手紙 - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
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1. 山椒魚

は彼女に、あなたのところに行って今後のことを相談するように忠告いたしました。彼女は泣 いていましたが、あなたを訪ねることに決心されたようでございます。それにしても私は八年 まんこう 間というながい年月そのものを満腔の憎悪でにくむのでございます」 この手紙で私は今さら迷惑すると考えればよかったのかもしれないが、迷惑ではなくて有難か った。容易に形容することのできない勿体ない精神が雪よりも冷たく私の胸もとにしみこむ気配 すく 訪であった。私は足跡のついてない雪を一握り掬いあげ、それを手のひらに握りしめて「こんちき しよう、これよりもまだ冷たくしみこんで来る」と自分に納得させ、胸もとにしみこんで来るそ、 の気配をいたわりたい気持であった。けれど彼女に、どうか訪ねて来ないでくれという手紙を出 人 す必要があるだろうと考えていた。 女 私が硝子屋の職人を連れて家に帰って来ると、ユキコはその職人に磨り硝子の色が違うなどと いっておしゃべりをしはじめたので、私はその間に大急ぎで岡アイコに手紙を書いた。「第三者 としての一女性」という人から私の胸をおののかさせる手紙をもらったが、この胸の動悸も今で はもう追いっかない事情になっているという意味のことを書いた。そうして私は受取った手紙と 出す手紙とをいっしょに百科辞典の百頁目のところにはさみ、それを本棚の一ばん下の段にかく しておいた。 けれど疑いぶかい女性の神経は、一般におそるべき冴えかたをして見せる場合がある。ユキコ 183

2. 山椒魚

図見つけたい考えから聞助を頼みにして由宇町まで出かけていたわけであるが、聞助にして見れば 私が彼の家で毎日のらくらしているのを見かねて、ひとっ細君でも持たすことにして私を元気よ く東京に帰らせようと考えたのにちがいない。私は万事よろしく頼むことにして東京に帰って来 こが、しばらくたって私から催促の手紙を出すと、聞助はこの縁談は残念ながら駄目になったと 通知してよこした。そして相手の少女の書いた手紙も同封してよこしたが、彼女の手紙による と、すでに彼女は、堅気な勤め口を持っている青年と結婚の約東をしているので、悪く思ってく れるなというのであった。そうして彼女は、その手紙を読む私が腹を立てることなど頓着なし この結婚が駄目になっても、腹をたてたり自粢な考えを起したりしないで、堅気で幸福に暮 ・椒してくれと余計なことまで書いていた。私は聞助が私をからかったのではないかとも疑ったが、 私は頭をかいて引きさがるよりほかに方法がなかったので、聞助には手紙も葉書も出さないこと 山にして、それから後は聞助も私にたよりなどよこさなくなった。 けれど「第三者としての一女性ーと名のる人物は、そういう八年前の面白くない事件を持ち出 して私を当惑させようとしているのである。私は硝子屋には寄らないで、家なみの裏に出て空地 の消え残った雪の上に行き、雪を踏んで遊びながら手紙のつづきを読んだ。 「八年のあいだ秘密にしていた彼女の感情は東の間も消えず、あなたが家庭で静かに落ちついて いらっしやるかどうか彼女は心が一ばいでございました。そうして常にあなたの消息の一端で

3. 山椒魚

179 「突然このようなお便り差上げまして、あなたの平和なお心を乱すことをおそれながらも、こうし てお手紙を差上げなければならない第三者としての私の一つ一つの言葉をおきき下さいませ。 あなたが今から八年前にこの由宇町という海岸の小都会においでになっていたとき、あなたの 学生時代のお友達でこの町の学校の国語の教師であった浅尾聞助氏を介して、あなたが結婚を お申込みになった少女、そのとき十七歳であった純な少女のことについて私はお手紙さしあげ この名前を、あなたは今なおお忘れではござ るものでございます。少女の名前は岡アイコ ! 訪 いませんでしよう。彼女はあらゆる苦心の末、今回あなたの住所を知ることができました : 来 人 思いがけない文面になりそうに見えたので、私はその手紙をふところにかくし、何くわぬ顔で、 女「硝子屋に行って硝子を買って来ようかね , と呟いて外に出た。この手紙にあるとおり、八年前の既往において私の学生時代の遊び仲間で あった浅尾聞助は、彼の教えている女生徒のうちで一ばん顔だちがよくて好人物の子供を選び、 その子供と結婚するように私にすすめてくれたことがある。浅尾聞助の言うところによると、そ かんば の少女は学校の出来は芳しくないが、容色が立派で気だてがいい。概して、美人で劣等生の女学 生くらい魅力のあるものはないだろうと、定義をくだしたいほどであって、もう二三年もたてば 岡アイコは申し分のない女になるだろうということであった。私は田舎の学校教員の勤めロでも

4. 山椒魚

% 「内田さん、お手が空きましたら階下でアービングさんが一寸お話したいと仰有ってます」と言 った。アービングさんという外人は、この宿に合宿している立教大学のラグビ 1 選手のコーチャ ーであり目附役のような人である。喜十さんが「はて何の御用だろうな」と不審そうな顔をする と「何でも選手のことで、たいへん大事なお話があるんですって。アービングさん、とても心配 そうにしていらっしゃいましたーと彼女は自分まで心配そうに言った。「いったい何の話だろ う。こちらは選手といっしょに酒を飲んだこともなし、夜遊びに行ったこともない。選手と何の し、 魚関係もない筈だが」と喜十さんは頻りに頭をひねっていた。女中の語る話はひどく遠慮がちでま た曖昧なようにも思われたが、この宿の近所の女からラグビーの選手に手紙が来たそうである。 椒それもこの宿の気附でなしにラグビー練習場の小学校運動場気附にして、選手のユニホームの背 中の番号の何番様へという宛名の手紙である。しかしその何番様という選手当人は、夕食後の散 山歩にも一と足も出たことのない石のように堅い学生である。手紙の中身はアービングさんには読 めないが選手たちの話では、是非とも一度お会いしてゆっくりお話がしたいという文面である。 手紙の差出し人の名前は減多に他人には言えないが、番頭の内田さんにだけは報告しておく必要 がある。内田さんのような粋な人は、何とか巧く取りさばいてくれるだろうという話であった。 喜十さんは大きく腕を組み「そうかね、あれでラグビーの選手たちは、女に好かれるんだな」と 考え込み「よろしい、ア 1 ビングさんに詳しい話をきいてみる . と言ってゆっくり座を立って部 屋から出た。 おっしゃ

5. 山椒魚

いう女の人、その手紙を内田さんに見せたくなか「たためでありましよう。しかし今はわたくし の説明で、内田さんはその手紙のことを知りました。そこでわたくしは、もしも内田さんが花子 さんを叱るかもしれないことをおそれます。わたくしのところの選手たちも、同じくそれをおそ れます。選手たちもわたくしと同じように、花子さんとはどんな女の人であるかを知りません。 しかしわたくしども、たぶん彼女が可憐な少女であろうと想像しております , とアービングさん は思い切「た独断をして「わたくしの言いたいことを、わたくしは上手にロで話せません。選手 魚たちの心の平和のため、内田さんの諒解を願います。どうか花子さんを叱らないで下さい」とし んみりと声を落した。しかし花子という女が可憐な少女だろうなどと言い出すので、喜十さんは 椒自分の腋の下に冷汗が流れるのを感じながら、「いや、よく仰有 0 て下さいました。私は決して 花子さんを叱りません。御心配かけて相すみません。おそれいります」と謝 0 て、一言弁解して 山おきたいことも我慢して引きさがって来た。 ラグビーの選手たちは広間に集ま 0 てタ食をたべていた。喜十さんは念のため帳場に人 0 て宿 帳を調べなおしてみた。ラグビーの選手たちは七月一一十日に投宿し、出発予定日は八月末日頃と な「ている。アービングさんの年齢は二十九歳で職業は運動教師、その生国はアメリカである。 年齢の点で喜十さんより十幾つも若いためか、それとも異人種であるためかもしれないが、この 外人はまるで思いちがいをしているようである。ミカドの花子という女は相手が道楽気を見せそ うな男なら、誰にでも遠慮なく手紙を出す。かって彼女の自慢して話した統計によると、手紙を

6. 山椒魚

「あたくし、すっかり打ちあけてしまえば、きっと気持が軽くなりますわね ? あのとき結婚を おことわりする手紙を書きましたけれど、あの手紙の下書きはプンちゃん ( 浅尾聞助のことだろ う ) が書いてくださいました。あたしはその下書きを自分の意志に反して、清書しなければいけ なかったのです。落第しますものね。たいていの事情は想像つくことと思いますわ。それから間 もなく、こちらの学校に三年ばかり来ていましたけれど、東京は広すぎて、あたくしいつもそれ を恨んでいました。でも愚痴になるといけないから、もうこれでおいとまいたします」 それでは今度の手紙にあるように、私の身許や容貌を探偵社で調査させたのは誰かといってた 椒すねると、彼女はうつむいて答えなかった。「第三者としての一女性」というのはどういう人か といってたすねても、彼女はそれには答えないで、 山「なんだか、心細くなりましたわ」 と・眩いて、いよいよ帰ることにしこ。 私が彼女を見送って省線電車の駅まで行く間に、彼女は何も言わなかった。私は一一重まわしを 着て鳥打帽をかぶっていた。彼女みたいに立派な様子の女といっしょに歩いている場面を通信探 債社の社員が記録にとめてくれないものかと考えた。そしてこんなにふしあわせなときにでも綺 つぶや

7. 山椒魚

彼女はそれから笛の音に似た声でビイという声をあげて泣きだした。そしてその声が途切れる と彼女は私を詮索したのである。 「あなたは岡アイコさんを全部、誘惑したんでしよう ? さもなければ八年も前のことを思い出 して訪ねていらっしやるわけはありません」 「全部なんて誘惑できないさー 「あなたは硝子屋の裏の空地でお手紙を読んでらしたでしよう ? さっきの硝子屋が、どうも解 だま 訪せないことだと言っていましたわ。あなたが岡アイコさんを騙さなかったのなら、こっそり手紙 を読まなくってもいい筈です」 来 「よろしい、それならば言ってしまおうか ! 国語の先生の浅尾聞助が大ぜい子供を連れて遠足 人 に行ったから、僕もついて行ったんだ。丸い岡のてつべんで、あなたを愛しますと僕は岡アイコに 女言ったが、それは悪いことじゃなかったと思うね。岡のてつべんに大きなスモモの木が一株あるん だ。その木の下に少女が立っていたから背景がよくて、そういうことを言いたくなったんだろう」 「でも岡アイコさんは、八年目に結婚を承諾するつもりで訪ねていらっしゃいます」 私は百科辞典をもう一度とり出して、今度は秘密でなくなったために情緒の割引きされた手紙 を読みなおしてみた。文面だけは少女小説などの筋書に似ていると思われたが、くり返して読ん でみても、読みごたえがして、また私が岡アイコに結婚を申しこんだ事実は消えないのである。 この事実は、かねがね私が忘れてしまいたいと念じていたいきさつであって、結婚してやらない

8. 山椒魚

散歩の二次会が終ると彼女はトランクを持って、もとのように品行のいい婦人になった。そう して私が彼女を見送って東京駅に行き、やがて汽車が発っとき、彼女は私に告げた。 「ありがとうございました。この汽車で帰らないと、あたくし破減ですわ」 「誰でも、みんな破減しているのと同じなんだ」 「嘘ですー サイレンが鳴り止むと彼女は、窓のそばを離れて座席についたが、まだ彼女が私の方をふり向 かないうちに汽車は滑って行った。幾輛もの汽車の箱が通りすぎてしまうと、列車の通って行っ 訪 たあとには眺望できる夜景の市街が現われて、その一ばん近景の大きなビルジングの屋上から、 来 月が浮びあがろうとしているところであった。 人私は家庭争議の相手があることに気がついて、弱ったもんだと頭をかいた。もしも私が木の屑 女で製造された玩具か木の屑それ自体であったなら、どんなに気軽なことであろう。 それから三箇月ばかりたって、彼女のことでは私も拍子ぬけしてしまっていたとき、はじ めて彼女から手紙が来た。私は彼女がこんなに三箇月もたってから手紙をよこすだろうとは考え てもいなかったが、この手紙によると彼女はやはり減茶苦茶に古風な女かもしれないのである。 「この前お伺いしたときには、お騒がせいたしまして何とお詫びしていいかわかりません。私の 期あっかましさが思われてなりません。どうぞお許し下さいませ。帰ってまいりましてからいろ

9. 山椒魚

ぞ仲よくお暮しなさいませ。さもないと私、いけない人になりますから、いよいよどうしたら いいかわかりませんの ~ なんの涙か涙がこ・ほれます。お返事もいただかないことにいたしま す。むうなんにも言えなくなりました。つらいのです」 彼女は熱心に結婚のことを考えているらしかったが、散歩の送別会のとき私が彼女に約東し て、今度は一一三年もたってどちらも図太くなった後に会うことにしようと言ったのを彼女は気が 詼かりにしているのにちがいなかった。 この手紙は破こうかと思ったが、私は破かなかった。家庭争議の相手に見つけられさえしなけ 来 れば、手紙として立派なものであると思ったからである。そうしてこの事件や問題は、もうこれ 人 で全部おしまいになったと私は信じた 女 ところがそれから二十箇月もたって、雪の降った日に私が生垣にたまった雪を棒ぎれでたたき 落していると、妙齢の婦人が生垣の曲りかどのところからのそいて私にお辞儀して、直ぐに姿を かくした。仔細ありげなお辞儀であったので、曲りかどのところに行ってみると、彼女が立って いた。私はドテラを着て仮りに赤い緒の古下駄をはいていたが、家庭争議の相手に見つけられた くなかったので、そのままの恰好で彼女の後からついて行った。 路の四つかどのところまで大急ぎに歩いて行って、私のうちが見えなくなると彼女はそわそわ しながら、

10. 山椒魚

私のうちでは私たちが結婚してから一一週間もたたないうちに、やがて家庭争議の起きる一つの こわ 機運が見えたのである、雪の降った寒い日のことであったが、窓硝子の毀れた隙間から冷たい風 が吹きこむというので、ユキコ ( 妻の名前 ) は、私の知らない間に紙を不細工な梅の花の形に切っ 魚て硝子の割れ目にりつけた。そして私が彼女の知らない間にその梅の花を雑巾でこすり落して かえで おくと、またもや彼女は紙を楓の葉の形に切って貼りつけた。それはここに硝子の割れ目がある 椒ことを明らさまに指摘しているのも同然であって、こんなにまことしやかに貧乏くさい真似をす るよりも私は風が吹きこんでもいいから、紙なんか貼るのはご免であった。けれどユキコは紙を たすき 山 木の葉の形に切るときにも襷なんか掛け、 「あたくし今度は、上手に楓の葉に切ってよ」 などと泰平な様子であった。私は彼女が根柢から遅鈍なのではないかと気がついて、相当に気 を悪くしたばかりでなく、これは家風に合わない女かもしれないと心配した。そして廊下に棄て てあった雑巾を、私が足の指でつまんで、どこにうっちゃってやろうかと腹を立てていると、そ のとき郵便配達が来て白い封筒の手紙を一つ廊下に置いて行った。「第三者としての一女性」と いうおかしな変名を用いた女のよこしたもので、胸さわぎさせられる手紙であった。 1