同志 - みる会図書館


検索対象: 幕末
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1. 幕末

「念のために、あなた様と坂本様との御縁をおきかせねがえませぬか」 「一度、お会いした」 お桂は、声をあげるところだった。この男も、自分と同じように薄い縁でしかない。 「それも、四年前だった」 当時、坂本の閲歴からみて、土佐を脱藩する直前のころだったらしい。剣術詮議のためと藩庁 に届け出て長州にむかう途中、宇和島の城下に足をとめ、旅籠に滞留した。 坂本は、将来のためにこの隣藩にも同志を獲ておくつもりだったのだろう。 が、当時、坂本の名が宇和島まできこえていたのは、国士としての名ではなく、江戸で千葉道 場の塾頭までっとめたという坂本の剣名のほうであった。 宇和島藩でも家中の若い剣術修行者はあらそってたずねたが、その中で田宮流居合の名誉後家 鞘彦六もいた。 坂本は、この彦六に興味をもったらしい 「ちょっと、その差料を」 と、坂本は餅切りで家中に名の高い後家鞘の佩刀を借り、抜こうとしたが、容易に抜けない。 やっと、ひきちぎるようにして抜き放ってから、 「おお」 と、笑いだした。「見なされ」と坂本は自分の佩刀を彦六の膝に押しやり、双方、抜きならべ てから、彦六も坂本の笑った意味に気がついた。

2. 幕末

120 すぐそのあと、新選組屯所の前で餅を売っていた菊屋の峰吉が駈けもどってきて、三番隊長斎 ありみち 藤一、大石鍬次郎、蟻道勘吾、中条常八郎、梅戸勝之進、前野吾郎、市村第三郎、中村小次郎、 宮川信吉、船津謙太郎ら十数人が、屯所を出たという。 コし・、 ・幺・小 / という話し声がきこえたところをみると、三浦と会合するためか、それとも三浦の護衛に出か けるのではないか。 「相違ない」 うなずくと、すぐ陸奥は、すでに吏僚らしい冷静さにもどって、つぎつぎと必要な下知をくだ 「ご一同、手配り部署はかねて相計り、相決めたとおりである」 動員数、十六人。 同志から香川敬三が田中顕助と同じ理由で脱落したが、そのかわり、町人ながらも加納宗七が とくに志願して参加している。 「では」 陸奥は立ちあがった。 にしのとういんおまえ が、すぐは天満屋には行かない。白川村から下京まで遠すぎるため、かねて下京の西洞院御前 どおり かわかめ したくしょ 通料亭「河亀」を支度所として指定してあった。そこへ、白川村から、三々五々めだたぬように して出かけてゆく。

3. 幕末

くらまぐち 元治元年の正月、当時、京の鞍馬ロの餅屋の二階に潜伏していた長州脱藩の浪士間崎馬之助の もとに、夜陰、川手源内と梶原甚助のふたりの同志がたずねてきた。 れいぜいためたか 用件というのは、絵師冷泉為恭という者を殺すことであった。 「何者だ、それは」 「絵師だ」 「なぜ絵師づれを斬らねばならぬ」 間崎はそういうことよりも、同志がもってきてくれた酒を冷やのままのどに押しながすことの くさかげんず、 ほうに気をとられていた。 温和な性格の男だったが、ひどく大酒家で、久坂玄も「間崎の酒は 胃の腑を溶かしながら飲むような酒だ」といったことがある。酒で体をそこなうことを心配した のだろう。 泉間崎馬之助は、論客の多かったいわゆる勤王の志士のなかではきわだって無ロな男で、秘密の 会合のときなども、いつも後ろの座でねそべってはとんど口をきいたことがなかった。そのくせ、 まぎきむそうりゅう なんとなく同志のあいだで重んじられていたのは、かれが、長州にったわる間崎夢想流という抜

4. 幕末

ろうぜきもの 「狼藉者、いすれにある。 声が湧きあがると同時に、ツッと那須が進んで、声を真向から斬った。 横倒しに倒れようとするところを、大石団蔵が、斬りつけ、倒れ伏したところを、安岡がとど めを刺した。 那須が首を打った。 大石団蔵が、自分の古褌でその首をつつんだ。真新しい晒を、と思ったが、たがいにそれを 購める金がなかった。 すぐ支度所である町はずれ長繩手の観音堂に引きとろうとしたが、犬が首に食いっこうとして 離れず「大いに迷惑っかまつり候へども、 いかさま無事に観音堂へ持ちつけ」 ( 那須信吾書簡 ) 、 とがま こうのますや それを観音堂で待機していた同志の河野万寿弥 ( のちの敏鎌。明治中期の農商務大臣 ) に渡し、ただ ちに旅装をととのえて、領外へ出た。 岩崎弥太郎は、同僚の井上佐一郎とともにその下手人探索を命ぜられ、かれらが大坂の長州藩 邸に潜伏しているところまでつきとめたが、弥太郎は井上に説き、 「京坂はすでに尊攘派の巣で、京都所司代、大坂城代の力さえおよびがたい。再起を期し、 雨たんは国もとに帰ろう」 の といったが井上はきかず、このため岩崎は単身帰国し、すぐ士籍を脱している。 佐 土残留した井上佐一郎は単身探索していたが、この年八月二十二日夕、武市党の岡田以蔵らの巧 みな誘いに乗り、心斎橋筋「大市」でかれらと飲み、帰路、九郎右衛門町の河岸まできたとき、 ふんどし 、、らし

5. 幕末

384 遁げられた。 と、寺沢新太郎は、奥八畳の間で叫んだ。 「あかりをつけろ」 用意のろうそくをともしてまわり、くまなく邸内をしらべたが、左京の家人さえいない。 しもふさ 奥野左京はその夜、上野の御本坊どまりで家人は戦さを予想して下総のほうに疎開していた。 ′一うとう きょまろ 新太郎は、くやしまぎれに、刀を畳につきたてた。清麿二尺七寸という剛刀で、口惜しさのあ まりよほど力をこめたのか、床板をつきとおし、刃先が、床下にいる渋沢成一郎の鼻さきへスー ッとのびた。 うそのような偶然だが、これはこのあと渋沢が蔵へ遁げこんだとき、その戸板へ新太郎が刀を つきたてた、そのときのことだ、という説もある。 あ がた 渋沢はその暁け方、江戸を逃げた。最初は武州北多摩田無に腰をすえ、そこであらたに近在の しんぶぐん 浮浪、江一尸の同志などをよびあつめ、振武軍というものを組織した。 余談だが、そのころ、京の新選組も江一尸へ舞いもどっており、隊長近藤勇、副長土方歳三が、 しゅゅう 再挙をはかるべく、南多摩方面でしきりと募兵していた。ちょうど南多摩の首邑府中まで募兵に きていた渋沢成一郎と、同じ目的で駐留している土方歳三とが、旅宿でばったり顔をあわせた、 とい、つ話がある。 「渋沢さん、江戸へ帰りなさい」 と、土方は頭からいった。江戸での渋沢の話は、耳に入っている。 たなし

6. 幕末

416 とにかくわれわれは一考した。城を焼いたばかりでは効果が薄い。そこで後方攪乱のための 同志を募ることにして、とりあえす千屋金策、井原応輔、島浪間の三人は、山陰方面へ遊説に 出かけた。 ( 田中光顕夜話 ) 顕助も同行するつもりであったが、このころにはすでにお光との仲ができていた。なにしろ、 顕助は、のちに八十二歳になって妾にこどもを生ませた、というだけあって、こういうことには、 存外、手が早い 、、こし、元気者の那 同志たちも、顕助に対してゆだんがある。いつまでも、顕助を稚児あっ力し冫 やめようとしない。 本多のぜんざい屋は、わりあい繁昌していた。店は、老母と妻女がやっている。近所の者がひ つきりなしに、出入りしていた。 その顧客のあいだで、 「ぜんざい屋の二階の浪人さん」 といえば、妙に人気が出てきた。 どうやら、大利は、焼玉をつくるかたわらこより細工もっくり、馬、駕籠、奴、牛車などの形 にひねりあげては、店へ来るこどもたちにやっている様子なのである。これは本多も気づかなか っこ 0 つの とんと やっこっしゃ

7. 幕末

「しかし、一人しか描いていない」 「いや、この画中の人物は、君がみれば君、僕がみれば僕。しかしとくに君に差しあげよう」 「あっ、呉れるか」 大よろこびで治左衛門は藩邸にも「て帰り、それに手紙を添え、母親に送 0 た。形見、という より無邪気な自慢のつもりであろう。 ただ、この絵像どおり、同志が何人いようと井伊を斬るのは自分だ、という決意をひそかにか ためていた。 いよいよ同志の交通が頻繁になり、蹶起計画は具体化してきた。 水戸側の人数は減た。幕府の、対水戸激徒〈の監視がきびしく、江一尸〈の潜入が困難にな 0 たのである。二十余人。 日も多少延期された。 その最終的な案を持「て、盟主の関鉄之助が、肥満した体を日下部家に運んできたのは二月十 日すぎである。 「決行の日は三月三日とします。この日は上巳の節句で、ご存じのとおり諸侯が祝賀のために登 城する慣例がある。しかも登城の時刻も辰 ( 朝八時 ) と、は「きりしているから、待ち伏せにしく じることはない」 このあと、関は意外なことをいった。 「有村君、いや、雄助君のはうです。あなたは、弊藩の金子孫二郎とともに当日、蹶起には加わ ひんばん

8. 幕末

咲きかけて散るや大和の桜花 よしゃ憂き名を世に流すとも 咲きかけて、とは、ながい念願であった討幕と王政が実現しつつある、ということであろう。 それをみつつ、自分は死ぬ。 とい、つことである。 剣客川上邦之助は、三枝と朱雀に説きつけられて、襲撃失敗後の予備にまわった。この第二襲 撃隊にはさらに同志が志願した。松林織之助、大村貞助、出身不詳。 四 すでに英国軍艦は大坂に投錨している。 ーグスは入洛、宿舎の知恩院に入った。この男は 二月二十八日、英国公使サー かんしやく 商人のあがりで、機智もあり度胸もあったが、ひどい癇癪もちで、怒りだすと手のつけられぬと ころがある。 社知恩院の諸門の固めは、紀州徳川藩をはじめ五藩の兵が任ぜられ、おそらくむかしの将軍警固 以上の厳重さであった。維新の元勲たちは、かっての自分の同志が襲撃にくることを怖れている。 の 接待役は、この連作「死んでも死なぬ」に登場していた長州藩士伊藤俊輔であった。往年、横浜 後 最 の御殿山の外国公館に焼きうちをかけたり、開国論者の学者を暗殺したりしたこの男も、 新政府の接待方としてまめまめしく働いている。

9. 幕末

榎本は、渋沢のほうにも、おなじことをいっておどしたらしい。渋沢も、退艦させられると、 天地に身のおきどころがない。 談判は、長鯨丸甲板でおこなわれた。 新太郎は、同志五人とともに長鯨丸の舷側から甲板にあがると、渋沢成一郎は、やはり五人の 同志を従え、甲板にびたりとすわっていた。 たん 相変らず青々とした坊主頭で、以前よりもふとった様子であった。背は六尺ちかく、背後の短 艇が、この男のために小さくみえた。新太郎も、むつつり着座した。このときの情景を、新太郎 自身の「直話」から借りよう。 しの 渋沢氏。御身とわれわれとは、かって仇敵の思ひをなして鎬を削った。しかし今かく同じく榎 しえん 本氏の麾下についた上からは、私怨を捨てよ、といふ榎本氏の言葉もあり、またすでに天野も 囚はれの身となって、われわれも首領を失った場合であるから、このさい、あらためて私怨を いただ 忘れて君を首領に戴かうといふのであるが、しかし条件がある。まったく天野の志を継いで天 野として尽してもらひたい。天野のために、と思って尽してもらひたいが、如何です。 そこで渋沢。 だいひょうひまん 大兵肥満の身で、頭をビタリと甲板の上に擦りつけて、なるほどごもっともです。まったく私 怨を忘れて天野として尽しませう。あくまで天野の志を継いでやりませう。これはどうもまこ とに済まなかった。 おんみ きか

10. 幕末

梟首は、三日。 ほんの数カ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲 の栄があったであろう。 かれらは、その「攘夷」のかどで攘夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着た。 幕末、志士として非命に斃れた者は、昭和八年「殉難録稿」として宮内省が編纂収録したもの だけで、二千四百八十余人にのばっている。 そのうち、おもな者は大正期に贈位され、すべては靖国神社に合祀された。 ただ二人、三枝と朱雀だけはそのなかにふくまれていない。 とくに三枝蓊のばあい、文久三年の天誅組幹部の五人のうちの一人として、もしかれが「時流」 に乗る気さえあれば : 宿・その旧同志でしかもおなじ和州出身の平岡鳩平 ( 明治後、北畠治房 ) は男 爵となり、おなじく土佐出身の伊吹周吉 ( 明治後、石田英吉 ) も、男爵になっている。 じゅんこ 三枝蓊のみは、極刑になった。節を守り、節に殉するところ、はるかに右の両男爵よりも醇乎 としていたのだが。 志 夷三枝の生家は、、 しまも奈良県大和郡山市椎木町 ( 新地名 ) で、東本願寺派末寺浄蓮寺としてのこ 0 ている。檀家二十一戸の貧寒たる寺である。現住職は、龍田晶という初老の僧で、三枝との血 最 豕キまよ、 冬の朝、この寺から東を望むと、藍色の伊賀境いの連山が美しい