井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、 国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであ 「たからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなか「た。だから、この大獄は攘夷主義者 がいこくがかり への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の 幕吏を免黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の万槍主義に復活させているほどの病 的な保守主義者である。 むちょっきょ この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想 の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上 の対象者である。 とにかく井伊の弾圧には、政見というものはない。多少根拠のある妄想からきている。かれは 水戸斉昭の政治的容喙をきらい、憎悪し、ついには斉昭に幕政乗取りの大陰謀ありと見、水戸支 持の公卿、諸侯、志士をその陰謀加担者とみて弾圧した。いわば一徳川家の家政の私的な問題を、 国家の問題として、これだけの大事をひきおこし、なおおこしつつある人物である。 「ただ、無智、頑癖、それだけの男が強権をにぎっている。狂人が刃物をふるっているにひとし と、佐野竹之助はいった。この「暴悪」を停止させる力は、井伊自身による独裁政治の治下で もはやその人物を殺す以外にかれの暴走を停止させる手がないであろう。 はどこにもない。
数丁、といづて、 しい。三十五万石、譜代筆頭の格式を誇る堂々たる井伊家の門が、ほんのそこ にみえるのである。門は、朱で塗られている。井伊は藩祖以来、徳川の先鋒という陣立てで具足、 あかぞな 指物すべて赤を用い、井伊の「赤備え」といえば、関ヶ原、大坂の陣などで敵をふるえあがらせた ものだ。世間が大老直弼のことを、 「赤鬼」 とよぶのは、そのことによる。門まで、朱か丹を用いて、赤々と塗りたててある。 ぶんごきづき おおすみのかみ 「そのお屋敷が豊後杵築の松平大隅守様、あそこが : と、松子は説明した。 「くわしいですな」 「もう三度きています」 と、松子は笑いもせすにいった。この母娘の復讐の性根は、あるいは水戸の盟士以上かもしれ そのあと、治左衛門は、付近のさいかち河岸を歩いたり、掛茶屋の位置を見定めたりして、十 分に「戦場」の地理を頭に入れた。 の帰路、松子のために辻駕籠をひろってやろうと思い、あたりを物色したが、松子はとめた。 門「松は歩きます。治左衛門様は、駕籠のお代をお持ちではないでしよう」 桜持っているはすがない。 四「松も貧乏ですから、持っていません」
聞こえた。さては井伊殿、とそのとき知った」 治左衛門は、駕籠の戸をひきむしり、井伊の襟くびをとって引き出した。まだ息はあった。井 伊、雪の上に両手をついたところを、治左衛門はあらためてふりかぶり、一刀で首を打ち落した。 さつおん そこで「薩音で叫んだ」というが、要するに、味方一同にむかって討ちとめた旨を報告したの であろう。 こーきあげた。 同時に、申しあわせによって鬨をあげ、思、巴、 争闘は十五分ぐらいの間だったらしい。降雪のなかを不意にあらわれた敵のために彦根藩士は ・一んと、フ ほとんど木偶のように斬られ、十数人がツカ袋を脱して戦ったが、いすれも、闘死、または昏倒 させられた。 その間、現場からほんの四、五丁むこうにある彦根藩邸の門は閉ざされたままであった。はげ しい降雪のため気づかなかったのである。 一党のなかでは、稲田重蔵が二刀流の川西忠左衛門に斬られて現場で死亡。井伊方の即死者は、 川西忠左衛門、加田九郎太、沢村軍六、永田太郎兵衛で、はかに、重傷者のうち三人が日ならす の死亡した。 みとどけやく 外 ただ一党のなかでは、見届役、検視役といった数人のほかは、全員手傷を負った。引き揚げの 桜途中、現場からいくばくも離れすして精根っき、自殺した者も多い。 佐野竹之助は、現場で、 でく とき
駕籠の右脇には、井伊の家中できっての使い手とされた供目付川西忠左衛門がいる。すばやく 大刀のツカ袋を脱するや、ます飛びこんできた稲田重蔵を片手で斬り、さらに脇差をサヤのまま ねのじろう ぬいて、広岡子之次郎の一撃を受けとめた。川西、両刀使いで知られた人物である。つづいて飛 あさで びこんできた海後嵯磯之介に浅傷を負わされ、広岡に踏みこまれて肩を斬られ、斬られながらも 広岡の額を割った。 そこへとびこんできた佐野竹之助は、ます川西に致命の一刀をあびせ、死体をとびこえ、まっ すぐに井伊の駕籠へすすんだ。 駕籠は、雪の上に捨てられたままである。 「奸賊」 と、駕籠の中を突きさした。 が、そのとき、むこう側から駕籠にとびついて駕籠を串刺しした治左衛門とどちらが早かった か、わからない。 いや、この二人より早く、重傷で倒れていた稲田重蔵が、這いながら駕籠を突きさした一刀が、 初太刀だったかもしれない。 目撃者がいる。目と鼻のさきの松平大隅守屋敷の窓からのそいた同藩留守居役興津某の談が、 「開国始末所引」という書物にのっている。「大兵の男一人 ( 治左衛門か ) 、並の背の男一人、駕籠 かみしも をめがけ、やがて裃を着たる主人 ( 直弼 ) を引きだし、一人は背中を三太刀ほど撃ちしが、マリ かもん などを蹴るような音が、三度ばかりした。かの大男、首を切り、大音を発し、井伊掃部とまでは ′、し早、
父の名は、連。もと薩摩藩士であった。事故があって脱藩し、水戸領高萩で私塾をひらいてい なりあき るうちに水戸藩主斉昭 ( 烈公 ) に知られ、その子伊三次が召しだされた。 伊三次はその後、藩主に請うて、亡父の藩であった薩摩藩に復帰することをのそみ、両藩主に 許された。 伊三次は水薩の接着剤の役目をつとめた。当時、水戸藩は尊王攘夷の総本山といった絢爛たる 、ようぼう ふんいきがあり、天下の志士から一種の宗教的な翹望をうけていたが、薩摩藩がもっともこれに ししゆく 接近することができたのは、ひとつには前藩主斉彬が水戸の斉昭に私淑していたからでもあるが、 日下部伊三次がその橋渡しの労をとったことが大きい。 西郷、大久保をはじめ治左衛門の長兄俊斎の三人は、日下部伊三次の手びきで早くか ら水戸の名士と相知ることができ、このことがかれらに重大な影響をあたえた。 ′一うもん てんまちょう その伊三次が、去る安政の大獄で逮捕され、江戸伝馬町の牢で言語に絶するような拷問のすえ 衰弱死した。同時に捕縛された長男祐之進も、その翌年、牢死。 日下部家には、女だけが残された。 じんじよう が、静子は尋常の末亡人ではなかった。 の「井伊を倒さなければお国がつぶれる」 外 と、夫が生前にいった一一「ロ葉が、そのまま彼女の生活になっていた。 田 かたき 桜彼女にとって井伊直弼という男は夫と長男の敵たが、その私的な敵が同時に天下有志の「公敵」 になっている。彼女は彼女なりに、生活をあげて井伊討殺の事業に専念したというのは、当然と むらじ けんらん
であるとは、この若者は気づかなかった。 「治左衛門様は、いいひとですね」 * 、くらだばり 松子は、ちょっと悲しそうにいって、下を見た。その視線を、桜田濠に移した。濠の水面に 小さな風波が立っている。 その後、井伊邸付近の模様を、治左衛門は次兄雄助に略図をかいて物語った。話しているうち に兄弟は昻奮してきて、 えいけっ 「決行もあといくばくもない。国もとの母上にそれとなく永訣の手紙を書こう」 と、それそれ筆をとった。 翌日、手紙を藩の飛脚に託した。 この手紙が到着したのがいつだったかは、よくわからない。が、兄弟の母が返事をしたためて それが江戸藩邸についたときは、すでに「事件」の後であった。歌が一首、そえられていた。 ゆみはり しぐれ 「弓張の月も時雨に曇るかな思ひ放たば隈なからまし」 の佐野竹之助はよほど治左衛門に好意をもっているらしく、ある日、 門「これは君と僕の自画像だ」 田 桜と、稚拙な自筆の絵 ( 現存 ) をみせた。武士がひとり、乱戦のすえ、巨魅井伊の首を刺しつらぬ いている絵である。 ちせつ はな きよか、
やがて、兄の雄助がきた。薩摩藩も俗論派が多いから、行動に十分気をつけていた。兄弟一緒 に出なかったのは、そういう配慮があってのことであった。 この日、格別の相談はなかった。 ごんのえもん とにかく、佐野、黒沢のいうところでは、数日後に、水一尸藩同志木村権之衛門が、水戸待機の 同志の意向をまとめて江戸へ潜入してくるという。 「委細はそのときに」 と、佐野はいっこ。 兄の雄助は、人がいしノ 、方駈けまわって工面した金で、安酒を持参してきていた。 「ほう、これは馳走だ」 しやく と、松子の酌を受けながらいった。、、 : カ酒がわるい 良家の育ちの佐野は、そのにおいにちょっと顔をしかめたが、やがて酔っぱらってしまうと警 抜な議論をはじめた。 ( ああ、これが水戸風の議論か ) 治左衛門は、眼をかがやかせて傾聴した。 きゅうだん 変 しやまったく、 の 佐野がその才弁をもって大老井伊直弼の罪禍を糾弾するあたり、治左衛門がき 外 「いても、あらためて骨鳴り毛髪のそそけだつような昻奮をおばえるのである。 桜なるほど、古来、井伊直弼ほどの暴悪な行政家はまず少なかろう。悪質な密偵政治を行ない、 しょだいぶ 上は親王、五摂家、親藩、大名、諸大夫、さらに諸藩の有志、浪人にいたるまで百人以上を断罪
と、治左衛門は答えた。薩摩の幼児遊びに諸侯の紋所を覚える遊びがあるから、治左衛門は遠 目の直覚でわかる。 その行列が桜田門に消えたころ、井伊家の赤門が、さっと八ノ字にひらいた。 行列の先頭が、門を一歩。 よそお やがて、一本道具を先に立て、いすれもかぶり笠、赤合羽という揃いに装った五、六十人の行 列が、きざみ足で、しすしすと押し出してきた。 ようてい 総指揮者関鉄之助は、唐傘を一本、高目にさし、合羽、下駄、通行人といった行体で、ゆっく り井伊の行列にむかって歩いてゆく。そのあと、佐野らがつづいた。 佐野は羽織のヒモを解こうとしたが、関は空を見あげたまま、 「まだまだ」 0 と一い、つ おおすみのかみ 左組の治左衛門は、松平大隅守の長い塀のあたりを、数人で歩いている。 行列の先頭は、やがて治左衛門の眼の前をすぎ、二、三十歩進んだ。 ( まだか ) たんづっ 合図に短筒が鳴るはすである。 行列の先頭が、松平大隅守屋敷の門前の大下水まで達したとき、かねて辻番小屋の後ろにひざ まずいていた先頭襲撃組の森五六郎がにわかにとび出してきて、 「捧げまする、捧げまする」 と おおげすい
直訴人のような連呼をした。 「なんだ」 ともがしら と、先頭にある井伊家の供頭日下部三郎衛門、供目付沢村軍六の二人が近づいた。そのとき、 森は、ばっと自分の笠をはね、羽織をぬぎすてた。 たすき すでに白鉢巻、襷を十文字にかけており、ツッと雪を蹴ってかけてきたかとおもうと、 り供頭を斬りさげた。 「あっ」 と斬られながらも刀のツカに手をかけたが、抜けず、第二撃で斃れた。この降雪のために、井 さやラシャ 伊家の供廻りは、すべて刀にツカ袋をかぶせ、鞘は羅紗、油紙製のサヤ袋をかぶせ厳重な雪支度 をしていた。ッカ袋のヒモを解かないかぎり刀はぬけない。 ろうぜきもの 「狼藉者」 と叫んだ供目付沢村軍六も、踏みこんできた森に右袈裟真二つに斬られた。 さらに井伊家にとって不幸だったのは、このとき、轟っと空で風が巻き、雪が舞い、視界五、 ハ尺というほどにはげしくふりほじめたことである。 変後方では、先頭で何がおこ 0 ているかよくわからなか「た。 外 やがて、合図の短筒がひびいた。 田 治左衛門は、左から突進した。駕籠までの距離は二十間はあろう。 佐野は右から突進。 -4 ともめつけ ごう いきな
その後一家は、都城尻枝村にひっこみ、荒地を開墾してかろうじて翌年からカライモの収穫を 得て、飢えをしのぐことができた。 ( しかしこいつは末っ子じやけん、そういうドン底の苦労を知らずに成人したもんじやろ ) と雄助はおもった。なるほどそう思ってみると治左衛門には末弟のおばこさがあって、なかな か可愛くもある。 かえだたけつぐ 長兄の俊斎 ( のちの海江田武次・維新後子爵 ) は、なかなか世才に長けた男で、家計をたすけるた めに十一のときからお鹹の茶坊主に出て、給米四石をもらい、さらに十四で数寄屋坊主になり、 まくやく その後ふとしたことから西郷吉兵衛 ( 吉之助・隆盛 ) 、大久保一蔵 ( 利通 ) と相知り、樊逆の仲にな つ ) 0 なりあきら この三人が、当時天下第一の賢侯といわれた前藩主斉彬に愛され、斉彬という天才から当時と しては最も進んだ世界観の洗礼をうけたために、幕末の薩摩藩士のなかでもっともはやく風雲の なかに突出することになった。 ざんかん いま、その長兄俊斎は京都藩邸にいて、井伊斬奸計画の京都工作に奔走している。人物は小さ いが薩摩の代表的な「志士」の一人としてすでに著名な存在であ ? た。 の「治左衛門」 門と、雄助はいった。 田 桜「いずれ、水戸の盟士とひきあわせるが、機転がきかねば、軽侮をうけるそ」 なおすけ 「兄上、要するに彦根の赤鬼 ( 大老井伊直弼 ) を討てばよいのでしよう。私はそれだけを一念とし