朽助 - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
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1. 山椒魚

かえ た。けれど朽助にとっては、人々の遠慮が却って悪かった。おし寄せて来る水は、空家の土間に 侵入しはじめた。 そこで朽助は自分がその土間に立っているかのように周章てはじめたのである。 「これはしたり、津浪が来たるそ ! ああはや駄目なようでがす」 私は彼の絶望的にふりまわす腕を捕えて、彼に言った。そんなに大声で狼狽したりしては人々 わら が嘲うであろうことを注意したのである。彼の手は私から腕をふりほどいて、人々の行為を大声 で財倒した。人々が朽助に反感をもって、彼の住居を水の底に沈めるつもりであろうというので 谷あった。 る 「それはいっそ咎でがす ! ああ私らはつらいでがす ! 」 の 彼があまり大声を出したので、タエトは朽助の肩に親しみ深く手をかけて、片方の手で朽助の 助 よみがえ 朽目を覆った。彼女の沈着なふるまいは、朽助を平静な人間に蘇らせ、同時に彼を快活な老人にさ せた。そして彼はタエトに目を覆われたまま言った。 「これこそ、ご着眼だります。したれど、もう手を引っこめてもよろしいがな。私らは独りで目 を閉じますでがす」 タエトが手を引っこめてみると、朽助は約東通り目を閉じていた。 池の水は朽助の住居にも容赦なく襲いかかって、戸を蹴ゃぶって侵入した。そして壁をひき剥 いで、軒をひたした。やがて家全体が水の渦に囲まれながら、水中に姿をかくしてしまったので おお

2. 山椒魚

魚 椒翌朝、私は牛の啼きごえや鎌をとぐ音によって目をさました。そして小さな十字架を眺めた が、再び目を閉じた。十字架は枕の横の壁にかかっていたのである。 山 朽助は窓の外で薪を割りはじめたが、彼は屡々障子を細めにあけて、私にたすねた。 「どしんどしんと音が響いて、さそや眠れんでしようがな ? 」 私は、響きはしないと答えたり、響いても平気であると言ったりした。 薪を割る音が終ると、今度は木立の枝を激しくゆする音がはじまった。ざわざわという音なの である。つづいて地面におびただしい杏の実の落ちて来る音がした。私は寝床から起き上りなが ら叫んだ。 「朽助 ! 青い実も落ちてしまうそ ! 」 らいの幅と高さである。岩山の台地を弓なりに刳りぬいてあって、天井からは水がしたたり、岩 の凹みには蝙蝠の幼児が住んでいた。 あんす トンネルを通りぬけると、朽助の家の窓が見えた。灯りがついていて、杏の木の半面を照らし ているのである。私は朽助と劇的な対面をしたくなかったので、遠くから彼を大きな声で呼ん 「朽助 ! まだ寝てはいないのか ? 」

3. 山椒魚

もくせい 木犀の木の下には、雨が降っても消えないくらい轍の跡が残った。彼の目には常にものもらいが しばしば 出来ていて、実にのろのろと車を押したばかりでなく、彼は履々立ちどまって帯をしめなおす癖 があった。しかし私は乳母車の進行が中止することを好まなかったので、幾度となく彼と口論を 「朽助 ! 早う行きし戻りししてくれというたら」 「いま帯をしめなおしているんですがな。そんなに言いなさるな」 「広大なことを言うなというたら。帯なんかどうでもよいがな」 」谷私が彼をあまり急きたてるためらしく、朽助は幾度となく帯をしめなおしたが、常にだらしな いく結んだのである。 こ・つーもり 助乳母車のシーツをめくると、クッションには黒い色の蝙蝠が幾十匹も描いてあった。蝙蝠達は 朽夕方になると空に舞いあがって、私はクッションの蝙蝠が逃げてしまったのだと信じた。 「朽助 ! また蝙蝠が逃げた。早うあれを捕えてくれというたら」 「黙って静かにしていなされば、明日の朝になると戻って来ますがな。心配しなさるな」 「是ッ非、戻るか ? 」 「是ッ非ですがな。したれど、もう一ペん行きし戻りししますそな」 「目をつむっていると、後ろへ走って行くような気がする。朽助らも乗せてみたろうか ? 」 「つがもない ! 私らはあとで独り乗ってみますがな」 わだら

4. 山椒魚

一一人の役人がいた。彼等は共に洋服の上衣を脱いで、人々を指揮した。そして二つの樋を閉じ どんちょう させた。鉄の ( ンドルを廻すと大小三つの歯車が急転して、芝居の緞帳ほどもある幅広な板が降 魚りて来て、樋のロを閉鎖する仕掛けであった。 はんらん 谷川の水は水量を失っていなかったので、五分間もたたないうちに、谷川は自らの姿を氾濫す ・椒る水のなかに没してしまった。 私と朽助とはタエトと一しょに、一本の木立の下へ行 0 て見物していたのである。朽助は、し 山きりに同じことをくり返して言った。世間というものがあさましいことになったなそと言ったの である。 池の底には赤土の斜面に濁り水の池の姿ができはじめた。水面は極度に凪いで、それは水が急 速度に増えて行っていることに対して冷淡な様子を見せたが、水岸では寄せ波ばかりの満潮の光 景であった。 朽助達の住んでいる家は、段々畑の下で次第に孤独の度を深めて行った。すでに牛小屋も周囲 の樹木も取払われていたのであるが、何故か人々は朽助の住居にだけは破壊の手を遠慮してい ろを一一人で歩きまわった。そして朽助は或る一個所に立ちどまって、地面を見つめながら呟いた。 、っそここいらから湧いて出るのかもしれませんでがす」 「魔物というものは、し

5. 山椒魚

伐採夫達は四日間で彼等の目的を達して、五日目の晴天には斧の音を響かせなかった。全く彼 等は短い期間で手際よく彼等の任務をはたしたものである。山腹の樹木は、堤防と同じ高さまで 一本も残らず刈りあげられてしまった。そこに池の水をすっかり乾かした時の姿を現わして、谷 間としては最後の姿であったのだ。私と朽助とは堤防の草の上に立って、すっかり形相を変えた 谷間の風景を互いに驚き合った。 間「ああはや、何たる事じやろ ! さては大きな池ですがな ! 」 「ここから見ると、五つの谷しか見えない」 る 山腹の曲線は、樹木の伐採線によって、五つの彎曲を示していたのである。朽助は私の観察を 助否定して、左側の突き出た峰のかげに更に四つの谷間があることを教えてくれた。 朽「ではやはり魔物が住むね ? 」 「住みますとも ! 今にも魔物が住みそうですがな」 樹木を伐り払われた急斜面は灰色の地肌を見せ、池の底となるべきところは赤土のゆるやかな 勾配であったのだ。その中心を谷川が流れていた。この過渡期の池は、殆ど池としての魅力を現 わしていなかった。考えようによっては、池が目をむき出して怒っているところではないかと思 われた。そういう殺気立った池の水のない水底に、もとの朽助の家は取払われないで建っていた わけである。私と朽助とは堤防から池の底に走り下りて、池の底の最も深い場所となるべきとこ

6. 山椒魚

夜になってから雨が降りだした。そして風が吹いて出て、雨と風とは次第にはげしくなって来 うやうや タエトは十字架のかかっている壁に向い、恭しくひざますいて、寝る前の祈りをした。何やら 外国語でもって、心をこめて誓っている様子であった。祈りが終ると彼女は寝床に入ったが、朽 助に向って、風の音がひどくて眠れないと訴えた。谷間全体が大声に呻ったり狂暴な音響を出し たりして、聞きようによっては大地が吠えているように思われたのである。私と朽助とははさみ 将棋をくり返していた。 魚 「眠れなんだら、これでも食べてみたらよいがな」 椒朽助はそう言って、タエトに杏の実を与えた。彼女は両手に二個ずつの果実を持って、目を見 していた。 山「目をつむっとれというたら。そうしたなれば眠れようがな ? 」 彼女は眠れそうだと答えて、暫く目を閉じていたが、再び目を見開いた。 はさみ将棋の竸技に於て、朽助を敗かすことは容易であった。彼は敗ける度毎に言った。 「強うなっとりなさるなあ ! もう一ペん」 そうして私達は夜史けの風雨や物音に対抗したのである。 タエトは彼女の祈りかたが粗笨であったのに違いないと告白して、寝床から滑り出てお祈りを やりなおした。メリャスのシャッとパンツとだけの服装をして、半袖から長く現われた腕で胸に

7. 山椒魚

谷本朽助 ( 本年七十七歳 ) は実に頑固に私を屓している。私がいかに遠い旅先へ行っている まったけ 時でも、彼は毎年、秋になって口から吐く息が白い蒸気となって見える時節になると、私に松茸 、のこ やしめじを送 0 てくれる。うどん箱に苔を敷いて、びた茸類を一ばいつめこんで、箱の表には 魚必ず「オータム吉日」と記してある慣わしである。 彼はそれ等の茸類の発生する山の番人である。その山は、すでに私の祖父の時代に他人へ売却 椒したものであるにもかかわらず、彼は頑迷に昔からの習慣を守っているのである。 私は言い忘れないうちに、彼と私との交友を披露しておきたい。 山私達兄妹三人は幼い時、兄、私、妹、という順序に、同じ乳母車で育てられた。この乳母車 ( ワイの出稼ぎから帰って来た朽助の贈りものであって、子守として私達を乳母車に乗せて 遊ばしてくれたのも朽助なのである。 乳母車の響には外国語で四行の詩が縫いとりされていたが、その詩の意味は「眠れ、眠れ、 幼よ眠れ。タ陽は彼方に入りそめた」というのだそうであ「た。けれど乳母車に乗っている時 には少しも眠りたいなぞと思わなかったので、私はその外国語の歌を好まなかった。 朽助は乳母車に私を乗せて、終日庭の木立を縫うて行きっ戻りつした。それ故、泉水の周囲と でかせ

8. 山椒魚

してあった。最も簡単な男女の裸体の一部分で、それには注釈まで加えてあった。おそらくエ事 の人夫達がやったものであろう。 総ての整理が終 9 てしまってからも、朽助は自分の新居を非難攻撃した。 「何じややら落着かんでがす。むし暑いのではなけれども、風通しがありはせん。このようにい なげな家は、冬分はさそや寒いじやろ」 彼は幾度となく窓から唾をはいて、いかにも軽蔑した口調で言った。 「私らは他人の家へ来たような気がしますがな。こんなつらい目に逢おうとは夢にも思いませな 谷 んだ。最前までの家の方が、私らはなんば好きですか ! 今夜はもう一ペんあっちの家で寝起き る したろ」 助彼は事実、夕食がすむと蒲団を一枚抱えて、夕暮時の谷間へ出て行った。タエトは棒杙に牛を 朽つないで、牛の眉や横腹にくらいついている蠏をむしりとっていたが、朽助の外出をとがめよ うとはしなかった。彼女は熱心に自分の仕事に耽って、牛の背中から一びきの蠏をむしりとると それを靴の裏でふみつぶした。は自らの血潮と土とにまみれて、砕けて死んでしまった。 私は漸く障子をり終えて、引手に楓の葉を貼りとじているところであった。私は思った。朽 助は七十幾つの年齢をしているくせに、ちょっと拗ねてみたところであろう。彼はいまに帰って 来るにちがいない。 けれど私の想像は違っていた。すっかり夜になって、タエトが夜業の繩ないを半分以上も終え かえで ふけ ぼ - つぐい

9. 山椒魚

てしまっても、朽助は姿を現わさなかった。私は彼を連れ帰るために出かけた。谷間には夜の霧 が一ばいたちこめ、月の光を受けて、霧自身は灰色に光った。 あご 朽助は寝てはいなかった。彼は窓を半分ほど開けて、そして窓の敷居に肘を置き、肘の上に顎 をのせて深くかんがえ込んでいたのである。私は足音を彼に近づけて行って、彼の瞑想を破っ こ 0 「そんなところで居眠りする真似をして、からだに毒だぜ」 「べ、つに居眠りしたる覚えはないでがす。くったくしとるところだりますー 魚 「おそいから、うちへ帰ろう ! 椒「なんばうにも私らは、ここの家の方が好きだります。何処へ寝起きしようとも、私らは私らの 勝手ですがな」 「・、ツド・ポーイは止せ。早く帰ろう ! 」 「いっそ私らは、今日は新しき闘争とかたらをしているのでがす。心配しなさるなというたら」 私は彼の頑迷を説き破ることができないのに気がついて、七八歩ほど帰りかけたが、立ちどま って朽助の様子を眺めた。 - 朽助は私が帰ってしまったものと信じたらしく、再び肘の上に顎をの せて物思いに耽りはじめた。私は歎息をついて共処をたち去った。 タエトは熱心に夜業をつづけていた。六尺の長さの細繩を幾本もっくっていたのである。彼女 は土間に莚を敷いて、莚の上に膝を崩して坐り、菜葉色のズボンの膝で繩を挾んで作業していた めいそう

10. 山椒魚

ほそひも 恥に恥入ったらしく、朽助の顔を見上けることができなかった。したがって、朽助の指から細紐に さま ざんげ よってぶらさがっている十字架の前には、彼女が懺悔の祈りに耽る貌が出来上ったわけである。 私は朽助の視線を避けるために、寝床にもぐり込んで目をつむった。朽助は板の上に十字架を 置く音をさせて、 「私らは、やつばりあっちの家で寝起きしたろ」 と呟いて、再び戸を明けて出て行った。おそらく彼は夜更けの谷間を歩きながら、」 魚「それはなんぼうにも咎じゃ ! 」 とロ走ったことであろう。 椒 タエトは戸締りをしたり繩をかたづけたりしていたが、板の上に投げ棄てられていた十字架を すさ ひろって、その紐を荒壁の毛ばたってはみ出ている ~ 切にひっかけた。そして寝る前のお祈りをは 山じめた。彼女は私が眠ってしまったものと信じていたらしく、いくらか私にきこえるほどの声を 出して祈りの言葉を呟いたのである。私は寝たふりを装いながら、彼女の言葉を逐一訳して行っ て、私自身に了解させた。 「恵み深きイエス・キリストさま。明日もカ一ばい働くことができますように私達をお守り下さ いませ。そしてこれからは私の懺悔の言葉が、常に短く単純になって行くように、私をお導き下 さいませ。さっき東京の客人は、祖父の姿を見ると急に私の掌から手を離しました。多分、私の 掌が痛いかどうかを見るためではなかったのでございましよう、あの嫌悪すべき目つきや笑いか