しきなりおをひっくりかえし、物をも言 っていた。しかし大きな声を出して叱るのではない。、 わすにその場へ仰向けに寝ころんだ。 たまに機嫌のいいときには、二階にあがって来て「六畳の学生さん」や「四畳半の学生さん」 に昔の思い出を話す癖があった。その思い出はたいてい梅の木の自慢話がおきまりで、六畳の学 生も四畳半の学生も聞きあきていた。しかし車掌はいつも熱意をもって語るのであった。 「私は梅の花が大好きです。梅の花が咲くと私はきっと田舎にいたときのことを思い出します。 信州の私のうちには庭に紅梅の木がありました」 そういう前置きで語るのである。 椒大きな梅の木で、そのころでも幹の太さは彼の手で一と抱え以上もあった。高さは屋根棟の高 さに敗けないくらいであった。ちょうど、中央線の汽車が彼のうちの前を通っているが、梅の花 山が咲くころは乗客がみんな彼のうちの梅を見て感嘆した。彼は用もないのに汽車で彼のうちの前 を往復して、乗客といっしょになって自分のうちの梅を讃めたこともある。 この梅の木は謂わば彼のうちのマスコットであった。ところが或るとき勝田侯爵の御当主が中 央線で御通過のとき、車窓からその梅の花の満開の風情を見て、是非ともあれを売ってもらいた やしき いと所望された。金は幾らでも出す。東京の邸に植えてきっと大事に育てるから、どうか譲って もらいたいと県会議員を介して申し込んで来た。 梅の持主の方では困ったことになったと思った。そのころ老父も長兄もまた存命で、彼のうち
そのとき突然横あいから、 「もし、もし、きみ ! 」 私を呼びかける太い声がした。心臓が止ったーー去年のあの声だ 村山十吉 ! 交番だな、と早く感づく前に、交番であるべき風景はそうではなくて、ふり返った私の目に は、弁天町の邸宅の高い塀が見えた。そして実際、頭の上には白く梅の花が咲いて、電信柱が私 花の鼻先で動かなかったのである。 の 」梅 私は爪先たてて逃げかけた。 ふ「もし、もし、きみ ! ・夜 私は立ちすくんだ。 「 : : : 僕の顔は血だらけになってやしませんか ? 」 そして私は自分の頬の血を平手で撫でた。 私は質屋の番頭であった。 「何処へ帰るんだ ! 」 同時に邸宅の塀も梅の花も電信柱も消え失せた。その声も、交番の巡査のものであった。それ とわかってしまえば、自分はおそろしくない。 つまさ、
夜ふけと梅の花
なかんずく 就中、村山十吉は狂暴な男らしい。決して油断はならないのであゑ彼は突然ものかげからお どり出て、私の前に立ちふさがるかもわからない : 「もし、もし、きみ ! 僕の顔は血だらけではないかね ! 」 弁天町の邸宅の塀が現われて、その塀の上に白い梅の花がさしかかる。彼は私を捉えてどうし ても放さない。私は何時でも彼に支払いのできるようにしておく筈であった。けれど、今は五円 しばしば えり という金を持っていない : ・ : そういう妄想が、履々暗い夜路を歩いている時の私の襟すじに凍り 魚ついた。 今年もまた梅が咲き、すでに昨今では散りはじめた。弁天町の邸宅の高い塀の上に枝をさしか 椒わした古木もよく咲いた。 私は給料日にではなく、筆立ての五円より他にはもはや湯銭もなくなった日に、村山十吉を訪 山 ねることに決心した。梅の花さえも、私が五円をごまかしたことを摘発するようであったからで ある。村山十吉は必ず梅の木の下でよろめいているに違いなかった。そして血だらけの手でもっ て私の頬を撫で、または喉を締めつけるかもしれなかった、飯田橋の辻便所の中では、或る夜、 私はそうされたようにさえ感じた。また、その記事が、極く小さい字で最近の新聞に出ていたよ うにも思われて来た。 村山十吉の家、鶴巻町三十七番地、石川方は直ぐに知れた。石川質店というのがそれである。 番頭だと彼が称したの・は、彼はこの質屋の番頭であったらしい。 170
山椒魚 : ・ 朽助のいる谷間 : 岬の風景・ : へんろう宿・ : 掛持ち・ : シグレ島叙景・ : 言葉について : 寒山拾得 : ・ 夜ふけと梅の花・ : 目 次 プレ - ・プレ
232 その日、彼女は紅梅の枝をわざわざ麻布の父親の店に持って行った。彼女の父親は、商品棚の 上に飾られた花を暫く見ていたが、 「東京の花屋の花は、花に色がついてるというだけた。却ってこんなのより、白い梅の花の方が よかったな」 以前、信州の田舎の家にあ「た紅梅は、こんな騒々しい感じの花ではなか「たという。しかし 父親は、そう言いながらラジオ・ドラマに聞き入るような風をしてじっと棚の上の花を眺めてい 女優は父親のその様子を見て、何だか父親が空とぼけているのではないかという懸念があっ 椒た。父親がこの花の出所を知っているのではないかという懸念である。いっか彼女は後援者から 多額の金を貰って来て、これは超大作映画の特別出演料だと言って父親の前に出したことがあ 山る。そのときも父親は、ラジオをきくような風をして紙幣の東をちらと見て、 「この金はお前、自分にしまっておけ。俺は、こんな大金よりも、草花の一本も買って来てもら 、ようだ」 った方がいし と言った。父親は空と・ほけていたのかもしれないが、今度もそのときと同じように彼女はどん よりした気持であった。 彼女の後援者は、映画そのものには興味を持たないが、新聞に写真が出たり書きたてられたり する女優に興味を持「ている。有名な女優は無名の女優より肉体的にもすぐれているとさえ思っ
私のうちでは私たちが結婚してから一一週間もたたないうちに、やがて家庭争議の起きる一つの こわ 機運が見えたのである、雪の降った寒い日のことであったが、窓硝子の毀れた隙間から冷たい風 が吹きこむというので、ユキコ ( 妻の名前 ) は、私の知らない間に紙を不細工な梅の花の形に切っ 魚て硝子の割れ目にりつけた。そして私が彼女の知らない間にその梅の花を雑巾でこすり落して かえで おくと、またもや彼女は紙を楓の葉の形に切って貼りつけた。それはここに硝子の割れ目がある 椒ことを明らさまに指摘しているのも同然であって、こんなにまことしやかに貧乏くさい真似をす るよりも私は風が吹きこんでもいいから、紙なんか貼るのはご免であった。けれどユキコは紙を たすき 山 木の葉の形に切るときにも襷なんか掛け、 「あたくし今度は、上手に楓の葉に切ってよ」 などと泰平な様子であった。私は彼女が根柢から遅鈍なのではないかと気がついて、相当に気 を悪くしたばかりでなく、これは家風に合わない女かもしれないと心配した。そして廊下に棄て てあった雑巾を、私が足の指でつまんで、どこにうっちゃってやろうかと腹を立てていると、そ のとき郵便配達が来て白い封筒の手紙を一つ廊下に置いて行った。「第三者としての一女性」と いうおかしな変名を用いた女のよこしたもので、胸さわぎさせられる手紙であった。 1
229 大空の鷲 かいどう れらしい梅の花は見つからない。 こっそり表門からのぞいて見ると、花の咲いてるのは海棠の本 が見えるだけである。裏門はいつも閉じられて、そこには塀越しに大きな黒松の木が見える。毎 年、梅の咲くころには彼は一日交替の休日を利用して三度も四度も侯爵邸のまわりをうろっくと いうのである。 娘のチョ坊というのは尋常一年生であった。算術も読方もへたくそだが、両親はこの子の容貌 と踊りの進歩が早いのが自慢であった。べつだん印象に残るような話もなかったが、この家のも のは止宿している学生のことを「六畳の書生さん」「四畳半の学生さん」と言った。チョ坊は「六 畳のおじさん」「四畳半の学生さん」と言った。 「六畳の書生さん」はその家に二年ちかく下宿して、それから二年目に学校を止し、八年目に 説を書きはじめた。 小説家は今度は空想で、もう一つ別のノートをとった。 一人の女優がいる。 彼女の父親は車掌である。この車掌は、信州の小作農であった。庭に見事な紅梅の木があっ た。その紅梅は東京の或る権門家に所望され、東京に移植された。 車掌の子供、すなわち女優は後援者を持った。その後援者のうちには見事な紅梅の木があると いう。それで女優は考えた。
171 のれん 「質屋」と染めぬいてある暖簾をくぐる瞬間、これを訪ねるには都合がいし 、ことに私は気がつい た。マントでも質入れに来たように見せかけて、去年の手紙の通り簡単に嘘の弁解をして、五 円を返済すればいいわけだ。そして彼が、私のマントの脱ぎっぷりに感心するような悪趣味で もあれば、これは十円位で入質させてくれるかもわからない。私は去年のままのマントを着てい たのである。 「こんにちは」 花 の と言いながらマントを脱いだ。 梅 と「これを入れたいんだがね」 け しかし、そこの帳場には村山十吉はいなかった。四十歳くらいの肥った男がいた。彼は質物ら 夜しい旧式のカメラで、机の上の椿の花を撮影していた。 彼は尊大な仕草でもって私のマントを受取ると、裏返しにしてみたり長さを計ってみたりして、 しまい 終には、襟の後ろや裾のきれているところが如何にも気になるという風に首をかしげた。 「おはじめ . てですか ? 」 「はじめてです」 いんぎよう 私は印形を出した。 「おいくらほど ? 」
県会議員はそう言って帰って行った。 今度は家族会議は開かれなかった。老父も長兄も侯爵の我儘にたいへん立腹して、そんなにほ しければくれてやれと即座に相談がまとまとった。金は一銭もほしくない。その代り侯爵家の方 から勝手に梅の木を掘りに来るがいい 翌日、県会議員にその意味を伝えると、議員は低頭平身して喜んで帰って行った。侯爵は梅の 木を手に入れるまではここを動かぬと我儘を言って、まだ町の旅館に泊っているということであ 魚、った。即日、県会議員は人夫一一十人を連れて来て梅の木を掘り倒して、即日、二台の大八車に乗 やるせ せて運び去った。梅の木を掘った跡には大きな穴がうがたれて、それは一家の遣瀬ない思いの記 ・椒念のため、後日までその穴は埋めないで保存した。雨が降ると水がたまり、月日がたつにつれて 小さな池になった。 山 県会議員は侯爵から幾らの報酬をもらったのかしらないが、絹地に富士山と松の木を描いた新 しい掛軸を手前の寸志だと言って持って来た。この掛軸は後日、老父も長兄も亡くなってから、 次男の彼が東京に移住するとき家財道具といっしょに町の道具屋に売り払った。道具屋の話によ ると、その掛軸の絵は文展入選の画家の作だということであった。次男の彼は、家屋敷ともみん な売り払い、役人にでもなるつもりで出京したのである。 いまでも梅の花が咲く季節になると、彼はあの紅梅も咲いたろうかと思って中野の侯爵邸の の外を行ったり来たりする。しかし塀は高く、塀からのぞいているのは椎の木や松葉などで、そ 228 わがまま