鷲 - みる会図書館


検索対象: 山椒魚
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1. 山椒魚

216 「猿は四ひきいる。一びきは、やられるずら」 と老人が言った。 猿は一とかたまりになっていた。太い枝の股になったところに集まって、四ひき協力で可成り 長い小枝を曲げて鷲に向って身がまえていた。 とんぼ 鷲は空に描く輪を小さくした。それは草の葉にとまっている蜻蛉を子供がとるように、描く輪 をだんだんに小さくして行ったのである。やがて鷲は、空中で二つ三つ羽ばたきすると、柵の木 めがけて急降下した。しかし何ごともなく梢をかすめ、大きく旋回してまた舞いあがった。今度 魚 は鷲は戦法を変え、再び急降下して来ると猿の後ろから襲撃したが、猿が身をかわしたので再び 椒後ろにまわった。猿は急いで向きを変え、曲げている枝で身がまえた。同じことが幾度もくりか えされ、最後の襲撃が行われた。同時に四ひきの猿は、曲げていた枝を放した。枝は弾力でもっ 山て強く鷲を打った。羽毛が飛散した。猿は急いでまた枝を曲けようとしたが、その背後から鷲は かんばく 一びきの猿を空中にみ上げた。残りの猿は栂の木からとび降りて、石のころがるように灌木の なかに駈け込んだ。 茶店の老人は、 「とうとう、クロが勝った。猿が、また一びきやられたじゃ」 と一一一口った。 茶店の老人と東京の小説家は、鷲が獲物を空中輸送するのを見送っていた。はじめ鷲は黒岳の

2. 山椒魚

22 がいせん この茶店の主人は最近まで戦地にいて、まだ凱旋して間もない在郷軍人である。 「いつでもクロは、ハチ公の啼き声がすると、空に出て来るのであります。自分のうちのハチ公 は兎を追い出すのが上手でありまして、クロはハチ公の追い出した兎を狙うのであります」 監督は目をまるくした。 「では、あの鷲はハチ公の啼き声を知ってるんだな ? 」 「そうであります。どんなときでも、ハチ公が吠えつづけますと、どこからともなしにクロが空 鸞に出て来るのであります」 かん ハチ公は標柱につながれて、疳のたかぶった様子で吠えつづけていた。 の 小説家は御飯をたべながら、俳優たちが茶店のおかみさんに話すのをきいていた。それによる 一一と、この撮影隊の一団は前日のお昼ころ、伊豆の東海岸で撮影中あの鷲を見た。しかもあの鷲は かつお ・大 鰹のような魚を脚につかんでいた。それは決して嘘ではない。はじめ彼等が谷津温泉の南豆荘と いう宿の庭で撮影していると、それを見物していた女中たちの一人が空を見て、 「あら、鷲がいる。天城山の鷲ですわ」 と一一一口った。 そのとき鷲は谷津温泉場の上空を手ぶらで飛んでいたが、撮影隊が谷津を引きあげて行くとき 鷲は鰹のような魚を脚につかんで天城山の方に向って飛んでいた。それは事実、彼等の目で見た 実際の観察談であるという。

3. 山椒魚

「あら殿様、それでは、峠で見た鷲と同じ鷲で御座いますわ、きっと。峠で見た鷲も真黒で御座 いましたもの、きっとお邸の鷲で御座いますわ」 とっさ 咄嗟に彼女は、自分の言った通りそれに違いないというような仕草をした。すこし居すまいを なおし、そうして殿様の手の上にふんわりと彼女の手を置いたのである。 その仕草は殿様を満足させた。同時に、空とぶ大鳥もわが邸のものであると思いたい殿様の所 有欲を満足させた。 一日に馬肉を、七百目く 魚「左様、或いは邸の鷲かもしれぬだろう。なにしろ大きな鳥であった。 らい平気で食べた」 椒「その鷲の名前、御坂ではクロという名前で御座いましたわ 「いや、邸では流星号と言っておった。はじめ、吾輩に寄贈してくれた人は、別な名前を言って 山おったようだ。それが、はて、何と言っておったかな」 「クロという名前で御座いますわ、きっと」 「或いは、そういう単調な名であったかもしれん。 . はじめ田舎の百姓屋で飼っておったというか らな」 「その百姓屋、信州の田舎の大きな紅梅の木の生えてる、百姓屋であったかもしれませんわ、き 「いや、或いはそうではなかったかもしれんが、或いはそうであったかもしれん。お前の話をき

4. 山椒魚

222 監督はそれを遮って無造作に言った。 「いや、カメラは片づけました。もう犬は放して下さい。しかし、ここは景色がいいですなあ」 そのとき、顔のドーランを拭きとっていた若い女優が大きな声で、 「あら、昨日の鷲だわ」 彼女はそう言って空を指さした。 茶店の主人も監督も、入口の方に出て行った。撮影技師も俳優たちも、どやどやと入口の方に 立って行った。 監督は崖の鼻に出て行って空を見ていたが、。 トーランを拭いている女優に、 椒「マキちゃん、あれ、昨日の鷲かね ? どうだかねそれは」 と一一一一口った。 山マキちゃんという女優は入口の方に立って行き、 「ね、山本さん。だってあの鷲、左の翼がすこうし破けてるじゃないの。昨日の鷲も、すこうし 破けてたわー 「そうだ、破けていた」 と男優の一人が言った。 茶店の主人は崖の鼻に出て行って、監督に言った。 「あの鷲は、クロという名前であります」

5. 山椒魚

215 大空の鷲 晩のおかずにするために採取したものである。 「わあ、大変だ」 東京の小説家は、頂上の富士見茶屋という茶屋に駈け込んで騒ぎたてた。 「大変だ。鷲がいる、猿がいる。鷲は人間に飛びかかるのか ? 」 とっさ 富士見茶屋の老人は囲炉裡で唐もろこしを焼いていたが、咄嗟に立って押入れから猟銃をとり 出した。しかしつまらなそうにその猟銃を押入れに蔵った。 「その鉄砲僕に貸してくれ。僕が撃つ」 東京の小説家は意気込んだが、老人は応じなかった。 「いや、猟季にならんものな。鑑札を受けてないものな」 老人は棒を持って表に出た。 東京の小説家も表に出て、老人と並んで遠くから鷲の行動を見物した。鷲は相変らず空に大き く輪を描いて、ときどき尾羽根を半ばひらいた扇子のような形にして急降下する気勢を見せてい た。猿の群は栂の木にかくれて鳴りをひそめていた。 東京の小説家は、やや平静をとり戻して口惜しそうに老人に言った。 「弾丸があれば、僕は撃ってもいいと思うのだけれどもな。たぶん山彦がするから、どこで鉄砲 を撃ったかわからないと思うけどもな」 さえぎ 老人は太陽を遮るため額に手をかざし、じっと梅の木の方を見守っていた。 しま

6. 山椒魚

238 「そうだ、クロを呼んでやろう」 彼はハチ公に吠えさせて、空にクロを呼び寄せようとするのであった。 説家はそこを動こうとしなかった。彼はふところから手帳をとり出して、ながいあいだ費し てノートをとった。 事実、小説家は崖の鼻に腰をかけ、ながいあいだ費してノートをとっていた。それから手帳を 魚懐におさめると、事実、谷津温泉へ出かける用件について思案した。それには先ず出かける前 あらかじ に、ラジオで予め大体の天気を見定めて、東南の風の吹く日に目的地へ行くようにする。もし宿 椒に着いても空に謂わゆる天城山の鷲が現われなかったら、女中に鷲の翼の色や、羽根の欠けてい ひしよう る恰好や飛翔するエ合など詳しくききだす必要がある。もしクロと同じ鷲たときまったら、その 山 鷲は断じて天城山の鷲というのではないと女中に由緒を明らかにして言いきかせる必要がある。 もし女中がそれを上の空できいているようなら、時ならぬチッ。フをどっさりやって、彼女の注意 をうながすのが良策だろう。場合によっては「おい、番頭を呼べ、番頭を」と重々しく出る方法 もある。だが自暴自棄で大酒を飲み「おういこら、県知事を呼べ、県知事をーと叫び、行政問題 などロ走るような醜態があってはならないのである。また一方、廊下で女優やその後援者に出会 すような場合にも「御坂峠のクロは絶対だ。お邸のクロではないぞーというように、きこえよが しに言うのは禁物である。それは御坂峠のクロの名折れにほかならぬ。

7. 山椒魚

言い、後援者も伊豆の山の季節の移り変り目を見たいものだと言うのである。 ところが、御坂峠の茶店に泊っている四十男の小説家は、彼も谷津温泉の南豆荘に出かけよう と考えていた。すでに彼は峠の茶店の主人と同じように、クロは御坂峠のクロであると考えてい た。八年このかたクロは御坂峠の主であり今後とも同様であるべき筈である。それを谷津温泉で は、天城山の鷲と言いだしているそうである。峠の茶店の主人もこれには大いに心を悩まして、 このままこの重大問題を等閑にしておいては仕事も手につかぬと言い出した。茶店のおかみさん 魚も、うちの亭主はこの二三日来たいへん瘠せたようだと言いだした。 ひなた 茶店の主人と四十男の小説家は、崖の鼻で陽向・ほっこをやりながら相談した。 椒「お客さん、どう思うすら ? 鷲は山の奥に住むちゅうが、この御坂峠は天城山とか谷津なんど よりも山奥だな ? 誰にきいても無論そう言うすらー 山「しかし、一方ではこういう考え方もある。すなわち、クロは御坂峠を根城にして笹子から黒岳、 南は遠く伊豆の天城山まで、彼が広い広い繩張りを持っている。そういう考え方もあるだろう」 「そりや、クロ自身とすりや、天城山なんか繩張りにするのは朝めし前た。何しろクロは、清濁 あわせ呑なじゃ。しかしながら谷津温泉場で、クロのことを天城山の鷲ちゅうたとは、我慢なら んじゃ」 「その点、同感だ」 「もし天城山の鷲ちゅうのが、クロと別の鷲なら、こりや問題でないじゃ。しかしながら、活動写・

8. 山椒魚

217 大空の鷲 方角に向って空に舞いあがり、縹渺と上空に消えるように見せながら針路を笹子の方角に向け こ 0 あっけ 呆気にとられていた東京の小説家は、よほど暫くたってから老人に話しかけた。 「あの鷲は、あの猿を食べるんだろうか ? 」 「そりや食べるずら、頭まで食べるちゅうわ」 「あんな高い空で、猿はもう目をまわしているだろうな ? 」 「そりや、もう目をまわしたちゅうわ」 しかし東京の小説家は空に目をこらし、虚空にきこえる猿の悲鳴を聴きとろうとして耳を傾け た。それは無論のこと無益な感傷であった。 老人も鷲の行方を見て述懐した。 「クロはこの山で獲物をつかんでも、今日はここでは食べぬちゅうわ。今晩は、きっとこの山は 霧が深いずら、霧のあるところでは食べぬちゅうわ。せんだってクロは、また大きな魚を御坂峠 に持ってった。諸所方々に根城があるずらよ」 その通り、クロは獲物をつかまえると、或るときは笹子方面に運んで行き、或るときは黒岳に 運んで行く。また御坂峠の頂上に運んで行く。彼の繩張りの範囲内で、なるべく霧の立ちこめな い峰を選んで獲物を運んで行く。 その日、東京の小説家は御坂峠の茶店に帰って来て、今日は大きな鷲を見たと自慢した。茶店 ひょうびよう

9. 山椒魚

ている。 新聞に「大地の香」という映画の上映広告が出た当日、彼女の後援者は彼女を大森の砲台亭別 館に呼び出した。「大地の香」には、谷津温泉の南豆荘や御坂峠の天下茶屋で撮影した場面が現 われる。新聞の映画欄にもその場面が載っていた。彼女の後援者は彼女と差し向かいで卓上に新 聞をひろげ、写真の彼女の出ている場面を実物の彼女が説明するのをきいていた。 「ね、殿様。この後ろ向きになってる私の帯、いっかほら一ばん最初に、今年三月ころ、殿様に . 買って頂きました帯ですわ。村瀬監督も、素敵な帯だなあ、と仰有ってましたわ . 後援者は卓上に頬杖をついていた。 の 「そうか、監督というものは、呉服屋のようなことも言うのか。しかし、この写真のお前の帯 空 は、冬帯だな ? 大「あら殿様、秋景色を見物する旅行の場面ですもの。峠の頂上で、眼下の河口湖の景色に恍惚と しているところで御座いますわ。でも、あたくし峠の茶店に、袷の羽織を忘れて来ましたわ。は じめ著てて撮影して、それから脱いで撮影して、逃げるようにあたくしたち帰って来ましたんで ・、いたんですもの。でも、峠の景色は素敵、空に大きな鷲 すもの。何だか無気味のようなファンカ がとんでいましたわ」 「ほほう、峠では鷲もとぶか。鷲ならば、以前吾輩の邸にも飼ってあった。それを、書生の手 かりで逃がしたが、いかようにも羽根の黒い大きな鷲であ「た」 あわせ

10. 山椒魚

いておると、なかなか詩的な田舎が目に浮ぶ」 二人の談話は円滑に進んでいた。 東京の小説家は、そのノートの続きとしてもう一つノートをとった。それは、女優とその後援 てんまっ 者が、後援者の所有していた流星号という鷲、つまり別名クロを見に出かける顛末のノートであ る。女優の主張によると、クロは御坂峠にも伊豆の谷津温泉の空にも現われるが、御坂峠の茶店 鷲 には女優と顔見知りのでつぶり太・つた四十男がいる。村瀬監督もこの四十男の人相を見て、あれ は何たか気にくわぬ野郎だと言っていた。それで女優と後援者は、御坂峠は止して谷津温泉へ出 の かけることにしこ。 空 谷津温泉場には、そこかしこ水田のなかに天然の湯が湧き出して、速成栽培の菖蒲などっくら 大れている。山裾にはところどころに雛舎がある。難舎の雄鳥はよく飼い太らせられ、一つの難舎 で雄鳥が鳴くと他の雛舎で呼応して鳴く。東南の風が吹く日には、その声は二つも三つも山の尾 根を越え途方もない山奥まできこえることがある。するとどこからともなく空に鷲が浮び出て、 天城山の上空から谷津温泉場の上空にとんで来て空に輪を描いて舞う。 女優とその後援者は、東南の風が吹く日に出発する約東をした。温泉につかって、空とぶ鷲を 湯殿の窓から見ようというのである。その宿には御坂峠の茶店のように、彼女に馴れ馴れしくチ ョ坊と話しかけて来る男などいない筈である。女優も一日ゆっくり南豆荘のお湯につかりたいと