同志 - みる会図書館


検索対象: 幕末
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1. 幕末

474 乱射した。 その一発が、三枝の足にあたって転倒したが、さらに起きあがり、人家の軒下へ 子をあけ、土間を走ろうとしたとき、ふたたび倒れた。 そこを捕縛されている。 英国側の損害は、斬撃された者九人、倒された馬は四頭。ただし死者はなかった。 当時、二条鹹にいた浪士取締方の顕助は大いに驚き、即夜、川上邦之助、松林織之助、大村貞 助を監禁した。 「捕繩はせぬ。武士として遇するゆえ、かれらに連繋があったかどうか、ありていに申してもら 「あった」 と、三士とも昻然として答えた。なお攘夷志士としての誇りをもっていたのであろう。 新政府の刑法事務局では、英国側がこれらの一味の存在に気づいていないことを奇貨としてひ そかに隠岐島へ送った。 ただ、三枝と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。 かれらの士籍を削り、平民に落し、朱雀の死屍から首を切りはなして、粟田口刑場に梟した。 きようしゆだい 同じ梟首台に、三枝の生首もならんだ。 処刑の場所は粟田口であり、方法は、武士に対する礼ではなく、斬首である。 かけこみ、格 さら

2. 幕末

大庭もそう思う。いま薩長土の三藩が、それぞれ親しい公卿を擁して、京都に擬似政権という がん べきものが誕生しつつあった。このまま放置すれば江戸政権 ( 幕府 ) の癌になり、その探題である 会津にとって仕事がしにくい。 「大庭、お手柄だった。おそらく、あすにでも姉小路家から薩摩藩邸へ厳重な抗議がくるだろう。 あやっ それに姉小路少将は長州藩の操り人形だから、長州と薩州の間がまずくなる」 しい清報だ、さっそく江戸の殿にお報らせする、と田中土佐はいった。 「ムフ後、私はど、つすればよろしいか」 「トれ・も、殿に、つかか、つ」 大庭恭平は、大仏裏の寮にもどった。 数日、市中の様子をさぐったが、田中土佐が予測したような事態はいっこうにあらわれない。 おそらく、吉村右京が、あの一件を主人の姉小路少将に報告しなかったのではないか 0 「、つこ、 . し / し」 と大庭は、ト 里にきいた。 「姉小路少将様とは、どんなお方です」 血「黒豆はんどすか」 辻そういうあだながあるという。同じ過激公卿でも、三条中納言実美は白豆で、姉小路は色が黒 猿 いために黒豆であった。これはロのわるい京都人だけの異名でなく、長州藩士などもこの異名を つかい

3. 幕末

せんい 加「諸君は恵まれている。世がいかになりゆくにせよ、諸君ら土佐義士の名は、史家によって千載 ののちにまで伝わるだろう」 高杉はべつに煽動したわけではない。ただ、ふしぎな男で、一一一一〕葉のひとつ一つが、相手の胸を し上うとく 灼くような魅力をもっていた。生得なものか、あるいは同じ傾向のあった師匠の吉田松陰からゆ とにかく、 ずり受けたものなのか、それはわからない。 稀有な革命児であったといえるだろう。 これには、顕助以外の者も感動した。 「私も、遅れはとらぬ」 と高杉はいった。 「幕府の砲火に斃れるか、それとも藩内俗論党の手で殺されるか、いすれにしても、こんど相見 るときには、冥土とい、つことです」 高杉は、懐ろ手帳をとりだして、一同の名を書きとめた。島浪間、千屋金策、井原応輔、橋本 鉄猪、田中顕助 : : : と高杉が書きすすめるにつれて、その手もとを見つめている八人の土佐浪士 は、自分の名がたがねで刻むごとく千載不朽の歴史に刻まれていくような感動をおばえた。 すおうとのみみなと 高杉は、本多をまじえた九人の壮士を、周防富海湊まで送ってくれた。 海路、大坂へ。 鳥毛屋に投宿したくだりは、前述のとおりである。このときの心境を、田中顕助 ( 伯爵田中光 顕 ) は、昭和十一年四月、改造社刊行「維新夜話」で、大意こう語っている。 や

4. 幕末

114 この事件は、むろん奉行所まで行ったが、三郎兵衛が手をまわして、彦六はおかまいなし。 が、面倒なことがおこった。 まっちゃまち 当時、大坂松屋町のぜんざい屋に潜伏していた長州系浪士数人を、夜陰、新選組谷万太郎以下 が襲ったいわゆる松屋町騒動というのがあった ( このとき、田中顕助もその浪士のなかにいたが、たま おおりていきち たま道頓堀に所用があって外出していたために助かった。殺されたのは土佐藩士大利鼎吉、無外流の目録者で ある ) 。 この松屋町事件のあと始末のために新選組幹部数人が大坂までくだり、たまたま奉行所与カか ら彦六のことを耳にした。 ぜひ、入隊させよう。 ということになり、奉行所から公式に差紙をまわして、彦六を東町奉行所 ( いまの国際ホテルの あたり ) に呼びつけた。 「どてつ一か」 すす ちんべん と勧められたが、彦六には別の存念があったから、八方陳弁して請けなかった。 そのときの新選組隊士のなかに、彦六と同年輩ぐらいの眼のするどい若者がいて、これが顔つ きのわりにはひどく優しい態度で、 みれば私と同じ年恰好らしい。せつかく、ああ申されているのです。ぜひ入隊されよ。共 に国事に尽そうではありませんか。 と、武州なまりでロ添えした。これが、あとでわかってみると、局長近藤勇の甥宮川信吉で、 さしがみ

5. 幕末

174 じっこん 然に昵懇にしてもらっているらしい。三条公のはなしではこの男に語ったことだけが洩れている、 というのだ。これが動かぬ証拠である。しかも三条公が、それに気づいて冷泉を遠ざけるにつれ て、機密の洩れが少なくなった」 「なるほど。 それで ? 」 「天を加える」 「可哀そうではないか」 「なぜだ」 「たかが絵師づれに」 さいかん 「絵師とはいえ、六位の朝臣だそ。しかもうわべながらも攘夷論を論するのが好きな男だ。彩管 一本をもたせておけば機嫌のいい絵師ではない」 間崎馬之助はだまった。口に出してはいわなかったが、ここ数年、諸藩の脱藩浪士のあいだで 「天誅」が流行しているが、すこしやりすぎではないか、とかれは田 5 っている。 京はひどく血なまぐさくなっていた。一昨年の文久二年七月二十日には、九条家の家来島田左 う′一うげんば 近が木屋町二条下ルの妾宅で殺されているし、その二カ月後に島田の同僚宇郷玄蕃が自宅で妻子 と語らっている所を刺客にふみこまれて首をはねられた。その翌月には、目明し文吉が殺され、 去年の五月二十日には国事係の公卿姉小路少将公知が御所を退出した帰路を要撃されて落命した。 さらに千種家の雑掌賀川肇が、下立売千本東入ル町の自邸で殺されている。 尊攘派の刺客が賀川の家にふみこんだのは夜だったという。下女の竹というのが応対に出た。