、カメラは片づけました。もう犬は放して下さい。しかし、ここは景色がいいですなあ」 そのとき、顔のドーランを拭きとっていた若い女優が大きな声で、 「あら、昨日の鷲だわ」 彼女はそう言って空を指さした。 茶店の主人も監督も、入口の方に出て行った。撮影技師も俳優たちも、どやどやと入口の方に 立って行った。 監督は崖の鼻に出て行って空を見ていたが、。 トーランを拭いている女優に、 椒「マキちゃん、あれ、昨日の鷲かね ? どうだかねそれは」 と一一一一口った。 山マキちゃんという女優は入口の方に立って行き、 「ね、山本さん。だってあの鷲、左の翼がすこうし破けてるじゃないの。昨日の鷲も、すこうし 破けてたわー 「そうだ、破けていた」 と男優の一人が言った。 茶店の主人は崖の鼻に出て行って、監督に言った。 「あの鷲は、クロという名前であります」
「うんちゃ違います。みんなあが、ようそれを間違うけんど、一ばん年上のお婆さんがオカネ婆 あかご さん、二番目のがオギン婆さん、わたしはオクラ婆さんと言います。三人とも、嬰児のときこの 宿に放っちよかれて行かれましたきに、この宿に泊った客が棄てて行ったがです。いうたら棄て 児ですらあ」 はばか お婆さんも酔っているふうで、その声はあたりを憚るところがないようであった。 「そやけんど、三人のうちで、誰か一人が、この家のあるじちゅうことになっているのやろう」 魚男のそういう声も酔っているようであった。 「婆さん。もう一つ飲めや、酒は皺のばしになるちゅうわ」 いさぎよ 椒おそらく婆さんも潔く盃を受けたのだろう。 「皺のばしたあ意気な言葉だねえ。わたしはあんまり飲めんけど、オカネ婆さんは十年前にや一 山升ばあのみました、もし誰そがただで飲ましたら」 「オカネ婆さんは誰の子やね。やつばり、へんろうか」 「そりやわかりませんよ。オカネ婆さんのその前におった婆さんも、やつばりここな宿に泊った お客の棄てて行った嬰児が、ここで年をとってお婆さんになりました。その前にいたお婆さんも、 やつばり同じような身の上じゃったということです。おまけにこの家では、みんな嬰児の親のこ とは知らせんことになっちよります。代々そういうしきたりになっちよります。どうせ昔は、宿 帳じゃあいうものはありませざッつろう。棄て児の産みの親の名はわからんわけですきに、いま
1 ⅱ 欟の折れた汽船が崖へもっていって横づけになっているのである。ところがこの島に住む一一人 1 トに代用していたので の人物というのは、各自に住宅を建てる手数を省いて、この汽船をア。ハ ある。 フィート 私の測量によると、この船の長さは一三五呎、幅二三呎、深さ一三・七五呎、総屯数三四四屯 きっすい と計算された。そして満載吃水平均一〇六呎、空船吃水平均七呎くらいの見当であった。けれ 2 は′、 ) につ さびうろこ ど、すでに船腹のべンキは完膚なきまでに剥脱して、鉄板は錆の鱗を幾らでも生じさせていたの 蹙で、船の名前や持主の国籍はわからなかった。私はこういう船腹の有様を遠方から眺めて、これ 叙よアパート の文化色壁に似通っていることを知った。一箇所だけ船尾にあたって、一枚の鉄板が めくれていたので、このア。 ( ートはコンクリート製でないことを白状していた。私はめくれた鉄 レ グ板の裏側に燕印の商標が刻み込んであるのを見つけた。この鉄板はマーティン製鉄の製造にかか . シ るものに違いな、。 ふなべり 甲板の欄干は崩れ落ちて舷にぶらさがっていたが、一本の煙突は形を残していた。煙突は中ほ どが二つに折れ、錆のために大小数箇の穴をあけて、いかなる徴風にもそれ等の穴は笛の音をた もろつぶ てたのである。檣はあたかも焼け残った電信柱であって、てつべんには指先で脆く潰すことので きる木屑を一ばいに載せていた。私達はこの棒立ちの太い木へ、鉄の棒ぎれを横木として打ち込 み、その横木へ半鐘を釣りさげた。鳴子や朝の起床ラッパに代用するためであった。夜間にこの の一つ二つの窓のあかりとこの半鐘とを眺めたであろう。何 島の附近を航海した人は、アパート よしら