た。べリッという音がした。三人の浴客のうち顔の丸いのが「や、いけねえ。そりや目鏡だよ」 と周章ててお湯からあがって来た。そして石だたみの上の目鏡を取り上げて「踏みつぶしちゃっ たね」と喜十さんを見て「まるで目鏡にアイロンかけたみたいだよ。番頭さん、硝子のかけらが あぶないぜーと言った。目鏡のつるはマスクの紐を引っぱったように左右にひろがって、硝子が 両方ともなくなっていた。「すみません、すみません」と喜十さんは謝って、硝子のかけらを手 さぐりで拾い後はお湯で流した。その間に丸顔の浴客は、でつぶり太った肢体を洗面所の方に連 魚んで行き、タオルを肩にかけてがらがらと含嗽をやりだした。喜十さんがその丸っこい後ろ姿に 向ってペこペこ頭を下げ「すみません、すみません」と謝ると、太った男はがらがらを止して いいんだよ」と言った。そしてまたがらがらをやりだした。喜十さんは、くりかえし 「すみません、すみません」と謝って、この温泉場には目鏡屋がないことや甲府の街の目鏡屋に 山行くにももはやバスがないというようなことを言った。そして目鏡代は幾らぐらいするものかと たずねたが、がらがらを続けているお客には話がきこえなかった。喜十さんは大きな声で「目鏡 代よ、、 しったい幾らぐらいで御座いますか」とたずねた。しかし運の悪いときは悪いもので、そ のとき湯殿に婦人客を案内して来た女中のオョッさんが、喜十さんのその声をきいてしまった。 こわ いったい目鏡のような毀れものを薄暗い石だたみの上に置いたお客が悪いのである。ところが 喜十さんはこの篠笹屋ではどうしても間抜けな人間だということになっている。女中のオョッさ だま んの告げロで、彼がまた間抜けをしていたというので女中溜りに呼びつけられ、女中頭のオトキ
た。この場合、彼女の狼狽を打ち消すためには、こちらから率先して股目鏡をつくる必要を認め うなず たので、私は自分のおとなげない股目鏡をつくった。彼女は安心して合点いた。そして、私の不 恰好な股目鏡と並べて、少女の可憐な股目鏡をつくったのである。 丘をくだって、麦畑のところでみち子とわかれて帰って来ると、由蔵は縁に腰をかけて待って 「みち子さんはもうとっくに帰ったよ」 そこで由蔵は大急ぎに令嬢の後を追わなければならなかった。 風 最近になって、私は彼女の髪の結いかたが次第に遠慮勝ちな耳かくしになりつつあることを発 の 見した。あるかなしかに鏝をあてて、それは流行好みの立場の者にも保守好みの立場の者にも、 岬いずれの立場から見ても責められるべきものではなかった。私は初夏の窓の風景に全く調和する 彼女の新鮮な姿をこの上なく好んだ。 ところが、彼女の髪が完全な耳かくしになった頃には、すでに私は彼女に恋愛を誓わせてしま っていたのである。 けんせと 何の身よりもなく譴責する人もないこの田舎に迷い込んで来てまで、私は期ういう日常を肯定
もてあそ 彼が薬品を弄ぶのは何処かで薬局生をしたのを自慢にして、そうするのであろうと推定した。そ ささや して私に囁いた。 「由蔵はうちの女中と、少し大変なのよ」 「どのくらい少し大変です ? ー 「ほかの女中が、そう言ったんですもの、私わかりませんわ」 「では、あなたは現場を見たわけじゃないのですね ? ー わいだん 魚私のぶしつけな言葉は、この少女にとっては明らかに猥談であるに違いなかった。彼女は顔を 方くした。 / 彼女はこの猥談に興奮した結果、童話劇のあった時、代数の先生が同性恋愛を申し込 椒んだことや、女学校時代に彼女は代数が出来なかったがために、その中し込みを断るには随分骨 の折れたことを告白した。それから彼女は、女には月に一回は必ず生理的変調のあるものだとい うことを、さも秘密らしく語った。 みち子の課業の怠けかたは大胆で積極的になっていて、由蔵が見ていないのを幸い、私と彼女 まめざやつる とは麦畑につづいている丘へ登った。丘の頂上には、藤の実が緑色の豆鞘を蔓から垂れていた。 ふかんす 彼女は、私が物珍しく街や港の俯瞰図を見下ろしているひまに、こっそりと股目鏡をつくって 海の景色を見た。私がその姿を見つけると、彼女は直ちに股目鏡を止して赤面した。 私が未だ何とも非難しないうちに、彼女は体をゆすぶったり足をばたばたしたりして狼狽し
十人の若い男に出して一週間のうちに遊びに来ない男は三割強にすぎないのである。手紙を見て 遊びに来る男は、たいてい充分に金を用意している。男は女よりも十倍も阿呆で惨忍な人間に出・ 来ているというのが彼女の持論である。しかし彼女はいっかも酔って言ったが、彼女たちが警察 で衛生講話をきくときに、署長さんが「諸姉はいかにも酌婦とはいえ、女性としての人格を認め られてしかるべきである。自重し且っ努力しなければならぬ」と励まされたと言って喜んでい ち喜十さんはついでに宿帳をめくってみた。新規の泊り客は、松の間一一号の太った客が一人だけ で、宿帳には名前を井能定二と書いてあった。年齢は四十三歳、職業は文筆業、投宿予定日数は 持未定となっている。さきほど鮎釣りに出かけるとき、このお客の言ったように、甲州の篠笹屋で 喜十さんがこの客の目鏡のたまを踏み砕いたというのは事実である。そのために喜十さんは、後 で女中頭のオトキさんから偉い目にあわされて、そのときの喜十さんの惨めさといったら全くお 話にならなかった。原因は井能定一一というその客自身の手落ちであった。ちょうど麦刈が終って 百姓の手が空いていた頃、篠笹屋では団体客や昇仙峡見物の客や連れ込み客で満員の盛況という 夜であった。喜十さんが浴客の背中をながしに露天風呂へ出かけると、三人連れの客が湯につか って、庭木の間に見える満月を大変いい月だと話し合っていた。そこへ螢がとんで来て石だたみ の傍に生えている木の枝にとまったので、喜十さんが風流気を出してその螢をつかまえようとし たのがいけなかった。一歩、二歩、螢の方に足を踏み出した途端、彼は確かに目鏡を踏みつけ こ 0
さんにさんざん油をしぼられた。 オトキさんは甲府で芸者をしていたこともあるし、そのうえ韮崎の泰さんという顔役を旦那に 持っている。気も強いしロも達者である。 「喜十さん。あんたは、御自分でお客さまの目鏡を毀しといて、この目鏡は幾らだいなんて大き な声を出してたってね。ずいぶん、お客さまに失礼だわよ」とそう言って、彼女は立て膝で莨を ふかすのである。「すみません。あのとき私は、お客さんが含嗽をしてなすったので大きな声で ち言ったんですよ。ちょうどそこへ、オョッさんが来たんですよ」と喜十さんが弁明につとめると 「それじゃあまるで、あんたをオョッさんが私に告げロしたと言ってるようなものね。あんたは 持お客さまに迷惑かけといてオョッさんを恨むのねーとオトキさんが言った。まるで阿呆扱いに頭 ごなしに言うのである。喜十さんは弁解するロがきけなくて、ただ無念のあまり涙が出そうにな 掛るのを押しこらえ「すみません」と言った。オトキさんはそれでも勘弁してくれなかった。「喜 十さん、あんたはいい年をして、泣いているのね」とオトキさんは高飛車に言って「宿屋の番頭 というものは、泣いたり笑ったりしちゃあ駄目。どんなときでも顔色を変えては駄目、お面のよ うにしてるものなの」と彼女はそう言って立て膝の恰好をなおした。彼女の説によると宿屋の番 頭というものは、ホテルのポーイと同様にお面のように顔色を冷たくしていなくてはいけないの である。お客の前でおびえたり喜んだりするのを顔色に出すと、お客は直ぐに番頭と馴染みにな 皿ったつもりで見くびってしまう。なぜかというに、こちらはお給金をもらう番頭で、先方は心づ
いませんでしたか ? その晴れやかな声は涙を消してしまったが・彼女はその次にどう言っていいかむずかしそう で、やはり私も難しくて彼女から発散する極く徴弱な香料の匂いにもまごっいて、それから火鉢 で手をあぶった。 彼女もどこを見たらいいか瞳を向ける場所がわからなかったのであろう。始末に弱った表情を していたが、その瞳は既往において私が浅尾聞助に、あれはきっと乱視だろうとたずねた瞳であ はいしゅ る。けれど聞助は彼女の瞳の色つやを讃美して、あの黒く濡れた大つぶな瞳には梨の胚種みたい な風味や面影があると言った。 彼女は一つ目ばたきすると、それをき 0 かけに気力をなくした趣で顔をうなだれ、たぶん彼女 人 の乾きすぎている唇は、痛いか気になるかどちらかであったのにちがいない。白い毛の襟巻とト 女ランクとを手もとに引きよせ、トランクから小さな鏡と棒べにとをとり出して鏡に唇を近づける と、ほんの中しわけばかりに唇に棒べにの色をつけた。 私は蓋のあいているトランクの中身を見たが、「ンパクトが一つと女持ちの指環が十箇ばかり ころが「ているにすぎなくて、たぶんこの旅行用具の様子では彼女はこっそりと家を抜け出して 来たものにちがいない。彼女が家を抜け出すときのよくせき思いつめた状態を察することができ るようにも思われて、彼女を一汽車でも早く送りかえさなければいけないと私はかんがえた。 「無断で出て来たりしては、よくないでしよう 191
に泊りに来たお客である。喜十さんは「いらっしゃいまし、これはこれは」というような半端な 挨拶をした。相手は間の悪そうに目ばたきをして「たしか喜十さんじゃなかったかしら。湯村の 篠笹屋の番頭さんじゃなかったかしら」と念を押し「ほうれ今年の , ハ月ころ、君が篠笹屋の露天 風呂で僕の目鏡のたまを踏み割った、あの番頭さんの喜十さんだろう」と太った客は言った。な るほどそう言えば思い出す。「いや、思い出しました。その節はどうも相すみませんでした」と あやま 、らっしゃ 喜十さんは改めて謝った。そこへ女中が現われ続いておかみさんが「まあお珍しい、し 魚いませ、どうそ。お疲れで御座いましよう , と泊りつけの客に対する待遇でそのお客を歓迎し 椒でっぷり太った客は玄関にはいってリクサックをおろし「今度は鮎釣りに来ました。どっさり ひも 釣るつもりです」と言った。おかみさんは客が靴の紐をとく間もお愛想を言って「鮎なら今年は 山 とても釣れますわ。内田さんなんか、コマシ釣りで一日に一そくは平気だそうで御座います」と 掛け値を言った。コマシ釣りなら先す五十びきというところである。お客は靴をぬぎ好奇の目を 光らせて「一そくとは凄いですなあ。僕、さっそく釣りに出かけます」と言ってリクサックをあ け囮箱と草鞋をとり出した。おかみさんは「まあ一と風呂あびてからお出かけなさいませ」と引 きとめたが、客はスフ入りの白ズボンをぬぎカーキー色の。ハンツをはいた太い短い足を現わし た。そして草鞋をはきながら「今年は草鞋が十五銭になりましたからね。凄い世の中になったも んです」と言ってから、喜十さんに「いっしょに釣りに行きましよう。囮を一びき分けてくれま こ 0 おとり わらじ すご
彼は、何か心得たものの如く、帽子と目鏡とをポストの上にのせて、スポーツ刈りの頭髪を類 あまっさ に撫でおろし剰え顔をしかめた。 ( 幾らか拾得先生に似て来たのである ) それから下駄をぬいで、 ポストにはりつけた絵を参照しながら両手を空にさしあげ、巻物をひろげたポーズをつくって、 「げらげら、げらげらげらツ」 殆ど喚くほど、そんなに高声にそんなに明らかに泣き声で、彼が笑って一息ついたので、私は 急いで、今度はよほどうまく笑えたとつけ加えた。うまく笑おうとする彼の衝動を消してはいけ 得なかったのだ。彼はやつぎばやに続けた。 「げらげらげら、げらげらッ 私は、彼がうまく笑えるように、私も彼の声に伴奏しながら、彼の横で寒山先生のポーズをと 山 った。それはポストにはりつけた絵に示す如く、跣足になって箒で落葉を掃く手つきなのであ 「げらげらげら、げらげらツ」 「げらげらげら、げらげらツ」 「げらげら ! おい、落葉を降らせ ! 」 彼は喚き声の間に性急にそう言って、ポストの横に生えている桜の若木を指ざした。患者が吸 入を要求するような急がしさである。 「落葉を ? 」 157 わめ
タ立のはげしく降った後、私は窓に腰を卸して歴史小説の種本を読んでいた。 そこへ、みち子と由蔵とが麦畑の間の路をやって来た。みち子は麦のかげから下半身を現わし て、足駄では歩き難い浜砂に気をとられているらしく、裾を高くまくっているのをなおそうとは しなかった。私は双眼鏡を目にあててレンズを彼女の方に向けながら、あたかも少女の可憐な長 じゅばん 襦袢を指摘するかのように窓にのり出した。直ぐに彼女はそれに気がついて、叫び声に似た笑い あわ 景声を出したが、丁度酷いめにあわされた女がするように周章てて衣物の裾をおろした。そして門 風の石柱のところまで来ると急に立ちどまって、手に持った傘で海の方を指ざして叫んだ。 「虹がー の けれどその方角の空は、私の立っている窓からは見えなかった。 由蔵は薬局室へ入って、使い残りの薬品を薬鉢でごろごろ調合しはじめた。すでに私はみち子 が訳読に興味をもっていないことを知っていたし、また彼女は、私が課業の下手な彼女を好いて いることを知っていたので、私達は無駄話をすることによって課業をおろそかにしはじめてい た。それ故、由蔵が薬品を調合する物音は決して私達の課業の邪魔になることはなかったのだ が、彼女は、薬局法を無視した由蔵を非難して窓にのぞいて叫んだ。 「由蔵、お前、そんなものをのむと危険になるわよ」 むし 由蔵は寧ろ得意らしく、一層はげしい音をたてた。彼女は再三由蔵を非難した後、小さい声で ひど
皿けまで置くお客だからである。番頭だけでなくて、宿屋の女中たちも、同じようにこの点を心得 なくてはいけないとオトキさんは言った。目鏡ひとつぐらい毀したって、無暗にペこペこしては 拙いのだそうである。「今日は先ず、これくらいにしとくわ。わかったら台所の後片づけでもす るがいいわ」とオトキさんは漸くのことで勘弁してくれた。 しかし妙なもので、喜十さんは、谷津温泉の東洋亭に住み・込むとまるで一変した扱いを受け る。帳場机に頬杖をつき新聞の小説を読んでいても誰も何とも言わないし、おまけに押し出しの 魚きく気のきいた番頭さんだということになっている。夕方まで鮎釣りをして三びきしか釣れない で帰っても、おかみさんまで「まあ、よく釣れたこと。こんなの釣り上げたときは、さそ嬉しい たと かっさい 椒ことだろうね」と譬えばそういったエ合に喝采してくれる。そのうえこの宿のおかみさんは、喜 かえ 十さんが夜遊びに行って外泊して来ると却って上機嫌である。「もう一と晩、いつづけして来た 山 かったでしようにね」と言って笑っていることもある。なぜおかみさんがそんなに上機嫌になっ てくれるのか、喜十さんにはその理由がわからない。彼女は月に二回か三回は東京にいる御主人 に会いに出かけるので、外泊という行為について理解が深いのかもわからない。それとも外泊し て家に帰って来た人間は、みんなに上機嫌に迎えられるべきだと思い込んでいるのかもわからな 。おかみさんは時によっては東京に三日も四日も泊って来て、その翌日すぐまた御主人に会い にゆくこともある。御主人は東京で鉄工場を経営しているが、御主人自身は毎月一回しかこちら に帰って来ないのである。 ようや