「今日は急いでいますから、今度またゆっくりお会いいたしますわ」 そうして彼女は私が不平な顔をしていると、改めて次のように挨拶した。 「しばらくごぶさたいたしました。このごろ親戚のうちに来ていますの。今日はお会いしなくて もいいと思いましたけれど、それとなく来てみましたの」 なんだか落ちつかないで大急ぎのところであると思われたが、私は彼女を連れて硝子屋の裏の 空地に行った。そして私たちはこの広場のまだ消えていない雪の上に立って、次のような短い会 魚話をして別れた。雪は一昨年と同じくどっさりと消えのこっていた。 こわ 「あたくしこのごろ親戚で、毎日たのしく暮しておますの。あたしが応接間の大きな花瓶を毀 椒したら、みんな一一階に逃げて行ってたいへん笑いましたの」 「それは結構です」 山「過失なんですものね ? ・ : : ・あたくし、まだ図太くなれないんですけれど、お目にかかってしま いましたわ 「あんな約東、早く忘れちゃった方がいいんです」 「あたくしの田舎のうち、桐の材木問屋ですから、下駄の台を送らせましようかしら。つい気が つかないで、ばかなことをしてしまいましたわー きっと彼女は、私のはいていた心細い下駄を見て気の毒に思ったのだろう。彼女は私の下駄か そむ ら目を反け、雪の上に刻まれたその下駄の足跡だけを丹念に眺めていた。
川ちいちその値段をたずねた。そこへ女中のオウメさんが寝床を敷きに来て、どさんと敷蒲団をひ ろげたので、井能さんの手許の厘半のテグスが風にあおられて吹き散らされた。「駄目だよ。テ グスがどこか吹きとばされちゃった。静かに敷いてくれ」と井能さんが言うと、喜十さんもいっ しょになって「蒲団を敷くなら、お蒲団を敷きましようかと伺ってから敷くもんだよ。間抜けだ ね」とオウメさんをたしなめた。オウメさんは畳に手をついて「すみません」とお辞儀をした。 喜十さんはお客の見ている手前、もう一度「間抜けだね、気をつけるんだよ」と荒つぼい口をき 魚いた。オウメさんの血色のいい顔は青ざめて、彼女はもう一度「すみません。今度から気をつけ ます」と頭を下げて謝った。その声は語尾が震え、彼女はもう涙ぐんでいた。何しろまだ十七の 椒子供である。 喜十さんはまごっいたが、テグスなんかどうでもいいと自分では言われない。井能さんもまご ついて「テグスなんか、どうでもいいさ。いや、ここにあった。む配しなくてもいい」とテグスを 捜りあてたような手つきをしてみせた。オウメさんは、そのごまかしに気がついたのか「すみま せん」と泣き声で言い、いきなり両手で顔をおさえた。それは容易ならぬ悲痛な風情に見え、始 末のつきにくい感じであった。「弱ったな、僕が悪かったのだよ。では、これで、機嫌をなおし てくれないかね」と井能さんは立って行って、リクサックのなかから包装紙でつつんだ四角なも のを持って来た。「ほうらこんないいもの、これを君に進呈する。もう機嫌をなおしてくれ , と 井能さんがその四角なものをオウメさんの膝の上に置くと、オウメさんはそれを手で払いのけて
そうして客人は、「キコがとうとう釣りこまれたほど晴れやかな笑い顔をして見せた。 「まあ、古風だなんて勿体ないですわ」 ユキコはその笑いをとめようとしたが、客人が捨てばちに、 「あたくし、減茶苦茶に古風なんですの」 晴ればれと笑ったので、うつかりユキコもいっしょになって笑い声をたてた。キイキイという 笑い声であって、そんなのは嘘だと私が顔をしかめていると、ユキコは番茶のさめたのを持って ふすま 訪退散し、襖をしめて出て行くときにはトランクの上にふんわり載せてある白い毛の襟巻に気がっ いて、驚嘆の表情を隠すことができなかった。 来 客人は心残りなく笑ったのであろう。彼女は肉つきのいい頬をさすりながら、しばらく笑った しょげ 人 ことがないのに今日は笑いすぎて頬の笑う筋肉が痛くなったようだと言った。そして今度は悄気 えり 女た顔になりきらないうちに帰りたいと言った。けれど彼女は発作的に悄気た顔をして、衿をかき 合わせたり帯のエ合を手で触ってみたりして、きつく締めている帯じめを締めなおしたときの彼 女の胴は、小判型の手の胴に似た恰好のいい丸みを見せた。彼女が帯の胸のところをぼんとた たくと、帯は堅くて、ぼんと音をたてた。もう彼女は帰るのである。 「やつばし、あたし気がかりですから中しますわ」 そういう前ぶれで、彼女はわざわざ訪ねて来た理由を次のように手短に述懐した。忙しそうに かえ 話さなくては彼女は反ってロもきけなくて、私は大急ぎの立話でもきいているような気持であっ
日本海の xx 島の住民は男も女も申し分ない肉体をしていて、言葉づかいも一風かわってい る。どんなに可憐な様子に見える少女でも、頑として腕っぷしが強く、まるきり喧嘩腰かと思わ れるくらいぶつきらぼうな言葉づかいをする。それ故、はじめてこの島に旅行して来た人には、 魚彼女のおしゃべりや情愛が正確に身にしみかねるだろう。たとえば「おや、あなたはとても近眼 がお強いのね ! 」というときに、おそらく彼女はせいいつばい若い女性のたしなみを忘れないで 椒いうのであろうが、「われこそ、めつかちのくせに ! 」という。そこでわれわれが、 「僕は決して、めつかちなんかじゃないと思いますー 山 と答えると、彼女は念のためにわれわれの顔や眼鏡をのぞき込み、 「われこそ、この財布を落したろうね、めつかち ! よべど叫べど筒ぬけするようなその気がわ たくしにはわからん。して、躍起にならずに泊らんかね。十分かくまってあげましよう」 それを訳述すれば、次のような意味の言葉になる。 「あなた、この財布を落しません ? やつばし、ひどい近眼でいらっしゃいますわね。あたしが 幾らお呼びしても、素通りしようとなさるんですもの。い 、え、そんなお礼をいっていただかな くても、その代りあたくしどものうちにお泊りくださいませ。お静かな部屋もあいていますから、
139 「一白水星の人の今月の運勢は随所に危険の存在しているが故に、機敏な精神を持てば輝かしい 未来の幸運をとらえる。感情問題については極めて些細な点にまで留意すべし : : : して、こない だお客さんがそう占った」 くしな そういう物覚えのいいことをしゃべりながら彼女は頭髪の各部分を櫛で撫でつけていたが、す こしも拘泥するところなく寝間衣だけの姿になって、いきなり寝床のなかにはいって来た。 これはまるで、何々するということにほかならない。 「宿題をしとかなくてもいいのかしら ? 」 て こわ とたすねると、彼女は髪の恰好が毀れないように肘をつき枕の代用にして、秘密に欠伸をする っ と同時に縮かめていた足を伸ばした。宿題や修身書第一一十一課の諳誦は、気がかりのことであっ 葉たらしい。彼女は半分は笑いながら答えた。 言「お客さんが寝てから十分かくまっておいた後で、裁縫の宿題を縫うのじゃ」 「第一一十一課の諳誦もできなくちゃ駄目だね」 「諳誦するから見ておってくれんかね。 彼女は諳誦しはじめたが甚だ心細いものであった。 「第一一十一、ナイチンゲールが三十三歳のころ、クリミャ戦争という : : : 第二十一、ナイチンゲ ールが三十四歳のころクリミャ戦争といういくさがありました : : : 忘れた。三十四歳なら、もう おおどしま 大年増になっとられたじやろう ? 学校でみんなが、わたくしの顔がナイチンゲールのお顔に似 こうでい ひじ
せんべい くれた蒲団を敷き、マントと羽織だけぬいで蒲団にもぐった。一般に煎餠蒲団という言葉がある が、私のもぐった蒲団は雑巾を大きくしたような蒲団であった。私は足をちちかめて壁の方に向 せんじゃ き、右枕になって部屋のなかの道具立を見た。天井のがまる見えで、その黒くなった梁に千社 札のようなものが何枚も貼りつけてある。「讃岐何々郡何々村何々々々」と書いた札や「大願成 就」と書いた札があった。こんな薄ぎたない宿に泊った人にさえも、成就したい大願があるもの と思われた。壁に貼りつけた値段表にも、やはり千社札のようなものが貼ってあった。値段表に は「御一泊一人前、三十銭。御食事はお好みによります」と割合い達筆に男の筆蹟と見える字で 宿 すみ 書いてあった。誰か宿泊人が書いてやったものだろう。部屋の隅には脚のない将棋盤が置いてあ そそ ろった。これがこの部屋の唯一の装飾品になって、かえって物悲しい気持を唆るのである。 ん 私は右枕になったまま目を閉じた。もう左枕に向きなおって襖の模様を見る興味がなくなって そろばん へ いた。隣の部屋では算盤をはじく音を ( ラ銭を勘定する音がしていたが、いきなり手をたたく音 がした。十も十一も続けさまに手を拍ちならす音であった。入口の方の部屋から「へえい」と答 える声がきこえると、隣の部屋の人は大きな声で「お酒を持って来てくれえ」と叫んだ。 私は自分の顔の上に ( ンカチをかけ、その上に蒲団をかけた。疲れていたせいか苦もなく眠れ そうで、これは幸いだと思っているうちにうまく眠ってしまった。かれこれ二時間も眠ったであ ろう。気がついてみると蒲団からすこし乗り出して、隣の部屋の話し声で目をさましたのであっ た。きっと三番目の六十ぐらいの婆さんが、酒の相手をしながら話し込んでいたものだろう。 スだ
十人の若い男に出して一週間のうちに遊びに来ない男は三割強にすぎないのである。手紙を見て 遊びに来る男は、たいてい充分に金を用意している。男は女よりも十倍も阿呆で惨忍な人間に出・ 来ているというのが彼女の持論である。しかし彼女はいっかも酔って言ったが、彼女たちが警察 で衛生講話をきくときに、署長さんが「諸姉はいかにも酌婦とはいえ、女性としての人格を認め られてしかるべきである。自重し且っ努力しなければならぬ」と励まされたと言って喜んでい ち喜十さんはついでに宿帳をめくってみた。新規の泊り客は、松の間一一号の太った客が一人だけ で、宿帳には名前を井能定二と書いてあった。年齢は四十三歳、職業は文筆業、投宿予定日数は 持未定となっている。さきほど鮎釣りに出かけるとき、このお客の言ったように、甲州の篠笹屋で 喜十さんがこの客の目鏡のたまを踏み砕いたというのは事実である。そのために喜十さんは、後 で女中頭のオトキさんから偉い目にあわされて、そのときの喜十さんの惨めさといったら全くお 話にならなかった。原因は井能定一一というその客自身の手落ちであった。ちょうど麦刈が終って 百姓の手が空いていた頃、篠笹屋では団体客や昇仙峡見物の客や連れ込み客で満員の盛況という 夜であった。喜十さんが浴客の背中をながしに露天風呂へ出かけると、三人連れの客が湯につか って、庭木の間に見える満月を大変いい月だと話し合っていた。そこへ螢がとんで来て石だたみ の傍に生えている木の枝にとまったので、喜十さんが風流気を出してその螢をつかまえようとし たのがいけなかった。一歩、二歩、螢の方に足を踏み出した途端、彼は確かに目鏡を踏みつけ こ 0
161 だが彼は、私のマントの翼をちぎれるほど引張って放さなかった。 「きみ、放したまえ」 「いや放さん。僕は訴えようと思うんだ。消防の奴が四五人で、僕を袋叩きにしやがったんだ。 僕は訴えてやるんだ。きみ、証人になって下さいー 「僕は現場を見ないのだから、駄目だよ。しかし君の方から消防に、何か乱暴なことを言うかす るかしたんじゃないのですか」 とにかく消防ともあろうものが、人を袋叩き 花「いや、僕は酔っていて、ちっとも覚えていない。 のにしやがるなんて、実にけしからん。きみ、証人になりたまえ」 と「駄目だよ。けれど、君がひどく負傷をしているということの証人にはなってもいい。警察はあ ふそこだよ」 夜 そこからは榎町交番の灯が見えていた。しかし彼は言った。 「実はきみ、僕は直ぐこの近くの者なんだから、おおっぴらにはしたくないんだ。そうなると、 勤め先をしくじるからな。くやしいけれど勘弁してやろうか」 かたき 酔っぱらいで、しかも敵持ちに似気なく、彼は理性を働かしたらしかった。そこで私が彼を残 して行きかけると、彼は再び私のマントの翼を捕えて放さなかった。 「きみ、そんなに急いで行ってしまうのかい。しかし、ね、きみ、僕はお店へ帰ってから、旦那 の手前を何う言ったらいいだろう ? この傷では、何うしたってなぐりあいをしたことがわかる えのき
238 「そうだ、クロを呼んでやろう」 彼はハチ公に吠えさせて、空にクロを呼び寄せようとするのであった。 説家はそこを動こうとしなかった。彼はふところから手帳をとり出して、ながいあいだ費し てノートをとった。 事実、小説家は崖の鼻に腰をかけ、ながいあいだ費してノートをとっていた。それから手帳を 魚懐におさめると、事実、谷津温泉へ出かける用件について思案した。それには先ず出かける前 あらかじ に、ラジオで予め大体の天気を見定めて、東南の風の吹く日に目的地へ行くようにする。もし宿 椒に着いても空に謂わゆる天城山の鷲が現われなかったら、女中に鷲の翼の色や、羽根の欠けてい ひしよう る恰好や飛翔するエ合など詳しくききだす必要がある。もしクロと同じ鷲たときまったら、その 山 鷲は断じて天城山の鷲というのではないと女中に由緒を明らかにして言いきかせる必要がある。 もし女中がそれを上の空できいているようなら、時ならぬチッ。フをどっさりやって、彼女の注意 をうながすのが良策だろう。場合によっては「おい、番頭を呼べ、番頭を」と重々しく出る方法 もある。だが自暴自棄で大酒を飲み「おういこら、県知事を呼べ、県知事をーと叫び、行政問題 などロ走るような醜態があってはならないのである。また一方、廊下で女優やその後援者に出会 すような場合にも「御坂峠のクロは絶対だ。お邸のクロではないぞーというように、きこえよが しに言うのは禁物である。それは御坂峠のクロの名折れにほかならぬ。
えりあし そういう時、私は相手が必ず非難の余地のないほど、念入りに襟足を美しくしているのを眺め しゅうら た。彼女のこの唐突で新鮮な羞恥は、幾らでも初夏の窓の風景に調和したのである。 今日も私はその方法に依った。 「掌が痛いでしよう ? 」 「少しばかり」 彼女は机の端に手をさし出して、それから私の手が何う動くかを熱心に且っ厳粛に待った。私 景は相手の掌を見ようとするのではなく、俯向いている耳かくしを感動の瞳で眺めた。そして私が ほんの少しその手を引きよせたのを彼女は巧みに心得て私の膝に接近した。私は両腕の環をつく ゅぶね った。彼女はその環の中で、あたかもその腕の環を広々とした湯槽か何かになそらえているらし の く、全く朝湯へ入る時のように瞳を閉じたのである。私は両腕の環を少し細めた。彼女は再び心 すく 仰得て、華奢であるが意外に重たい少女の体を私の膝の上で起きなおした。私は腕の環を少し掬い あげるようにしなければならなかった。けれども今度は彼女は頭をふって囁いた。 「誰もいはしませんわね、窓の下に」 私は窓の方に体をねじ向けて、由蔵がやはり麦畑の中で黒穂をぬいているのを確かめて、彼女 すがすが の浄々しい服装の上から、少女の肩の丸みを両腕いつばいに感じながら、 「泣いたりしてはいけませんよ」 彼女は泣いたりしてはいない証拠のため顔をあげて、それから細く瞳を開いてみせて再び閉じ きやしゃ うつむ わ